太陽がその身を天頂に置く頃。ここ、見滝原に居を構える病院では、ロータリーで病院関係者が車椅子を押して患者を車に乗せ、入口では忙しなく患者が往来し、たまに救急車のサイレントと共に急患が運び込まれている。
平日にも関わらず、人は多く。子供からお年寄りまで幅広い年齢層が身体を診に来ていることが伺える。
院内には、どことなく薬品の匂いが染み付いており、人によってはそれだけで気分が悪くなることもあるだろうが、病院の匂いとは元来そういうものだ。
だが、そんなことよりももっと気になることがひとつあった。それは、その場所に似つかわしくない生き物が院内を我が物顔で闊歩していることだ。
小さな白い身体に携えた尻尾を左右に揺らしながら、その小動物は人の往来をすり抜け、てくてくと四足歩行で歩いている。一体、いつからここは動物病院になったんだと錯覚してしまうが、至って普通の病院である。
しかし、それよりも可笑しいのは、誰一人としてその生き物に一瞥もくれない事だろう。興味がないという単純な話では片付けられない。まるで、そこに存在しないと言った方が正しいとさえ思ってしまう。
小動物は院内の地図を見ることなく、一直線にエレベーターのある方に向かう。その耳に付いている赤いリボンが動きに合わせて少し揺れた。
(きゅっぷい、今日は人が多いね)
その正体はキュゥべえだった。彼はその性質上、魔法少女としての素質がなければ観測することはできない。故に、道行く人は誰一人としてキュゥべえに気付くことはなかったのだ。
キュゥべえはほむらが学校で青春を謳歌している間、自分のすべき仕事を遂行するために動き出していた。この病院に来たのもその一環だった。
人々がエレベーターに乗り込むと、その隙間を縫ってキュゥべえもエレベーターに入り込む。目指すのは患者が入院しているエリアだった。
時々、降りる人に踏まれそうになりながらも、キュゥべえは目的の階に到達し、廊下に出る。
かなりの入院患者がいるので、時間がかかるかと思われたが、キュゥべえは迷うことなく目的の部屋に辿り着く。
顔を上げてみれば、そこには『上条恭介』という、ネームプレートが貼ってあった。
キュゥべえは何度もこの病院に足を運んだことがあった。以前さやかにも言ったことだが、キュゥべえは彼女の動向を確かめていた時期があった。曰く“この目で直接確かめたかった”とのことだが、先日それをさやか本人に言う機会があった為、話したところ、少なくない嫌悪感を抱かれたので、今後はしないと約束した。
だが、それはそれ、コレはコレだ。
ほむらを繰り返す運命から救う為なら、キュゥべえはなんだってする。汚れ役も喜んで引き受ける、どれだけ嫌悪されようが、ほむらさえ受け入れてくれたらそれで良い、と少し危うい極端な考えを持っている。それもある種の愛と言うべきかは、誰にも分からない。
キュゥべえは扉の前で座り込み、廊下の先に視線を向けている。扉を開ければ中に入れるが、時間もたっぷりあるので、無理にポルターガイスト紛いの事をする必要は無い。というより、そろそろ看護師がご飯を運んでくる時間ということを知っていて、このタイミングで来訪したのだ。
通路の先を見れば、ほら見た事かと言わんばかりに、看護師がご飯の入ったトレーを運んで上条の部屋に向かってきていた。
コンコンと看護師が部屋をノックし、扉を開けた瞬間、キュゥべえはするりといとも容易く部屋に侵入した。
(前も見たけど、いざ入ると余計に殺風景だね)
病院だから当たり前だが、上条の部屋にはほとんど色がない。そんな場所でずっと過ごしていては気が滅入りそうなものだが、ゲーム機などの娯楽の類は置いていないようだった。その代わりと言えばいいのか、ベッドの近くにズラリとクラシック関連のCDが置いてあった。
(……日常的に聞いている様子はないね)
CDの上には、少し埃が積もっているようにも見えたキュゥべえは、ふと頭の中でさやかのことを思い出した。甲斐甲斐しく見舞いに来たかと思えば、毎回のようにクラシックのCDを置いていくさやか。良かれと思ってやっている行動は、必ずしも当の本人にとっても良いものとは限らないようだ。
看護師はベッドの上に備え付けられたテーブルにご飯を置き、部屋から退出した。残されたキュゥべえは渡された食事に手をつけないまま、開けた窓の外をぼんやりと見ている上条の様子をただその場で見ていた。彼の瞳の中には諦観が色濃く写っており、今にも泣き出しそうな、そんな雰囲気を醸し出していた。
(……うーん、コレは重症だね。この状態にさやかの能天気なテンションをぶつけたら、いつか抑えている感情が噴き出すだろうね)
何はともあれ、キュゥべえがここに来た理由は一つだ。上条恭介の怪我の具合を確認する。それが、さやかを契約させない為の第一歩だった。その為には、上条恭介が寝ている時にあれやこれや検査するつもりだったが、待てど暮らせど食事に手をつける様子はなく、一刻以上もずっと窓の外を眺めて黄昏ているだけだった。もしこのまま彼が寝なかったら一日を無駄にしてしまう。タイムリミットがあるキュゥべえにとっては、何としても避けるべき事案であった。
ならば、夜に上条が寝た時にやれば良い話ではないかと思うが、放課後以降は身の回りの少女達の安全を最優先にしたかった。この時間なら、全員学校にいる為、
故に、これ以上時間を無駄にはしたくないキュゥべえは、確実に眠りへと誘うため、何処からか透明の袋のような物を取り出した。
(……こういう事もあろうかと持ってきていて良かったよ)
サーッ!
病室に風が吹きこんだその刹那、キュゥべえは目にも止まらぬ速さで薬包紙に包んだ白い粉をコップの水に入れた。
(ほむら印のちょっとだけ眠くなるお薬だけど、やむを得ないね。人体に負担がないのは確認済みだから大丈夫だろう。あとは……)
キュゥべえは不自然とは思われないように、部屋に置かれていたCDを数枚倒した。パタっと音を立てて倒れたCDの音に、我に返った上条は目の前にあるご飯を見て。
「……いつまで続くのかな」
彼の胸中の独白。終わりの見えない入院生活への本音だろう。本来であれば、その呟きを聞くものはいない。この場にいるキュゥべえを除いて。
カチャカチャと箸の音が聞こえ、食事を取り始めた上条。しばらく食事の音が聞こえていたが、食べ終わると数分もしない内に規則正しい寝息が聞こえてきた。
完全に対象が眠りに落ちた事を確認したキュゥべえは、ベッドの縁に飛び乗り、本来の目的を果たす為に作業を開始する。
(事前情報の通り、事故で怪我をしたのは左腕のようだね、明らかに筋肉が右腕と比べて衰えているし、手術の跡が残っている。さてさて、どの程度か見させてもらうおうか)
キュゥべえの両耳がふわりと重力に逆らって動き出す。まるでソウルジェムを創るときのように、意思を持って上条恭介の左腕に触れた。
(ふーむ、筋肉はなんとか繋ぎ止めれてるみたいだ……問題は神経だけど……………あー、ぐっちゃぐちゃだね。ひっどいモンだ。キレイにちょん切れていたほうがまだ救いようがあるよ。痛みも熱もナニも感じることはできないだろうから、そこにあって無いように感じるだろうね……現代の医学じゃお手上げかな)
キュゥべえの所見は、再生不能だった。ここまで神経がぐちゃぐちゃになってしまえば、戻すのは不可能に近い。仮に奇跡が重なって神経を繋げることができたとしても、筋肉が修復するにつれて神経が圧迫され、間違いなく運動障害や麻痺などが生じるだろう。再びバイオリンを弾くなんてことは以ての外だ。
(まあ、幸い神経が根元から壊死している訳でもないし、この具合なら僕単体でも対処可能だね)
だが、キュゥべえにとって上条の怪我は匙を投げるほどではなかった。腐っても星を渡る生命体だ。科学も技術も文明も、今の人類の先を行っている。それこそ、死者を復活させることはできないし、寿命を長くする事もできないが、現代医学よりは遥かに融通が効く。
(検査結果をまとめて、後でほむらに報告だね)
任務が済んだキュゥべえは、未だぐっすりと寝ている上条を一瞥し、ベッドから軽々と飛び降りた。そして、ターゲットが寝ていることをいいことに、病室の扉に耳を当てて、向こうから来る人が居ないことを確認し、そっと扉を開けて外に出た。
ほむら達の学校が終わるまでまだ時間はあるが、この病院にもう用事はないので、後は帰路に着くだけだ。キュゥべえは鼻唄の一つでも唄っていそうなくらい上機嫌な様子で、院内を歩く。上条恭介の腕が治療可能な範囲だったことで、当初予定していた計画に見通しがついた事が余程嬉しいのだろう。
そして、エレベーターに乗り込むために廊下の角をスキップしそうなくらいルンルンで曲がった時だった。
底の見えない感情をキュゥべえは目の当たりにした。
曲がった先に居たのは、年端も行かぬ少女だった。所々糸がほつれ、しわくちゃになった洋服に身を包み、ボサボサの長い白髪を無造作に下ろした女の子が濁った目でキュゥべえのことを
(これは……間違いなく見えているね。僕のことが)
一瞬、時が止まったように硬直する両者だったが、少女は興味が無くなったのか、幻覚でも見ているのだと思ったのか、視線をキュゥべえから外して、スタスタと歩き去っていった。彼女が向かった先は、奇しくも患者が過ごすエリアだった。
(……魔法少女ではなかったようだけど、あの目。あの瞳の正体を……その感情を僕は知っている)
──────それは絶望だと。
何世紀も前から魔法少女を生み出し行動を共にしてきたおかげか、皮肉なことに目を見ただけでそれが分かってしまったのだ。
そんな状態の少女を見て、どうしたものかと悩んでいるところにエレベーターが到着する音が聞こえた。乗ればそのまま家に帰れるが、どうしても先程の少女のことが気になってしまったキュゥべえは、くるりと身体を翻し、少女の後を追うことにした。幸いまだ時間はある。ここで、見なかったことにする方が後味が悪かったのだ。
そして、四足歩行の珍妙な生き物が自分の後ろを着いてきている事に気付かないまま、少女はとある病室の扉を開けた。キュゥべえもその隙間を縫って病室に入り込むことに成功する。
(あぁ……そういうことか)
少女の黒く濁った泥濘ともいえる感情は、きっとここから来たのだと強く確信した。
ベッドに眠るのは恐らく少女の母親だろうか。様々な管に繋がれ、呼吸器で息をしている。額には汗がじわりと滲みだし、痩せこけた頬がもう先は長くないことを仄めかす。
「……ママ」
少女が母の傍らで、細く嗄れた手を取り、両の手で包み込む。母からの反応はなく、浅い呼吸の音だけが室内に木霊する中、少女は肩を絶え間なく震わせ、大粒の涙を流す。無理もない。彼女くらいの年の女の子は、母という存在に甘えるのが普通なのだ。だというのに、運命は何処までも残酷で、そんな小さな幸せすら奪ってしまったのだろう。
そして、キュゥべえは少女が俯いて泣いている最中、母親のベッドに飛び移り、その容態を確認する。
(これは……悪性新生物。人の細胞のエラー。いわゆる末期癌ってやつか……既に全身に転移していて、各所で神経を圧迫、取り除いてもこれほど衰弱していたら術後には耐えられない。病院はもうお手上げなんだろうね……ムカつくけど、母星のサポートなしじゃ僕にも無理だ)
キュゥべえにとっても、目の前の存在を治すことは難しかった。本人にとっては腹立たしいことでしかないが、群としての奴らの性能には目を見張るものがあるのも事実だった。
どれくらい時間が経ったのだろう。少女は涙を枯らすほど泣いて、嗚咽で声も出なくなったあと、母の手を離し、椅子から立ち上がる。そして……。
「やぁ」
「!!!!?」
母の傍でちょこんと座っている変な生き物とばったり目が合ってしまったのだ。少女は驚きのあまり、声すらも出なかった。
「初めまして、僕はキュゥべえ。勝手にお邪魔して悪かったね」
少女は目をぱちくりとさせ、何度が両手で目を擦るが、目の前の白いネコのような生き物は消えてくれない。
「混乱するのも無理はないよ。僕のことは夢かなんかだと思ってくれて構わない」
「ゆめ……てんし?」
少女にとって都合のいい存在として認識してもらっても構わない。キュゥべえはそう考えて、首を縦に振った。胸を罪悪感が締め付ける。
「君のお母さんかい?」
キュゥべえがベッドに顔を向けて言うと、少女は首を縦に振って頷いた。
「お母さんの事は好きかい?」
キュゥべえの問いに少女は何度も首肯した。肯定する程に、枯れたはずの涙がまた溢れ出し、声にならない嗚咽が病室に響く。そして、それを宥めることも
少女が落ち着つくと、キュゥべえは少女に問いかける。
「もし、願いを叶えられるなら君は何を願いたい?」
キュゥべえの言葉に少女はハッと顔を上げ、枯れた声で懸命に言葉を紡ぐ。
「ママの、ママの願いを叶えたいのですっ!!」
苦しそうに横たわる母の姿を一瞥して、少女は内なる想いを告げた。だが、キュゥべえは“それは違う”と言わんばかりに首を横に振る。
「僕が聞いているのは“君の願い”だよ。他でもない君自身が心の底から願う事だ」
少女の母を想う純粋な願いは尊ぶべきものだ。だが、それは本当の意味で少女が望んでいるものではない。この病室に入ってからというもの、少女が何を望んでいるのか、どうなりたいのか、それが分からないキュゥべえではなかった。
だが、少女が本当に自分の望む未来を思い描くにはあまりにも幼かった。だから、目先のことしか考えることができない。もし、母が何か願えば、どんなに小さな願いだろうと純粋な心でそれを叶えようとするだろう。
「じぶんの願い……」
「君が望む未来はどんな光景だろう?そこには誰が居て、何があるのか……思い出してごらん。君の望む景色を」
少女は記憶にある母の想い出を手繰り寄せる。拙いながらも必死に、幸せだった時間を思い浮かべて……そこにいつもいた母の姿に気が付く。
「……ママの病気が治って欲しいっ!!他に何もいらない!それが、それだけが自分の願いなのですっ!!!」
少女の濁った瞳に、確かに一条の光が差し込む。叫びともいえる願いを、キュゥべえはただ受け止め、肯定し、言葉を紡ぐ。
「よく気が付けたね。その気持ちを大切に持っておくんだよ」
そうしてキュゥべえは“これくらいしか出来ないけど”と言って少女の母の額に手を乗せると、目にも止まらぬ早業で身体の至る部位を押した。一体何をしているだと、少女は堪らず椅子から飛び起きたが、よく見れば母の表情が和らいでいく。呼吸も浅いものから、規則正しいものに変化し、容態は先程よりも安定しているかのように見えた。
「少しだけ、体が楽になるようにツボを押しておいたよ」
人の経絡を熟知しているキュゥべえは、正確無比にそのツボを押したのだ。これほど衰弱していても、確かな効果があると確信しての行いだった。
そして、キュゥべえの言葉の通り、先程まで目を閉じていた母がその目を開け、管に繋がれた手をゆっくりと少女へと伸ばした。
か細い声で話す母の言葉は少女以外には聞こえない。だが、二人の会話が続く度に、少女の瞳から闇が薄らいでいく。
「ありがとうなのですっ!……あれ?」
少女はキョロキョロと辺りを見渡すが、謎の小動物の姿は何処にもなかった。まるで、夢だったかのように、跡形もなく、その場から消えてしまったのだ。
小動物の言った通り、本当に夢だったのかと少女は思った。だが、この温もりは、この温かさだけは本物だと。母の腕を抱きながら、少女は眠りへと落ちるのだった。
病院の外、患者が行き交う往来にてキュゥべえは先程までいた場所に振り返り、言葉を零す。
「……ままならないね」
帰路に着くキュゥべえの姿は、心なしかいつもより小さく見えた。
誤字脱字報告ありがとうございます。感想と評価も沢山頂いて嬉しい限りです⸜( ॑꒳ ॑ )⸝