俺が霊夢と出会ったのは、先週の日曜日のことだった。
初夏の晴天はまさしくツーリング日和。俺は県境をまたいで一日中YZF-R3で走っていた。
ライダーの間ではそれなりに噂になっている峠道は、景色も空気も最高で、俺は夢中で愛車を走らせた。
そうして気が付けば、太陽はすっかり傾き、帰路につく頃には夜になっていた。
このまま下道を走っていては、家に着くのは深夜にさしかかってしまう。明日も大学があるので、あまり遅くはなりたくない。仕方がなく俺は、滅多に使わない高速道路を利用することにしたのだ。
そして、この判断こそが、俺の日常を決定的に変えてしまうことになった。
◆◆◆
高速道路に乗ってからは、これといった渋滞もなく、暴走族のような治安の悪い連中もいなかったので、快適に走ることができた。変わり映えのしない景色は退屈だが、それも便利さと引き換えだと思えば仕方ない。
この調子で行けば、帰宅してから夕飯を食べて風呂に浸かっても、余裕で日付が変わる前に布団に入れるだろう。
ふと、設置された案内標識が目に入った。次のサービスエリアまで、あと3kmの文字。
途端に、体が重くなった感じがした。今日は一日中運転していたのだから、無意識のうちに疲労が蓄積していたのだろう。
目的のインターチェンジまでもう少しだが、ここで無理をして事故を起こしたら笑えない。
休憩がてら適当に飲み物も飲もう。
俺はサービスエリアに入るため、左の車線に移動した。
程なくして見えてきたサービスエリアへの入り口にバイクを滑り込ませた。
初めて入ったサービスエリアだったが、それなりに規模が大きい。夕飯時なこともあってか、人出も多く賑わっている。
早々に駐輪場にバイクを停めて降りる。数時間ぶりの地面の感触が妙に心強い。
ぐっと伸びをして、体の節々を伸ばしながら、人波をすり抜け自販機へと向かう。
大きなサービスエリアなこともあってか、自販機も相当な数が並んでいた。色とりどりの自販機がずらりと並ぶ様は、さあ買え、飲み物を買え——と、迫ってくるような感じがする。
俺は桃の味付けがされた天然水を一本購入した。
一口飲むと、甘みのある冷たい水が喉の奥へと染み渡っていく。
俺の体は、俺が思っていた以上に水分を欲していたらしく、五百ミリリットル入りのペットボトルは、あっという間に空になった。
「よし、行くか」
家まであと一息だ。
俺は空のペットボトルを弄びながら、駐輪場に向かって歩き出す。
確か駐輪場の側にはゴミ箱もあったはずだ。
意外にも、駐輪場に停まっているバイクは俺のYZF-R3だけだった。
これだけ賑わっているのだから、他にもバイカーがいてもおかしくないと思うのだが。
駐輪場は敷地の端の方にあるため、少しだけ喧騒が遠い。
まあ、他に人がいない方が気を遣わなくていいから楽だ。
駐輪場のそばに設置されたゴミ箱にペットボトルを放り込み、バイクに向かおうとしたその時、視界の端で人影を捉えた。
そちらに目をやると、ゴミ箱のすぐ横に設置されたベンチに、老婆が一人座っている。
俯き座るその老婆の肌は嫌に青白く、灯りもほとんどない暗がりの中で浮かび上がって見えた。
少し気味が悪いと思いつつ、俺は心配が勝っていた。
かなりの老体に見えるが、近くに家族らしき人の姿はない。もしかしたらはぐれたのかもしれない。
俺は老婆に歩み寄った。
近くで見ると、その老婆はボロ切れのような和服を纏い、小刻みに震えている。
「こんばんは、お婆さん」
努めて愛想よく聞こえるような声音で話しかけた。
「…………」
老婆はもごもごと口を動かすだけで、こちらを見もしない。
俺は軽くしゃがんで老婆に目線を合わせた。
「ご家族の方は一緒ですか? もしはぐれたなら一緒に探しますよ」
「…………」
俯いたまま、反応がない。
もしかしたら耳が聞こえなかったりするのだろうか。
俺の手に余るようなら、サービスエリアの係員を呼んだ方がいいかもしれない。
顔を覗き込もうとしたその時、老婆はナメクジのようにぬったりと、顔を上げて俺を見た。
皺だらけの顔を歪め、枯れ葉を踏み締めるような声で老婆は言った。
「ター坊はどこかぇ……?」
「ター坊? お孫さんですか?」
「ター坊……ター坊……どこ行っちまったんだい……」
「あー、もしよろしければ、俺が一緒に探しますよ?」
老婆はぎょろりと目を剥いた。
「お前さんがター坊だね?」
「えーと……」
弱った。これは間違いなく俺の手に負えないやつだ。
とりあえずサービスエリアの係員を呼んだ方がいいだろう。
俺は立ち上がって、宵闇の中で輝く大きな建物の方を振り返る。
あの建物のどこかに案内所があったはず……。
サービスエリア内の地図を見とておけばよかった。
「お婆さん、俺ちょっとサービスエリアの人を呼んできますから、戻ってくるまでここに——」
老婆へと向き直った瞬間、俺は絶句した。
——誰もいない。
今の今まで老婆が腰掛けていたはずのベンチだけが、ぽつんと佇んでいるだけ。
咄嗟に辺りを見回すが、老婆はおろか人影すらない。
ぞわりと背筋に薄ら寒いものが走った。
心臓の鼓動が加速しているのが分かる。
やってしまった。まさかこんな所で視てしまうとは。
とにかく急いでこの場を離れた方がいいだろう。
一目散に俺はバイクへと駆け寄った。
ヘルメットを被り、キーを挿し込む。
「ねぇ」
「うわぁっ!」
突如、背後から聞こえた声に、文字通りひっくり返りそうになった。
いつでも逃げ出せるように身構えながら、ゆっくりと振り向く。
——そこにいたのは、奇妙な格好をした少女だった。
歳の頃は高校生か、下手をすれば中学生くらいにも見える。
赤いリボンを後頭部に着けて、紅白の服に身を包んでいる。この紅白の服がまたおかしなデザインで、巫女服を改造したような見た目をしている。
和風ロリィタとでも言うべきか、あるいはコスプレか。
とにかくそんな異様な風体をした少女が、じっと俺を見つめている。
「な、何か……?」
「アンタ、憑かれてるわよ」
「は、何を言って……」
「視える側なんでしょう?」
全身に鳥肌が立つのを感じた。
この少女は知っているのだ。
俺が生まれつき視えるモノたちを。
俺が今、見てしまったモノを。
「お前、何なんだ?」
俺は愛車のハンドルを握りしめる。セルスイッチに指をかけ、いつでもエンジンをかけられるようにした。
この少女が飛びかかってきたとして、俺は逃げられるのだろうか?
そんな俺を見た少女は、面倒くさそうにため息をついた。
「私はそこそこ普通の人間よ。とりあえず逃げるのはナシにしてよね」
「…………」
俺は黙ってセルスイッチを入れた。一瞬モーターが回る音がして、すぐにエンジンがかかり、YZF-R3が唸り始める。
少女は顔をしかめた。
「ちょっと、話を聞きなさいよ。私ならアンタを助けられるわ。だからそのよく分からない自転車みたいなやつ静かにさせて」
俺は短く返す。
「信用できない」
間違いなくあっち側の老婆に、おそらく普通ではない少女。
小さい頃からそういうモノが見えていた俺が知っている対処法はただ一つ。
——関わらないことだ。
バイクに跨り、クラッチを握ってギアを入れる。
焦りからいつになく乱暴な操作で、俺はサービスエリアから飛び出した。
決して振り返らず、ミラーすら見なかった俺は、残された少女が空中に開いた裂け目へと姿を消すところを見ることはなかった。