みんながそれぞれ思い思いに過ごしていた、緩く騒々しい時間は終わり、教室には次第に沈黙が訪れた。
べつに、何かが起こったというわけではない。
ただ、自然といつもの習慣に従って、空気が切り替わっただけのこと。
時計を見れば、いつもの朝礼の時間を示している。
そして、いつも通りに教室の扉がゆっくりと開き、そこから、葉月先生が入ってきた。
……その瞬間まで、ここには確かに、波風のない平穏な静寂が満ちていた。
葉月先生が教室に入り、その後ろから、もう一人。
……奏蕾という、慣れた日常の中に突如として現れた異分子とも言える存在の姿が見えた途端、その落ち着きは消えて、波のように、小さなざわめきが伝播した。
仲間内で小声で言葉を交わしたり、顔を見合わせたり、興味深そうに視線を向けたり。突然に現れた変化の兆しに、みんな、何らかの反応を示している。
まあ、無理もない。
誰の頭を見ても角なんて生えてないし、誰の背中にも羽なんてない。腰から尻尾が伸びている人だって、少なくともここには一人も存在しない。
彼女は、この教室にとって、ただの転入生という枠に押し込めて分類できる程度の未知ではない。
「今日は、朝礼の前に……転入生を紹介します」
まだ正確には転入生と言っていい存在ではないからだろうか。
葉月先生はほんの一瞬だけ言葉に迷った様子を見せたけれど、どうやらみんなはその隣を見るのに夢中で、特に何も思わなかったようだ。
「はじめまして、わたしは棉摘奏蕾といいます! よろしくお願いします!」
奏蕾の自己紹介は、想像以上に普通だった。
無難すぎてむしろ想定外なくらいだけど、もしかして、派手なのはやめてほしいとあらかじめ伝えておいたからだろうか。
……もしもそうだとしたら、伝えておいてよかったと思うと同時に、あまり意味がなかったなとも思った。
考えてみれば、当たり前のこと。
どれだけ普通の言葉で済ませようと、結局はその容姿だけで、彼女の登場は派手で印象的なものになる。
「えっと、棉摘奏蕾さんは、一昨日ご家庭……の事情でこちらに越してきまして、それで今は、棉摘卯実さんの家で暮らしているんですね」
「はい! そうです!」
用意されたセリフを読むかのように話す葉月先生と、あまりよくわかっていなさそうな様子で明るく元気に返事をする奏蕾の様子は、どこかチグハグで、なんとなく、まるでコントか何かのようだと思った。
「……ふーん」
隣から、小さな声がかすかに聞こえたような気がした。
見てみると、紋華は目を細め、何かを考えている様子で奏蕾を見ていた。
「はい、じゃあ、そういうわけで。今日からこのクラスに新しい仲間が増えますので、仲良くしてくださいね!」
その一方で、葉月先生は奏蕾の紹介を切り上げようとしている様子だった。
多分、これ以上続けると変なところでボロが出ると判断したのだろう。
「棉摘奏蕾さんは、とりあえず最初はクラスに慣れることから初めて貰うためにも、棉摘卯実さんの後ろの席に座ってください」
この教室では、机と椅子は規則的に並んでいる。
けれどクラスの人数の都合上、端である私の席の後ろは、ちょうど一席分だけ欠けるような形になっていた。
……べつに最後尾であることに何かこだわりがあったわけではないけれど、新たに後ろに席が増えたというのは、何だか不思議な感じがする。
「はーい! わかりました」
私の顔を見て、心なしか少し嬉しそうな表情を浮かべた奏蕾が、葉月先生に促されるまま席に着く。
本当なら、転入生が入る時は趣味とかそういうのを含めた自己紹介をしそうなものだけど……まあ、それを指摘する理由は私にはない。
「えー、それじゃあ、朝礼を始めましょうか。まずは、連絡事項からですが……」
葉月先生が、朝礼を始める。
教室には、まだ若干の浮ついた雰囲気はありつつも、表面的には、いつも通りの空気が少しずつ戻ってきた。
「あ、えと、はじめまして……その、よろしくお願いします」
「うん! こちらこそよろしく! 名前は、なんていうの?」
「わ、私の名前は……」
葉月先生が話をする傍ら、私の後ろ側では、早速、奏蕾の隣になった人が小声で奏蕾に自己紹介をする声が聞こえてきた。
「そういえば、その、教科書って……」
「教科書なら、卯実が使っていいって貸してくれたよ!」
「あ、そうなんだ。よかった、ね」
葉月先生の連絡事項はあまり耳に入らず、後ろの話ばかりを聞いてしまう。
けれど……後ろでコソコソと喋られると気になるのは、べつに、おかしなことではないはずだ。
「……卯実ちゃん、まさかとは思うけど、今日一日、私の教科書を見て授業受ける気だったりする?」
実際、後ろに聞き耳を立てていたのは私だけではないようで。
紋華が、そんなことを聞いてきた。
「……ん」
私は、首を縦に振って答える。
紋華は、わざとらしくため息をついた。
「──起立」
そうこうしている間に朝礼は終わり、日直の号令がかかった。
「……礼。これで、朝礼を終わります」
頭を下げて、席に座る。
……後ろから聞こえてくる音からして、奏蕾も、見よう見まねで対応することができたようだ。
「で、さ。奏蕾ちゃんって、あの配信で卯実ちゃんが保護した子なんでしょ」
朝礼を終えたことで教室に喧騒が帰ってくるのと同時、紋華が半ば確信しているような表情で尋ねてきた。
……まあ、さすがに考察可能な要素が揃いすぎている。
そこに考えが繋がるのは、仕方のないことではある。
それでも、一応そこに至るまでには論理の飛躍を経る必要はあるはず。
どうしてそう考えたのかは、聞いてみようか。
「……うん、そう。だけど、どうしてそう思ったの?」
「うーん、どうしてって言っても、まず角とか羽とか尻尾とかかな。配信に映ってたアレと、形状が同じだったし」
やっぱり、そこが真っ先に繋がるか。
そう考えると、やっぱり、奏蕾に配信をさせる前に身バレ防止の手段を考える必要はありそうだ。
「あと、葉月先生の紹介がおかしかった。……家庭の都合って言うけど、ね」
「……ん。まあ、確かにそれはそう」
私には、今は両親がいない。
それを知っている紋華としては、不自然に聞こえたということか。
「あとは、苗字。偶然の一致、は除外して、親戚って線も考えられなくはないけど、もしも卯実ちゃんに接点を持てる親戚がいたなら、こうはなってないはず……ってね」
紋華の言う、こう、というのはおそらく私の一人暮らしの生活のことを指しているのだろう。
たしかに、それもまた言われてみればその通り。
「……全部、合ってる」
きっと、最初からこれらを全部意識的に考えていたわけでもないだろう。
わかりきっていることでも、あえて考えを整理してみると、無意識の思考も一緒に言語化されて出てくることがある。
……と、昔に紋華が言っていた。
「ということは、やっぱり異能力者だったってことかー……。ま、同類が増えるのは嬉しいけどね」
紋華は、机の上に置いていた蝙蝠の専門書をカバンにしまいながら、脱力した様子で呟いた。
「……っと。確か一限は数学か」
朝礼が終わってから、一限目の授業が始まるまでの時間はそれほど長くない。
紋華の言葉を聞いて前の方に顔を向けてみれば、もう既に数学の先生が黒板の前に立って準備を始めていた。
「詳しい話は、後にしよっか。そうだね……奏蕾ちゃんは、卯実ちゃんと一緒に帰るんでしょ? せっかくなら、奏蕾ちゃんと仲良くなってみたいし、私もそこで話していい?」
「……別に、許可なんていらない。好きにすれば、いいと思う」
私が答えたのとほぼ同時に、授業が始まるチャイムが鳴った。
……そうして。
授業に関しては、特にこれといって何かが起こることもなく進んでいき、次の二限目、三限目と終えて、昼の休み時間を迎えた。
休み時間は、奏蕾がクラスメイトに矢継ぎ早で質問攻めにされたり、ガラ悪く絡まれたり、といったようなことは特に起こらなかった。
もちろん、ある程度人が集まって、あれやらこれやら聞かれたりはしていたけれど……不快にしないよう心がける線引きは、少々露骨と言えそうなまでに徹底されていた。
この学校、このクラスの治安がいいのはそうだけど、これは、それだけが要因となる話ではない。
……奏蕾は、見るからに普通の人間ではない。
たしかに、この世界には異能力者という存在が認知されているけれど、その異能力者に対する視線としては、一般的に、恐れや警戒というものが拭えない。
異能力者だからと明確に攻撃されたり無視されたりといったことはあまり無いけど、遠巻きにされがちなのは、傾向として存在する。
実のところ、私と紋華が今のような仲になったのも、そういった事情が関係している。
……異能力者という存在は、まだ、この世界に現れてからの歴史が浅い。
しかも、同じく普通と違う存在である魔法少女とも違い、「契約解除で力を失う」というような制約もないというのも、そういった感情に拍車をかけているのだろう。
もっとも、奏蕾は異能力者ではない。
しかし、奏蕾が普通の人かと言えばそれは違うし、そういう本質的なところはあまり関係ない。
まあ、これは別に、それほど深刻な話というわけでもない。
今はあくまで、みんな様子を見ているだけ。
見回してみれば、興味がないわけでないことはすぐにわかるし、話しかけるタイミングを探しているような雰囲気も感じる。
奏蕾も、私や紋華のように壁を作ったりするタイプではないし、案外数日もすればクラスに馴染んでいるかも知れない。
……だけど、今はまだ、そうではない。
「──起立、礼。ありがとうございました」
今日一日の最後の授業である六限目は、既に終わり。そして今、終会が日直の号令によって締められた。
……ようやく、今日という一日が学校から解放された。
「つ、疲れた……」
奏蕾は、机に突っ伏して、疲労困憊といった様子。
……まあ、無理もない。
奏蕾には、少なくとも昨日の時点で、まだ義務教育範囲の中でも最低限と言える部分しか教えることができていなかった。
「……おつかれ。じゃ、帰ろうか」
奏蕾は、当たり前のように私の隣にいる紋華を見て、小さく首を傾げながら、身体を起こすようにして、ゆっくりと立ち上がった。