マリスビリーと暁美ほむらは宇宙規模の恥知らず 作:あばなたらたやた
(……私は、こんなにも……こんなにも追い詰められていたのね)
怒りよりも先に押し寄せてきたのは、かつての己の傷口を時を超えて直視させられるような、痛みに酷く近い感情だった。
自分の選択の愚かさを嘲笑うことなどできない。なぜなら、その愚かさは、大切な人を守りたいという一心で己の魂を極限まで削り尽くした、愛ゆえの結末だったのだから。
クリプターが、嵐のような暴威の中で最初に見抱いた感情、それは可哀想という不遜な同情などでは決してなかった。同じ魂、同じ地獄を這いずり回ってきた身だ。己を悪魔と名乗る私を、上から目線で見下ろすことなどできるはずもない。
(……頑張った。私は頑張っていた)
だが、その言葉を口に出せば、悪魔ほむらは同情と受け取り、ますます心を閉ざしてしまうだろう。
クリプターは言葉を飲み込み、狂乱の攻撃を回避しながら、胸の奥だけで静かに想いを深めていく。
(貴方は……本当に何も考えずに暴れているわけじゃない。考えられなくなるまで……思考が焼き切れるまで、考え続けていた)
いまの悪魔ほむらは、決して浅はかで思考能力が低いわけではない。むしろその逆だ。あまりにも途方もない回数のループを重ね、あまりにも多くの絶望と重圧を一人で思考し続けてきた結果、今の彼女には、もう複雑な事象を処理する余力など一切残されていない。
思考の果てに、削ぎ落とされ、研ぎ澄まされ、残ってしまったたった一本の凄惨な太い線。
『鹿目まどかを守る』
ただそれだけのために。
世界を改変する。
己が悪魔になる。
まどかに嫌われる。
あらゆる罪と罰を背負う。
己の心が傷つき、壊れ、無残に砕け散る。
そのすべてを引き受ける。
「……ッ」
クリプターは、胸が押し潰されるような痛みに耐えていた。なぜなら、かつての自分も全く同じだったから。
複雑すぎる現実と残酷すぎる運命に耐え抜くために、目的をただ一つに絞り込み、それ以外をすべて捨て去るしかなかった哀れな姿が、そこにある
クリプターには、彼女を責めることなど逆立ちしてもできない。クリプターほむらは悪魔ほむらの表情を正面から見つめる。
(……怒っているんじゃない)
分かってしまう。己の過去だから、その狂気の奥にある本当の感情が。
恐怖だ。
まどかを失うのが恐ろしい。
これ以上失敗するのが恐ろしい。
自分が間違っていたと認めることが恐ろしい。ここまで積み上げてきた泥と血の犠牲を、自ら否定してしまうことが何よりも恐ろしい。
そして何より『それでも、まどかを守れなかったらどうしよう』という、魂を凍らせる絶望的な恐怖。だから、考えない。考えれば、恐怖で心が潰れてしまうから。
クリプターはは静かに目を瞑る。
貴方は間違っている、と突き放す権利など自分にはない。なぜなら自分はただ『彼女の未来で歪みに気づいて失敗した』だけであり、今や自分自身も敗北者なのだから。
(私だって……過去の自分に何か言える人間じゃない)
目の前の悪魔ほむらを論破したところで、それはただ「昔の自分に口喧嘩で勝った」という虚しい自己満足に過ぎない。そんなことで彼女の救いになるはずもないのだ。
何より耐えがたかったのは、彼女が「自分自身を一切大切にしていない」ことだった。
まどかのためなら自分がどれほど傷ついてもいいと、本気で思い込んでいる。
自分を犠牲にすることを能動的に選んでいるのではない。自分を犠牲にする以外の方法を模索する余裕すら、もう彼女の心には残されていないのだから。
止めたいのではない。もし許されるならただ、温かく抱きしめてあげたかった。だが、そんな真似をすれば今の悪魔ほむらは烈火のごとく拒絶するだろう。故に心の中でだけで祈るように語りかける。
(もういいわ。そんなに頑張らなくていい。貴方が世界のすべてを背負わなくてもいいの。まどかを守ることと、貴方が壊れることは……同じじゃないわ……私は、そのことを……もっと早く気付いていれば良かった)
「どうして分からないの」という怒りなど存在しない。漂うのはただ一つ『どうして私は、こんなになるまで、自分をたった一人で放置してしまったのか』という、自分自身への痛切な悔恨。ゆえに否定ではなく理解をもって、この悲劇を止めようと踏み出した。
「貴方は苦しみや悲しさ、絶望。私は全て知っている。私は貴方の未来の姿。だから大丈夫よ。絶望する必要はない」
「わかったような口ぶりを! 人の心に土足で踏み込まないで!」
しかし悪魔ほむらにとって、その至極の理解こそが、何よりも恐ろしい凶器だった。
彼女は、あまりにも深い孤独ゆえに強くなったのだ。
誰にも頼らない。誰にも理解されなくていい。誰にも赦されなくていい。自分一人の犠牲でまどかを守る。その孤独の覚悟だけが、彼女を悪魔として繋ぎ止める柱だった。
それをクリプターは分かっている。貴方はよく頑張った。と温かく包み込まれてしまえば、己を支える孤独という構造そのものが根底から崩壊してしまう。
激しい攻撃の渦中、奇跡的にほんの一瞬だけ、悪魔ほむらの攻撃が途切れた。あまりに過熱した魔力の過剰負荷による、ほんの僅かな隙。
クリプターは、その刹那を見逃さなかった。
「……もう、いい。もういいのよ」
ふっと魔力の威圧を収め、静かに言葉を落とす。殺意の籠もった眼差しで、悪魔ほむらが射抜くように問い返す。
「何が……?」
「貴方が、すべてを背負わなくてもいい」
「……」
「私は……貴方を責めないわ。貴方がどれだけ間違えても。どれだけ醜いことを重ねても。どれだけ罪を重ねても。どれだけまどかのために、自分自身を壊し尽くしても……私はそれを……絶対に笑ったりしない」
「……やめなさい」
拒絶の言葉。けれど、声は先ほどまでの威圧を失い、かすかに震えている。
「貴方は、一人でここまで来た」
「やめて……!」
「誰にも頼れず、戦い抜いた」
「黙りなさいッ!!」
怒号とともに、再び弾け飛ぶ漆黒の魔導。だが、その攻撃には隠しきれない明らかな焦燥と揺らぎが混ざり合っていた。照準は狂い、ただ空間を荒々しく削り取るだけ。
クリプターはその攻撃を身を翻していなしながら、逃れようのない確信に至る。
「……怖いのね」
「違う……ッ!」
「私が、貴方を理解することが?」
「違うと言っているでしょう!!」
「私が……貴方を許してしまうことが?」
「違う!!」
胸を締め付けられる思いを抱えながら、クリプターほむらは真実の引き金を引いた。
「……貴方自身が、許されてしまうことが?」
直後。
ピタリ、と。
悪魔ほむらの動きが、完全に止まった。
「……ふざけないで」
絞り出すような低い声。だが、そこに先ほどまでの冷酷な絶対者の面影はなかった。
「違わないでしょう」
「私は……許される必要なんてない!」
悪魔ほむらは己の胸を強く掴み、爪が衣類を破るほどに力を込める。
「私は赦されるために、ここまで来たんじゃない! 理解されるためでもない! 誰かに『よく頑張った』なんて慰めてもらうためでもない! 私は、私は!」
そう、今ここにいるのは誰かに救済されたいからではない。大切な存在がいた。愛する存在がいた。その掛け替えのないものが理不尽によって絶望への道を歩んでいる。
それを放っておくことなんかできない。最高の友達だと言ってくれた彼女を! 自分を希望を見せてくれた彼女を! 助けると約束した彼女を裏切ることなんて絶対にしない!
「私の願いは揺るがない、歪まない、砕けないッ! この命は……ッ!」
そう、価値のない自分に価値を与えてくれた。希望があると教えてくれた。絶望の中でも瞬く光を見せてくれた。そんな貴方が最後に願った祈り。
「まどかを救うためにあるんだからッ!」
喉を焼き切るような叫び。声が、魂ごと狂暴に震えていた。その魂の咆哮を受け止め、クリプターは静かに目を閉じた。
「……そう。だから、私が怖いのね」
「…………」
「私を受け入れれば、貴方は一人ではなくなる。一人ではなくなれば」
「黙って……!」
「貴方は、誰かに支えてもらってもいいと思ってしまう。自分だけが背負わなくてもいいと思ってしまう。まどか以外の誰かに、心を預けてもいいと思ってしまう。そして、もしかしたら、『私は間違っているのかもしれない』と考えてしまう」
悪魔ほむらは言葉を失い、固まった。その息を呑むような沈黙こそが、何よりの肯定だった。
「……それでは、駄目なのよ」
「どうして?」
「迷えば……まどかを救えなくなる」
「……」
「誰かの言葉を聞けば、迷う。誰かに頼れば、その人の意見を考慮するようになる。誰かに理解されれば、その人を失いたくなくなる。赦されれば自分が背負っているものを、手放してしまう……!」
その瞬間、クリプターはすべてを悟った。悪魔ほむらが恐れているのは、己が弱くなることなどではない。
まどかを救うために必要だと思い込んでいる絶対的な決意に、僅かでも異物や迷いが混ざり込むこと。
ただそれだけを、死ぬほど恐れているのだ。
「……だから、私を否定するのね」
「ええ」
「私が貴方を理解すると、困る」
「ええ」
「私が貴方を許すと、もっと困る」
「ええ」
「でも、私と一緒に立ち向かえば別の可能性が」
「だから嫌なのよ!!」
悲鳴にも似た、痛切な叫び。
「貴方は私の敵でいればいい! 私を否定して! 私を責めて! 私が間違っていると言い続けて! そうすれば私は!」
溢れ出そうになる涙を必死に堪え、悪魔ほむらは吐き捨てた。
「……迷わずに、済む……!」
理解されたいのではない。彼女は理解されることそのものを恐れているのだ。
理解されれば自分は一人ではないと知ってしまう。一人ではないと知れば、自分だけがすべてを背負わなければならないという絶対の覚悟が瓦解してしまう。
それは普通の人間にとっては救いであっても、悪魔として生きる彼女にとっては、己を突き動かしてきた最後の一本の柱を折られることに等しい。だからこそ、これ以上言葉を重ねて彼女を追い詰めるような真似はしない。無理に抱きしめず、頼ってと甘えさせもしない。
「やめましょう」
クリプターほむらは静かに一歩、後ろへ下がる。今の彼女にこれ以上言葉を重ねても、ただ傷口を深く抉るだけだ。
「今の貴方に、これ以上何かを言うつもりはないわ」
悪魔の姿をした「自分」を、深く柔らかな眼差しで見つめる。
「貴方の振る舞いに、どんな意味があるのか。どんな価値があるのか。そして、最後にどんな判断が下されるのか……私にも、わからない」
それでも、目を逸らさない。
「だけど、それはすべてが終わった後でされるものよ」
今ここで自分自身に判決を下す必要もなければ、ここで罪の重さを確定させる必要もないのだと、静かに告げる。
「今は貴方の願いに殉じなさい。道は違えど、志は常に共にあるわ」
そしてクリプターほむらは説得もせず、手を差し伸べもせず、ただ動かしようのない絶対の事実だけをその場に残すように言った。
「それだけは、忘れないで」
言葉のナイフでも、赦しの押し売りでもない。ただそこに一人ではないという事実だけを置いて、クリプターは静かにその場を去ろうとする。
悪魔ほむらはその背中を睨みつけたまま、動くことができなかった。
一人で背負うことで己の狂気を繋ぎ止めていた彼女にとって、私達は共にあるという言葉は、己の防壁を根底から破る最も否定しがたい毒だった。
マリスビリーと一緒にいるほむらの呼称について
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クリプターほむら
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クリプター(のみ)