第三話 斉木楠雄の初デートは平穏に終わらない
日曜日の朝。
僕は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
別に、今日の予定を楽しみにしていたわけではない。ただ、外から聞こえてくる心の声があまりにもうるさかっただけだ。
『変じゃないよね? これなら可愛すぎて目立つけど、いつものことだし……でもデートだからって気合いを入れすぎたと思われないかな?』
どうやら照橋さんは、すでに待ち合わせ場所へ到着しているらしい。
約束の時間までは、まだ四十分ある。
『斉木君、どんな服で来るのかな。もしかして私とのデートだから、いつもよりおしゃれしてきたりして……』
残念ながら、いつもとほとんど変わらない。
服装に気を遣って目立つくらいなら、普段着で行った方がいい。今日は水族館へ行くだけなのだから、動きやすければ十分だ。
僕が部屋を出ると、母さんが台所から顔を出した。
「あら、楠雄。日曜日なのにお出かけ?」
「ああ」
「もしかして、照橋さんと?」
なぜ分かった。
「違う」
「そうなの? 昨日、心美ちゃんから電話があって、楠雄の好きな食べ物を聞かれたから、てっきり」
照橋さん。情報収集をする相手を間違えているぞ。
「もちろん、コーヒーゼリーが大好きって教えておいたわ」
知っている。昨日の時点で照橋さんの思考から聞こえていた。
『水族館の近くに、評判のいい喫茶店があるみたい。帰りに寄ったら喜んでくれるかな』
その店は悪くない。
期間限定の特製コーヒーゼリーがある。数量限定という点だけが問題だ。
「晩ご飯までには帰る」
「はいはい。楽しんできてね」
「だから照橋さんとは――」
「お父さん! 楠雄が女の子とデートですって!」
「楠雄が!? パパより先に日曜日の予定を作るなんて!」
僕は説明を諦めて家を出た。
◆
待ち合わせ場所へ着くと、周囲にはすでに人だかりができていた。
中心にいるのは、当然ながら照橋さんだ。
淡い青色のワンピースに白い上着を合わせ、髪には以前の買い物で選んだ髪飾りを着けている。
通りかかる男たちは必ず振り返り、何人かは立ち止まったまま動かなくなっていた。
『おっふ……』
『誰かを待ってるのか?』
『まさか彼氏じゃないよな?』
朝からうるさい。
僕が近づくと、照橋さんがこちらに気づいた。
「おはよう、斉木君!」
「おはよう」
「早かったね」
「お前にだけは言われたくない」
「私も今来たところだよ?」
嘘だ。四十七分前からいる。
だが、それを指摘すれば、なぜ知っているのか説明する必要がある。黙っておこう。
『斉木君、私の服を見てくれた。でも何も言わない……気づいてないのかな? この髪飾り、斉木君が選んでくれたものなのに』
もちろん気づいている。
気づいてはいるが、何と言えばいい。
似合っている、と伝えれば済むだけの話だ。しかし、朝からこれほど大勢の人間に囲まれている場所で、恋人らしい発言をするのは危険だ。
「行くぞ」
「う、うん」
『やっぱり何も言ってくれないんだ……』
露骨に落ち込むな。
僕は歩き始めてから、周囲に聞こえない程度の声で告げた。
「その髪飾りは似合っている」
「え?」
「二度は言わない」
照橋さんは髪飾りに触れ、嬉しそうに笑った。
『やった! ちゃんと気づいてくれてた!』
その瞬間、周囲の通行人たちから僕に向けられる敵意が数倍に膨れ上がる。
だから言いたくなかったんだ。
◆
水族館に到着した僕たちは、できるだけ人の少ない順路を選んで館内を進んだ。
薄暗い通路を、青い光が照らしている。
「きれいだね」
「ああ」
巨大な水槽の中を、色とりどりの魚が泳いでいる。
照橋さんは珍しく、周囲からの視線を気にしていなかった。水槽へ近づき、子供のように目を輝かせている。
「斉木君、見て。あの魚、すごく大きい」
「あれはナポレオンフィッシュだ」
「詳しいね」
「説明に書いてある」
本当は水槽の裏にいる飼育員の知識をテレパシーで拾っただけだ。
僕は魚に特別な関心を持っていない。
透視を使えば、水槽越しでも骨格ばかりが見える。能力を抑えなければ、水族館は大量の魚の骨が泳いでいる施設になってしまう。
楽しめるはずがない。
それでも、僕の隣で照橋さんが楽しそうにしている様子を見るのは、それほど悪くなかった。
「次はクラゲの展示だって」
『暗い場所なら、少しくらい近づいても自然かな』
そう思った照橋さんが、僕との距離を縮める。
肩がわずかに触れた。
『近すぎた? でも恋人なんだし、これくらい普通だよね?』
いちいち心の中で確認するな。
僕が離れずにいると、照橋さんは安心したように微笑んだ。
しかし、平穏な時間は長く続かなかった。
『今日は相棒にうまいラーメンを食わせてやらねえとな』
『この水族館に奴らの秘密施設が隠されているという噂……まさか本当だったとはな』
聞きたくない声が、館内の遠くから届いた。
燃堂と海藤だ。
なぜ水族館へ来ている。
いや、理由はすぐに分かった。
水族館では今日、深海魚を題材にした特別展示が開催されている。海藤は展示の宣伝文句である「暗黒の深海に潜む未知の存在」に反応し、燃堂を誘ったらしい。
そして燃堂は、帰りに近くのラーメン屋へ寄れるという理由だけで同行した。
「どうしたの、斉木君?」
「予定を変更する」
「え?」
「先にペンギンを見に行くぞ」
「クラゲは?」
「あとだ」
このまま順路通りに進めば、三分後に燃堂たちと遭遇する。
僕は照橋さんを連れて、別の通路へ向かった。
◆
ペンギンの展示場は、予想以上に混雑していた。
家族連れや恋人たちで通路が埋まり、簡単には移動できない。
「急にどうしたの?」
「クラゲよりペンギンが見たくなった」
「斉木君、ペンギンが好きなの?」
「普通だ」
『そうなんだ。覚えておこう』
違う。特に好きではない。
だが、燃堂たちを避けるためとは言えない。
僕は二人の心の声を探る。
『どこだ、ダークリユニオン……』
『腹減ったな。水族館ってラーメン売ってねえのか?』
まだ距離はある。
このまま出口側へ移動すれば遭遇せずに済むだろう。
そう考えた瞬間、予知が発動した。
頭の中に、数分後の光景が浮かぶ。
ペンギンの飼育員が足を滑らせ、餌の入ったバケツを落とす。驚いた一羽が柵を越え、通路へ飛び出す。そして、追いかけた子供が階段から転落する。
面倒だ。
「ここで待っていろ」
「どこへ行くの?」
「すぐ戻る」
僕は人混みの中へ入り、誰にも見えないよう念動力を使った。
転びかけた飼育員の体勢を支え、バケツを元の位置へ戻す。
これで未来は変わった。
しかし、その一瞬の間に別の問題が起きた。
「おっ、照橋さんじゃねえか!」
燃堂の声が響く。
最悪だ。
「燃堂君。それに海藤君も」
「こんなところで会うなんて奇遇だな」
海藤はそう言いながら、素早く周囲を確認した。
『まさか照橋さんが一人で水族館へ? いや、誰かと待ち合わせているのか?』
無駄なところで勘が鋭い。
「一人で来たのか?」
「えっと……」
照橋さんの視線が僕を探してさまよう。
ここで姿を見せれば、二人で水族館に来たことが知られる。交際まで発覚するとは限らないが、学校中に妙な噂が流れるのは確実だ。
僕は透明化し、三人の近くまで移動した。
『私一人ということにしたら、斉木君がかわいそう。でも正直に言ったら秘密にするって約束が……』
照橋さんが困っている。
仕方がない。
僕は少し離れた通路で透明化を解除し、三人へ近づいた。
「斉木!」
「おう、相棒もいたのか!」
「偶然だな」
「本当だね、斉木君。こんなところで会うなんてびっくりしたよ」
照橋さんも僕の意図を理解し、話を合わせる。
だが、海藤は納得していなかった。
「妙だな。お前はペンギンの展示場から来たはずなのに、どうして今、反対側の通路から現れた?」
見られていたのか。
「トイレへ行っていた」
「またトイレか?」
またとは何だ。
「そういえば学校でも、照橋さんが屋上から戻った直後に、斉木も同じ階段から――」
「海藤君」
照橋さんが微笑んだ。
「せっかくだから、四人で見て回らない?」
「もちろんだ!」
海藤の疑念は一瞬で消えた。
『照橋さんから誘ってくれるなんて……俺たちをダークリユニオンの攻撃から守るためかもしれない』
どうすればそういう結論になる。
「よし、相棒。四人で行こうぜ!」
「断る」
「え?」
「僕は一人で回る」
せっかくの初デートを、燃堂と海藤を加えた四人組に変更するつもりはない。
僕は照橋さんに目で合図を送る。
彼女も意図を察した。
「待って、斉木君。せっかく会ったんだから、一緒に行こうよ」
察していなかった。
『ここで斉木君と二人だけで行ったら、もっと怪しまれるよね。今は四人で回って、あとで二人になればいいんだ』
なるほど。珍しく照橋さんの方が冷静だ。
確かに、僕だけが拒否すれば不自然になる。
「……仕方ない」
こうして僕の初デートは、開始から一時間も経たずに四人での水族館見学へ変わった。
◆
「見ろ、燃堂。あの深海魚の異様な姿を。過酷な環境へ適応した結果だと言われているが、俺は騙されないぞ」
「何がだ?」
「あれはダークリユニオンが生み出した生物兵器に違いない」
「そうなのか。食ったらうまいのか?」
「食うな!」
二人が加わってから、照橋さんとゆっくり話す時間はほとんどなくなった。
燃堂は気になったものへ次々と駆け寄り、海藤は展示の説明をすべて独自の陰謀論へ変換する。
いつも通り騒がしい。
「ごめんね、斉木君」
二人に聞こえないよう、照橋さんが小声で謝った。
「お前のせいではない」
「でも、初めてのデートだったのに」
彼女の顔には笑顔が浮かんでいた。
しかし、心の中では落ち込んでいる。
『本当は、もっと二人で歩きたかったな。手をつないだり、写真を撮ったり……普通のデートがしたかった』
僕は恋人らしい振る舞い方など知らない。
そもそも、人と休日を過ごすこと自体が少ない。
だが、今日のために照橋さんが長い時間をかけて準備したことは知っている。それがこのまま終わるのは、さすがに気の毒だ。
「斉木、照橋さん! 次はイルカショーらしいぞ!」
「早くしねえと席なくなるぞ!」
燃堂と海藤が先に歩いていく。
僕は二人との距離が開いたことを確認し、照橋さんの手を取った。
「え?」
「人が多い。はぐれると面倒だ」
『手……斉木君からつないでくれた……!』
「嫌なら離す」
「嫌じゃない!」
照橋さんが僕の手を握り返す。
その声が大きすぎて、燃堂と海藤が振り返った。
僕は即座に手を離す。
「どうしたんだ、照橋さん?」
「な、何でもないよ。少し転びそうになって、斉木君に支えてもらっただけ」
「そうだったのか。相棒、ぼーっとしてそうなのに意外とやるな!」
余計なお世話だ。
再び二人が前を向いた。
僕たちも少し距離を空けて、その後を追う。
「ありがとう」
照橋さんが囁いた。
「転びそうだったからな」
「私、転びそうになってないよ」
「そういうことにしておけ」
「うん」
横目で見ると、彼女は髪飾りに触れながら嬉しそうに笑っていた。
◆
水族館を出る頃には、夕方になっていた。
「それじゃ、俺たちはラーメン食って帰るけど、二人はどうするんだ?」
燃堂が尋ねる。
「俺はまだ、この水族館の地下に隠された秘密施設を調べたかったんだがな」
「そんなものはない」
「なぜ断言できる?」
「常識だ」
「まさか斉木……お前、すでに調査を終えていたのか?」
好きに解釈しろ。
「私は少し買い物をしてから帰るね」
「僕も駅に用事がある」
「そっか。じゃあな、相棒!」
「また明日な、斉木、照橋さん」
二人が去っていく。
心の声が聞こえなくなる距離まで離れたことを確認してから、僕たちは顔を見合わせた。
「何とかバレなかったね」
「ああ」
「でも、これからどうする?」
「喫茶店へ行く」
「え?」
「近くに評判のいい店があるんだろう」
照橋さんが驚いた顔をする。
『どうして知ってるの? まだ言ってないのに』
「母さんから聞いた」
嘘ではない。母さんは今朝、その店のことを話していた。
「もしかして、コーヒーゼリーを楽しみにしてる?」
「別に」
「顔がちょっと嬉しそう」
「気のせいだ」
◆
幸運なことに、限定のコーヒーゼリーは二つだけ残っていた。
僕たちは向かい合って席に座り、それぞれ一つずつ注文した。
運ばれてきたコーヒーゼリーは、深い色合いと美しい光沢を持ち、その上には上品な甘さのクリームが添えられている。
素晴らしい。
「斉木君、本当にコーヒーゼリーが好きなんだね」
「普通だ」
「さっきからずっと見てるよ」
「気のせいだ」
僕が一口食べると、程よい苦味と甘さが口の中に広がった。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
今日一日の苦労が報われた気がする。
照橋さんは自分のコーヒーゼリーには手をつけず、僕を見つめていた。
「食べないのか」
「斉木君、私の分も食べる?」
「いいのか?」
「うん」
「なら、もらおう」
「即答なんだ」
彼女は笑いながら、自分の皿をこちらへ差し出した。
「今日は思ってたようなデートにはならなかったけど、楽しかった」
「そうか」
「次は二人きりで行けるといいね」
「次もあるのか」
「恋人なんだから当然でしょ?」
やはり要求は増え続けるらしい。
「ねえ、今日まだ名前で呼んでもらってないよ」
「朝の約束は毎日とは言っていない」
「それ、昨日も聞いた」
「なら答えは分かっているだろう」
「もう一個あげるから」
照橋さんが自分のコーヒーゼリーを指さした。
「僕は物では釣られない」
「じゃあ、半分」
「心美」
「早い!」
これは仕方がない。
限定コーヒーゼリーには、それだけの価値がある。
「コーヒーゼリーに負けた気がして複雑……」
「気のせいだ」
「でも、名前で呼んでくれたから許してあげる」
照橋さんは照れくさそうに笑った。
その顔は、店内の客たちへ向ける完璧な笑顔ではない。僕にだけ向けられた、少し無防備な笑顔だった。
超能力を使わなくても、その違いはもう分かる。
今日のデートは、決して平穏とは呼べなかった。
燃堂と海藤に遭遇し、秘密が何度も発覚しかけ、予定していた場所の半分も見られなかった。
それでも失敗だったとは思わない。
「次は人の少ない場所にしよう」
「え?」
「また燃堂たちに会うのは面倒だ」
「それって、またデートしてくれるってこと?」
「そうなるな」
『やった!』
照橋さんの喜びが、心の声を通じて頭の中に響く。
僕は二個目のコーヒーゼリーを食べながら、それを聞いていた。
騒がしい。
非常に騒がしい。
だが、不思議と嫌ではなかった。