第四話 祈る手、働く手
早朝の多古場海浜公園を、異様な静けさが包んでいた。
海岸の入口から道路の向こうまで、数え切れないほどの人々が集まっている。
老若男女。
会社員。
学生。
僧衣をまとった者。
白い衣装を身につけ、胸元へ原典者の紋章を掲げる者。
その多くが清掃道具を持ち、出久が現れると同時に深く頭を下げた。
「原典様」
先頭に立つ老人が呼びかける。
「我々も、あなた様と共に浄化の務めを果たしたく参上いたしました」
出久は言葉を失った。
昨日まで、ごみだらけだった海岸。
今日から少しずつ片づけていくつもりだった場所。
それが今は、巨大な祭壇のように扱われている。
人々の後方には報道陣が押し寄せ、何台ものカメラが出久へ向けられていた。保護官たちは柵を作り、群衆が海岸へ侵入しないよう懸命に制止している。
「訓練は中止だ」
隣に立つオールマイトが低い声で告げた。
痩せた姿を隠すため、帽子と大きなマスクをつけている。
今日ここにいる人々は、彼がオールマイトだとは知らない。
「これほどの人数が一度に入れば事故が起きる。出久少年は護衛車両へ戻りなさい」
「でも……」
「君が残れば、人々は帰らない」
正しい判断だった。
出久が海岸から離れれば、集まった者たちも解散するだろう。
少なくとも、ここで何千人もの人間が一斉にごみを運び始めるよりは安全だ。
出久は俯き、黒塗りの車へ戻ろうとした。
その時、群衆の中から幼い少女が飛び出した。
「原典様!」
警備員の間を抜け、出久へ走ってくる。
転びそうになりながらも、小さな両手で何かを抱えていた。
「お守りを持ってきました!」
少女が差し出したのは、手作りの布袋だった。
白い布に、不格好な赤い円が縫いつけられている。
「お母さんと作りました。怪我が早く治りますようにって」
「……ありがとう」
出久は受け取ろうとして、手を止めた。
自分がそれを受け取れば、このお守りには特別な価値が生まれる。
原典者が受け取った品。
原典者が触れた布。
きっとその写真が広まり、模倣品が作られ、少女や家族が望まない形で利用される。
保護官も同じ懸念を抱いたのか、二人の間へ身体を入れようとした。
だが、少女は出久を見上げていた。
そこに狂信的な熱はない。
ただ、怪我をした人を心配する子供の顔がある。
出久は膝をついた。
「ありがとう。もらってもいい?」
少女の表情が明るくなる。
「はい!」
出久は布袋を受け取った。
「でも、これは僕だけのお守りにするね。写真には撮らせないし、誰にも貸さない。それでもいいかな?」
「うん!」
「約束する」
小指を差し出す。
少女は少し驚いた後、出久の指へ自分の小指を絡めた。
その瞬間、群衆のあちこちからすすり泣く声が聞こえた。
「なんと慈悲深い……」
「子供へ自ら触れてくださった」
「やはり、あの御方は……」
出久は小さく息を吐いた。
ただ子供と約束しただけだった。
それさえも、彼らは奇跡に変えてしまう。
立ち上がった出久は、少女を母親のもとへ送り届けると、集まった人々を見渡した。
「皆さん」
拡声器は使っていない。
しかし、誰かが声を上げるよう周囲へ合図し、ざわめきは瞬く間に消えた。
数千人が、出久の次の言葉を待っている。
その光景に足が震えた。
自分は演説家ではない。
ましてや、人々を導く聖人などではない。
それでも、この場を離れるだけではいけないような気がした。
出久が何も言わなければ、彼らは自分たちに都合のよい意味を作り上げる。
「皆さんが、海岸をきれいにしようと思ってくれたことは嬉しいです」
頭を下げようとすると、周囲の保護官が慌てた顔をした。
それでも出久は続けた。
「でも、僕と同じことをする必要はありません」
群衆が僅かにざわめく。
「僕がここを掃除しているのは、修行だからです。特別な儀式ではありません。この海岸が、神聖な場所だからでもありません」
最前列の老人が困惑した顔をした。
「しかし、原典様が選ばれた土地です。ならばここは、新たな聖地として――」
「違います」
出久ははっきり告げた。
「ここは、ごみを捨てられて困っていた人たちの海岸です」
老人の言葉が止まる。
「僕が来たことで特別になったんじゃありません。誰かが大切にしていた場所へ、たくさんのごみが捨てられていた。だから片づけます」
出久は人々が持っている清掃道具を見た。
「皆さんが誰かの役に立ちたいなら、ここで僕を見ている必要はありません」
一人一人へ届くよう、ゆっくりと話す。
「自分の家の近くを見てください。困っている人がいないか、汚れている場所がないか探してください。僕と同じ場所に集まるんじゃなくて、自分がいる場所で、できることをしてください」
それは命令ではなかった。
教義でもない。
出久が心から思っていることだった。
しかし、群衆の反応は彼が望んだものとは少し違った。
「原典様は、我ら一人一人へ使命をお与えくださった……」
誰かが感極まった声で呟く。
「各々の地で、人々へ奉仕せよと」
「なんと深いお言葉だ」
再び祈りが始まりそうになる。
出久は頭を抱えたくなった。
「だから、そういうことじゃ……」
その時だった。
「いつまで突っ立ってんだ、クソども!」
群衆の後方から、聞き慣れた怒声が響いた。
人々が驚いて振り返る。
その間を、爆豪勝己が堂々と歩いてきた。
両手をポケットに突っ込み、肩には大きなスポーツバッグを提げている。
保護官が前へ出た。
「止まりなさい。これより先は――」
「どけ」
「原典者への接近には許可が必要です」
「そいつの家から許可は取ってある」
爆豪はバッグから一枚の書類を取り出し、保護官の胸へ押しつけた。
そこには、引子の署名と原典者保護局の臨時接触許可印があった。
出久が目を丸くする。
「かっちゃん、どうして……」
「てめぇの母親から頼まれた」
「お母さんが?」
「一人で無茶しねえように見張れってな」
爆豪は群衆を睨みつけた。
大人たちの多くが、十五歳の少年から目を逸らした。
「掃除したきゃ勝手にやれ。ただし、こいつの真似だの、使命だの、気色悪い理由をつけんな」
「貴様、原典様に向かってなんという口を!」
僧衣の男が怒鳴る。
爆豪の掌から、ぱちりと火花が散った。
「原典様じゃねえ」
その言葉に、空気が変わった。
爆豪は出久を親指で指す。
「こいつはデクだ」
人々の中から非難の声が上がる。
デク。
無能。
何もできない者。
神聖な原典者に対して使うには、あまりにも不敬な呼び名だった。
保護官たちも緊張し、爆豪を取り押さえるべきか迷っている。
しかし、出久だけは怒らなかった。
爆豪が自分をそう呼ぶ時。
そこに敬意はない。
祈りもない。
遠慮もない。
けれど、だからこそ、出久を出久として見ている。
「かっちゃん」
「あ?」
「手伝ってくれるの?」
「勘違いすんな」
爆豪はスポーツバッグを地面へ下ろした。
中から作業用の手袋とタオルが出てくる。
「てめぇだけ訓練して、俺に追いついたつもりになられんのがムカつくだけだ」
「そっか」
出久は笑った。
「ありがとう」
「礼言うな! ぶっ飛ばすぞ!」
爆豪の怒声を聞き、群衆はさらにざわめいた。
出久はその反応を見てから、思い切って口を開いた。
「この人は、僕の幼馴染です」
「違ぇ!」
「かっちゃんは昔から、僕を特別扱いしません」
「話聞けや!」
「だから皆さんも、僕をそんなふうに扱ってくれたら嬉しいです」
出久は爆豪を見た。
「怒鳴ったり、ぶっ飛ばそうとしたりするところは、真似しなくていいですけど」
「デクてめぇ!」
爆豪の掌で爆発が起きる。
出久は反射的に一歩後ろへ下がった。
保護官たちが一斉に構え、群衆から悲鳴が上がる。
それでも出久は逃げなかった。
爆豪も攻撃しなかった。
二人の間にあるのは、神と信奉者の関係ではない。
どこにでもいる幼馴染同士の、歪で不器用な距離だった。
それを理解できた者が、群衆の中に何人いたのかは分からない。
しかし、やがて一人の女性が清掃道具を置いた。
出久へ深く頭を下げると、海岸から離れていく。
続いて、何人かが帰り始めた。
自分たちの住む町で、ごみを拾うために。
全員が立ち去るまでには数時間を要した。
一部の熱心な信奉者は最後まで残ろうとしたが、自治体が後日の清掃活動について案内したことで、ようやく解散した。
海岸に残ったのは、出久とオールマイト、爆豪、護衛や医療関係者だけだった。
「どうにかなった……」
出久が安堵の息を吐く。
「全然なってねえ」
爆豪が吐き捨てた。
「今日の訓練時間、ほとんど潰れてんじゃねえか」
「あ……」
出久が時計を見る。
既に予定開始時刻を三時間も過ぎていた。
「三時間分、延長して――」
「それは禁止だ」
オールマイトが即座に告げる。
「決められた時間以上の訓練は認めない」
「でも、このままじゃ計画に遅れが……」
「遅れを取り戻すために無理をして、身体を壊せば全てが終わる。今日できなかった分は、計画を見直して調整する」
「……はい」
納得しきれない様子の出久に、爆豪が舌打ちした。
「なら、とっとと始めんぞ」
「かっちゃんもやるの?」
「だから、見張りだっつってんだろ」
そう言いながら、爆豪は砂浜に転がっていた大きなタイヤを片手で持ち上げた。
出久が昨日、少し動かすだけで全身の力を使ったものだった。
「指定場所はどこだ」
「向こうだけど……」
「チンタラすんな。置いてくぞ」
爆豪は歩き出す。
出久も慌てて電子レンジへ向かった。
その後ろ姿を眺めながら、オールマイトは僅かに目を細めた。
「彼が爆豪勝己少年か」
同行していた保護官が頷く。
「緑谷様と最も長く交流を続けている同世代です。言動に問題はありますが、危害を加えた記録はありません」
「随分と荒っぽいようだが」
「必要な人物でもあります」
保護官は、遠ざかっていく二人を見た。
「我々は緑谷様を守れます。ですが、普通に接することができません」
「……そうだな」
「爆豪少年は、緑谷様を原典者とは呼ばない。昔から一度も」
出久が電子レンジを持ち上げる。
爆豪が何かを怒鳴る。
出久も珍しく大きな声で言い返した。
オールマイトはその光景を見ながら、自分が教えるべきことを考えた。
力。
技術。
判断力。
無個性の少年がヒーローとして生き残るためには、その全てが必要になる。
しかし、それだけでは足りない。
この少年には、自分を神ではなく人間として扱ってくれる者が必要だった。
*
それから、出久の生活は大きく変わった。
午前五時に起床。
健康状態を確認した後、多古場海浜公園で二時間の基礎訓練。
学校では通常どおり授業を受け、放課後は雄英高校が用意した施設へ移動する。
そこで応急処置、避難誘導、救助ロープの扱い、護身術、個性犯罪への対処法を学ぶ。
家に帰れば、オールマイトから出された課題をこなす。
食事内容も変わった。
睡眠時間も厳密に管理された。
初めの一か月は、何度も吐いた。
走れば転び、重い物を持てば翌朝には腕が上がらなくなった。
護身術の訓練では、相手の攻撃を避けることすらできなかった。
出久へ攻撃を当てることを恐れた指導員が手加減しすぎ、訓練が成立しないこともあった。
そのたびに出久は頼んだ。
「僕を原典者ではなく、生徒として扱ってください」
それでも恐怖を拭えない指導員は多かった。
出久を転ばせた。
出久の腕へ痣を作った。
その事実だけで処分されるかもしれない。
やがてオールマイトは、プロヒーローや警察官の中から、原典者への過剰な信仰心を持たず、なおかつ秘密を守れる人間を選び直した。
その一人が、雄英高校教師の相澤消太だった。
「立て」
床に転がった出久を見下ろし、相澤は平坦な声で告げる。
訓練用の捕縛布に足を取られ、出久は何度目か分からない転倒をしていた。
肘当てをしているとはいえ、衝撃で腕が痺れている。
「まだ、やれます」
「聞いてない。立て」
出久は歯を食いしばり、立ち上がった。
相澤は一切手を貸さない。
「お前は相手を観察しすぎる」
「え?」
「動きを全て理解してから、最善の行動を選ぼうとする。だから遅い」
捕縛布が飛んでくる。
出久は右へ避けようとした。
しかし、それを読んでいた相澤が布の軌道を変える。
また足を取られかけ、今度は地面へ手をついて横へ転がった。
「今のは?」
「よくない」
即答だった。
「でも、避けられました」
「地面に手をついた瞬間、次の行動が制限された。俺がヴィランなら背中を踏んで終わりだ」
「……はい」
「最善を待つな。まず死なない手を選べ。考えるのは動きながらだ」
出久はノートへ書こうとして、相澤に取り上げられた。
「あっ!」
「今は身体で覚えろ」
「でも、記録を……」
「俺から一度攻撃を避けるまで返さない」
相澤の背後で、見学していたオールマイトが苦笑した。
そして訓練は再開された。
相澤の捕縛布が伸びる。
出久は避ける。
転ぶ。
立ち上がる。
また捕まる。
それを何度も繰り返した。
十四回目。
捕縛布が肩を狙って飛んでくる。
出久は軌道を見極めようとし――途中でやめた。
深く考えるより先に、身体を沈める。
布が頭上を通過した。
次の攻撃を警戒して、地面には手をつかない。
足を動かし、相澤との距離を取る。
「……合格だ」
相澤が捕縛布を止めた。
出久は目を輝かせた。
「今の、よかったですか!?」
「一回避けただけで騒ぐな」
そう言いながら、相澤はノートを返した。
「ありがとうございます!」
出久が深く頭を下げる。
「それもやめろ」
「え?」
「教えた対価として給料を貰っている。お前に頭を下げられる理由はない」
「でも――」
「一々感謝していたら、訓練時間が減る。合理的じゃない」
相澤は欠伸をしながら背を向けた。
「五分休憩。その後、もう一度やる」
ぶっきらぼうな言葉。
敬意も、祈りもない。
出久は嬉しそうにノートを開いた。
その日から、相澤は週に一度、出久へ危機回避と捕縛の基礎を教えるようになった。
*
三か月が過ぎた。
出久の身体には、目に見える変化が現れていた。
細かった腕に筋肉がつき、長い距離を走っても簡単には息切れしなくなった。
電子レンジは一人で運べるようになった。
小型の冷蔵庫も、台車へ載せられるようになった。
爆豪は毎日ではないものの、週に二、三度は海岸へ姿を見せた。
出久を手伝うわけではない。
自分の訓練をするためだと言い張り、爆破を使わずに重いごみを運び続けている。
出久より遥かに速く、遥かに重い物を運ぶ。
「遅ぇぞ、デク!」
「ま、待ってよ……!」
「実戦でヴィランに待ってくれっつうのか!」
「言わないけど、これは実戦じゃないよ!」
「口答えする体力あんなら走れ!」
二人のやり取りを、保護官たちは遠巻きに見守っている。
以前なら、爆豪が怒鳴るたびに制止していた。
今では、爆発が出久へ向けられない限り口を挟まない。
少しずつ。
本当に少しずつではあるが、彼らも出久を見守る方法を学び始めていた。
半年が過ぎた頃、海岸の半分からごみが消えた。
砂浜が姿を現し、近隣の住民が散歩へ訪れるようになった。
出久を見つけると祈る者は、今でもいる。
一方で、普通に声をかける者も増えていた。
「緑谷君、今日も頑張ってるね」
「はい!」
「無理するんじゃないよ」
「ありがとうございます!」
以前なら原典様としか呼ばなかった近隣住民が、名前で呼んでくれる。
それだけのことが、出久には嬉しかった。
しかし、全てが順調だったわけではない。
訓練開始から七か月目。
出久のもとへ、一通の脅迫状が届いた。
『原典を戦わせる者に、裁きを』
宛先は緑谷家ではない。
雄英高校でもない。
送りつけられた場所は、オールマイトの事務所だった。
原典者を神聖視する過激派団体。
彼らは出久がヒーローを目指すことを、人類の根源を汚す行為と見なしていた。
次に届いた手紙には、写真が同封されていた。
多古場海浜公園で訓練する出久。
その隣に立つ、痩せた姿のオールマイト。
そして、出久の自宅から出てくる引子。
赤い線が、三人の顔を結んでいた。
「訓練を中止すべきです」
保護局の責任者は断言した。
「少なくとも、犯人が特定されるまでは」
緑谷家の居間には、出久、引子、オールマイト、保護局の責任者が集まっていた。
窓の外では、武装した局員が周辺を警戒している。
「受験まで三か月しかありません」
出久は膝の上で手を握った。
「今止めたら、間に合わなくなります」
「あなたの命だけではありません。ご家族も狙われています」
出久の顔が強張る。
自分だけなら、まだ言い返せた。
だが、母まで危険に晒されるとなれば話は違う。
「私なら大丈夫よ」
引子が静かに言った。
「お母さん?」
「怖くないわけじゃない。でも、出久が悪いことをしているとは思わないもの」
「しかし、緑谷さん」
「この子は、誰かを傷つけるために頑張っているんじゃありません」
引子は息子の肩へ手を置いた。
「誰かを助けられるようになるために、毎日頑張っています。それを怖い人に脅されたからやめなさいとは、私は言えません」
責任者は難しい顔をした。
「警備体制をさらに強化します。しかし、今までと同じ場所で訓練を続けるのは不可能です」
「では、場所を変えよう」
オールマイトが言った。
「残る三か月は、雄英高校の敷地内で訓練する」
「でも、海岸はまだ全部片づいていません」
出久が反論する。
「最初に約束しました。十か月で全部片づけるって」
「約束より命が優先だ」
「それでも――」
「出久少年」
オールマイトの声が低くなる。
「君が一人で全てを背負う必要はない」
「でも、僕の訓練です」
「そうだ。だからここまで、君自身の手で運んできた」
オールマイトは窓の外を見た。
海岸へは、既に幾つもの清掃車両が向かっている。
出久が訓練を始めたことで、自治体と地元住民が不法投棄問題へ本格的に取り組み始めたのだ。
「君が動いたことで、周囲も動き始めた。君が最後の一つまで運ばなければ、努力が無意味になるわけではない」
出久は答えられなかった。
「ヒーローは、全てを一人で解決する者ではない」
その言葉には、オールマイト自身への戒めも込められていた。
平和の象徴として、全てを一人で背負ってきた男。
その結果、身体を壊し、それでも誰にも頼ろうとしなかった人。
「人に任せることを、敗北だと思うな」
出久は長い間、考えた。
やがて、小さく頷いた。
「分かりました」
翌日から、多古場海浜公園には出久の姿がなくなった。
残されたごみは自治体と住民たちの手によって片づけられていった。
誰もそれを聖なる奉仕とは呼ばなかった。
ただ、自分たちの海岸を取り戻すための活動として続けた。
それこそが、出久の望んでいたものだった。
*
そして、十か月目。
雄英高校入試当日の朝。
出久は鏡の前に立っていた。
大きく変わったわけではない。
身長は以前とほとんど同じ。
頬にはまだ幼さが残っている。
けれど、制服の下には十か月かけて鍛えた筋肉がついていた。
泥のヴィランへ飛び込んだ頃とは違う。
ただ走るだけで息を切らす少年ではない。
相澤から受け身と回避を学んだ。
警察官から護身術を学んだ。
救命士から応急処置を学んだ。
オールマイトから、助けて生きて帰るための基礎を学んだ。
それでも、個性はない。
指先から炎は出ない。
脚を強化して高速で走ることもできない。
空も飛べない。
無個性のままだった。
「行ってきます」
玄関へ向かうと、引子が待っていた。
既に目には涙が浮かんでいる。
「忘れ物はない?」
「うん」
「受験票は?」
「持った」
「お弁当は?」
「持ったよ」
「緊急端末と防犯装備は?」
「今日は入試規定で使えないから、保護官の人が預かってる」
「そうだったわね……」
引子は何か言おうとして、口を閉じた。
そして、息子の制服の襟を整える。
「頑張ってね」
「うん」
「でも、危なくなったら逃げるのよ」
「うん」
「絶対に無茶しないで」
「……できるだけ」
「出久」
「無茶しません」
言い直すと、引子はようやく微笑んだ。
玄関を出る。
保護官たちが待っていた。
入試会場まで護衛されることは変わらない。
雄英高校の門では、他の受験生と別の入口へ案内される予定だった。
だが出久は、それを事前に断っている。
受験生と同じ門から入り、同じ説明を聞き、同じ試験を受ける。
そこだけは譲らなかった。
雄英高校へ到着すると、巨大な校舎を前にして足が止まった。
テレビや写真では何度も見た。
だが、実際に目の前へ立つと、その大きさに圧倒される。
「ここが……雄英」
胸が高鳴る。
ようやく辿り着いた。
夢を語ることすら許されなかった自分が、受験生としてこの場所に立っている。
校門の周囲には多くの受験生がいた。
彼らは出久の胸元の徽章に気づき、次々と動きを止めていく。
道が開いた。
いつものように。
人々は出久から距離を取り、頭を下げる。
数人は端末を取り出そうとし、保護官に止められていた。
出久は息を吐き、開かれた道を歩き出す。
その途中。
緊張で足元への注意が疎かになり、僅かな段差に靴先を引っかけた。
「あっ」
身体が前へ傾く。
十か月前なら、そのまま顔から転んでいただろう。
出久は反射的に足を踏み出し、重心を戻そうとした。
しかし、倒れる勢いを完全には止められない。
その瞬間、身体がふわりと軽くなった。
「大丈夫?」
柔らかな声が聞こえた。
出久の身体が宙に浮いている。
目の前にいたのは、丸みのある頬と茶色い髪を持つ少女だった。
指先の肉球を合わせると、出久の足がゆっくり地面へ戻る。
「ご、ごめんなさい! 勝手に個性を使って!」
少女は出久の徽章に気づき、顔を青ざめさせた。
「原典者の人に許可なく触ったら、法律違反だよね!? どうしよう、受験前に逮捕される!」
「だ、大丈夫です!」
出久は慌てて両手を振った。
「転びそうなところを助けてもらっただけです! 緊急時の救助行為に同意は必要ありません!」
「本当?」
「原典者保護法第十二条の三項に書いてあります!」
「条文まで覚えてるんだ……」
少女が目を丸くする。
それから、ほっとしたように笑った。
「よかった。試験前に縁起悪いもんね」
彼女は出久へ頭を下げなかった。
手を合わせることもしなかった。
周囲の受験生たちのように、恐る恐る距離を取ることもない。
ただ、同じ試験を受ける相手として笑いかけてくれた。
「ありがとう」
出久は自然に言った。
「助けてくれて」
「ううん。お互い、頑張ろうね」
少女はそう告げると、校舎へ走っていった。
出久は、その背中をしばらく見つめていた。
「……普通に話してくれた」
小さく呟く。
十か月の訓練を終えて最初に受け取ったものは、称賛でも祈りでもなかった。
名前すら知らない少女から向けられた、ごく普通の親切だった。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
「何ニヤけてんだ、クソデク」
背後から声がした。
「かっちゃん!」
爆豪が苛立った顔で歩いてくる。
周囲の受験生が慌てて道を空けるが、爆豪は出久の肩へぶつかる寸前まで近づいた。
「ここまで来た以上、原典者だからって落ちた時の言い訳にすんじゃねえぞ」
「しないよ」
「俺の邪魔もすんな」
「うん」
「あと、さっきの女に触られて浮かれてんじゃねえ!」
「そ、そういうんじゃないよ!」
「うるせえ!」
爆豪は校舎へ向かって歩き出す。
出久もその後を追った。
特別な入口ではなく。
用意された安全な道でもなく。
大勢の受験生が進むのと同じ場所を、自分の足で歩いていく。
校舎の上階。
窓の向こうから、根津とオールマイトが二人を見下ろしていた。
「彼は、無事にここまで来ましたね」
根津が言う。
「ああ」
痩せた姿のオールマイトが頷く。
「だが、本当に厳しいのはここからだ」
雄英高校の実技試験。
仮想敵を倒し、得点を競う試験。
個性を持たない出久には、あまりにも不利な内容だった。
装備の持ち込みは禁止。
支給されるのは、薄い手袋と最低限の防具だけ。
鍛えたとはいえ、中学生の身体で機械の仮想敵を破壊することは困難だ。
「彼は何点取れると思います?」
根津が尋ねる。
オールマイトは答えなかった。
ただ、会場へ向かう出久の背中を見つめる。
出久には個性がない。
強大な力もない。
けれど、オールマイトは知っている。
雄英高校の試験には、仮想敵を破壊することで得られる点だけが存在するのではない。
公表されていない、もう一つの評価。
危険に晒された者を助けるため、己の身を顧みずに動けるか。
救助点。
泥のヴィラン事件で、誰よりも早く走り出した少年にとって。
それは決して、遠い点数ではなかった。
「私は」
オールマイトは静かに笑った。
「彼なら、我々の想像を超えてくると信じている」
やがて試験開始を告げる声が、会場全体へ響き渡った。
『実戦じゃ、カウントなんざありゃしねえ!』
プレゼント・マイクの声。
『走れ、受験生! さあ、実技試験開始だ!』
巨大な門が開く。
個性を持つ受験生たちが、一斉に駆け出した。
炎が上がる。
電撃が走る。
強化された脚が地面を蹴り、飛行能力を持つ者が空へ舞い上がる。
その中で、緑谷出久も走り出した。
誰よりも遅く。
誰よりも非力で。
それでも確かに、ヒーローを目指す一人の受験生として。
無個性の少年にとって、最初の本当の試験が始まった。