深い森の中、遠くから、微かに何か重いものを引き摺るような音が聞こえる。
それが意味するところは、間違いなく、この森の中には何かがいるということだろう。
……つまり、これはおそらく。
「これ、エネミー徘徊型ってことかな?」
私が言葉を発するよりも早く、奏蕾が小さな声でそう言った。
「……たぶん、そうだと思う」
花畑の時と同じように意識を集中させて、異界から直接的に影響を受けていないことを確認しながら、私は静かにそう返した。
引き摺る音はまだ遠く、一定間隔で聞こえてくる。
……おそらく、向こうはまだこっちに気付いてはいないのだろう。
敵に気付かれていないのなら、可能な限り、そのままの状況を維持できた方がいい。
「近づいてみる?」
「……」
「ん、おっけー」
声を潜めて聞く奏蕾に、私は、黙って首を縦に振ってみせた。
……ただ、足元には小枝や枯れ葉が散乱しており、不用意に動けば音を立てることになるだろう。
「……」
何も言わずに、揃ってできる限り音を立てないよう慎重に行動を開始する。
息を潜め、最低限の言葉のみを発する隠密行動。
それは華やかさとは真逆と言っていいものであり、もしかしたら奏蕾の思っていたものと違っていたかも知れないけれど、こればかりは仕方がない。
まあ、奏蕾もそれはわかっているのか、特に不満を口にするようなこともなく合わせてくれているから、ひとまずはこのまま進んでいっていいだろう。
……そうして、これと言って言葉を発することなく、しばらく木々の合間を縫って空を泳いだのち。私たちは、その音の正体に辿り着いた。
そこにいたのは、一体の人のような形をした影。
おそらく石か何かを削り出して作ったであろう無骨な大剣をずるずると引き摺っていて、先ほどから聞こえてきていたものがその音だったのだとすぐにわかった。
そのヒトのような何かは、よく見ればその身体にはスーツ……いや、礼服のようなものを身につけていて、そして、頭は人ではなく動物の頭のようになっている。
……そこからさらに観察してみれば、その目は、瞬きすることなく見開かれており、瞳孔はまるで固まっているかのように動いていないことに気が付いた。
あれが正常な存在ではないのは、まず間違いない。
その上で、意識を集中して魔力の流れを見ることで、あれがこの異界と強くつながっていることも確認できた。
あれが、この異界を徘徊するエネミーだろう。
……問題は、ここにいるのはこの一体だけなのかどうか。
聞いている感じでは、あれ一体ぶんの音しか、聞こえてこない。
「……仕掛けてみる」
「うん、わかった」
小声でやり取りをして、私はその場で弓を構える。
……まずは、一矢。
様子見といったところだ。
風を切る音と共に、半透明の矢が放たれて、動物頭の眉間を狙う。
……が、しかし。
それはまるで最初から気づいていたかのように、矢が命中する直前に大きく飛び上がった。
「……! 避けて!」
「了解!」
──反射的に声を出した、その直後。
空気を震わせる振動と共に、それは私のすぐ目の前に着地していて、そして、ついさっきまで私がいたところには、その無骨な大剣が叩き付けられていた。
すぐに、私は後ろに向かって泳いで距離を取り、ついでとばかりに数匹の水の魚に襲わせてみる。
……が、ここは樹木の生い茂る森の中。
直線的な移動では、離れようにも一度に取れる距離に限度がある。
そして。
それが横薙ぎに大剣を振るうと、私の作り出した魚たちは切り払われ、ついでに巻き込まれた木々はあっさりと伐採された。
当然、切られた木々は音を立てて倒れていくけれど、しかし、その途中で他の木にぶつかったことで完全に倒れることはなく、中途半端な位置で止まった。
……しかし、なんだろうか。
こうして正面から見ても、この動物頭が何の動物の頭なのか判別できない。
それは見たことがない姿をしているというより、妙にモヤがかかっているような、奇妙な感覚。
「モォォォオオ」
雄叫びをあげ、それはさらに接近してくる。
それは瞬く間に私の目の前まで到達し、振り上げた大剣で私の身体を両断する……かのようにも思えたけれど。
「……つかまえた」
死角から突然に伸びた半透明の触手によってエネミーの胴体は絡め取られ、振り下ろされた刃は、私の身体に触れることはなかった。
「ブラスト・ロア!」
奏蕾が、動きを止めたそのエネミーに、熱線を放つ。
……どうでもいいけれど、その技名は、もしかして映えを意識してのものだろうか。
ともかく、熱線は直撃した。
しかし、その衝撃に乗じた抵抗により拘束は抜け出されてしまい、再び、それはゆらりと大剣を構えた。
「時間稼ぐ! 準備できたら教えて!」
「……わかった」
それが動き出すより先、奏蕾が、私の前へと躍り出た。
代わりに、私は大きく距離を取る。
……何を狙っているのかは、わかっている。
それは、花畑の本体を撃ち抜いた渦の矢を、あれに当ててくれということ。
奏蕾が大剣を紙一重で躱わし、爪による反撃で浅い五本の傷を刻み……そうして、奏蕾はエネミーをその場に釘付けにしている。
直接見せたのは、たったの一度。
それだけなのに、奏蕾は、あれを成立させるために必要な条件を理解しているらしい。
……そう。
たしかにあの大渦の矢は、溜めが必要。
射線上を水の概念で侵食し、満たす必要がある。
そして当然、放つまでの間に的が大きく動いてしまったら、やり直しになる。
だからこそ……奏蕾は今、極力その場から動かないように戦っている。
「……離れて」
「──了解! エクスプロード・ロア!」
声をかけると、奏蕾は熱を帯びた魔力の球を上から叩き付け、エネミーを大きく怯ませると同時、爆風に乗じて羽ばたいて上空へ飛び立ち距離を取った。
「今だよ、お願い!」
「……わかってる」
渦を纏う矢は放たれ、射線上の水を巻き取っていく。
その先にいる動物頭のエネミーは、すぐに回避行動を試みるけれど、その体勢からでは、とても避けられるはずがない。
──そう思ったけれど、それは想像以上に俊敏で。
想定では全身のうち八割程度は消し飛ばせると思っていたのに、右半身と胴体の一部が渦の有効範囲を抜けた。
倒し切れなかった……けれど、そこから再生するような様子はない。
どうやら、このエネミーは俊敏で力もあるけれど、代わりに欠損を回復するような再生力などは、特に持ち合わせてはいないらしい。
大剣を地面に突き、残った片足と合わせてどうにか立っているそのエネミーに、タコの触手で追撃する。
「ヒヒィィィン」
絡みついた二本の半透明な触手が、締め上げていく。
さっきは牛のような雄叫びをあげていたのに、今度は馬のような声。
まあ……怪異もどきとは、そういうものだ。中途半端に常識の枠組みで考えようとすることに、意味なんてない。
……そうして、やがてその身体は限界を迎えたようで、形を失って崩れて消えた。
「これで、倒した……のかな?」
「……うん。……エネミーを一体、だけだけど」
言葉を交わした、その直後。
どこからともなく「ボー……ン」、「ボー……ン」と、二回に渡って、得体の知れない音が鳴り響いた。
……そして、それと同時に。
「……っ」
ふらり、と、軽い眩暈のようなものに襲われた。
……この感覚は、知っている。
直接捕食型の異界で無理矢理体力を奪われる時と、同じもの。
それが、その奇妙な音に合わせて二回、突然に起こった。
かと思ったら、その音はすぐに鳴り止み、代わりに「カッカッカッカッ……」と、何やら規則的に繰り返されるような音が鳴り始めた。
……そして。
「……!」
突如、頭上からの風切り音。
反射的に躱わすと、つい先ほどまで立っていたところに、見覚えのある無骨な大剣が突き刺さっていた。
見てみれば、奏蕾も、同じように空から落ちてきた剣をちょうど躱わしたところだった。
……つまり、ここに突き刺さっている剣の数は合計二つ。
それらの剣から、地を這うように影が伸び、やがてそれらは人の形へと変化していった。
そして、変化がおさまった頃には、大剣を手にした動物頭のエネミーが二体、私たちの前に立っていた。
「えー……っと。おかわり、ってこと?」
「……たぶん、そういうこと」
それらが実体を持ち、目の前でゆらりと、各々の得物を構えている間にも。
一定のペースで繰り返すような、奇妙な音は鳴り続ける。
「……情報をまとめたいし、このままだと不利かも知れない。一旦退こう」
「了解! 退却退却ー!」
……幸か不幸か、視線を切るのは容易だし、隠れ場所ならいくらでもある。
不規則に進路を変えながら、私は空を泳ぎ、奏蕾はその羽で空を駆ける。
動き出す寸前に水のタコを使ってちょっとした時間稼ぎをしたこともあってか、森の中で逸れないよう気をつける必要こそあったものの、二体のエネミーを振り切ることは、案外、難しいことではなかった。
「いやぁ、まさか復活するとはねー……」
「……次が湧いてくること自体は、全く予想してなかったっていうわけじゃない。……けど、もしも倒すたびに倍々に増えていくなら、あの場所に留まるのは、あまり賢明じゃない」
エネミーの姿が見えなくなり、少しばかり気持ちを落ち着けながら言葉を交わす。
実際のところ、際限なくエネミーが湧いてくる異界は、それほど珍しいということでもない。
それこそ、奏蕾と出会った時の異界でも、のっぺりとした顔のエネミーたちが、延々と湧き続けていた。
ただ、今回の場合は、倒したらまた出てきたということ以上に、気になることがある。
「あの鐘の音、何なんだろう……? あれが鳴った瞬間、少し力が抜けた気がした」
「……多分、条件付きの捕食効果。花畑を模した異界が、対象に根を張ることでエネルギーを吸い取るように、この異界は、音が鳴った瞬間にだけ、エネルギーを吸うんだと思う」
推定危険度が高いわけだ。
ここは、エネミー徘徊型の異界であると同時に、直接捕食型の異界でもある。
……つまりこの異界は両立型であるということ。
「……おそらく、あの音が鳴る条件は、エネミーが倒されること」
もしも際限なくエネミーが湧いて、それによって無限に鐘が鳴るのなら、どこかで追い詰められることになる。
一体倒して二体が出てきたものの、逃げている間には増える気配はなかった。
倒した時にだけ増える、みたいな感じで何らかの規則性はありそうだから、最低限、そのルールにおおよその予想くらいは立ててから挑みたいところだ。
……それと、未だに鳴り続けている、「カッカッカッカッ……」という音は、結局のところ何なのか。
確認してみても、体力を奪われているわけではないらしいから、余計によくわからない。
「えーっと、ここからどうする……?」
奏蕾が、困ったように私に聞く。
……そうしている間にも、一定間隔で鳴り続ける音は響き、そして遠くからは、重いものを引き摺るような音が二つ、少しずつ着実に近づいてきていた。