Chronicle 作:頭の中の世界を書き出したい
いつもの朝。
ゲームの物語が始まるまで、あと五年。
けれどカイルにとって、
この五年間はただの待ち時間ではありません。
レオンと遊んで。
村の人に怒られて。
フェンに振り回されて。
そんな何でもない毎日もまた、
カイルがこの世界で生きる物語の一部です。
カンッ!
乾いた音が、
朝の広場に響いた。
「っしゃ!」
嬉しそうな声を上げたのは、
レオンだった。
その手には一本の木剣。
そして。
「……いってぇ」
カイルは右手をぶらぶらと振りながら、
地面に転がった自分の木剣を見る。
まただ。
今日だけで、
もう三回。
「これで三勝!」
レオンが木剣を肩に担ぐ。
ものすごく嬉しそうだ。
その顔が。
ものすごく腹立たしい。
「まだ終わってない」
カイルが言うと、
レオンは地面に落ちた木剣を指さした。
「終わってるだろ。
カイルの剣、そこに落ちてるぞ」
「拾えば続けられる」
「それ、何でもありじゃないか?」
「実戦だったら武器を落としても、
敵は待ってくれないだろ」
「実戦だったら、
今のでカイル死んでると思うぞ」
「…………」
こいつ。
正論を。
「もう一回」
「四回目?」
「もう一回!」
「はいはい」
レオンが笑う。
カイルは地面から木剣を拾った。
前世の記憶があるんだから。
十歳の子ども相手に、
何を本気になっているんだ。
そんな考えが、
一瞬だけ頭をよぎる。
「次で四勝目だな」
レオンが笑った。
「…………」
訂正。
絶対に勝つ。
「何だよ、その顔」
「別に」
カイルは木剣を構えた。
前世の記憶があっても、
剣の腕まで引き継げるわけじゃない。
そもそも前世では、
本物の剣なんて握ったこともなかった。
ゲームでどれだけ敵を倒していても、
それは画面の向こうの話。
実際に身体を動かせば。
レオンの方が強い。
それが。
悔しい。
「行くぞ!」
カイルが地面を蹴った。
「来い!」
レオンが木剣を構える。
正面。
カイルは木剣を振る――。
と見せかけて。
「おっ?」
レオンの木剣が動いた瞬間、
カイルは身体を横へずらした。
空振り。
いける。
「もらった!」
カイルがレオンの脇へ、
木剣を振り込む。
パシッ!
「え?」
止められた。
レオンが木剣の柄に近い部分で、
カイルの一撃を受け止めている。
「惜しい!」
「なんで!?」
「なんとなく来る気がした」
「なんとなくで止めるな!」
「分かったんだから
しょうがないだろ!」
レオンが笑う。
次の瞬間。
「あ」
木剣が迫ってきた。
カイルは慌てて身体を引く。
ブンッ!
鼻先を木剣が通過した。
「危なっ!」
「避けた!」
「喜ぶところか!?」
レオンがもう一度、
木剣を振る。
今度は下。
カイルは跳んだ。
着地。
そのまま木剣を突き出す。
レオンが身体をひねる。
外れた。
「ちょこまかと!」
「まともにやったら
勝てないからな!」
「自分で言った!」
「勝てばいいんだよ!」
まともに打ち合えば、
レオンの方が強い。
だったら。
考える。
相手を見る。
動きを読む。
ゲームだって、
強い敵を相手にする時は同じだった。
相手の行動。
攻撃の順番。
弱点。
何度も挑んで。
少しずつ攻略法を見つける。
レオンが右へ踏み込んだ。
来る。
カイルは左へ――。
「そこ!」
「うわっ!?」
読まれた。
レオンの木剣が、
カイルの木剣を下から弾く。
手から離れた木剣が。
くるくると宙を回り。
ぽすっ。
地面へ落ちた。
「…………」
「…………」
レオンが笑った。
「四勝」
「……もう一回」
「まだやるの!?」
「次は勝つ」
「さっきも聞いたぞ」
「次は本当に勝つ」
「それも聞いた」
「うるさい!」
その時だった。
「お前ら!」
広場の外から、
太い声が飛んできた。
二人揃って振り返る。
そこに立っていたのは、
腕を組んだ大柄な漁師だった。
昨日も港で、
カイルに手伝えと言ってきた男だ。
「朝っぱらから元気なのはいいが、
そこで遊ぶなら周りを見ろ!」
「周り?」
カイルとレオンが振り返る。
広場の端。
積まれていた樽の一つが、
見事に倒れていた。
「…………」
「…………」
どうやら。
さっきカイルが攻撃を避けた時に、
ぶつかったらしい。
「カイル」
レオンが小声で呼ぶ。
「何?」
「カイルが倒した」
「…………」
「俺、見てた」
「レオン」
「何?」
「逃げるぞ」
「おう」
二人は同時に走り出した。
「待てぇぇぇ!」
後ろから、
漁師の怒鳴り声が響いた。
◇ ◇ ◇
「カイル、そっち!」
「分かってる!」
二人は村の道を駆け抜ける。
後ろから。
「止まれぇぇぇ!」
さっきの漁師の声が追ってくる。
「なんで俺まで
逃げてるんだよ!」
走りながらレオンが叫ぶ。
「一緒にいただろ!」
「樽を倒したのカイルだろ!」
「親友だろ!」
「またそれかよ!」
二人で角を曲がる。
朝の村は、
もうすっかり動き始めていた。
洗濯物を干していた女性が、
二人を見て呆れた顔をする。
「また何かやったの?」
「何もしてない!」
カイルが走りながら答える。
「樽倒した!」
レオンが続ける。
「言うなよ!」
「嘘はよくないだろ!」
「逃げながら言う台詞じゃない!」
女性の笑い声が、
二人の後ろへ流れていく。
次の角。
勢いよく曲がろうとして。
「わっ!」
カイルは慌てて足を止めた。
目の前に、
籠を抱えた老婆が立っていた。
「ご、ごめん!
ばあちゃん、怪我ない?」
「ああ、大丈夫だよ」
老婆は驚くどころか、
楽しそうに笑っている。
「朝から元気だねぇ」
「ちょっと色々あって……」
カイルが誤魔化すように笑う。
「そうかい、そうかい」
老婆は頷いた。
そして。
「そんなに元気なら、
ちょうどよかった」
「え?」
ずしっ。
老婆が抱えていた籠を、
カイルへ渡した。
「重っ!?」
中を見る。
芋。
芋。
芋。
山ほど入っている。
「これ、倉まで頼むよ」
「いや、ばあちゃん。
俺たち今ちょっと――」
「カイル!」
坂の下から、
聞き覚えのある太い声が響いた。
「げっ」
カイルとレオンが、
同時に振り返る。
さっき広場にいた漁師が、
坂の下からこちらへ歩いてきていた。
完全に撒いたつもりだったのに。
どうやら。
普通に追いつかれたらしい。
「やっと追いついたぞ!」
漁師が二人を見つけ、
大股で坂を上ってくる。
「樽を倒して逃げるとは、
いい度胸してるじゃないか!」
「…………レオン」
カイルが小声で呼ぶ。
「何?」
「半分持って」
「なんで!?」
「もう逃げるの無理そうだから」
「芋と樽は関係ないだろ!」
「こういう時は、
反省してる感じを出すんだよ」
「それ反省してないだろ!」
「しっ!」
漁師が二人の目の前までやって来た。
カイルとレオンの背筋が、
同時に伸びる。
「お前ら」
「はい」
カイルが答える。
「はい」
レオンも続く。
「逃げるくらい元気があるなら、
まずそのばあさんの手伝いをしてこい」
漁師が籠を指さした。
「……樽は?」
カイルが恐る恐る尋ねる。
「その後だ」
「やっぱりあるの!?」
漁師の大きな笑い声が、
坂道に響いた。
◇ ◇ ◇
「なんでこうなるんだ……」
しばらくして。
カイルは芋の入った籠を抱え、
村の坂道を歩いていた。
隣にはレオン。
こちらも芋を抱えている。
「逃げなきゃよかったんじゃないか?」
レオンが言う。
「お前も逃げただろ」
「カイルが逃げるって言うから」
「でも逃げた」
「逃げたな」
「共犯だ」
「樽倒したのはカイルだけどな」
「そこは忘れよう」
「なんで?」
「友情のために」
「便利だな、友情」
坂を上る。
はじまりの里は、
海に面した斜面に広がっている。
下へ行けば港。
少し上には家々。
さらに上には畑。
その先には、
緑の丘と森が続いている。
大きな村ではない。
端から端まで歩いたところで、
それほど時間はかからない。
カイルは、
この村の道をほとんど全部知っている。
どの家に誰が住んでいるか。
どの木の実が甘いか。
どこの塀なら登っても怒られないか。
どこの塀を登ると、
ものすごく怒られるか。
十年間。
ここで生きてきた。
ゲームでは、
ほんの小さなマップだった場所。
けれど。
カイルにとっては。
十年分の思い出がある場所だ。
「カイル」
レオンが隣から呼ぶ。
「ん?」
「腹減った」
「俺も」
ちょうどその時。
ふわり。
いい匂いがした。
二人の足が止まる。
「…………」
「…………」
顔を見合わせる。
焼きたてのパン。
間違いない。
二人は同時に、
匂いのする方を見る。
小さな店。
開け放たれた窓から、
焼き上がったばかりのパンが見える。
「カイル」
「分かってる」
「一個だけ」
「一個だけだ」
「芋は?」
「少しくらい大丈夫」
二人が店へ向かおうとする。
その瞬間。
「寄り道するんじゃないよ」
背後から声が飛んできた。
二人の足が止まる。
ゆっくり振り返る。
少し離れたところから、
さっきの老婆がこちらを見ていた。
「…………」
「…………」
「倉が先」
「はい」
カイルが答える。
「はい……」
レオンも肩を落とした。
前世の記憶があっても。
こういう時。
何の役にも立たない。
◇ ◇ ◇
荷物を運び終え。
倒した樽も元の場所へ戻し。
ようやく解放された頃には、
二人ともすっかり腹を空かせていた。
「ほら」
パン屋の女性が、
丸いパンを一つずつ差し出した。
「いいの!?」
レオンの目が輝く。
「朝から働いてたんだろ?」
「まあ……」
カイルは、
今日の出来事を思い返す。
木剣で遊ぶ。
樽を倒す。
逃げる。
芋を運ぶ。
樽を戻す。
「結果的には働いた」
カイルが答えると、
パン屋の女性が笑った。
「なら同じさ」
「ありがとう!」
レオンは受け取ると、
すぐにパンへかぶりついた。
「うまっ!」
「早っ!」
カイルも一口。
表面は少し固い。
けれど。
中は柔らかく。
噛めば、
ほんのり甘い。
「……うまい」
「だろ?」
なぜかレオンが得意げだ。
「お前が作ったんじゃないだろ」
「知ってる」
二人は店先に腰掛け、
パンを食べた。
目の前の道を、
村人たちが行き交っている。
魚を運ぶ人。
畑へ向かう人。
走り回る子ども。
その後ろを追いかける犬。
「平和だな」
カイルが呟いた。
「何が?」
レオンがパンを頬張りながら尋ねる。
「この村」
レオンは辺りを見回した。
「そうだな」
それだけ。
レオンにとって。
これは。
当たり前の景色なのだろう。
カイルにとっても。
今では。
そうだ。
前世の記憶があるからといって。
毎日。
『ここはゲームの世界だ』
なんて考えながら、
暮らしているわけじゃない。
朝起きれば眠い。
腹も減る。
転べば痛い。
母親に怒られれば嫌だ。
レオンに負ければ悔しい。
パンは美味い。
それが。
今のカイルにとって。
現実だった。
それでも。
時々。
思い出す。
五年後。
この村から。
レオンが旅立つことを。
ゲームでは。
はじまりの里を出た主人公が、
世界を巡る旅へ出た。
そして。
カイルは。
ゲームにはいなかった。
「…………」
レオンと約束した。
一緒に。
海の向こうへ行く。
その約束が。
カイルは嬉しかった。
でも。
同時に。
ほんの少しだけ。
気になることもあった。
ゲームにいなかった自分が。
レオンと一緒に旅へ出て。
本当にいいのだろうか。
自分がいることで。
知っている未来まで。
変わってしまうんじゃないだろうか。
「カイル?」
レオンの声で、
カイルは我に返った。
「ん?」
「パンいらないなら、
もらっていい?」
「誰がやるか」
カイルは残っていたパンを、
急いで口へ入れた。
「あっ!」
「狙うなよ!」
「考え事してるから、
いらないのかと思った」
「いるわ!」
レオンが笑う。
カイルも笑った。
まあ。
まだ五年ある。
今すぐ。
答えを出す必要なんてない。
そう思った。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
「フェーン!」
レオンの声が、
村の中に響いていた。
「フェンー!」
カイルも名前を呼ぶ。
返事はない。
もっとも。
普段からフェンが、
名前を呼ばれて返事をすることはほとんどない。
それでも。
姿くらいは見せる。
「いないな」
レオンが辺りを見回す。
「朝はいたんだけどな」
カイルも首を傾げた。
いつの間にか。
フェンの姿が見えなくなっていた。
フェンは自由だ。
村のどこにでもいる。
屋根の上。
木の上。
港。
丘。
気づけば誰かの家で、
勝手に寝ていることだってある。
だから。
最初は。
気にしていなかった。
けれど。
「最後に見たの、いつだ?」
カイルが尋ねる。
「パン食べる前……かな」
「その時いた?」
「……いたような」
「俺もいたような気がする」
二人で顔を見合わせる。
「探すか」
レオンが言った。
「ああ」
そこから。
二人のフェン探しが始まった。
◇ ◇ ◇
最初は港。
「フェン見なかった?」
カイルが尋ねると、
網を畳んでいた漁師が答えた。
「朝は網の上で寝てたぞ」
「それいつ?」
「お前らが樽倒す前だな」
「なんでみんな知ってるんだよ……」
「村だからな!」
次はパン屋。
「フェン?」
パン屋の女性が屋根を指さす。
「少し前まで、
あそこにいたよ」
二人で屋根を見る。
いない。
次は畑。
「白い狐なら、
あっちへ走っていったぞ」
農作業をしていた男が、
村の外れを指さした。
二人で走る。
けれど。
いない。
井戸。
広場。
丘。
家の裏。
木の上。
探して。
探して。
「いない……」
カイルが息を切らす。
「フェンって、
こんなに見つからなかったっけ?」
レオンも額の汗を拭った。
いつもなら。
探しているうちに、
どこかでひょっこり姿を現す。
けれど。
今日は。
いない。
「森かな」
レオンが言った。
カイルは顔を上げる。
村の向こう。
木々が並んでいる。
島の奥へと続く森。
「森……」
行ったことがないわけではない。
大人と一緒に入ったこともある。
レオンと二人で、
入口近くを探検したことだってある。
ただ。
大人たちから。
奥へ行くな。
それだけは。
何度も言われていた。
迷うから。
そして。
ごく稀に。
魔物が出るから。
「どうする?」
レオンが尋ねる。
カイルは森を見る。
フェン。
森。
探索。
魔物。
「…………」
まずい。
ほんの少し。
いや。
かなり。
わくわくしている。
前世の記憶が警告する。
十歳の子ども二人だけで。
魔物が出る可能性のある森へ入る。
普通に考えれば。
駄目だ。
危ない。
大人を呼ぶべきだ。
分かっている。
分かっているのに。
目の前には。
本物の森。
その奥には。
まだ知らない場所。
ゲームでは。
はじまりの里の周辺にも、
序盤用のフィールドがあった。
弱い魔物。
素材。
最初の戦闘。
でも。
ここは。
ゲームじゃない。
そんなことも。
分かっている。
「……カイル?」
レオンが、
カイルの顔を覗き込む。
「なんか楽しそう」
「そんなことない」
「笑ってるぞ」
「フェンが心配なだけだ」
「絶対嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ大人呼ぶ?」
「…………」
正論。
完全な正論。
カイルは森を見る。
それから。
レオンを見る。
もう一度。
森を見る。
「入口だけ」
「え?」
「森の入口だけ探す」
「奥には行かない?」
「行かない」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「行かない!」
レオンが笑った。
「じゃあ行こう!」
「おう!」
二人は森へ向かって歩き始めた。
その途中。
カイルは少しだけ思う。
前世の記憶がある。
ゲームの知識もある。
だから。
自分は。
もう少し慎重に行動できると思っていた。
でも。
どうやら。
知識があることと。
その通りに行動できることは。
まったく別らしい。
「カイル、早く!」
前を走るレオンが振り返る。
「待てよ!」
カイルも走る。
そして。
村の端。
二人は森の入口に立った。
目の前には。
木々の隙間から伸びる、
細い道。
何度も入ったことのある森。
なのに。
今日は。
少しだけ違って見えた。
探すものがある。
目的がある。
その先に。
何があるのか分からない。
カイルの胸が。
高鳴った。
「行くぞ、レオン」
カイルが言う。
「うん!」
レオンが頷く。
二人は。
一歩。
森へ踏み込んだ。
◇ ◇ ◇
木漏れ日が揺れていた。
村から少し離れただけなのに、
聞こえる音が変わる。
波の音は遠くなった。
代わりに。
葉が擦れる音。
鳥の鳴き声。
風が木々を抜ける音。
足元では、
乾いた枝がぱきりと折れる。
「フェーン!」
レオンが呼ぶ。
返事はない。
「どこ行ったんだ?」
「自由すぎるんだよ、あいつ」
「カイルの頭で寝てたくせにな」
「思い出させるな」
二人は道を進む。
まだ。
村からそれほど離れていない。
見覚えのある場所だ。
大きな岩。
妙な方向へ曲がった木。
「あ」
レオンが声を上げる。
「ここ覚えてる?」
「忘れるわけないだろ」
カイルは笑った。
「秘密基地」
「そう!」
「三日で壊れたけどな」
「カイルの作り方が悪かった」
「お前が屋根に乗ったからだろ!」
「乗れると思ったんだよ」
「枝三本だっただろ!」
「あの時は大丈夫だと思った」
「どこがだよ!」
二人で笑う。
そして。
さらに進む。
「……ん?」
カイルが足を止めた。
「どうした?」
レオンが尋ねる。
「これ」
カイルが地面を指さした。
柔らかい土の上に、
小さな足跡が残っている。
カイルはしゃがむ。
「フェンのかな」
「たぶん」
レオンも隣にしゃがみ、
足跡を覗き込む。
足跡は。
森の奥へ続いている。
「…………」
カイルは森の奥を見る。
ここから先は。
いつも遊んでいる範囲より、
少し深い。
「どうする?」
レオンが聞く。
さっき。
自分で言った。
入口だけ。
奥には行かない。
「…………」
カイルは足跡を見る。
フェンのものかもしれない。
その先を見る。
そして。
「少しだけ」
「やっぱり」
「フェンがいるかもしれないだろ!」
「分かってるよ」
レオンが笑う。
二人は足跡を追った。
一つ。
二つ。
三つ。
少しずつ。
森の奥へ。
やがて。
足跡が消えた。
「あれ?」
カイルが辺りを見る。
「こっちじゃない?」
レオンが草を指さした。
葉が不自然に倒れている。
「よく分かったな」
「なんとなく」
「またそれか」
二人で進む。
もう。
道ではない。
木々の間を抜ける。
草を掻き分ける。
少しずつ。
村から離れていく。
カイルは途中で、
何度か振り返った。
戻れる。
たぶん。
「…………」
たぶん。
その時。
「カイル」
レオンの声が変わった。
「何?」
「あれ」
レオンが地面を指さしている。
カイルも見る。
「…………」
足跡。
でも。
フェンのものではない。
もっと大きい。
三本の爪。
柔らかい土が、
深く抉れている。
カイルの胸が。
どくん。
と鳴った。
知っている。
この形。
前世で。
何度も。
画面越しに見た。
「……魔物」
カイルの声は、
思ったより小さくなった。
ゲームなら。
この辺りに出る魔物は、
序盤の敵だ。
少しレベルを上げれば。
何匹出てきたって、
怖くない。
でも。
今。
カイルが持っているのは、
木剣一本。
防具もない。
自分のレベルがいくつなのかも、
分からない。
そもそも。
目の前に。
ステータス画面なんて、
出てこない。
「カイル」
レオンが小さな声で呼ぶ。
「戻る?」
「…………」
カイルは足跡を見る。
そして。
森の奥を見る。
さっきまで。
あんなにわくわくしていたのに。
今は。
心臓が。
別の意味で。
強く鳴っている。
怖い。
ゲームの知識があるから大丈夫。
そんな気持ちは。
さっきまで。
確かにあった。
でも。
本物の足跡を前にすると。
そんなものは。
簡単に吹き飛んだ。
「……戻ろう」
カイルが言った。
レオンが少し驚いた顔をする。
「いいの?」
「いい」
カイルは頷いた。
「大人を呼ぼう」
「うん」
フェンは心配だ。
でも。
二人で進んで。
何かあったら。
もっと駄目だ。
ゲームを知っているからこそ。
分かる。
序盤の敵だって。
準備もなしに戦えば、
絶対に安全なんて保証はない。
「行こう」
カイルが来た道へ身体を向ける。
その時だった。
ふわり。
風が吹いた。
「……ん?」
森の奥から。
風。
そして。
かすかに。
白いものが見えた。
「フェン?」
レオンが声を上げる。
二人は同時に、
森の奥を見る。
白い影。
一瞬だけ。
木々の間を横切った。
「フェン!」
レオンが走り出す。
「待て、レオン!」
カイルも追う。
少しだけ。
少しだけ先へ。
フェンを連れて。
すぐ戻る。
そう思った。
数十歩。
木々を抜ける。
「フェン!」
白い影。
いた。
少し先。
風狐(ふうこ)が、
こちらを見ていた。
「やっと見つけ――」
カイルの声が止まった。
フェンが。
いつもと違う。
こちらへ来ない。
耳を立てて。
じっと。
森の奥を見ている。
「フェン?」
カイルが、
ゆっくり近づく。
その時。
鳥の声が。
消えた。
「…………」
静かだ。
さっきまで。
あんなに聞こえていたのに。
何も。
聞こえない。
カイルは木剣へ手を伸ばした。
「レオン」
カイルが小さく呼ぶ。
「うん」
レオンも木剣を握る。
フェンの視線。
その先。
草むら。
ざっ。
何かが動いた。
「…………」
カイルの身体が固まった。
ゲームなら。
敵が現れれば。
音楽が変わる。
戦闘画面になる。
名前が出る。
体力が表示される。
コマンドがある。
でも。
ここには。
何もない。
あるのは。
木剣。
十歳の身体。
隣にいる親友。
そして。
草むらの向こうにいる。
何か。
ざっ。
もう一度。
近い。
カイルは木剣を抜いた。
手のひらに。
汗が滲む。
怖い。
でも。
目を逸らせない。
「カイル」
レオンが小さく名前を呼んだ。
「俺が前に出る」
「駄目だ」
カイルはすぐに答えた。
「二人で並ぶ」
「……分かった」
レオンが隣へ来る。
二人の木剣が。
前を向く。
フェンが。
その少し前に立つ。
ざっ。
草が。
大きく揺れた。
何かが。
こちらを見ている。
カイルは。
初めて。
はっきりと理解した。
ここは。
ゲームと同じ世界だ。
でも。
ゲームじゃない。
そして。
画面の向こうでは。
何度も経験したはずの戦いが。
今。
初めて。
自分自身の前に。
現れようとしていた。
【旅の手引き 02】
《森へ入る時の注意》
一、大人に言う。
二、奥まで行かない。
三、魔物の足跡を見つけたら戻る。
今日の俺たちは――。
一。
言ってない。
二。
奥まで来た。
三。
戻ろうとはした。
……三つ目は守ろうとしたから、
まだ大丈夫だと思う。
たぶん。
あと。
ゲームで弱い敵だからって、
本物まで怖くないとは限らない。
これは覚えておこう。