第四話 斉木楠雄の交際には天敵がいる
水族館での初デートから一週間が経過した。
僕たちの交際は、今のところ誰にも知られていない。
燃堂と海藤には水族館で遭遇したが、二人は僕と照橋さんが偶然居合わせただけだと思っている。鳥束は一度事情を知ったものの、僕が記憶を消したため問題ない。
奇跡的と言っていいだろう。
「斉木君、おはよう」
「ああ」
教室に入ってきた照橋さんと、いつも通りの挨拶を交わす。
それだけだ。
学校では必要以上に話さず、席も離れている。登下校も、なるべく別々にしている。
表面上は、交際前と何も変わっていない。
『今日も斉木君とほとんど話せないのか……仕方ないけど、少し寂しいな』
心の声を除けば。
僕が教科書を開くと、その間から小さく折り畳まれた紙が落ちた。
『放課後、駅前の喫茶店に行かない?』
いつの間に入れた。
しかも文末には、前回より大きなハートが描かれている。
僕は紙の裏側に返事を書く。
『目立つ。却下』
そして、誰にも見られないよう念動力で照橋さんの机へ戻した。
紙を読んだ照橋さんが、ちらりとこちらを見る。
笑顔は崩れていないが、心の中では盛大に頬を膨らませていた。
『水族館では次もデートするって言ったのに』
言ったな。
『それとも、私と出かけるのが嫌になったとか?』
それは違う。
『もしかして、初デートで何か失敗してた? 服装? 話し方? コーヒーゼリーを一個しか譲らなかったこと?』
最後の可能性は少しある。
僕は紙をもう一度引き寄せ、短く書き加えた。
『人の少ない店なら行く』
照橋さんがそれを読む。
『やった!』
分かりやすい。
◆
放課後。
僕たちは時間をずらして学校を出た。
待ち合わせ場所に選んだのは、駅前から少し離れた路地にある喫茶店だ。水族館の帰りに立ち寄った店ほど有名ではないが、客が少なく静かだった。
何より、コーヒーゼリーがある。
僕が先に店へ入り、一番奥の席に座って待っていると、五分ほどして照橋さんが現れた。
「お待たせ、斉木君」
「三分遅刻だ」
「女の子を待っている時間もデートの一部だよ」
「初めて聞いた」
「今、私が考えたから」
堂々と言うな。
照橋さんは僕の向かい側ではなく、隣の席へ座った。
「なぜ隣なんだ」
「こっちの方が話しやすいから」
「向かいでも話せる」
「恋人らしいから」
最初からそれが目的だろう。
しかし、今さら席を移れと言うのも不自然なので、そのままにしておく。
「ご注文は?」
店員が来ると、僕は迷わずコーヒーゼリーを注文した。
「私は紅茶をお願いします」
店員が離れたあと、照橋さんが僕の顔を覗き込む。
「今日もコーヒーゼリーなんだ」
「悪いか」
「ううん。本当に好きなんだなって思っただけ」
「この店は値段の割に質がいい」
「斉木君、私とコーヒーゼリーなら、どっちが好き?」
急に何を聞いている。
「比較するものではない」
「逃げた」
「質問が成立していないだけだ」
「じゃあ、私とデートするのと、一人でコーヒーゼリーを食べるのなら?」
非常に難しい質問だ。
普通なら、恋人とのデートと答えるべきなのだろう。
しかし僕は嘘をつきたくない。
「コーヒーゼリーを食べながらデートすればいい」
「それって両方?」
「ああ」
「……まあ、それならいいかな」
『私とのデートも選んでくれたってことだよね』
都合のいい解釈だが、今回は否定しない。
そのとき、店の外から聞きたくない心の声が届いた。
『心美が男と二人で喫茶店だと!? そんなことが許されるはずがない!』
僕は窓の外へ目を向ける。
帽子とサングラスで変装した男が、電柱の陰からこちらを見ていた。
照橋信。
照橋さんの兄であり、俳優の六神通。
そして、妹への愛情を盛大に間違えている男だ。
最も知られてはいけない人物に見つかった。
「どうしたの?」
「いや」
「外に何かある?」
「見るな」
「え?」
照橋さんが振り返る前に、僕は念動力で店のカーテンを閉めた。
風が吹いたように見せかけたので、不自然ではない。
『なぜカーテンが閉まった!? まさか、あの男が心美に何かしようとしているのか!』
発想が飛躍しすぎだ。
「急に暗くなったね」
「夕日が眩しかった」
「そう?」
照橋さんは不思議そうにしながらも、深く追及しなかった。
しかし、店の外にいる照橋信は諦めていない。
『待て。落ち着け、僕。まだデートと決まったわけじゃない。学校の話をしているだけかもしれない』
珍しく冷静だな。
『だが、心美の隣に男が座っている時点で万死に値する!』
前言撤回だ。
店の扉が開く。
「いらっしゃいませ」
「一人だ」
帽子とサングラスを着けた照橋信が、僕たちから少し離れた席へ座った。
変装しているつもりらしいが、ほとんど意味がない。
照橋さんも、その声を聞けばすぐに気づくだろう。
「あれ? 今の声……」
「似ているだけだ」
「でも――」
「紅茶が来たぞ」
店員が注文を運んできた。
僕はコーヒーゼリーを見ているふりをしながら、照橋信の思考を読む。
『あの男、どこかで見たことがある。確か心美と同じ学校の……斉木楠雄!』
気づいたか。
『以前から気に入らなかった。心美が声をかけているのに、平然とした顔をしやがって。あれも心美の気を引くための作戦だったのか!』
違う。
『だが、まさか付き合っているはずがない。心美に限って、あんな平凡な男を選ぶはずが――』
「おいしい?」
「ああ」
「よかった。私も一口もらっていい?」
「自分で頼め」
「一口だけ」
照橋さんが僕のコーヒーゼリーへ手を伸ばす。
その瞬間、照橋信の殺意が膨れ上がった。
『同じ皿のコーヒーゼリーを食べるだと!? まさか間接――』
これ以上聞く必要はない。
「仕方ない」
僕は皿を照橋さんの前へ移動させた。
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに一口食べた。
「苦い」
「コーヒーゼリーだからな」
「もう少し甘い方が好きかも」
「味が分からないなら食べるな」
「でも、斉木君の好きなものを一緒に食べてみたかったの」
そう言われると、反論しづらい。
『一緒に食べたかった!?』
背後から恐ろしい思考が響く。
僕は今日中に照橋信の記憶を消すことを決めた。
◆
それから十分後。
僕たちは会計を済ませ、店を出た。
照橋信は少し遅れて追ってくる。
『二人の関係を確かめなければ。心美が騙されているなら、兄として助け出す義務がある』
誰も騙していない。
「斉木君、どこか寄っていく?」
「いや、今日は帰る」
「もう?」
「ああ」
『何かあったのかな。さっきから外を気にしてるみたい』
鋭い。
だが、照橋さんには兄の存在を知らせない方がいい。気づけば確実に怒り、かえって騒ぎになる。
「送る」
「え?」
「家の近くまで送ると言った」
「いいの?」
「このまま一人で帰らせるのも問題がある」
主に、背後から尾行している男のせいで。
「ありがとう」
照橋さんが僕の隣に並ぶ。
僕たちは住宅街へ向かって歩き出した。
照橋信は電柱や塀に身を隠しながら、一定の距離を保ってついてくる。
隠れ方が致命的に下手だ。
「ねえ、斉木君」
「何だ」
「手、つないでもいい?」
「却下だ」
「どうして?」
「外だからだ」
「誰も見てないよ」
見ている。最悪の人物が。
「学校の人に見つかるかもしれない」
「この辺りなら大丈夫だと思うけど」
『心美が手をつなぎたがっているだと!?』
後ろがうるさい。
「駄目?」
照橋さんが少し寂しそうな顔をした。
断るのは簡単だ。
だが、それでは彼女が納得しない。いつまでもここで話していれば、照橋信が飛び出してくる可能性もある。
僕は念動力を使い、少し離れた自動販売機から空き缶を落とした。
大きな音が響く。
『何だ!?』
照橋信が音のした方向を見る。
その隙に、僕は照橋さんの手を取った。
「えっ」
「早く歩くぞ」
「う、うん」
『手、つないでくれた!』
僕たちは十秒ほど手をつないで歩いた。
照橋信がこちらへ視線を戻す直前、手を離す。
『気のせいか? 今、一瞬だけ二人の距離が近かったような……』
危なかった。
「もう離しちゃうの?」
「十秒で十分だ」
「短すぎるよ」
「誰にも見られていないところで、という条件は守った」
「もしかして、そのためにさっき音が――」
「偶然だ」
「まだ何も言ってないけど?」
最近、照橋さんが僕の言動に疑問を持つことが増えてきた。
気をつけた方がいい。
◆
照橋家の近くまで来たところで、僕たちは足を止めた。
「ここでいいよ。ありがとう」
「ああ」
「今日は楽しかった」
「それならよかった」
「でも、斉木君。何か隠してない?」
「何の話だ」
「ずっと後ろを気にしてたし、急に帰ろうって言ったから」
僕は答えなかった。
近くの電柱の陰では、照橋信が息を潜めている。
本人は完璧に隠れているつもりらしいが、片方の肩が出ていた。
「気のせいだ」
「本当に?」
「ああ」
照橋さんはしばらく僕の顔を見つめていた。
「分かった。今日は信じる」
「今日は、か」
「だって斉木君、時々変だもん」
否定はできない。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ。また明日」
照橋さんが自宅へ入っていく。
玄関の扉が閉まったことを確認すると、僕は背後を振り返った。
電柱の陰から、照橋信が現れる。
「おい、貴様」
声には明確な怒りが込められていた。
「心美とどういう関係だ?」
「同級生です」
「ただの同級生が、休日に二人で喫茶店へ行くのか?」
「偶然会っただけです」
「では、なぜ家まで送ってきた?」
「帰る方向が同じだったので」
「嘘をつけ!」
大声を出すな。照橋さんに気づかれる。
「貴様、心美に近づいて何を企んでいる?」
「何も」
「心美は純粋で優しい。貴様のような男に、その優しさを利用されているだけだ!」
どちらかと言えば、最初に近づいてきたのは照橋さんだ。
だが、それを言えば余計に怒るだろう。
「二度と心美に近づくな。分かったな?」
当然、受け入れることはできない。
交際を始めたばかりなのに、兄の命令で別れるなど論外だ。
「断ります」
「何だと?」
照橋信の表情が変わる。
「僕が照橋さんと関わるかどうかを決めるのは、あなたではありません」
「貴様……!」
まずいな。
予想以上に刺激してしまった。
やはり記憶を消すべきだ。
僕が能力を使おうとした、そのときだった。
「お兄ちゃん?」
照橋家の玄関が開いた。
照橋さんが、こちらを見て立っている。
「心美!?」
「そこで何してるの?」
「い、いや、僕は偶然この道を通りかかって――」
「その帽子とサングラスは?」
「今日は日差しが強かったからね」
「もう夕方だけど」
照橋さんの笑顔は完璧だった。
ただし、心の中ではまったく笑っていない。
『まさか、ずっとついてきてたの?』
「お兄ちゃん」
「な、何だい、心美」
「少し話があるんだけど」
「もちろんだよ!」
「家の中でね」
これは助かった。
いや、照橋信にとっては助かっていないだろう。
「斉木君、ごめんね。今日は本当にありがとう」
「ああ」
「また明日、学校で」
照橋さんは兄の腕をつかみ、家の中へ引っ張っていった。
「待ってくれ、心美! 僕は君を心配して――」
扉が閉まる。
その直後、家の中から照橋さんの心の声が響いた。
『どういうつもり!? 人の後をつけるなんて最低!』
『違うんだ、心美! 僕はただ、悪い虫から君を守ろうと!』
『斉木君は悪い虫じゃない!』
これは当分終わらないな。
僕は照橋家を離れ、自宅へ向かった。
◆
翌朝。
教室へ入ると、すでに照橋さんが席に座っていた。
「おはよう、斉木君」
「ああ」
昨日の出来事などなかったかのような、いつも通りの挨拶だ。
僕が席に着くと、机の中に小さな紙が入っていた。
『昨日はごめんなさい。お兄ちゃんには、もう尾行しないように言っておきました』
完全には信用できない。
照橋信が妹との約束だけで諦めるとは思えないからだ。
紙の下には、もう一文続いていた。
『それと、私のためにお兄ちゃんへ言い返してくれてありがとう』
聞かれていたのか。
僕は背後に照橋さんがいることに気づかなかった。テレパシーで近くにいると分かっていたはずだが、照橋信への対応に集中していたらしい。
『僕が照橋さんと関わるかどうかを決めるのは、あなたではありません』
確かにそう言った。
そこだけを聞けば、僕が交際を守ろうとしたようにも受け取れる。
実際、間違いではない。
僕は紙の裏に短く返事を書いた。
『気にするな』
念動力で彼女の机へ戻す。
照橋さんが紙を受け取り、嬉しそうに微笑んだ。
『斉木君も、私と付き合い続けたいって思ってくれてるんだ』
その解釈も間違ってはいない。
僕はこれまで、面倒事を避けるために多くの人間関係から距離を置いてきた。
だが、照橋信に二度と近づくなと言われたとき、断ることに迷いはなかった。
どうやら僕は、自分で思っていた以上に、この関係を手放すつもりがないらしい。
「おう、相棒! 今日は放課後ラーメン行こうぜ!」
燃堂が僕の肩へ腕を回す。
「断る」
「またかよ!」
「斉木。今日は俺の調査に付き合ってもらうぞ。昨日、この町で六神通に似た不審者を見たという情報を入手した」
本人だ。
「ねえ、斉木君」
照橋さんがこちらへ近づいてくる。
「今日の放課後、少し時間ある?」
教室中の視線が僕へ突き刺さった。
秘密の交際を守るという僕たちの方針は、正しい。
だが、照橋さんには、その方針を守る意思がどれほどあるのだろう。
「用件は?」
「昨日のお礼がしたいの」
『本当は、また一緒に帰りたいだけだけど』
「なら、必要ない」
「えー」
残念そうな声を出すな。周囲に誤解される。
『やっぱり人前だと冷たいなあ。でも、昨日のことを知ってるから平気だけど』
彼女はそう考えながら、僕にだけ分かるように小さく笑った。
僕はため息をつき、燃堂の腕を肩から外す。
「途中までなら付き合う」
「本当?」
「ああ」
『やった!』
その瞬間、教室中の男子たちから強烈な殺意が放たれた。
しまった。
言い方を間違えたらしい。
「照橋さんに付き合うだと!?」
「どういう意味だ、相棒!」
「まさかダークリユニオンが斉木を操って……!」
教室が一気に騒がしくなる。
照橋さんは困ったような顔をしながら、心の中では嬉しそうに笑っていた。
やれやれ。
照橋信への対処は終わった。
だが、僕の災難は、どうやら学校へ戻ってからが本番らしい。