第一話 緑谷出久:人間の原典
世界人口の約八割が、何らかの超常能力を持つ社会。
炎を吐く者。
空を飛ぶ者。
皮膚を鋼鉄へ変える者。
かつては空想の中にしか存在しなかった力は、いつしか当たり前のものとなり、人々はそれを『個性』と呼ぶようになった。
個性の発現とともに犯罪は激増し、それに対抗する存在としてヒーローが制度化された。
人々は個性を持って生まれ、個性を磨き、その力によって社会の中で自分の居場所を得る。
それが現代における、ごく普通の人生だった。
しかし、すべての人間に個性が発現するわけではない。
個性を持たずに生まれる者。
かつては珍しくもなかった、旧人類とほぼ同一の遺伝的特徴を残す者たち。
彼らは現代において、こう呼ばれていた。
――『原典者』。
個性因子に変質していない、人間本来の遺伝子を持つ存在。
百万人に一人とも、一千万人に一人ともいわれる彼らは、医学的にも、歴史的にも、そして宗教的にも極めて特別な存在とされていた。
個性を神から授けられた枝葉とするならば、無個性はすべてが生まれた根。
人間という種のオリジン。
ゆえに、原典者を傷つけることは重罪だった。
本人の同意なく血液や細胞を採取することも、その姿を撮影することも許されない。
政府は専門の保護官を配置し、一部の宗教団体は彼らを現人神として崇めた。
その存在を神聖視するあまり、名前すら口にすることを避ける地域さえあった。
そして緑谷出久もまた、その原典者の一人だった。
「将来の夢、ヒーロー科って本気なのか?」
教壇に立つ担任の問いに、教室が静まり返った。
先ほどまで聞こえていた椅子の軋む音も、誰かが机を叩く音も、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
出久は自分の手元へ視線を落とした。
進路希望調査票。
第一志望の欄には、雄英高校ヒーロー科と書かれている。
何度も消して、何度も書き直したため、紙の表面はわずかに毛羽立っていた。
「はい」
小さいが、はっきりと答えた。
教室の空気が揺れた。
嘲笑ではない。
困惑と、恐怖だった。
「ですが、緑谷君。君は……原典者だろう?」
担任は言葉を慎重に選んでいた。
無個性という呼び方は、現代では差別的な意味を持つとされている。学校教育においても、可能な限り『原典者』の呼称を用いるよう指導されていた。
「原典者保護法では、危険性の高い職業への就労は原則として――」
「禁止されてはいません」
出久は顔を上げた。
その言葉は、何百回も調べた。
法律の条文だけではない。過去の判例、保護委員会の見解、原典者の職業選択をめぐる学術論文まで、すべてノートにまとめてある。
「本人の自由意思が確認され、原典者保護委員会の特別許可が下りた場合に限り、危険を伴う職業にも就くことができます。前例も二件あります。どちらもヒーローではありませんけど……制度上、不可能ではありません」
担任は何も答えられなかった。
代わりに、教室の後ろから机を蹴る音が響いた。
「制度の話じゃねえだろ」
爆豪勝己だった。
掌から小さな火花を散らし、鋭い目で出久を睨んでいる。
幼い頃から見慣れた顔。
けれど、その表情に宿っているのは単純な怒りではなかった。
「かっちゃん……」
「その呼び方すんな」
吐き捨てるように言いながら、爆豪は立ち上がった。
「てめぇ、自分が何なのか分かってんのか?」
「分かってるよ」
「分かってねえから、そんな紙を出せんだろうが!」
怒声が教室を震わせた。
何人かの生徒が怯えたように身を縮める。しかし、誰も爆豪を止めなかった。
止められないのではない。
彼が言わなければ、自分たちが言わなければならなくなるからだ。
「お前が怪我しただけで、学校が潰れるかもしれねえ。お前が死ねば、街中が敵になる。もしヴィランに攫われでもしたら、国が動くんだぞ!」
「僕は、そんなことを望んでない」
「お前が望むかどうかなんざ関係ねえ!」
その一言に、出久の指が震えた。
それこそが、彼の人生だった。
本人の意思とは関係なく、敬われる。
本人の希望とは関係なく、守られる。
幼稚園の頃から、体育の授業には参加できなかった。
転んで膝を擦りむいただけで救急車が呼ばれ、担任教師は半年間の停職処分を受けた。
遠足では出久一人のために警備員が配置された。
運動会で爆豪と同じ組になった教師は、勝負が成立しないよう、出久を最初からゴールの近くに立たせた。
誰も彼を殴らなかった。
誰も彼を蹴らなかった。
その代わり、誰も本気で遊んではくれなかった。
触れてはならない。
傷つけてはならない。
競ってはならない。
人間の原典を、普通の子供と同じように扱ってはならない。
出久はいつも、大切にされながら独りだった。
「それでも」
震える指で進路希望調査票を握り締める。
「それでも僕は、ヒーローになりたい」
教室の誰もが息を呑んだ。
爆豪の眉間に、深い皺が刻まれる。
「人に守られるだけじゃなくて、僕も誰かを助けたいんだ」
「個性もねえのにか?」
「うん」
「敵に触られただけで、そいつの罪が重くなる。お前を庇ったヒーローが負傷すれば、お前のせいだって騒ぐ連中が出る。それでもか?」
出久はすぐには答えられなかった。
爆豪の言葉は正しい。
優しさから出た言葉ではないかもしれない。
だが、嘘ではなかった。
出久が戦場へ出れば、周囲は彼を守ろうとする。たとえ一般市民が危険に晒されていても、原典者である出久の救助が優先される可能性さえある。
自分がヒーローになることで、誰かを危険に晒すかもしれない。
それは、何度も考えたことだった。
「それでもだよ」
出久は爆豪を見た。
「僕が何もしなくても、僕を守るために誰かが傷つく。だったら僕は、守られるだけの人間ではいたくない」
爆豪の掌で、爆ぜかけていた火花が消えた。
「僕を守ってくれる人を、僕も守れる人になりたい」
それは、教室にいる者たちが初めて聞く、緑谷出久自身の願いだった。
原典者の言葉ではない。
神聖な象徴の託宣でもない。
ただヒーローに憧れた、一人の少年の言葉だった。
「……勝手にしろ」
爆豪は乱暴に椅子へ座った。
「ただし、雄英を舐めんな。神輿に乗ってるだけの奴が合格できるほど、甘い場所じゃねえぞ」
「うん」
「俺も雄英を受ける」
担任が目を丸くした。
教室の生徒たちもざわめき始める。
出久だけは驚かなかった。
爆豪勝己が、誰よりも強くヒーローを目指していることを知っていたからだ。
「受かるのは俺だ。てめぇが原典者だろうが何だろうが、推薦された程度で俺より上に行けると思うなよ」
「あ、僕は推薦を受けないよ」
再び教室が静まり返った。
今度は、爆豪まで目を見開いた。
「……あ?」
「原典者特別推薦は辞退した。一般入試を受ける」
「てめぇ……」
爆豪の顔が引きつった。
担任が慌てて教卓を叩く。
「待ちなさい、緑谷君! 特別推薦なら実技試験を免除されるんだぞ! 原典者研究枠として確実に雄英へ――」
「それはヒーロー科へ入るための推薦ではありません」
出久は静かに答えた。
「原典者を雄英の管理下で保護するための推薦です」
誰も否定できなかった。
「僕は保護されるために、雄英へ行くんじゃありません」
出久は進路希望調査票を胸元へ引き寄せた。
中央には、幼い頃から憧れ続けた学校の名前がある。
「ヒーローになるために行くんです」
その日の放課後。
出久は校門を出たところで、黒いスーツに身を包んだ二人の保護官と合流した。
いつもどおり、一定の距離を保ちながら彼の前後を歩く。
通行人は出久に気づくと道を空けた。
胸元に付けられた、白地に赤い円の徽章。
政府に登録された原典者であることを示す印だった。
頭を下げる者がいた。
両手を合わせる者もいた。
涙を流し、幼い子供を出久の方へ向ける母親もいた。
「原典様」
すれ違いざま、老婆が震える声でそう呼んだ。
出久は足を止めかけたが、保護官に促されて歩き続けた。
振り返ることは許されない。
原典者が特定の信仰者へ個人的な反応を示せば、それが新たな教義として利用される恐れがあるからだ。
出久は俯き、自分の靴だけを見つめた。
少し大きめの、赤いスニーカー。
その足で、誰かのもとへ駆けつけたい。
誰かが助けを求めている時、保護官の背後へ隠れるのではなく、自分が前へ出たい。
その夢だけは、誰にも祀らせたくなかった。
橋の下へ続く暗い道に入った時だった。
背後から、何かが弾けるような音がした。
反射的に振り返る。
二人いたはずの保護官のうち、一人が壁へ叩きつけられていた。
もう一人の身体には、濁った泥のような物体が絡みついている。
「緑谷様! お逃げください!」
叫びと同時に、泥の塊が出久へ襲いかかった。
巨大な眼球と口だけが、液体の中から浮かび上がる。
「こいつは運がいい! まさか原典者が一人で歩いてやがるとはな!」
一人ではない。
保護官がいる。
周囲には監視カメラもある。
緊急信号はすでに警察と近隣のヒーロー事務所へ送られているはずだ。
出久の頭は、恐怖に震えながらも状況を分析していた。
逃げなければ。
自分が捕まれば、保護官たちも、周囲の人々も、さらに大きな危険に晒される。
分かっている。
それでも足が動かなかった。
拘束された保護官の顔が、苦痛に歪んでいたからだ。
彼は出久を守ろうとしている。
職務だからではない。
法で定められているからでもない。
目の前にいる一人の少年を生かすために、息もできない状態で、それでも泥の身体を掴んでいた。
「逃げて……ください……!」
守られるだけの人間ではいたくない。
つい先ほど口にした言葉が、頭の中で蘇った。
出久は鞄を開いた。
ヒーロー分析ノート。
筆記用具。
携帯用防犯ブザー。
原典者へ支給される、高濃度の催涙スプレー。
そして、保護官の拘束装備を一時的に解除するための緊急認証端末。
勝てるとは思わなかった。
無個性の自分に、ヴィランを倒す力はない。
だが、倒す必要はなかった。
保護官を解放し、救援が到着するまで時間を稼げばいい。
「その人を、放せ!」
出久は震える足で、一歩踏み出した。
その瞬間。
頭上の道路が、凄まじい衝撃とともに陥没した。
土煙の向こうから、巨大な影が降り立つ。
細い路地には到底収まりきらないほど鍛え上げられた肉体。
逆立つ金髪。
そして、絶望を吹き飛ばすような笑顔。
「もう大丈夫だ、少年!」
出久が幾度となく映像で見た男。
平和の象徴。
ナンバーワンヒーロー。
オールマイトは泥のヴィランではなく、真っ先に出久を見た。
その青い瞳が、胸元の徽章を捉える。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、その笑顔が凍った。
「原典者……?」
驚愕。
畏敬。
そして、恐怖。
出久がこれまで何度も向けられてきた目だった。
助けるべき子供を見る目ではない。
この世に残された、人間の原型を見る目。
オールマイトほどのヒーローでさえ、自分をそう見るのか。
胸の奥が冷たくなる。
それでも出久は、逃げなかった。
「オールマイト!」
憧れた人の名を呼び、拘束された保護官を指差す。
「僕より先に、あの人を助けてください!」
オールマイトの目が見開かれた。
その日。
緑谷出久は、憧れのヒーローと出会った。
力を授けてくれる師としてではなく。
神聖な原典者を守ろうとする、最強の守護者として。
そして、出久の前に立ちはだかる最初の壁として。
無個性の少年が無個性のままヒーローになる道は、この瞬間から始まった。