「あれ? もしかして、なんか見えない天井みたいなのがある?」
「……もしかしたら、この異界は、極端に狭いのが特徴なのかも」
上流から流れてきた人影を避けるため、空中でさらに上昇しようとしたところ、奏蕾が言ったように、途中で何かにぶつかるような感覚があった。
そもそも異界というのは無限の広さを持ち得るものではない。
探索中に壁や天井のようなものにぶつかること自体は、まあまあある。
けれど……ここまで天井が低いのは、少し珍しい。
とはいえ天井の高さはどうすることもできないので、私たちはそのまま、流れてくる人影を待ち受ける。
まずは、特に何もせずに様子を見る。
この異界が何をしてくるのか把握するため、明確かつ直接的な何かをしてくるまでは、観察に徹して情報を手に入れたい。
「今更だけどさ、ディープマリンの力でこの川の流れって止めたりできるの?」
「……かなり難しい。自分で作った水じゃないから魔力を浸透させる工程が必要だけど、こういう形だと、力の影響下に置く前に流れていっちゃう」
これがもし、大きな湖や海の中なら話は違っていただろう。
……私の魔法と異能は、どちらも、勢いの強い流水が弱点である。
逆に言えば一度止めてさえしまえれば話は変わってくるということでもあるけれど、そこまでしてこれを止める必要があるのかどうかはわからない。
天井が低いとはいえ、今みたいに、浮き上がって水の流れを無視すること自体はできるわけだし。
話している間に、人影はすぐ近くまで迫ってきていた。
大量のそれらは、まるで何かを掴もうとしているかのように水面へと手を伸ばしている。
改めてよく見たところ、指の形や、肘の形状など、どれも、関節部分がまるでマネキンのような球体になっていることがわかった。
流されてくるマネキンの手は、しかし、腕の長さが足りていなかったようで。
私たちの足先を掠めることもなく通り過ぎ……そのまま、下流の滝へ流されていった。
……しかし、単純に数が多い。
気が付けば、上流側も下流側も、川のどこを見ても水面から手が生えているような状態だ。
それも、一度どれかに掴まれれば、そのまま一緒に滝から落ちていくことは容易に想像することができる。
これでは、迂闊に水面に近づくことはできないだろう。
「ねえねえ、滝から落ちても飛んだら戻ってこれるかな?」
「……わからない。見た通りの空間の構造なら戻れるだろうけど、ここは異界だから。そう上手くいかなくても不思議じゃない」
滝の下が、人体でいうところの消化器官のような構造になっていても不思議ではない。
少なくとも、こうも露骨なまでに滝の下に引き摺り込もうとしているのだから、警戒しておくに越したことはないはず。
「とりあえず、こいつら一回攻撃してみよう。エネミーなら、倒し続けてれば怪異もどきは消耗するはず」
手を伸ばすだけ伸ばして特に動かすような様子を見せないし、そもそも何もしなくても勝手に滝から落ちていっているわけではあるけれど、それでも、やってみる価値はあるだろう。
「おっけー! わかっ──うわわ! っと!」
私が弓を構え、奏蕾が私の言葉に返事をしようとしたその瞬間。
突然、流れてきていたマネキン人形のようなものが一体、急に動き出して、飛んでいる奏蕾に向かって飛びかかった。
奏蕾は、反射的にそれを叩き落とすことに成功し、無事、掴まれずに済んだ。けれど、それはあまりにも唐突だったものだから、見ていた私も少し驚いた。
川に落ちたマネキンは、無表情ではありながらもまるで睨みつけるようにこちらを見た。
そして、それはそのまま、流れに従って滝の下へと落ちていった。
「……とりあえず、改めて」
ひとまず、気持ちを切り替えて。
私は構えていた矢を放ち、適当なマネキンの手を撃ってみた。
「ようし、いっくよー! ブラスト・ロア!」
奏蕾もまた、手のひらから熱線を放ち、流れてきたマネキンの手を焦がす。
……しかし、結果としては、特に何も起こらなかった。
手のひらに穴が開いたものも、黒く焼け焦げたものも、どちらもそのまま、ただただ下流へと流れていった。
とすると、全てのマネキンが動くというわけではないのだろうか。
というよりも、もしかしたら……。
「……! 捕まえる」
考えていたら、突然またマネキンの一体が跳ねるように飛び上がり。
今度は、私を狙ってきた。
……しかし、流水を操れなくても、魔法や異能が封じられたわけではない。
私とそのマネキンの間に水のクラゲを作り出し、無数の触手で絡み取る。
「……砕いて」
動きを封じたマネキン……いや、エネミーに、たった今出現させた水の鮫が大口を開けて迫る。
そしてそのエネミーは……それに対して何もできなかった様子で、そのまま、大きな牙と顎によって乱雑に噛み砕かれた。
破片が飛び散る。
やがてそれは、川に落ちる前に消滅した。
「おっ! 何か起こり始めた……?」
破片が消えていった直後、大きな地鳴りのような音が、鳴り響いた。
……そして。
「うわぁ! ちょっとだけ川の水が増えたみたいだよ!」
おそらく、視聴者の人に向けてだろう。
奏蕾が、一目見てわかることをわざわざ言葉にして解説した。
明らかな、増水。それに伴い、流れてくる数多のマネキンたちの手も、少しだけ、私たちの足に近づいた。
……状況は、少しばかり悪化した。
けれど、これで大まかな仕掛けは理解できた。
おそらく、大量のニセモノの中に本物のエネミーが紛れて、襲ってくる。
倒せば水が増し、そして最終的にはおそらく本体が姿を現す……と、思われる。
現れるエネミー自体は弱いし、この予測が正しかったのなら仕掛けさえも単純だけれど、もしも、私たちみたいに空を飛べないような人がここに巻き込まれたら……きっと、何もできなかったことだろう。
「……とりあえず、襲ってくるマネキンを倒していこう。それ以外は、そもそもエネミーじゃないから、攻撃しても意味がない」
「了解! わかったよ!」
水が増えるだけで本体が出て来なかったらどうするか。
それについては一応、事前に私たちの周りだけでも魔法による水の概念で満たしておけば、なんとかなるはず。
「お! 早速来たねー! ブラスト・ロア!」
私が、一人でその時の準備をしている間。
奏蕾が、飛びかかってきていたエネミーを正確に捉え、熱線によって焼き焦がした。
そのエネミーは、また砕け散るように消えていき。
そして、それから再び川の水位が上昇した。
流れてくる手の指先が、わずかに私たちの足先を掠めていく。
……このペースなら、あと数回で、この空間は完全に水没することになるだろう。
しかし、既にその対策はおおよそ完了している。
私たちの周囲は、概ね、私の支配下にある。
私たちは、次が来るのを構えて待つ。
……なんだか、まるで漁か釣りでもしているみたいな気分だ。
「……きた」
そのまま少し身構えていると、また同じようにエネミーが襲いかかってきた。
水位が高くなっているせいで、飛びかかってきたことを認識してから反撃するまでに与えられる猶予が少なくなっているような感じはあるけれど、それ以外は、さっきまでの繰り返しでしかない。
私が少し横に体をずらしてそれを避けると、エネミーは勢いそのままに、ちょうど私の背後に隠れるような位置にいた、水の鮫の大口に呑まれて、あっさりと噛み砕かれた。
大きな唸り声のような地響きの重低音が響き渡り、さらに水位が増していく。
ここまで来ると、流れてくるマネキンの手を、一つ一つしっかりと躱わしていく必要がある。
「うーん、そろそろでしょ! コリジョン・ロア!」
次が来るのを待ちながら、数多の手を避け続けていると。
唐突に、奏蕾が流れてきていたマネキンに向けて、二つの魔力球を放った。
衝突した魔力球は、そこで小規模な爆発を起こし、そこに巻き込まれたマネキンのうち一体が、砕けるように消えていった。
「なにか、わかった?」
「いや、なんとなく」
「……そっか」
まあ、こういう時に雑に攻撃するのが手っ取り早いのは間違いない。
それにここまで水位が高いと、エネミーの動きを見てから攻撃すると手遅れ気味になりかねないし、判断としては正しいと言うべきかも知れない。
更なる水位の上昇が起こる直前、私は、周囲に球体状の水の壁を作り出す。
それによって、私たちの周囲を避けるような流れが生まれ、水面辺りは、まるで半球状のクレーターができたかのようになった。
……水の流れそのものを止めることは難しいことかも知れないけれど、流れを逸らすだけなら、案外、それほど大変なことではない。
さらに、これは想定していなかったことではあるけど、水流が私たちの足元を避けるような形になったことによって、マネキンもまた左右に流され、避けなきゃいけない手の数がかなり減った。
単純な水位としては既に、限界まで高度を確保している私たちの腰の辺りまで来ている。先に対策を取った判断は、やっぱり間違いではなかったようだ。
このペースなら、おそらく、次かその次くらいで、この空間は完全に川の流れで満たされるだろう。
「……今度は、私が」
言いながら、水の壁を抜けるようにして半透明の鮫が大口を開けて川へ飛び込む。
激流を裂くように泳ぎ、それは手当たり次第にマネキンたちを噛み砕く。
少し経った頃には、マネキンではなく残骸が流れてくるようになった。
……そして。
激しい地鳴りによって空間全体が震え、次の瞬間、視界全てを埋め尽くすような激流が目の前から向かってきた。
周囲は、全て流れる水で覆われた。
……もはや、私たちを覆う水の球体の中を除いて、まともに移動できる場所はどこにもないだろう。
そうして、私たちの背後……下流の方から、ゆっくりと何かが迫ってきている。
影のように真っ黒な胴体を持ち、何かの小さな頭をちょこんと乗せたそれは、その黒い胴体の部分に、まるで大穴のような口が備わっていた。
胴体の先には長い四本か五本ほどの触手のようなものが伸びており、その先端は、まるで人間の手のような形になっている。
よくよく見てみれば、その長い腕と手で、器用に天井と水底を這うようにして動いているようだ。
「……間違いない。これが、本体」
魔力の流れを見れば、わかる。
激流に逆らいながら、それが私たちのもとへと辿り着いた、その瞬間。
水底から、それよりもさらに大きな鯨の顎門が出現し、私たちと、その怪異もどきを呑み込んだ。