マリスビリーと暁美ほむらは宇宙規模の恥知らず 作:あばなたらたやた
悪魔は、なにもできなかった。
世界を我が物に改変し、鹿目まどかをこの手で引きずり降ろしたはずのその領域で、理の糸は断ち切られなかった。
巨大な概念の重圧の前に、悪魔の翼はただ無力に折り畳まれ、円環の理は変わらずその運行を続けている。
すべてを賭けた反逆は、空転した。
何も残せず、何も意味がなく、何の価値もない。
闇に染まった空間の中、心折れた暁美ほむらは、ただ静かに椅子に深く腰掛けていた。暗い瞳には光がなく、微動だにしないその姿は、かつて彼女が重ねてきた無数の絶望の果てと何ら変わらない。
そこに例外が存在するーーーー!
コツン、と冷たい静寂を破るように、足音が響いた。
そこに立っていたのは、『インキュベーター』だった。しかし、その姿は異様の一言。見知らぬ形をした、どこか気高く、冷徹なまでの知性を感じさせる蒼い獣。
マリスビリー・アニムスフィア。
彼が纏うその姿は、地球を搾取するマスコット姿をしていながら、決定的に異なる雰囲気があった。
「これまでの
暁美ほむら」
蒼いインキュベーターは、静かに、しかし確かな敬意を含んだ声で語りかけた。
「僕が、いや私が現れるまで、君はたった一人で、あの冷酷な『インキュベーター』と孤独に戦い続けた。その執念と功績に、心からの感謝を。ありがとう」
椅子に座ったままのほむらが、微かに睫毛を揺らす。声を発する気力すかない彼女に向かって、蒼い獣は続けて言葉を持ちかけた。
「僕と、約束をしよう」
世界が歪む。蒼い光がほむらの意識を呑み込み、そして目を覚ましたとき、肌を刺す空気は奇妙なほどに馴染み深く、そして狂気に満ちていた。
そこは、『悪魔ほむら』が支配しているはずの、しかしどこか違う歪んだ見滝原の街の中だった。
街の空気に触れた瞬間、極めて高くなった魔法少女としての感知能力が、全身の神経を逆なでるように警告を発する。
この世界には今、自分と同じ『暁美ほむら』が二人存在する。そして、魔力の波長と宇宙の構造から、彼女は瞬時に悟った。
ここは、悪魔が作った異空間。この後に待ち受けるのは鹿目まどかが『円環の理』へと昇華。
今はその直前の世界だ。
「……っ。これは、どうなっているの……?」
混乱に満ちたほむらの呟きに、背後から静かな足音が応えた。
「君はタイプリープしたのではなく、タイムトラベルしたんだ。正確にはレイシフト、という名前があるけど、こっち側の呼称は避けさせてもらう。混乱してしまうからね」
振り返ると、そこにいたのはやはり蒼いインキュベーターだった。しかし白い制服を纏い、気品すら感じさせる。
「タイムトラベル。実態があるまま、過去へ飛んだ。だから、現在の見滝原にはもう過去の悪魔ほむらが存在している。そして、今の君の記憶もそのまま残っているし、概ね正しい。この先の未来の記憶。悪魔が神に敗北し、円環の理が再稼働する、あの絶望的な結末までの記憶が」
「貴方は誰!? 何でこんなことをするの!?」
ほむらは反射的に盾に手を伸ばそうとするが、魔力はまだ完全に噛み合わない。
マリスビリーは、恐れる様子もなく穏やかに微笑んだ。
「僕はマリスビリー。目的はシンプルに、人類の未来を保証すること。その為には、邪魔になるインキュベーターを排除して、円環の理を成立させないように立ち回る必要がある」
「インキュベーターの排除……円環の理を成立させないってことは、まどかを殺す気!?」
声を荒らげるほむらに、マリスビリーは首を横に振った。
「いいや、そんなことはしないさ。というか、そんなことをしても意味がない。タイムリープによって因果収束した個人による世界改変。これを最初に成した君たち二人は、確かに偉業を達成したがね。未来において、それはもう普遍的な技術になった」
「なにを、言って……っ」
「インキュベーターの技術を解析するのは人類にとって容易い、という話さ」
当たり前の事実を淡々と述べる。
「何故なら、僕たちは人間だからだ。個人個人に感情と理性という矛盾した性質を併せ持つ生命体。インキュベーターが理解不能と称するものを、我々人類は例外なく保有している。これまで一方的に搾取できていたのは、未成熟な子供を一方的に、更に姿を隠して狙っていたに過ぎない」
魔法。
魔法少女。
魔女。
奇跡。
希望と絶望の相転移。
その特別性や神秘性を完全に剥ぎ取った、とマリスビリーは言った。
「大人の組織や国家が本気で動けば、容易いことさ」
ほむらは目を見開いた。
「貴方は、何なの……?」
「未来からやってきた存在さ」
マリスビリーの目的は明確だった。
それは『人類』と『人類存続』が確実になされる『人理保障』の完遂。
彼は、宇宙の理を勝手に弄ぶインキュベーターに敗北する要因を、歴史の裏で一つ一つ確実に潰してきた。そして、その計画の最終段階にある『円環の理』の発生を阻止することこそが、彼がここで暁美ほむらと接触した理由だった。
「宇宙を守るために人間を資源にする? なるほど、あれが彼らの合理性なのだろう。でも、僕は逆を選ぶ。人間のために、宇宙を使うことを」
静かに告げるマリスビリーの瞳には、狂気すらない。あるのはただ絶対的な人類への愛だけだった。
「君がこれまで捧げた時間も、絶望も、すべて無駄にはしない」
「勝手な、ことを!」
頑張ってやってきたことを、未来人は当たり前のように言って見せる。それではまるで自分が馬鹿みたいにではないか。
大切な一人の女の子を助けずに、こんな惨めな思いをしているのは何なんだ?
「そんなに未来がすごいなら、今すぐまどかを救って見せるといいわ……!
「当然だとも。この計画を立案し、協力してくれたのは大人になった君だ。暁美ほむら博士」
「は?」
ほむらにとって、それは予想外の言葉だった。
「……未来の、私?」
「貴方は悔やんでいた。鹿目まどかさんを、ただの概念。円環の理というシステムに委ねてしまったことに」
「まどかを、諦めた……? 私が、そんなことする筈がない……!」
「だから、僕がここにいる。数十年に及ぶ暁美ほむらの絶望を希望に変える為に僕は来た。これは契約ではないよ、願いだ。鹿目まどかがどうか救われてほしい、という切なる願い」
蒼いインキュベーターの姿をしたマリスビリーから、静かに一つの本が差し出される。それは物質としての書物ではなく、重く冷たい因果の塊だった。
「名塚底根から取り出した、絶望した暁美ほむらの姿だ。これはあらゆる時空の暁美ほむらの絶望が記録されている。これを受け入れた時、君は真の力を得るだろう」
これは絶望から希望へ転じる相転移。
絶望の象徴である魔女。
希望の象徴である魔法少女。
その曖昧な灰色の境界線を漂う人間。
「魔法少女を超越し、魔女を抱いた時、君は悪魔を相剋した人間になる」
希望と絶望。
その両方をその身に引き受け、それでもなお未来へ進む旅人になるために。
蒼い獣は、逃れられない熱量を込めて言葉を紡ぐ。
「暁美ほむらさん。貴方は頑張っている。辛く、苦しく、投げ出して、それでも言い続けたのは何のためかな。貴方が望んだのは何だったのか。君が望むのは一体なんだろうか」
強く、強く、強く。マリスビリーは論理ではなく、彼女の根底にある衝動を言葉で鼓舞していく。
「君の未来に残したいものは、何だろう?」
「まどか。……鹿目まどか」
「円環の理として? それとも、人間として?」
「彼女の意思があるものを……残したい。仕方なく選ばされるんじゃなく、環境が敷いたレールではなく、自分の心のやりたいことを、ちゃんと……! 怖いのは嫌だと、苦しいのは嫌だって、あの子が言ってくれてたから……!!」
涙を流しながら、暁美ほむらは叫ぶ。喉を焼き、胸を抉るような絶叫だった。
「仕方ないのかもしれない。常に選べる立場にいるなんて不可能だってわかっている……! でも、こんなの……誰か一人にすべてを背負わせて終わりなんて、納得できるわけない!」
どれほど自らに負い目があり、屈折した自己嫌悪があり、時にその小心から悪事を成すことがあるとしても。
何かを打倒することでしか救えぬ英雄たちと異なり、彼女はただ一人の人間を救おうとして、最終的に世界を照らす光となった。
その希望を、その果てしない執念を糧に、少女は再び立ち上がる。状況は最悪だ。だが、まだ終わったわけではない。
「改めて自己紹介をしよう。僕は人理継続保障機関フィニス・カルデアの所長、マリスビリー・アニムスフィアだ。君の……いや、貴方の名前を教えてほしい」
ほむらは涙を拭い、その瞳に決意を宿す。
「私は暁美ほむら。魔法少女であり、神に叛逆した悪魔であり、ただの人間! 私は、大切な鹿目まどかを助ける!」
「どうして、鹿目まどかを助けたい?」
「決まっているわ。……私が、私として生きる為よ!」
「これは契約ではなく、ただの約束だ。僕は人類を、君は鹿目まどかと共に生きる未来を探るために、二人で時の旅人になるとしよう」
オリジナルのインキュベーターたちが用いた設計思想、それは「少女たちの持つ希望と絶望の相転移」によって宇宙の熱量を延命させる冷酷な搾取システムだった。
ならば、マリスビリー達が構築したシステムはその完全な裏返しである。
彼は、膨大な絶望から希望への相転移を引き起こすことで、宇宙ではなく人類そのものを存続させるための巨大な人理継続保障システムを組み上げていた。
そのシステムの中核として、マリスビリーは記憶の改竄や強制ではなく、純粋な魔法少女としての基礎性能の極限強化を暁美ほむらに施す。さらに、自らが魔女となった幾億のプロフィールと記憶が描かれた本を魂の媒体として直接焼き付けることで、彼女の霊基と精神の魂を大胆に改竄・再構築した。
「これほどの技術があるなら、未来では勝利していたんじゃない?」
蒼いインキュベーターの姿をしたマリスビリーは、ほむらの鋭い問いかけに対し、わずかに口元を緩めた。
その表情に冷徹さはなく、どこか遠くの星を見るような、穏やかな諦念と確信が入り混じっていた。
「鋭いね、暁美ほむら。その通りだ。未来において、インキュベーターの仕組みなど大した脅威ではなくなり、人類は銀河の理さえ手にかけるほどの技術的到達点を迎えていた」
マリスビリーは静かに歩みを進め、かつて自分が語った言葉をなぞるように、夜空に似た蒼い瞳を細める。
「未来を保障するのは、未来を見た誰かではない。現在にいる僕たち全員の、ささやかな努力であるべきなんだ。……努力は、ささやかなものでいいのさ」
「ささやかな、努力……?」
ほむらが怪訝そうに呟くと、マリスビリーは温かい笑みをこぼした。
「ああ。だって、今まで人間たちが歴史の中で頑張りすぎて、運命を背負いすぎて、誰かを救うために世界を壊し、世界を救うために誰かを切り捨ててきた。そんな風に肩肘を張り続けた結果として何が起きたか、君が一番よく知っているだろう?」
個人の愛のために世界を敵に回した少女と、みんなのために自ら救済システムになった少女。そして人類を愛する者の人生を賭けた想い。
「だからこそ、未来の君は過去へ手を伸ばした。すべてをシステムに丸投げし、誰か一人の犠牲のうえに成り立つ平和なんて、人間が望んだ形じゃないと気付いてしまったからだ。僕たちが求めているのは、超常の奇跡による管理された未来じゃない。誰もが自分の意志で選び、間違え、それでもやり直せる、そんな当たり前の日常の積み重ね、だと貴方は言っていたよ」
マリスビリーは手を差し伸べる。それは契約の呪縛ではなく、ただ同じ地平を歩む者への誘いだった。
「さあ、行こうか。人間を取り戻す戦いに」
宇宙を管理する獣の皮を被った者。
世界を欺き、敵に回し続けた者。
人類の存続とたった一人の少女の幸福を賭けた、最も歪で最も強靭な反逆の歯車が、いま静かに逆回転を始める。