亀裂は次第に大きくなり、まるでガラスが割れるかのように星空が割れていく。
砕けた破片が空から剥がれ落ちると、その向こう側から、不気味な何かの姿が現れた。
それの形はシンプルな細長い流線型で、腕や脚どころか目さえどこにも見当たらなかったけれど、しかし、大きな裂け目がひとつだけ備わっていた。
裂け目の縁には、長く鋭利な牙が大量に並んでおり、まるで今にも、私たちを一呑みにしようとしているかのようだ。
……いや、まるで、なんていう言葉は正しくない。
それは明らかに、最初から私たちを直接喰らおうと大口を開けて迫ってきていた。
その大きさから考えれば、たしかに私たち二人を一口に収めるくらいはわけないだろう。
間違いなく、この怪異もどきの本体であり、そして、露わになった本性だ。
「ボー……ン」
「ボー……ン」
「ボー……ン」
狂ったように、鐘の音が鳴り響く。
そこには、これまでここにあった規則性やルールといったものは、もはや微塵も感じられない。
きっと、私たちが突破してきたこの異界のルールは、この怪異もどきにとっては、単なる捕食のための手順でしかなかったのだろう。
これまでここで強制されたエネミーたちとの度重なる戦闘に、そして、幾度となく体力を奪いながら響き渡った鐘の音。
ここまで消耗させれば、あとは大口を開けて迫るだけで全てを終わらせられるだろうとか、そういうつもりでいるのだろうか。
ルールを攻略され追い詰められたくせに、それでもなお、あくまで私たちのことは獲物として見下し、自らを捕食者としか定義していない。
腕や脚といった獲物を狩るような器官を持たず、ただ口しか備わっていないその姿形の意味を、私はそういう風に解釈した。
「ボー……ン」
「ボー……ン」
絶えず、鐘の音は鳴り響き。
さらには、降り注ぐ星空のカケラが不気味で妖しい光を帯びる。
怪異もどきの大きな口は、すぐ目の前まで迫っている。
もはや、この場のどこにもルールなどない。
ただ力あるものが生き残り、力のないものは淘汰される。
……それならば。
今ここに見えている、獲物と捕食者という構造こそが、単なる幻想に過ぎないものではないだろうか。
時が止まったかのような刹那の瞬間、私の足元から、その大きな体躯を持つ怪異もどきをも収められる巨大な鯨の顎門が、地面すらも呑み込む勢いで現れた。
「おおー……」
私や奏蕾を、巻き込みながら。それは、上空から迫って来ていた怪異もどきを一呑みにした。
視界に、影が落ちて暗転する。
次の瞬間には、私たちの周りには重い静寂が満ちていた。
……鐘の音は、もう聞こえない。
星空のカケラも、どこにもない。
さらには、木々の影さえ見当たらない。
ただただ、深くて、暗いところ。
ここには、いくら見渡したところで何もない。
ただ水の概念だけで満たされた、深海だ。
私のフィールド魔法によって、空間そのものを上書きした。
その異様な雰囲気に気が付いたのか、怪異もどきは直前で動きを止めて、警戒するかのように距離を取った。
目は備わっていないように見えるけれど……こうした環境の変化に気付けるだけの感知能力はあるようだ。
「これは、う……じゃなくて、ディープマリンのフィールド魔法、だよね?」
「……うん。そういうこと」
危うく名前を言いかけた奏蕾の言葉に頷きながら、私は弓を構えて、怪異もどきに矢を放つ。
放たれた矢は、渦を纏い、空間に満ちる水を巻き込んでいく。
……いつもなら、溜めが必要なこの大渦の矢だけれど、このフィールドにおいては、必要ない。
このフィールドでは、常に空間に水の概念が満ちている。
「ゴァァァアア」
躱そうとした怪異もどきの身体を、大渦が削ったその時には、既に、私は次の矢を放っていた。
「……えーっと、わたしは、どうしたらいいかな?」
大技を連射できるのは、このフィールドの大きな利点。
けれど、味方が敵に下手に近づいたら撃った技に巻き込みかねないというのは、もしかしたら難点と言えるのかも知れない。
私のフィールド魔法を使った技には、こういう範囲攻撃が多くある。
連携を意識するなら、こういう点でもう少し工夫してみるのも検討したほうがいいだろうか。
「……適当に、ビームでも撃ってて」
「はーい、了解! ブラスト・ロア!」
大渦の乱射に、奏蕾の手のひらから放たれた熱線が加わっていく。
放たれた熱線は、怪異もどきの喉元へと命中した。
奏蕾にはこうして遠距離で攻撃する手段もあるから、私がこうしている間ずっと何もすることができないということにならなかったことは、ひとまずよかった。
見ているだけだともどかしいだろうとか、そういうことだけでなくて。単純に、二人で攻撃できるのなら、その方が効率がいいということ。
……と。そうこうしているうちに、数多の渦と熱線により怪異もどきの身体は削れていき、明らかに、その動きは最初と比べて鈍くなった。
そろそろ、とどめ。
この戦いを終わらせよう。
矢を放つ手を止めて、私は手のひらを前に突き出す。
そして強く握りしめると、それと同時に、怪異もどきの動きが止まった。
それは、ただ動きが固まっているわけではない。
水圧によって全身を捕えられ、全方位から加わる大きな力によって、徐々に、その形はひしゃげて捻れていく。
「つかまえた。最後の一撃、遠隔で撃てる中で、最大の技を」
「まっかせてー!」
奏蕾が何もしなくても、水圧の力によって怪異もどきを討伐することはできていたかも知れないけれど。
せっかくなら、華々しく倒してみてもいいだろう。
奏蕾の周りに、四つの小さな魔力の球が、浮かび上がる。
「ゴ……ガァァ……ア」
少しずつ、奏蕾の魔力の球が大きくなっていく間、固まっている怪異もどきの形が、少しずつ圧縮されて潰れていく。
「クアドラプル・コリジョン・エクスプロード・ロア!」
もう少しで、怪異もどきが完全に崩れ去っていたであろう、その瞬間。
技名を叫ぶ奏蕾によって、先ほどよりも明らかに大きくなった四つの魔力の球が放たれて、それらは全て、一斉に怪異もどきへと迫っていく。
……そして、直後。
それらは怪異もどきの目の前で衝突し、大きな爆発を生み出した。
爆炎が晴れると、怪異もどきの身体がボロボロと崩れていき、形を失っていくところだった。
「……これで、おしまい」
私はそう言いながらフィールド魔法を解除して、それによって、深海の景色はゆっくりとぼやけるように消えていく。
魔法が完全に消え去ると、そこは鬱蒼とした森の中ではなく、古びた洋館の一室に戻っていた。
つまり怪異もどきは確かに倒すことができ、同時に、異界は破ることができたということ。
部屋の一角には埃を被った柱時計があり、壁には動物の頭の剥製が並んでいる。
絨毯の上には煌びやかな装飾の施された机が置いてあり、もしかしたらここが館の主人が使っていた部屋なのではないかと想像させる。
……まあ、高級路線の宿泊施設として利用されていたらしいし、実際にそういう部屋だったというわけではなく、あくまで「そういうコンセプトの客室のひとつ」というだけだったのかも知れないけれど。
「お疲れさま、スカイスケイル」
「うん! お疲れさま、ディープマリン!」
内心で無事に終わったことを安堵しながら、互いを労う。
そして、それからはねたぬきの方を見る。
精霊には特殊な護りがあり、契約している魔法少女が生きている限りは、外的な要因によって傷を負ったり体力を消耗させられたりすることはない。
……しかし、それはそれとして今回は移動することが多かったから、ずっとついて来て、私たちの姿を視界に収め続けるのはそれなりに大変だったことだろう。
今も、その視界の映像は、配信映像として流れているはず。
「……ご視聴、ありがとうございました」
「あ! えーっと、チャンネルの登録とか、高評価とか! コメントとかもできたらしていってくれると嬉しいなー!」
挨拶をして締めようとしたら、奏蕾がまるで補足するように言葉を挟んだ。
私は、どうせそういう反響は見ないけれど。
……まあ、奏蕾が欲しいというのなら。
そういうことを口にするのを、わざわざ止める理由もない。
私たちの言葉の後、はねたぬきが小さく頷く。
いつもの、配信を終了した合図だ。
「……配信、切った?」
ただ、それはそれとして念のため、一応言葉でも確認をする。
「もちろんだッチ。今回の配信、かなりいい感じだったッチ! 二人とも、お疲れさまだッチ!」
はねたぬきが、労いの言葉をかけてきた。
……なんだか、ようやく、無事に終わったんだという実感を得たような気分だ。
私たちは、それぞれ変身を解除した。
「外は、明るいね」
カーテンを開けながら、奏蕾が言う。
部屋にあった柱時計は止まっているけれど、スマホの時計を見れば、たしかに時間はまだ昼間だ。
奏蕾が開けたカーテンの間から、眩しい光が差し込んでくる。
太陽そのものは雲の向こうに隠れているけど、それでも、暗い場所に慣れた目には、十分眩しいように思えた。
「……帰ろうか。あと、部屋のものはあまり触らないように。一応、全部他人のものだから」
「あ、そっか。そうだよね」
カーテンを開いたまま、奏蕾はそこから手を離す。
「まあ、このくらいならそこまで神経質になるようなことでもないとは思うけど……一応。ところで、昼ご飯は、何か食べたいものでもある?」
「うーん、そうだねー……じゃあ、ラーメンっていうの、食べてみたいかも」
もしかして、また漫画か何かで見たのだろうか。
この辺りであれば、飲食店はおおよそ調べなくても知っている。
たしか、少し歩けば何店舗かあったはずだ。
一言にラーメンと言っても、色々な種類がある。
もしかしたら並んでいるかも知れないけれど、色々な系統のラーメンを出す店もあったはずだから、とりあえずはそこに向かってみることにしよう。
「……それなら、いい店がある」
「おおー! いいねいいね!」
洋館を後にして、私たちは歩き始める。
……その瞬間。ふと、後ろから視線を感じたような気がした。
洋館の方を見てみるけれど、窓のカーテンは全て閉まっている。
……? 気のせい、だろうか。
「ラーメンって色々あるッチよ? ボクは食べたことないけど、何にするか考えておいた方がいいッチ」
「えー? そうだねー……っていってもどんな種類があるかわかんないから、着いたら考えようかなあ」
まあ……変なことを気にしても仕方がない。
気持ちを切り替えて、私は前を向いて歩き直す。
とりあえず、はねたぬきと奏蕾の会話を聞きながら、私は着いたら味玉を乗せた豚骨ラーメンと半チャーハンでも頼もうということを決めた。