第二話 斉木楠雄の交際は秘密にできない
照橋心美と付き合うことになった。
文字にすれば、それだけの話だ。
だが、僕の平穏な高校生活に与える影響は、巨大隕石の接近に匹敵する。むしろ、誰にも気づかれず破壊できる隕石の方が対処しやすい。
交際を決めた翌朝。
『昨日のこと、夢じゃないよね……? 斉木君、本当に私の彼氏になったんだよね?』
目を覚ました僕の頭に、聞き慣れた声が届いた。
照橋さんの心の声だ。
僕のテレパシーは、周囲の人間が考えていることを本人の意思に関係なく受信する。つまり、まだ顔を合わせてはいないが、彼女が近くにいることだけは分かる。
「楠雄ー! 照橋さんが迎えに来てくれたわよー!」
階下から母さんの弾んだ声が響いた。
近くどころか、すでに玄関まで来ていた。
『朝から迎えに来るのは積極的すぎたかな。でも、付き合った次の日だし、一緒に学校へ行きたいって思うのは普通よね?』
普通かどうかは知らない。
少なくとも、目立ちたくない僕にとっては非常に困る。
僕は制服に着替え、階段を下りた。
「おはよう、斉木君」
玄関では、照橋さんが母さんと並んで待っていた。
僕の姿を見た瞬間、彼女の表情が明るくなる。
『よかった。いつもと変わらない……でも、昨日より少し格好よく見えるかも。これが彼氏補正?』
知らない。僕に聞くな。
「おはよう」
「照橋さん、朝早くからわざわざ来てくれたのよ。楠雄ったら、もっと嬉しそうにしなさい」
「別にいつも通りだ」
「もう、照れちゃって」
違う。
「お母さん、急に来てしまってすみません」
「いいのよ。いつでも来てちょうだい。毎朝でも大歓迎よ」
「本当ですか?」
「ええ、もちろん!」
勝手に決めるな。
このまま会話を続けさせると、母さんが朝食や夕食にまで照橋さんを誘いかねない。
「行くぞ」
「あ、待ってよ、斉木君」
「いってらっしゃい、二人とも!」
必要以上に嬉しそうな母さんに見送られ、僕たちは家を出た。
◆
「どうして迎えに来た」
家から十分ほど離れたところで尋ねる。
「彼女が彼氏と一緒に学校へ行きたいと思ったら変?」
「変ではない。目立つだけだ」
「それだけ?」
「僕にとっては、それだけで十分な理由だ」
『迎えに来たこと自体は嫌じゃないんだ』
都合のいい部分だけを拾ったな。
だが、間違ってはいない。
わざわざ早起きをして、僕の登校時間に合わせて来たことは分かっている。迷惑だと言って追い返すほど、僕も冷酷ではない。
「一つ決めておく」
「なに?」
「学校では、付き合っていることを隠す」
照橋さんの足が止まった。
少し遅れて、僕も立ち止まる。
「どうして?」
『やっぱり、私と付き合っていることを知られるのが嫌なのかな』
「そういう意味じゃない」
「まだ何も言ってないけど?」
「顔を見れば分かる」
便利な言葉だ。本当は顔ではなく心を読んでいるのだが。
「交際が知られれば、学校中が騒ぎになる」
「ちょっと大げさじゃない?」
大げさではない。
照橋さんの信奉者は、男子だけに限らない。教師や女子生徒にも多数存在している。
そんな彼らが、完璧美少女に彼氏ができたと知ったらどうなるか。
校内暴動で済めばいい方だ。僕の家が特定され、登下校中に尾行され、最悪の場合、照橋さんの兄まで現れる。
最後の人物だけは特に避けたい。
「今までと同じように振る舞う。それが一番安全だ」
「……分かった。しばらくは秘密にしよう」
「助かる」
「でも、条件があるの」
「断る」
「まだ言ってないでしょ」
「二人きりのときくらい、恋人らしくしてほしい。どうせそんなところだろう」
「なんで分かったの?」
「分かりやすいからな」
実際はすべて聞こえている。
「じゃあ、まず名前で呼んで」
「断る」
「どうして?」
「今まで通りで問題ない」
「付き合ってるのに?」
「呼び方と交際に関連性はない」
「あるよ!」
朝の住宅街に照橋さんの声が響いた。
幸い、まだ周囲に人はいない。
照橋さんは僕の前へ回り込み、こちらの顔を覗き込んだ。
「昨日、私と付き合うって言ってくれたよね?」
「言った」
「それなら、名前くらい呼んでくれてもいいでしょ?」
ここで要求を受け入れれば、次は手をつなぐ、その次は毎日一緒に帰る、と条件が増えていくだろう。
最初が肝心だ。
「……心美」
僕の抵抗は五秒で終わった。
「えっ」
照橋さんの顔が赤くなる。
まさか本当に呼ぶとは思っていなかったらしい。
『名前で呼ばれた! 斉木君が、私を心美って……!』
「これでいいだろう」
「も、もう一回」
「一日一回だ」
「回数制なの?」
「不満なら取り消す」
「不満じゃない! むしろ大満足だけど!」
交渉は成立した。
少なくとも今日は、これ以上要求されることはないだろう。
そう考えていた僕が甘かった。
◆
「おう、相棒! 今日は照橋さんと一緒かよ!」
教室へ入った直後、燃堂が大声を上げた。
クラス中の視線が一斉に僕たちへ向けられる。
秘密の交際は、登校初日から危機を迎えた。
「途中で偶然会ったの」
照橋さんが完璧美少女の笑顔で答える。
僕の家まで迎えに来たという事実は、当然伏せている。
「なんだ、そうなのか。それより相棒、今日の放課後ラーメン食いに行こうぜ」
「行かない」
「即答かよ!」
「ちょうどよかった。燃堂、斉木は今日、俺と重要な会議があるんだ」
今度は海藤が割り込んできた。
腕を組み、周囲を警戒するように視線を走らせている。
「会議?」
「ああ。最近、この町で不穏な気配を感じる。ダークリユニオンが新たな計画を始めた可能性が高い」
スーパーで始まった北海道物産展のことだろう。
海藤は昨日から限定のミルクキャラメルを買うかどうか悩んでいる。残り少ない小遣いを使うため、誰かに同行してもらいたいだけだ。
「それは大変だな!」
燃堂は真剣な顔で頷いた。
なぜ信じる。
「でも斉木君は、放課後に私との約束があるから」
照橋さんが口を挟んだ。
教室が静まり返る。
『あっ』
遅い。
「照橋さんと……約束?」
海藤が目を見開く。
「何の約束だよ、相棒」
「それは……」
照橋さんが珍しく言葉に詰まった。
昨日、僕たちは次の日曜日に出かける約束をした。その予定を放課後に決めようと考えていたのだろう。
だが、それを正直に言えば完全にデートである。
「昨日、友達に贈るプレゼントを斉木君に選んでもらったの。そのお礼をしたいだけ」
「昨日?」
「二人で?」
周囲がざわめき始める。
『まさか照橋さんが斉木と二人で?』
『いや、そんなはずはない』
『でも約束って……』
まずい。
疑念が嫉妬へ変わる前に対処する必要がある。
「鳥束も一緒だった」
ちょうど教室へ入ってきた鳥束を指さす。
「え? 俺っすか?」
僕はすぐにテレパシーで語りかけた。
『話を合わせろ』
「うおっ、師匠の声が頭の中に!」
口に出すな。
「そ、そうっすよ! 昨日は俺も一緒に買い物してました!」
鳥束が慌てて話を合わせる。
教室に広がっていた緊張が、一気に薄れた。
『鳥束がいたならデートじゃないな』
『むしろ鳥束が無理やりついていったんだろう』
『照橋さんも迷惑だっただろうな』
「なんで俺、何もしてないのに悪者扱いされてるんすか?」
日頃の行いだ。
騒ぎが収まり、僕は自分の席に着いた。
照橋さんも胸を撫で下ろし、こちらへ小さく頭を下げた。
『ごめんね、斉木君。付き合えたことが嬉しくて、つい……』
僕はわずかに首を横へ振った。
気にするな、という意思は伝わったらしい。
照橋さんの表情に笑顔が戻る。
「ところで師匠、昨日は俺、家で心霊写真を――」
僕は鳥束から、今の会話に関する記憶を消した。
「……あれ? 俺、なんでみんなに見られてるんすか?」
これで問題ない。
◆
昼休み。
僕が自分の席で静かに弁当を食べていると、机の上に小さく折られた紙が置かれた。
『放課後、屋上に来てください』
差出人の名前はない。
しかし、かわいらしい文字と、文末に描かれた小さなハートを見れば誰が書いたかは明白だ。
放課後まで待つつもりはないらしい。
『ちゃんと来てくれるかな。断られたらどうしよう』
教室の反対側から心の声が聞こえてくる。
照橋さんは友人たちと話しながら、時折こちらを気にしていた。
僕は弁当を食べ終え、人目を避けて屋上へ向かった。
扉を開けると、照橋さんがフェンスの前に立っていた。
「早かったね」
「放課後と書いてあったはずだが」
「待ちきれなかったの」
「なら最初から昼休みと書け」
「それだと、誰かに見られたとき怪しまれるでしょ?」
呼び出すこと自体をやめればいい。
照橋さんはベンチへ腰を下ろし、隣を軽く叩いた。
僕も仕方なく座る。
「こうして二人きりになると、本当に付き合ってるんだって実感する」
「昨日決めたばかりだからな」
「ねえ、斉木君。私たちが付き合ってるって知られたら、みんな驚くかな?」
「驚くだけで済めばいいがな」
「そこまで?」
「お前は自分の影響力を理解していない」
「私、自分のことはよく分かってるつもりだけど」
それはそうだろう。
むしろ分かりすぎている。
「でも、ずっと隠したままなのは少し寂しいな」
照橋さんの声から、先ほどまでの明るさが消えた。
彼女の心には、秘密の恋を楽しむ気持ちと、それを誰にも言えない寂しさが同時に存在している。
僕にとって、人に知られないことは好都合だ。
だが、照橋さんにとっては違う。
「ずっと隠すとは言っていない」
「え?」
「騒ぎにならずに済む方法を見つけたら、そのときは話してもいい」
「本当?」
「今のところ、方法は見つかっていないがな」
「もう。それじゃ、いつになるか分からないじゃない」
不満そうな言葉とは裏腹に、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。
『ずっと隠すつもりじゃないんだ。それなら待てるかも』
「それで、放課後の約束とは何だ」
「今度の日曜日のデートについて決めようと思って」
やはりそれか。
「僕は行くとは言っていない」
「空いてないとは言ったけど、行かないとは言ってないよ」
妙な部分だけ正確に覚えている。
「それに、さっきの約束もあるでしょ?」
「何の話だ」
「二人きりのときは名前で呼んでくれる約束」
「一日一回とは言ったが、二人きりのときとは言っていない」
「じゃあ、今ここで約束して」
「断る」
「どうして?」
「際限がなくなるからだ。次は手をつなげ、その次は毎日一緒に帰れと言うつもりだろう」
「そこまでは考えてないよ」
『まだ』
今、心の中で付け足したな。
「じゃあ、名前で呼んでくれたら、今日はもう何もお願いしない」
「今朝呼んだ」
「一日一回って、毎朝の一回だけなの?」
「そういう契約だ」
「そんなのずるい」
「何がだ」
「私ばっかりドキドキさせられてる」
それは僕の責任ではない。
しかし、照橋さんは本気で不満そうだった。
完璧美少女らしい計算された表情ではない。普通の女子高校生のように頬を膨らませている。
昨日の帰り道でも見た顔だ。
僕は完璧美少女を演じているときより、今の表情の方が嫌いではない。
「日曜日、どこに行きたいんだ」
「映画館か、水族館がいいかな。斉木君は?」
「人の少ない場所」
「だったら水族館にしようよ。少し遠いところなら、学校の人にも会わないと思う」
「そうだな」
「それじゃ、決まり?」
「ああ。日曜日は水族館へ行くぞ、心美」
照橋さんの動きが止まった。
『今、呼んだ……二回目……!』
「どうした」
「ずるい」
「またそれか」
「急に呼ぶから、心の準備ができてなかった」
「呼べと言ったのはお前だ」
「そうだけど……もう一回呼んで?」
「今日は終わりだ」
「今のは斉木君が勝手に呼んだんだから数に入らないよ」
「勝手に呼んでも一回は一回だ」
「じゃあ、今の一回は明日の分にしない?」
「しない」
予想通り、要求が際限なく増えている。
僕は立ち上がり、屋上の扉へ向かった。
「待って、斉木君」
照橋さんが僕の制服の袖をそっとつまむ。
誰かが来れば、すぐに離せる程度の弱い力だった。
「日曜日、楽しみにしてるね」
「ああ」
僕はそれ以上何も言わなかった。
だが、袖を離せとも言わなかった。
◆
僕たちは時間をずらして教室へ戻ることにした。
先に照橋さんが屋上を出て、その二分後に僕が教室へ戻る。
これなら、二人でいたと怪しまれることはない。
完璧な計画だ。
「おっ、相棒! どこ行ってたんだ?」
教室へ入るなり、燃堂が大声で尋ねてきた。
「トイレだ」
「でもよ、さっき照橋さんも同じ階段から戻ってきたぞ」
なぜそんなところだけ見ている。
教室中の視線が再び集まる。
「私が屋上に呼んだの」
照橋さんが立ち上がった。
『隠そうとしたら、もっと怪しまれるかもしれない。だったら、自然な理由を作らないと』
「何のために?」
海藤が尋ねる。
「昨日のお礼を相談したかったの。でも、みんなに聞かれたら恥ずかしいから」
「なるほどな」
海藤は納得したように頷いた。
「照橋さんほどの人物なら、感謝の品一つにも細心の注意を払うはずだ。ダークリユニオンに情報を知られれば、その品を狙われる可能性もある」
ない。
「そういうことなの!」
照橋さんが話を合わせる。
「なんだ、やっぱりダークリユニオンの仕業か!」
燃堂も納得する。
こちらも違う。
教室内の疑いはどうにか収まった。
だが、今度は海藤が僕の机へ近づいてくる。
「斉木。放課後の会議だが、照橋さんとの約束があるなら明日に変更してもいいぞ」
「最初から会議などないだろう」
「なっ……貴様、奴らに記憶を操作されたのか!?」
面倒なことになった。
僕が無視して教科書を開くと、照橋さんと目が合った。
彼女は誰にも見えないように、机の陰で小さく手を振っている。
『日曜日、楽しみだな』
心の声は聞かなくても、その顔を見れば十分に分かった。
僕は誰にも気づかれない程度に、小さく頷いた。
交際二日目。
秘密は、奇跡的にまだ守られている。
ただし、次の日曜日まで無事に隠し通せるとは思えない。
そして僕はまだ知らなかった。
僕たちが水族館へ行くその日、燃堂と海藤も同じ場所を訪れる予定を立てていることを。
もっとも、テレパシーを使えばすぐに分かることだ。
問題は、それを知るのがデート当日の朝になるという点だった。