引退から数年が経った、秋の夜。
トレセン学園のテラスの一角には、控えめな灯りが残されていた。
テーブルを挟んで、アーモンドアイとラッキーライラックが向かい合っている。
二人の前には、すっかり冷めた紅茶と、手つかずのケーキ。
「せやからな」
ララは身振り手振りを交えて続ける。
「最近できたあの店、デカ盛りにも程があるねん。
パフェの上に唐揚げ、その横にカレー。もう思想が迷子やろ」
「……想像しただけで重いわね」
アイはカップを持ち上げかけて、やめた。
「せやろ?
せやのに“完食したら壁に写真貼ります”言うてな……」
ララは、ふっと言葉を切り、アイの顔をじっと見た。
「……アイさん、まさかとは思うけど」
一拍置いて、にやりとする。
「『私は負けない!』とか言うて、突撃したんやないよな?」
「……」
アイは、ほんの一瞬だけ固まったあと、
わざとらしく視線をすっと横に逸らした。
「…………」
その沈黙に、ララの表情が変わる。
「えぇ……」
完全に素の声だった。
「いや、それは引くわ……
ちょっと待って、ほんまに行ってないやんな?」
「行ってないわよ」
アイは即答した。
しかし目線は、相変わらずテーブルの端を見つめている。
「……さすがに」
「“さすがに”が付く時点で怪しいんよ」
ララは深いため息をついた。
「ほんま、あんたのその負けず嫌い、
どこに女子力置いてきたんやろな」
「……失礼ね」
アイはそう言いながら、口元だけで微笑んだ。
他愛のない会話だった。
スイーツの話、学園の噂、引退後の生活。
レースとは何の関係もない、どうでもいい話。
二人は、そういう話だけを選んで、
長い時間をやり過ごしてきた。
けれど、ララは気づいている。
アイが、ケーキに一度も手を伸ばしていないこと。
姿勢が、現役の頃と同じくらい、きっちりしていること。
(…相変わらず、まっすぐでわかりやすいお人やなぁ)
そう思いながらも、何も言わなかった。
やがて、会話が途切れる。
笑いも、ツッコミも、ふっと消えた。
アイが、ゆっくりと息を整える。
視線が、ようやくララに戻る。
「……ねえ、ララ」
声の調子が、ほんのわずかに変わった。
「ずっと、あなたに聴きたかったことがあるの」
ララは、もう茶化さなかった。
ただ一言も発さず、アイを見つめ返す。
その無言が、答えだった。
(ああ、ついにその時が来たのか)
そんな予感が、夜のテラスに満ちていく。
周りの声が、喧騒が遠くなる。
アイは、ひとつ息を吸い込んだ。
その短い静寂が、過去への扉を開いた。