第三話 神様を地上へ
緑谷出久が退院したのは、泥のヴィラン事件から三日後のことだった。
怪我そのものは軽かった。
足首の捻挫と全身の打撲。泥を僅かに吸い込んだことで気管支に炎症が見られたものの、後遺症が残る可能性はない。
しかし、病院の外には退院を待つ人々が集まっていた。
ある者は花を抱え、ある者は祈りを捧げ、ある者は出久の姿を一目見ようと端末を掲げている。
騒動の発端となった映像は、既に国内だけで数千万回も再生されていた。
炎の中へ飛び込む、小さな少年。
ヴィランへ立ち向かい、個性を持つ少年へ手を伸ばす原典者。
その姿は幾つもの宗教団体に利用され、出久の知らないところで様々な意味を与えられていた。
――原典者は、個性を持つ我々をお許しになった。
――人間の始祖は、自らの命をもって共存の道を示された。
――あの御方こそ、現代に降り立った救済の象徴である。
出久は、そのどれにも頷いていない。
ただ幼馴染を助けたかっただけだった。
それなのに、世間にとって緑谷出久の個人的な動機など、もはや重要ではなかった。
「出久、行きましょう」
病院の地下駐車場。
引子は息子の手を握り、窓のない黒塗りの車へ乗り込んだ。
正面玄関からの退院は危険だと判断され、出久は職員用通路を使って密かに病院を出ることになった。
車の前後には、原典者保護局の護衛車両がついている。
泥のヴィラン事件以降、出久を警護する人員は二人から八人へ増やされていた。
「……お母さん」
走り出した車の中で、出久は隣に座る母を見た。
引子は微笑んでいる。
しかし、目元には濃い隈があった。
この三日間、ほとんど眠れていないのだろう。
「ごめんなさい」
出久が頭を下げると、引子の手に力が籠もった。
「どうして出久が謝るの?」
「勝手に走っていったから。お母さんにも、保護官の人たちにも心配をかけた」
「そうね」
優しく肯定され、出久は顔を上げた。
引子の瞳から涙が零れていた。
「すごく怖かった。映像を見た時、心臓が止まるかと思った。あなたが泥に捕まった瞬間なんて、今でも夢に見るの」
「……うん」
「本当は、もう二度と外へ出したくない」
引子は涙を拭うこともせず、息子の手を両手で包んだ。
「学校にも行かせたくない。ずっと家にいてほしい。どこにも行かず、危険なことは何もしないでほしい。ヒーローなんて、諦めてほしい」
それは、母親として当然の願いだった。
出久は何も言い返せなかった。
「でもね」
引子は震える声で続けた。
「あの時の出久を見て、分かってしまったの」
「何を?」
「私がどれだけ閉じ込めても、あなたはまた誰かを助けに行く」
否定できなかった。
もし同じことが起きれば。
目の前で誰かが苦しんでいれば。
出久はきっと、また走り出してしまう。
「だったら、せめて……」
引子は出久の手を額へ押し当てた。
「帰ってこられるくらい、強くなって」
その言葉に、出久の目から涙が溢れた。
母がヒーローになることを認めてくれたわけではない。
危険への恐怖が消えたわけでもない。
それでも、ただ夢を否定するのではなく、生きて帰るための道を選んでくれた。
「うん」
出久は何度も頷いた。
「絶対に帰ってくる。お母さんのところに」
親子を乗せた車は市街地を抜け、霞ヶ関にある政府庁舎へ向かった。
そこで待っているのは、出久の人生を左右する会議だった。
*
原典者保護委員会。
原典者の人権と安全を守るために設立された独立行政機関であり、医師、法律家、個性研究者、宗教学者、警察関係者などによって構成されている。
本来ならば、原典者本人の意思を尊重するための組織である。
だが、出久は幼い頃から知っていた。
彼らが最も重視しているのは、原典者個人の幸福ではない。
人類の原型を、後世へ残すこと。
それこそが組織に課せられた最大の使命だった。
重厚な会議室の中央に、出久と引子の席が置かれている。
正面には委員長を含む十二人の委員。
出入口付近には保護局員。
そして二人の背後には、雄英高校の根津校長とオールマイトが座っていた。
もっとも、オールマイトはいつもの屈強な姿ではない。
大きく痩せ細り、頬がこけ、金色の髪だけが以前と同じように逆立っている。
会議が始まる一時間前。
別室へ案内された出久は、そこで初めて憧れのヒーローの秘密を明かされた。
過去の戦いで受けた重傷。
失われた胃。
損傷した呼吸器。
一日に活動できる時間の限界。
それを聞いた出久は泣き、ノートを取り出し、質問を始め、最後には本人から止められた。
オールマイトが秘密を明かした理由は一つ。
自分の身体を傷つけながら無理を続けることが、どれほど危険なのか。
それを出久へ伝えるためだった。
「それでは、会議を始めます」
委員長の女性が、硬質な声で告げた。
「議題は、特別保護対象者・緑谷出久氏による雄英高校ヒーロー科一般受験の是非について」
出久は膝の上で拳を握った。
委員長は手元の資料へ視線を落とす。
「結論から申し上げます。委員会は、緑谷氏の一般受験を認めることはできません」
予想していた言葉だった。
それでも、胸が強く締めつけられる。
「理由を伺っても?」
根津が尋ねた。
「危険性です。雄英高校の実技試験では、仮想敵との戦闘が行われます。受験生同士の接触、瓦礫の飛散、機械の暴走など、負傷する可能性を完全には排除できません」
「毎年、安全基準は満たしていますよ」
「一般の受験生に対する基準です。原典者には適用できません」
「なるほど。では、安全性が確保されればよいと?」
「完全な安全が保証されるならば、検討の余地はあります」
根津が口元を僅かに上げた。
「ヒーロー科の試験で、完全な安全を保証しろと仰るのですか?」
「原典者を受け入れる以上、当然でしょう」
「それはつまり、合格させる意思がないという意味ですね」
室内の空気が冷えた。
委員長は表情を変えなかった。
「緑谷氏には、雄英高校普通科への特別推薦が用意されています。入学後は原典者研究への協力を条件に、専門的な教育を――」
「僕は研究対象になるために雄英へ行きたいわけではありません」
出久が言った。
委員たちの視線が一斉に集まる。
その何人かは、反射的に居住まいを正した。
原典者本人が発言したのだから、敬意を示したのだろう。
出久はそれが嫌だった。
「発言の許可を得てから――」
一人の委員が注意しようとしたが、隣の宗教学者が慌てて袖を引いた。
「構いません。続けてください」
委員長が促す。
出久は一度、深く息を吸った。
「僕は特別推薦を辞退しています。一般入試を受けて、自分の力でヒーロー科に入りたいです」
「あなたの志は尊いものです」
委員長が答える。
「泥のヴィラン事件で見せた自己犠牲の精神は、多くの国民に感銘を与えました。しかし、あなたには戦闘に適した個性がありません」
「無個性だからですか?」
「そうではありません」
「では、もし僕が原典者ではない無個性だったら、受験を認めましたか?」
委員長の返答が止まった。
出久は続ける。
「雄英高校の受験資格には、個性を持つことが条件として書かれていません。無個性でも受験できます」
かつては個性の使用そのものが、実技試験で禁じられていた時代もある。
現在でも、無個性だからという理由だけで受験を拒むことは違法だった。
「僕が受験できないのは、無個性だからではありません。原典者だからです」
「あなたを差別しているのではありません。保護しているのです」
「保護と差別は、何が違うんですか?」
会議室が静まり返った。
出久は委員長を責めたいわけではなかった。
彼女が出久の命を軽く扱っていないことは分かっている。
それでも、聞かなければならなかった。
「危険だからできない。大切だから参加できない。守るためだから選べない。そう言われて、僕はずっと何もさせてもらえませんでした」
体育の授業も。
友達との喧嘩も。
放課後の寄り道も。
一人で買い物へ行くことも。
「僕を守るために、僕の人生をなくすんですか?」
誰も答えなかった。
「僕は人間の原型なのかもしれません。僕の身体に、医学的な価値があることも分かっています。でも――」
出久は自分の胸に手を置いた。
「これは人類の身体である前に、僕の身体です」
根津の目が細められた。
オールマイトは静かに少年を見守っている。
引子は机の下で、出久の手を握った。
委員の一人が、苦しそうに口を開く。
「しかし、あなたが亡くなれば、取り返しがつきません」
「誰だって同じです」
「原典者の数は、極めて少ないのです」
「命の価値は、人数で決まるんですか?」
その問いは、委員たちだけに向けたものではなかった。
泥のヴィランに襲われた時、負傷した保護官より出久の治療が優先されようとした。
爆豪が捕まった時、人々は救助された彼よりも、救助へ向かった原典者を見ていた。
この社会は出久を崇めている。
だからこそ、出久以外の命を彼より下へ置こうとする。
それを受け入れたまま、ヒーローになれるとは思えなかった。
「僕は、自分の命だけが特別だとは思いたくありません」
委員長が目を伏せる。
長い沈黙の後、書類を閉じた。
「あなたの意見は理解しました」
「では――」
「ですが、現状のまま受験を許可することはできません」
出久の表情が曇る。
「泥のヴィラン事件におけるあなたの行動は、勇敢であると同時に極めて無謀でした。保護官の制止を振り切り、危険区域へ侵入し、十分な装備もないままヴィランへ接近した」
「……はい」
反論できない。
出久自身、オールマイトが間に合わなければどうなっていたか分かっていた。
「ヒーローを目指すのであれば、勇気と無謀を区別できなければなりません」
委員長は出久を真っ直ぐ見つめた。
そこには先ほどまでの、壊れ物を見るような色がなかった。
「そこで、条件を提示します」
出久は顔を上げた。
「受験までの十か月間、雄英高校が作成した特別訓練を受けること。その成果を毎月、委員会へ報告すること。医師が身体的な危険を認めた場合は直ちに中止すること。そして――」
委員長の視線が、背後のオールマイトへ移る。
「訓練の全責任を、オールマイトおよび雄英高校が負うこと」
「承知した」
オールマイトが力強く答えた。
「待ってください」
出久は条件を聞いても、すぐには喜ばなかった。
「試験で、僕だけ特別扱いされることはありますか?」
「安全確保のため、監視員は増員されます」
「採点は?」
根津が代わりに答えた。
「他の受験生と同じです。君だけ仮想敵を弱くすることも、合格点を引き下げることもありません」
「僕が原典者だから、点を加えることは?」
「一切ありません」
出久は胸の奥から息を吐いた。
そして深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
委員たちが再び慌てて立ち上がりかける。
しかし、今度は委員長が手を上げて制した。
「これは原典者へ捧げる慈悲ではありません」
彼女は自分へ言い聞かせるように告げた。
「一人の受験希望者に与える機会です」
その言葉に、出久は初めて笑った。
*
会議から一週間後。
出久は早朝の多古場海浜公園に立っていた。
海岸は、見渡す限りの粗大ごみで埋め尽くされている。
壊れた冷蔵庫。
錆びた自転車。
大型テレビ。
古びた箪笥。
不法投棄された品々が積み重なり、砂浜どころか海さえろくに見えなかった。
「ここを……全部?」
出久が呆然と呟く。
その隣で、オールマイトが胸を張った。
今日は屈強な姿ではない。
痩せた本来の姿で、だぶついた服を着ている。
周囲には八人の保護官に加え、医師一名と救急救命士二名が待機していた。少し離れた場所には、保護局が設置した仮設診療所まである。
「十か月で片づける」
オールマイトが言った。
「同時に、君の身体を戦える土台まで鍛え上げる」
出久は目の前のごみの山を見上げた。
「でも、これは不法投棄された物ですよね。勝手に動かしても――」
「既に自治体から許可を得ている。危険物の確認も専門業者が済ませた。回収した物は種類ごとに分別し、指定された場所へ運ぶ」
オールマイトは分厚い紙の束を差し出した。
そこには、出久の体格や運動経験、過去の健康診断の結果をもとに作成された訓練計画が記されていた。
筋力訓練。
持久走。
柔軟運動。
受け身。
応急処置。
危険予測。
避難誘導。
個性犯罪の分析。
戦闘だけではない。
誰かを助け、生きて帰るために必要な技術が細かく組み込まれている。
「すごい……」
出久の口から、感嘆の声が漏れた。
「ただし!」
オールマイトが人差し指を立てる。
「計画以上の訓練は認めない。痛みや体調不良を隠すことも禁止だ。君は頑張りすぎる傾向がある」
出久は目を泳がせた。
「そ、そんなことは……」
「泥のヴィランへ二度突っ込んだ人間が言っても、説得力はないな」
「はい……」
「筋肉は一日にしてならず。鍛錬とは、自分を壊すことではない。昨日の自分より僅かに強い自分を、毎日積み上げることだ」
出久は真剣な表情で頷いた。
「分かりました」
「よろしい! では、最初の訓練を始めよう!」
オールマイトが指差したのは、砂浜の端に転がる一台の古い電子レンジだった。
「まずはあれを、指定された回収場所まで運ぶ!」
「はい!」
出久は駆け寄り、電子レンジの両側へ手を掛けた。
腰を落とし、持ち上げようとする。
「ふっ……ぐうう……!」
動かない。
僅かに浮いたかと思えば、すぐ砂の上へ戻ってしまう。
もう一度挑戦する。
やはり持ち上がらない。
額から汗が流れ始めた。
後ろで見ていた保護官の一人が、心配そうに一歩踏み出す。
「緑谷様、お手伝いを――」
「手を出さないでくれ」
オールマイトが止めた。
「しかし、お身体に負担が」
「負担をかけるための訓練だ。危険がない限り、彼自身にやらせる」
保護官は困惑していた。
出久へ手を貸さないという判断に、慣れていないのだ。
「ですが、原典者に物を運ばせるなど……」
「彼は原典者である前に、私の生徒だ」
オールマイトの声は静かだった。
「努力する機会まで奪うことを、保護とは呼ばない」
出久はその言葉を聞きながら、もう一度電子レンジを掴んだ。
足を肩幅に開く。
腕だけで持ち上げようとしてはいけない。
膝を曲げ、腰を落とし、脚へ力を入れる。
「う……おおおっ!」
電子レンジが、今度こそ砂浜から離れた。
腕が震える。
数歩進んだだけで、息が切れる。
回収場所までは、まだ何十メートルもある。
途方もなく遠く感じた。
それでも出久は、一歩ずつ歩いた。
保護官たちは今にも手を差し出しそうな顔で見守っている。
オールマイトだけが、助けなかった。
「背中が曲がっているぞ!」
「はい!」
「呼吸を止めるな!」
「はい!」
「無理だと思ったら、一度下ろせ! 休むことは敗北ではない!」
「はい!」
十メートルほど進んだところで、出久は電子レンジを下ろした。
両膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
情けないと思った。
この程度の物さえ、一度に運べない。
爆豪なら片手で持てるかもしれない。
雄英を受ける者たちは、もっと強いはずだ。
「悔しいか?」
オールマイトが尋ねた。
「……はい」
「では覚えておけ。その悔しさは、昨日の自分と比べるために使え。他人と比べて、自分を傷つけるために使うな」
出久は顔を上げた。
「君には個性がない。これから先、どれほど鍛えても、炎を出すことも、空を飛ぶこともできない」
厳しい現実だった。
「だが、できないことばかり数えていては、できることまで見失う」
オールマイトは電子レンジを指差した。
「つい先ほどまで、君はそれを持ち上げられなかった。だが今は、十メートル運んだ」
たった十メートル。
けれど、確かに自分の力で進んだ距離だった。
「はい」
出久は息を整え、再び腰を落とした。
「まだ、運べます」
「その意気だ!」
再び電子レンジを持ち上げる。
一歩。
また一歩。
誰にも運ばせず、誰にも抱えられず、自分の足で進んでいく。
それは、どこにでもいる少年の小さな努力だった。
しかし、遠く離れた防波堤の上には、望遠レンズを構えた報道関係者が潜んでいた。
厳重な情報統制を潜り抜け、撮影された一枚の写真。
ごみにまみれ、歯を食いしばり、古びた電子レンジを運ぶ原典者の姿。
その写真は、その日の夜には世界中へ広がった。
翌朝。
多古場海浜公園の入口には、数千人もの人々が集まっていた。
出久と同じようにごみを運び、その行為を聖なる奉仕として広めようとする信奉者たち。
彼らが掲げる旗には、こう記されていた。
『原典への道を、我らも共に歩まん』
警備員は頭を抱えた。
自治体は混乱した。
保護委員会からは、訓練の即時中止を求める連絡が入った。
そして出久は、集まった人々を前に立ち尽くしていた。
ただ一人で努力することさえ。
この世界は、彼に許してくれなかった。