ボーダー本部基地の廊下を歩いていると、不意に甘く上品な香水の匂いが鼻を掠めた。
すれ違いざまに足を止め、こちらに声をかけてきたのは、優雅な笑みが特徴的な女性だった。
A級6位、加古隊隊長──加古望。
「僕になにか用ですか?」
「私の隊に入れば悪いようにはしないわ。あなたみたいに才能のある子、好みなの。それに、神園(Kamizono)くんでしょ?イニシャルも完璧だわ」
あまりにも唐突に僕をスカウトしてきた。すれ違いざまにスカウトされるのは初めてだ。
加古隊は、隊員のイニシャルを『K』で統一するという変なこだわりがあると熊谷から聞いたことがある。熊谷は誘われてないらしい。
「すみません。自分の隊があるので。それに、自分より弱い人の下につくとか考えられないんで」
僕は事実だけを口にして誘いを切り捨てる。
僕はつい先日、二宮さんとのランク戦で完封勝ちしてる。射手ランキング3位の加古さんは二宮さんより弱い。
二宮さんはボーダーにおいてNo.1の射手であり、個人総合でも2位に君臨している人だ。
もちろん、必ずしもランキングが正しいとは言わないけど、加古さんが二宮さんよりも大幅に差をつけて強いなんてことは考えにくい。
加古さんは優秀な戦術家であり、トリガーのカスタマイズにも余念がないと噂で聞いたことがある。
もしかしたら二宮さんとも互角なのかもしれない。
だが、所詮はそこまでの話でしかない。二宮さんを圧倒できない程度の創意工夫なんて、僕の前には何の意味も持たない。
二宮さんは弱くなかった。加古さんも、恐らく弱くはないんだろうと思う。でも、僕が隊に入るほどではない。なにより、僕は人の下につきたくない。
「──ふふっ、あははっ!本当に噂通りの面白い子ね!」
僕の言葉を聞いて、加古さんは気分を害するどころか、おかしそうに笑い出した。変人だ。
「もし今の隊で行き詰まったら、いつでもうちにいらっしゃい。あなたの為に、隊員の枠は必ず1つ空けておくから」
加古さんは優雅に微笑みながら手を振り、そのまま廊下の奥へと消えていった。
言いたいことだけ言っていなくなった。自由な人だなぁ。
小さく息を吐き出し、当初の目的地であった個人ランク戦ブースへと足を向ける。
扉を開けると、見慣れた2人の姿が目に飛び込んできた。
熊谷と那須だ。2人はテーブル席に座り、何やら楽しそうに談笑していたが、僕の姿を見つけると小さく手を振ってきた。
「──神園、さっき加古さんと話してなかった?」
僕が席につくなり、熊谷が不思議そうな顔をして聞いてきた。どうやら、廊下でのやり取りをどこからか見られていたらしい。
「うん、勧誘されたよ。加古隊に入らないかって」
「加古隊って基本女の子しか入れないって聞いてたけど......」
「そうなんだ。まあ、性別はどっちでもいいんじゃない」
知らないけど。
「でも神園くんは断ったんでしょ?」
「当然だよ。自分の隊があるし。何より、自分より弱い人の下につくとか考えられない」
僕がそう言い放つと、熊谷は頭を抱え、那須は小さく笑みを浮かべた。
「あんたねぇ......相手はA級部隊の隊長だよ?もう少し言葉を選びなよ。いくらあんたが規格外に強いからって、人間関係は大事なんだから」
「事実を言ったまでだよ。僕は揉め事は嫌いだけど、心にもないお世辞を言って無駄な時間を過ごすのも嫌いだ」
それに、気分を害した様子はなかったし、結果的に問題はなかった。
「神園くんらしいね。ふふっ、そういう真っ直ぐなところ、私は嫌いじゃないよ?」
那須が微笑みながらフォローを入れてくれるけれど、熊谷は呆れたように大きなため息をついた。
「あんたくらい強かったら、謙虚にしてても逆に角が立つか。だとしても、人間関係は大切なことだよ。もっと波風立てずに過ごしなさい」
前半に熊谷が言っていることが正しい。
ボーダーという組織において、結局のところ絶対的な価値基準は『強さ』だ。
圧倒的な実力さえ示せば、多少の態度の悪さや生意気な口ぐせも『個性』として黙認される。
そもそも、それが許容されないくらい厳しい組織なら僕が出ていくだけの話だ。
「まあ、僕だって分別は弁えてる。本当にダメな時は気をつけるよ」
「......まったく。あんたの実力の半分でもいいから、協調性に回してほしいよ」
「僕にも協調性はある」
「どこがさ。あんまり周りを挑発して孤立しないでよね。まあ、最悪私たちはいるけどさ」
ぶっきらぼうだけれど、熊谷の言葉には確かな気遣いを含んでいた。那須も隣で優しく頷いている。
今までは対戦ゲームを一緒にやろうと誘ってくる幼なじみしかいなかった。
けど、ボーダーに入ってからは、こうして僕のことを気にかけてくれる普通の友人たちがいる──悪くない気分だ。
僕は2人に向かって少しだけ口角を上げた。
「あんまり頼りにならないけど、気持ちだけは嬉しいよ。ありがとう。あんまり頼りにならないけど」
「一言二言余計過ぎる....」
熊谷の呆れ声と那須のクスクスという笑い声が、心地よく耳に残る。
うん、悪くない。
窓の外はすっかり暗くなって、少し冷たい風がカーテンを揺らしている。
私は冬の家の合鍵を使ってリビングに入り、冬が帰ってくるのをソファに座って待っていた。
テレビもつけず、ただ静かな部屋の中で時間だけが過ぎていく。
最近、ボーダー本部で冬の噂をよく耳にするようになった。
入隊早々、B級に上がった新人がA級の精鋭たちを次々と叩きのめしているという話は、当然ながら注目の的だ。
それ自体は別にいい。冬が強いことなんて、私が一番よく知っている。問題なのは、それに伴って冬に近づく女の子が増えていることだ。
冬は口が悪くて生意気だけど、根はすごく優しい。
女の子に対しては特に。だから、隙を見せればあっという間に誰かに取られてしまうんじゃないかって、最近はそればかり考えてしまう。
(......それに、明日から一週間も会えなくなるし)
冬は明日から、学校行事の職場体験で少し離れた小学校へ行くことになっている。
泊まり込みの行事だから、一週間はボーダーにも来ないし、こうして家で会うこともできない。こういう時、同じ学校じゃないのが悔やまれる。
一週間。たったそれだけの時間が、今の私には酷く長く感じる。
玄関のドアが開く音がして、私はハッと顔を上げた。
ガチャリとリビングの扉が開き、スーパーの袋を下げた冬が入ってくる。
「──なんで僕の家いるの?なんでムスッとしてんの?」
部屋に私がいること自体には驚かず、相変わらず可愛げのない第一声だ。
「別にムスッとなんてしてないよ〜。冬は少し目を離すと、偏ったご飯ばっかり食べるから一緒に晩御飯食べに来てあげたの」
私はいつものように答えた。本当は嫉妬で胸がぐるぐるしていることを見透かされないように。
「偏った食事を好むのは、僕よりも柚宇の方だと思うけど......まあ、別にいいよ。ちょうど魚買ってきたから、塩焼きにしてあげるよ」
「冬のご飯だ〜」
冬は呆れたようなため息をつきながらも、キッチンへ向かってくれた。その後ろ姿を見つめながら、私は小さく息を吐き出す。
この少し生意気な幼なじみは、私の心の中で渦巻いている感情になんて、これっぽっちも気づいていない。
私がどれだけ焦っていて、どれだけ冬を大切に思っているのか、きっと冬には想像もつかないだろう。
でも、それでいい。気づかれなければ、私はずっと冬の『一番身近な
キッチンから漂ってくる焼き魚のいい匂いと、味噌汁の出汁の香ってくる。
手際よく夕食を作ってくれる冬を眺めていると、さっきまでの不安が少しだけ和らいでいくような気がした。
「ほら、できたよ」
「わ〜い」
テーブルに並べられたのは、絶妙な焼き加減の秋刀魚の塩焼きと、具沢山の豚汁、それにほうれん草のお浸し。
「いただきます!」
二人で向かい合って食べる夕食。この時間が、私は何よりも好きだ。誰にも邪魔されない、私と冬だけの空間。お母さんとお父さんには悪いけどね。
「やっぱり冬のご飯は最高だね〜」
「大げさだよ。ただの塩焼きだし」
照れ隠しのようにそっぽを向く冬が可愛くて、私はふふっと笑みをこぼした。
食事を終え、冬が食器を片付けてくれている間に、私はキッチンに立ってお茶の準備を始めた。
急須に茶葉を入れ、お湯を注ぐ。
そして──エプロンのポケットから小さな錠剤を取り出し、冬の湯呑みにコロンと落とした。
お湯に溶けていく白い錠剤を、私は無表情で見つめる。
睡眠薬。
当然ながら致死量には程遠く、ただ深い眠りに誘うだけの薬だ。
これを飲ませて冬を眠らせるのは、今日が初めてではない。
日常的に、冬が疲れている時や、私が無性に冬に触れたくなった夜に、こうしてこっそりと薬を飲ませていた。
冬のサイドエフェクトである『超動体視力』は、起きている間はどんな小さな動きも見逃さない。でも、眠ってしまえばただの無防備な男の子だ。
「はい、食後のお茶入れてあげたよ〜」
私は何食わぬ顔で、薬の溶けたお茶を冬の前に置いた。
「ありがとう。柚宇の入れてくれるお茶、美味しくて好きだよ」
冬は何の疑いも持たず、湯呑みを手に取って一口飲んだ。
「飲んだら安心してすぐに寝ちゃうもんね〜」
「リラックス効果でもあるのかな?」
「そうそう、特別なお茶っぱ使ってるからね〜」
「僕が買ってる茶葉だから知ってるけど、そんな効果ないよ」
笑顔で嘘をつきながら、私はドキドキと高鳴る心臓の音を必死に抑え込んでいた。
時計の針は午後10時を回ろうとしている。
薬が効き始めるまで、あと少し。
「っと、もうこんな時間だし帰ったら?隣だから見送りはしないよ」
冬が小さくあくびをしながら言った。
「今日は泊まるよ〜」
私がそう宣言すると、冬は目を丸くしてこちらを見た。
「え、ダメだけど?予備の布団洗ってないし。おばさんとおじさんが心配するでしょ」
「冬の布団を私が使えば解決だね〜。お母さんには伝えたから大丈夫」
「暴君理論やめて。僕よりも余っ程酷い......ふわぁ、眠たくなってきた」
冬のまぶたが、少しずつ重たそうに下がってくる。薬が効いてきた証拠だ。
「はぁ、本当に嫌だけど僕がソファで寝るから、柚宇は僕の布団で寝ていいよ」
「えー、冬と一緒に寝たいな〜」
「お互いもう子供じゃないんだから馬鹿なこと言ってないで......っ、あー、本当に眠い。じゃあ、僕はもう寝るから......あとは勝手にして」
そのあと、冬はソファに崩れ落ちるようにして目を閉じた。
数分後、規則正しい静かな寝息がリビングに響き始める。
「......冬?」
念のため声をかけてみたけれど、返事はない。完全に深く眠っている。私はそっと冬に近づき、彼の顔を覗き込んだ。
いつもは生意気で隙のない顔が、今は無防備に緩んでいる。長いまつ毛と、少しだけ開いた唇。
私はそっと手を伸ばし、冬の頬に触れた。
「──ふふっ」
温かくて、柔らかい。
起きている時はこんな風に触らせてくれないけど、寝てる冬は嫌がる素振りもない。
「冬が悪いんだよ」
私は誰に言うでもなく、小さく呟いた。
「......最近はいろんな女の子に見つかっちゃって。だから、私がこんなことしないと、不安で仕方ないんだから」
冬の頭を撫でながら、私はそっと寄り添うようにソファに座り込んだ。
明日から一週間、会えなくなる。
その間の不足分を補うように、私は冬の体温と匂いを身体に刻み込む。
「ねえ、冬」
眠っている冬に聞こえるはずもない言葉を紡ぐ。
「私以外の女の子に、あんまり優しくしないでね。小さい頃、女の子に優しくしてじゃなくて、私に優しくしてって言った方がよかったかな?」
嫉妬と独占欲で真っ黒に染まった自分の心が、少しだけ恐ろしいと思うこともある。
でも、もう引き返せない。だって、既に引き返せる段階にいないから。
「......大好きだよ、冬」
私はそっと身を屈めて、冬の唇に自分の唇を重ねた。
ほんの少しだけ触れる、秘密のキス。冬が起きている時には絶対にできないこと。
でも、これでいい。冬が気づかなくても、私だけが知っていればいい。
私は冬の体を優しく抱き起こし、寝室へと運んでいく。
冬は何も知らない。これから私がすることを。私が今までしてきたことを。
私がどれほど冬に執着しているかも、このお茶に睡眠薬が入っているかも。そして、私がこんなに狡猾で醜いことも。
「──冬が悪いんだからね?」
いつもみたいに冬のことも気持ちよくしてあげる。だから、今回も起きずに安心して寝ててね。
国近さん
R-18版も投稿してます。