無個性信仰   作:ケーケーケー

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第二話 守られる者の一歩

 

風圧が路地を駆け抜けた。

 

オールマイトが放った拳は、泥のヴィランへ直接触れてすらいない。

 

ただ前方へ振り抜かれただけ。

 

それにもかかわらず、圧縮された空気は濁流のような肉体を一息に吹き飛ばし、周囲の壁へ薄く広げた。

 

拘束されていた保護官が解放され、地面へ崩れ落ちる。

 

「大丈夫ですか!」

 

出久は真っ先に駆け寄った。

 

咳き込む保護官の背中を支え、呼吸ができているかを確かめる。もう一人も壁に打ちつけられた痛みに耐えながら、仲間の無事を確認していた。

 

出久自身も震えていた。

 

足に力が入らない。

 

奥歯が鳴り、呼吸も浅くなっている。

 

それでも、倒れた二人から離れようとはしなかった。

 

「さすがだ、少年! もう心配は――」

 

オールマイトは、そこで言葉を止めた。

 

出久が自分を見ていなかったからだ。

 

普通ならば、憧れのヒーローに救われた子供は安堵する。あるいは感激し、歓声を上げる。

 

だが、この少年は違った。

 

襲われた本人でありながら、自分を守って傷ついた者の様子を確かめている。

 

「呼吸はあります。意識もあります。でも、長い間窒息させられていました。救急車をお願いします」

 

出久は震える声で、それでも明瞭に告げた。

 

「ああ。既に通報は済ませてある」

 

オールマイトは答えながら、路地の壁に付着した泥を素早く集めていった。

 

泥のヴィランはまだ意識を失っていない。

 

「くそ……よりによって、オールマイト……」

 

「原典者を襲撃するとは、とんでもない悪党だ」

 

その声から笑みが消えた。

 

「未成年者略取、ヒーロー保護活動への妨害、殺人未遂。そして原典者保護法違反。これ以上は一言も喋らない方が身のためだぞ」

 

「へっ……やっぱり、そいつだけは特別扱いかよ」

 

泥の中に浮かぶ口が歪んだ。

 

「そいつが普通のガキなら、そこまで怒らなかったんじゃねえのか?」

 

出久の肩が僅かに動いた。

 

オールマイトは答えなかった。

 

答えられなかった。

 

泥のヴィランを頑丈な容器へ詰め終えた頃、遠くから幾つものサイレンが聞こえてきた。

 

警察だけではない。

 

救急車、消防車、原典者保護局の緊急車両。さらに上空では報道ヘリが旋回を始めている。

 

原典者がヴィランに襲撃された。

 

それだけで、一つの事件が国家規模の騒動に変わる。

 

路地の入口に、黒い制服を着た保護局員が次々と姿を現した。

 

「緑谷出久様、ご無事ですか!」

 

「お怪我はありませんか!」

 

「対象との接触時間は!」

 

「緊急隔離車両を用意しています。直ちに精密検査を――」

 

「待ってください」

 

出久の声に、全員が動きを止めた。

 

「僕より、二人を先に運んでください」

 

「しかし、緑谷様の安全確認が最優先です」

 

「僕は立っています。呼吸もできます。この人たちの方が重傷です」

 

「規則では原典者の救護が――」

 

「その規則のせいで、この人たちを後回しにするんですか?」

 

強い言葉ではなかった。

 

けれど、局員は息を呑んだ。

 

出久は倒れている保護官の手を握った。

 

いつも自分の数歩後ろを歩き、毎朝、同じ声で挨拶をしてくれる人だった。

 

だが、出久は彼の好きなものも、休日に何をしているのかも知らない。

 

彼らと個人的に親しくなることは、保護対象への情緒的依存を生む恐れがあるとして禁じられていた。

 

「お願いします」

 

出久が頭を下げる。

 

その瞬間、局員たちは一斉に膝をついた。

 

「頭をお上げください、原典様!」

 

悲鳴にも近い声だった。

 

出久は反射的に顔を上げた。

 

周囲にいる誰もが、深々と頭を垂れている。

 

助けを求めたかっただけだった。

 

怪我人を先に運んでほしかっただけだった。

 

しかし、原典者の懇願は、彼らにとって命令よりも重い。

 

「……救急隊!」

 

責任者らしき男が立ち上がった。

 

「負傷した保護官二名を先に搬送しろ。緑谷様の検査は、その後この場で行う!」

 

ようやく担架が運び込まれた。

 

安堵した出久の隣で、オールマイトは黙ってその光景を見ていた。

 

やがて負傷者が運び出されると、出久は彼の前に立った。

 

近くで見るオールマイトは、画面越しに見るよりも遥かに大きかった。

 

立っているだけで人を安心させる体躯。

 

絶対に負けないと信じさせる笑顔。

 

幼い頃から、何度も自分を支えてくれた存在。

 

出久は制服の裾を握った。

 

「あの……オールマイト」

 

「何だい、少年!」

 

「少しだけ、質問をしてもいいですか?」

 

「もちろんだとも!」

 

言葉とは裏腹に、オールマイトは周囲の局員へ視線を向けた。

 

勝手に原典者と会話を続けてよいのか判断しかねたのだろう。

 

その躊躇を、出久は見逃さなかった。

 

「僕は――」

 

喉が詰まる。

 

聞くのが怖かった。

 

憧れた人からも否定されたなら、今度こそ夢を諦めてしまうかもしれない。

 

それでも、尋ねなければ前へ進めなかった。

 

「個性がなくても、ヒーローになれますか?」

 

オールマイトの笑顔が止まった。

 

ざわめいていた路地が、嘘のように静かになる。

 

局員たちは驚き、互いの顔を見合わせた。

 

出久はただ、オールマイトの答えを待った。

 

「少年」

 

しばらくして、オールマイトは低い声で言った。

 

「ヒーローとは、常に命を危険に晒す仕事だ」

 

「はい」

 

「ヴィランは、規則を守らない。君が原典者だからといって、攻撃を控えてはくれない。むしろ、君という存在を利用しようとする者が集まってくるだろう」

 

「分かっています」

 

「分かってはいない」

 

その声は厳しかった。

 

出久の胸が痛む。

 

「今日、君は死にかけた。保護官二名も重傷だ。あのヴィランが君の身体を奪っていたら、街一つでは済まない騒ぎになっていたかもしれない」

 

「……はい」

 

「戦う力を持たない者が、勇気だけで戦場へ出るべきではない」

 

出久は俯いた。

 

予想していた答えだった。

 

何度も聞いてきた。

 

医師から。

 

教師から。

 

保護官から。

 

母親から。

 

個性がないからではない。

 

大切な存在だから。

 

失われてはならないから。

 

だから危険なことをしてはいけない。

 

だから誰かを助けようとしてはいけない。

 

だから、ずっと守られていなければならない。

 

「そう、ですよね」

 

笑おうとした。

 

だが、うまくできなかった。

 

「変なことを聞いて、すみませんでした」

 

出久は頭を下げ、その場を離れようとした。

 

「待ちなさい」

 

オールマイトの声に足を止める。

 

「私は、君にヒーローになれないとは言っていない」

 

出久はゆっくり振り返った。

 

「え……?」

 

「戦う力を持たない者が、勇気だけで戦場へ出るべきではない。ならば、戦場へ出るための力を身につければいい」

 

「でも、僕には個性が……」

 

「個性だけが力ではない」

 

オールマイトは、倒れていた保護官が搬送された方向を見た。

 

「君は先ほど、恐怖で震えながらも負傷者の状態を確認し、私へ正確に伝えた。自分を治療しようとする者たちを止め、より重傷な二人を優先させた」

 

「それは、僕のせいで二人が……」

 

「違う」

 

オールマイトの声が、出久の言葉を遮った。

 

「あの二人を傷つけたのはヴィランだ。君ではない」

 

断言だった。

 

出久の胸に、何かが落ちた。

 

幼い頃から、誰かが自分を守って怪我をするたびに思ってきた。

 

自分が原典者だから。

 

自分が外へ出たから。

 

自分が普通の子供のように暮らしたいと願ったから。

 

周囲の人が傷ついたのだと。

 

「君は守られただけではない。あの状況で、自分にできることを探した」

 

オールマイトは出久の目を見つめた。

 

今度は徽章ではない。

 

神聖な原典者でもない。

 

一人の少年を見ていた。

 

「それは確かに、ヒーローが持つべき資質だ」

 

涙が溢れそうになった。

 

しかし、言葉が続くより早く、路地の外から騒がしい足音が響いた。

 

「緑谷!」

 

出久の母、引子だった。

 

数人の局員を振り切り、息を切らしながら走ってくる。

 

「お母さん……」

 

「出久!」

 

引子は出久を強く抱き締めた。

 

無事を確かめるように背中へ腕を回し、何度も名前を呼ぶ。

 

「よかった……本当によかった……!」

 

「ごめんね、お母さん」

 

「謝らなくていいの。あなたが無事なら、それで……」

 

その周囲では、保護局員が慌ただしく動いていた。

 

報道陣の接近を防ぎ、目撃者を確認し、周囲の映像記録を押収している。

 

オールマイトは、出久に声を掛けようとして止まった。

 

今は家族の時間だ。

 

そう判断して、誰にも気づかれないように後ろへ下がった。

 

その時。

 

彼の身体が僅かに揺れた。

 

限界が近い。

 

腹部の古傷が鋭く痛み、肺の奥から血の味が込み上げる。

 

ここに長く留まることはできない。

 

オールマイトは踵を返し、建物の影へ移動しようとした。

 

「あ……!」

 

出久が気づく。

 

「オールマイト、待ってください!」

 

反射的に母の腕を抜け、追いかけようとした。

 

「出久!」

 

保護局員が一斉に動き出す。

 

「緑谷様、これ以上は危険です!」

 

「検査が終わっていません!」

 

「でも、まだお礼を――」

 

出久が人垣に遮られる。

 

その間に、オールマイトの姿は路地の奥へ消えた。

 

出久は立ち尽くした。

 

聞きたいことは、まだ幾つもあった。

 

どんな訓練をすればいいのか。

 

個性のない人間が、ヒーローとして戦う方法は本当にあるのか。

 

雄英高校の実技試験を、どうすれば突破できるのか。

 

何よりもう一度、聞きたかった。

 

自分にも、本当に可能性があるのか。

 

「……また、会えるかな」

 

小さく呟いた、その直後だった。

 

遠くから爆発音が轟いた。

 

黒煙が空へ上がる。

 

周囲にいたヒーローたちが、一斉に走り出した。

 

保護局員は反対に、出久を囲む壁をさらに厚くした。

 

「新たなヴィラン事件です。緑谷様は直ちに退避を」

 

「待ってください。さっきのヴィランは?」

 

出久は周囲を見回した。

 

泥のヴィランを詰めた容器がない。

 

「警察が回収したはずです」

 

局員が答える。

 

だが、出久は見ていた。

 

警察が到着してから、現場へ出入りした人間の数はあまりに多かった。

 

保護局員、救急隊員、消防隊員、報道関係者。

 

その混乱の中で、ヴィランの容器が正式に引き渡されたところを、誰も確認していない。

 

胸騒ぎがした。

 

爆発音が再び響く。

 

炎と黒煙が上がっている方角は、出久が普段使う帰宅路だった。

 

そして、あの道を通る人物を一人知っている。

 

「かっちゃん……」

 

出久は呟いた。

 

「緑谷様?」

 

「行かないと」

 

「なりません。危険区域から離れてください」

 

「違います。あそこに、僕の幼馴染がいるかもしれないんです」

 

「既にヒーローが向かっています」

 

局員は当然のように答えた。

 

「あなたが行く必要はありません」

 

正しい言葉だった。

 

自分が行ったところで、何もできない。

 

むしろ救助の邪魔になる。

 

今日だけで、もう十分すぎるほど周囲へ迷惑をかけた。

 

出久は自分へ言い聞かせた。

 

ヒーローに任せればいい。

 

自分は守られる側だ。

 

そのために、大勢の人間が配置されている。

 

けれど。

 

――あなたが行く必要はありません。

 

その言葉が、どうしても胸に引っかかった。

 

必要がなければ行かないのか。

 

助けられる力がなければ、助けようとしてはいけないのか。

 

もしそこに、助けを求めている人がいるとしても。

 

出久は黒煙を見上げた。

 

先ほどの泥のヴィランは、人間の身体を乗っ取ろうとしていた。

 

爆発音。

 

もし、捕まったのが爆豪なら。

 

相性は最悪だった。

 

爆豪が爆破を使うほど、周囲の酸素と温度が変化し、火災が広がる。ヴィランを引き剥がそうとしても、液状の身体には打撃が通りにくい。

 

出久は鞄からノートを取り出した。

 

記憶の中にある現場周辺のヒーローを思い浮かべる。

 

デステゴロは近接型。

 

バックドラフトは消火に優れるが、人質とヴィランを分離する決定打に欠ける。

 

カムイウッズの枝は炎に弱い。

 

今あの場所には、爆豪を助けられるヒーローがいないかもしれない。

 

「……確認するだけです」

 

「何を?」

 

「かっちゃんがいるかどうかを」

 

「許可できません」

 

出久は局員を見上げた。

 

自分を守るため、日々命を懸けてくれている人たち。

 

彼らを困らせたくない。

 

傷つけたくない。

 

だからこそ、命令したくはなかった。

 

原典者の言葉を使えば、彼らは逆らえない。

 

出久が「道を開けてください」と命じれば、従うしかない。

 

そんな方法で夢へ進めば、自分は結局、祀り上げられた原典者のままだ。

 

だから出久は何も言わなかった。

 

ただ警戒の薄い場所を見つけると、突然身を翻した。

 

「あっ、緑谷様!」

 

局員たちの間を抜け、走り出す。

 

「止まってください!」

 

背後から声が追ってくる。

 

それでも止まらない。

 

胸が痛い。

 

足が重い。

 

個性を持つ者のように、速く走ることなどできない。

 

それでも、一歩ずつ前へ進む。

 

やがて黒煙の下へ辿り着くと、大勢の野次馬が通りを囲んでいた。

 

人々は出久の胸元にある徽章に気づき、驚愕しながら道を空けていく。

 

まるで海が割れるように、現場まで一直線の道が生まれた。

 

その先にいた。

 

泥の中から突き出た、灰色がかった金髪。

 

助けを求める赤い瞳。

 

身体を奪われながらも、爆発を起こして抵抗を続ける少年。

 

「かっちゃん!」

 

出久の声に、爆豪の目が動いた。

 

助けろとは言わなかった。

 

来るなとも言えなかった。

 

泥に塞がれた口から、意味のない音だけが漏れる。

 

周囲のヒーローたちは動けずにいた。

 

火災。

 

野次馬。

 

不利な個性。

 

救助するための準備が整っていない。

 

理由はいくつもあった。

 

だが、出久には関係なかった。

 

気づいた時には走り出していた。

 

背後で、保護官たちが絶叫する。

 

ヒーローたちも制止の声を上げる。

 

「原典者だ!」

 

「誰か止めろ!」

 

「現場に入れるな!」

 

泥のヴィランが出久に気づいた。

 

「ああ……また来やがったな。今度こそ、その身体を――」

 

泥の一部が爆豪から離れ、出久へ伸びる。

 

怖かった。

 

足が竦みそうになる。

 

勝てるはずがない。

 

それでも出久は、走りながら鞄を開いた。

 

取り出したのは、保護官から渡されていた催涙スプレーだった。

 

人間相手ならば目や鼻の粘膜へ作用する。

 

泥の身体へ効果がある保証はない。

 

だが、ヴィランの眼球は剥き出しになっている。

 

「やめろ、デク……!」

 

爆豪が喉を振り絞った。

 

出久は踏み込み、伸びてきた泥を寸前で避けた。

 

運動神経が優れているわけではない。

 

動きを見切ったのでもない。

 

先ほど襲われた時、ヴィランが右側から対象を包み込む癖を見ていた。

 

出久は左へ身体を投げ出しながら、スプレーを噴射した。

 

「ぐあああっ!?」

 

ヴィランの眼球が大きく収縮する。

 

爆豪を覆っていた泥が、一瞬だけ緩んだ。

 

その隙に、出久は爆豪の腕を掴んだ。

 

「かっちゃん!」

 

「馬鹿、離せ! てめぇまで捕まるぞ!」

 

「口を閉じて、息を止めて!」

 

「は!?」

 

出久は爆豪の顔へ、制服の上着を押しつけた。

 

わずかでも泥が口へ入るのを防ぐためだった。

 

しかし、次の瞬間には出久の足首へ泥が絡みついた。

 

身体が持ち上がる。

 

「捕まえたぞ、原典者!」

 

興奮した声が響いた。

 

「このガキより、お前の身体の方が何倍も価値がある!」

 

出久の身体が泥へ引き寄せられる。

 

誰かが叫んだ。

 

保護官たちが走ってくる。

 

だが、間に合わない。

 

息を吸った。

 

ここで自分が捕まれば、今度こそ終わる。

 

それでも出久の手は、爆豪の腕を離さなかった。

 

「デク!」

 

爆豪が叫ぶ。

 

直後。

 

凄まじい風圧が、通り全体を吹き抜けた。

 

泥が弾け飛ぶ。

 

出久の身体が宙へ投げ出される寸前、巨大な腕が二人まとめて抱き留めた。

 

「情けない」

 

聞き覚えのある声だった。

 

出久が顔を上げる。

 

そこにいたのは、先ほどと同じ笑顔を浮かべたオールマイトだった。

 

しかし、その目には後悔が滲んでいた。

 

「本当に、情けない」

 

オールマイトは二人を安全な場所へ下ろした。

 

「私は君に、戦う力がなければ戦場へ出るべきではないと言った」

 

拳を握る。

 

「だというのに、戦う力を持つ私が、考えてばかりで動けなかった」

 

泥のヴィランが再び身体を集め始める。

 

「あなたは関係ない! こいつらが勝手に――」

 

「違う」

 

オールマイトは一歩踏み出した。

 

「ヒーローが動けない理由を探している間に、一人の少年が動いた」

 

空気が震える。

 

炎が大きく揺らぎ、周囲の雲が渦を巻く。

 

「その心に応えずして、何が平和の象徴だ!」

 

拳が振り抜かれた。

 

巻き起こった暴風が、泥のヴィランを完全に吹き飛ばす。

 

空へ突き抜けた風が雲を裂き、やがて大粒の雨が降り始めた。

 

炎が消えていく。

 

歓声が上がった。

 

だが、その声はすぐに別のものへ変わった。

 

人々は雨の中に立つ出久を見つめていた。

 

原典者が、自ら危険へ飛び込んだ。

 

個性を持つ少年を救うために。

 

一人が膝をついた。

 

続いて、また一人。

 

気づけば、通りを埋め尽くしていた人々の多くが、出久へ祈るように頭を垂れていた。

 

「奇跡だ……」

 

誰かが呟いた。

 

「原典様が、我々をお救いになった」

 

出久の顔から、僅かに血の気が引いた。

 

違う。

 

自分は爆豪を助けきれていない。

 

オールマイトが来なければ、二人とも死んでいた。

 

それなのに、人々は出久だけを見ている。

 

すぐ隣で爆豪が咳き込み、苦しそうに呼吸しているのに。

 

誰もが原典者の献身という物語に酔いしれ、救助された少年を見ようとしない。

 

「違います!」

 

出久の叫びに、歓声が止まった。

 

「僕は、この人を助けられていません!」

 

人々が戸惑った顔を上げる。

 

出久は爆豪の肩を支えた。

 

「かっちゃんは最後まで一人で抵抗していました。オールマイトが僕たち二人を助けてくれたんです。僕は、何も――」

 

「何もしていないわけがあるか!」

 

オールマイトの声が響いた。

 

出久は振り返った。

 

「君が作った一瞬の隙がなければ、彼の呼吸は保たなかったかもしれない。君が私を動かした。それは事実だ」

 

「でも……」

 

「同時に、君一人では二人とも助からなかった。それも事実だ」

 

慰めでも、崇拝でもなかった。

 

功績と失敗の双方を見据えた言葉だった。

 

「今日の君は、無謀だった。しかし、間違ってはいなかった」

 

雨に濡れた出久の頬を、涙が伝った。

 

オールマイトは膝をつき、少年と同じ高さまで視線を下げた。

 

「緑谷出久少年」

 

初めて、名前を呼ばれた。

 

原典者でも。

 

原典様でもない。

 

「君はヒーローになれる」

 

その言葉を聞くために、どれだけの年月を耐えてきただろう。

 

出久は両手で顔を覆った。

 

声を抑えることができなかった。

 

大勢の前で、子供のように泣いた。

 

隣では爆豪が顔を背けている。

 

「……調子に乗んなよ、クソデク」

 

掠れた声だった。

 

「まだ、助けられちゃいねえからな」

 

「うん……」

 

「次は俺が助ける」

 

その言葉は、出久に向けたものなのか。

 

それとも、自分自身への誓いなのか。

 

出久には分からなかった。

 

ただ、幼い頃からずっと前を歩いていた爆豪が、初めて自分と同じ場所に立ったような気がした。

 

その後、出久は保護局によって病院へ搬送された。

 

幸いにも大きな怪我はなく、軽い打撲と足首の捻挫だけだった。

 

それでも事件の影響は大きかった。

 

原典者がヴィランに二度も襲われ、その上、保護を振り切って救助活動を行った。

 

映像は保護局によって規制されるより早く、野次馬の端末からインターネットへ広がった。

 

『原典者、炎の中へ』

 

『人類の始祖が示した自己犠牲』

 

『聖なる少年、個性保持者を救済』

 

出久の行動は、本人の意思とは無関係に美化されていった。

 

病院の周囲には祈りを捧げる人々が集まり、数時間で花束と供物が山のように積み上がった。

 

そして同じ夜。

 

雄英高校の校長室でも、出久の映像が繰り返し再生されていた。

 

「興味深いですね」

 

根津校長がティーカップを置く。

 

「原典者保護委員会は、彼のヒーロー科受験を認めないでしょう」

 

隣に立つ痩せた男――本来の姿へ戻ったオールマイトは、険しい顔で画面を見ていた。

 

「だろうな」

 

「世論も二つに割れます。彼をヒーローとして称える者と、神聖な存在を危険へ晒すなと訴える者。どちらも彼自身の希望を見てはいません」

 

映像の中で、出久が爆豪へ手を伸ばしている。

 

泥に飲まれようとしながら、それでも掴んだ腕を離さない。

 

「彼には力がない」

 

オールマイトが呟いた。

 

「鍛えられた身体も、戦闘経験も、危険を退ける装備もない。今日の行動は、褒められたものではない」

 

「しかし?」

 

根津が問いかける。

 

オールマイトは、静かに笑った。

 

「あの少年の足は、我々より先に動いた」

 

「では、どうします?」

 

「鍛える」

 

迷いのない答えだった。

 

「彼を神輿の上から引きずり下ろすのではない。彼自身の足で、安全に地面へ降りられるようにする」

 

オールマイトは拳を握った。

 

「個性を与えるつもりはない。あの少年は、無個性の自分を否定したいわけではないからな」

 

原典者であることを捨てるのではない。

 

無個性のまま。

 

守られる存在のまま。

 

それでも、誰かを守れる人間になる。

 

その前例のない道を歩かせる。

 

「面白い」

 

根津の瞳が鋭く細められた。

 

「ならばまず、保護委員会との戦争ですね」

 

「戦争という言い方はやめてくれないかね?」

 

「おや。平和の象徴ともあろう方が、怖いのですか?」

 

「ヴィランより話の通じない相手は、いくらでもいるのだよ……」

 

オールマイトは深いため息をついた。

 

そして翌朝。

 

病室で目を覚ました出久のもとへ、一通の正式な書類が届けられた。

 

差出人は、雄英高校。

 

表題は――

 

『緑谷出久氏のヒーロー科一般受験に伴う、特別訓練計画について』

 

出久がその書類を開いた瞬間。

 

守られるだけだった少年の、十か月にわたる戦いが始まった。

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