1. 未勝利戦の少女
朝日が寮の窓から差し込む。
少女は深呼吸をひとつして、今日の未勝利戦への決意を胸に抱いた。
「よし、やるぞ!」
ゲートが開くと同時に飛び出す。全力で駆け、ゴール前には自然と笑みが溢れた。3馬身差の圧勝――その瞬間、少女の胸には達成感と喜びが満ちた。
レース後、大好きなママに電話をかける。
「ママ! 勝ったよ!」
電話の向こうからは、温かく笑う声。
「この間はデビュー戦で負けて拗ねてたって聞いたよ。もう、あんたってば……」
デビュー戦――あのときの悔しさを思い返す。
泣きはしなかったけれど、口元を小さく膨らませ、眉をひそめて拗ねていた。
勝てば上機嫌、負ければ拗ねる――ごく普通の少女の姿。
未来にはなんの不安もなかった。
G1の舞台のことも、まだ遠い夢として、当たり前のように心に描いていた。
───
2. 母の死と、自暴自棄な選択
未勝利戦の勝利から、そう時間は経っていなかった。
少女のもとに届いた知らせは、あまりにも突然で、理解する前に胸を打ち抜いた。
母・フサイチパンドラの死。
最初の反応は、泣き声だった。
声が枯れるまで、息が詰まるまで、ただ泣いた。
寮の部屋に閉じこもり、布団に顔を埋めて、子どもみたいに泣き続けた。
時間が経てば落ち着く、なんてことはなかった。
ひとりでいると、思い出してしまう。
電話越しの声。
笑い方。
「勝ったんだって?」と、少し誇らしそうに言ってくれたこと。
考えるな、と思えば思うほど、頭の中は母のことでいっぱいになる。
胸の奥がざわつき、息が詰まり、どうしていいかわからなくなる。
だから、逃げる先を選んだ。
――走れば、何も考えなくて済む。
へとへとになるまで走る。
足が重くなっても、息が上がっても、止まらない。
身体が限界を迎えれば、思考は薄れ、眠りに落ちるだけになる。
止まる=思い出す。
ひとりでいる=壊れる。
少女の中で、そんな歪んだ認識が、静かに根を張っていった。
トレーナーは事情を知っていた。
母を失ったことも、その後の変化も。
だからこそ、完全に止めることはできなかった。
───
3. 2人の出会いと止められた日
朝の練習を終え、疲労で体が鉛のように重くても、少女は止まらなかった。追い込んで、追い込んで、限界を迎えるため脚を前へと運ぶ。
遠くからそれを見ていたもう一人の少女――ララは、事情など何も知らない。ただ目の前の存在に、異様な違和感を覚えた。
練習量は尋常ではない。疲労も間違いない。なのに走りには力があり、それとは不釣り合いな、どこか虚ろな雰囲気を漂わせる。そして、なにより――疲れで歪んだ顔が、ララには泣くのを我慢しているように見えた。
「……今日はもうええんちゃう?」
ララは声をかける。名前も知らない相手に、ただ直感でそう言っただけだ。
少女は一瞬立ち止まった。誰だこの子……? それでも、不思議と、抗う気にはならなかった。
「一緒に帰ろ?」
もう一度、ララはやさしく言った。言葉に裏の正論も説教もない。
驚くほど素直に少女は止まる。その簡単さに、ララ自身も驚いた。
救ったわけではない。
ひとりにしてはいけない――ただそれだけの直感だった。
少女は立ち止まり、ララをちらりと見た。
まだ名前も知らない相手に、なぜか抗えない自分がいた。
───
4. 歪んだ回復の始まり
夜の静寂が部屋を包む。
窓から差し込む月明かりが、床に淡く影を落としていた。少女はベッドに身を横たえ、重いまぶたを閉じる。
――止まっても、世界は壊れなかった。
――走り続けなくても、眠れる。
――世界が、少し静かだった。
その理由を、無意識に思い浮かべる。
目の前で自分を止めてくれたあの子――名前も知らない存在。
見てくれている。
止めてくれる。
いなくならない。
家族に近い、温かい存在に思えてしまう。
それは、救いでも回復でもない。
ただ、崩壊が止まっただけ。
少女は目を閉じたまま、浅く息をつく。
明日もまた走らなければならないことも、今はどうでもよかった。
ただ、ただ、あの瞬間、自分が止まれたことを、そっと実感した。
───
5. 女王の活躍と、勝つことの意味
デビュー戦からしばらく経ち、ララはアルテミスSで見事な勝利を飾った。
その走りは学園内で注目を集め、「女王候補」として名
を馳せる存在となる。
「この人、あの時の――」
「…ラッキーライラック、さん」
あの日、自分を止めてくれた人の名前だった。
アイは、その名を初めて口にした。
止めてくれたあの存在が、名前を持つ、具体的な人になった瞬間だった。
止めてくれた存在は、自分に夢をくれた存在に変わった。
次走は阪神JF。ララは「女王」を獲りに行く。
アイは少し離れた場所から、その姿を見つめる。
走るたびに全力を尽くし、逃げずに、譲らずに、自分の走りを誇るララ。
勝利の重みが、その表情や仕草に滲んでいた。
ただ速いだけではない。
勝つことの意味を、アイは初めて肌で感じた。
「強くなりたい――」
その思いは自然に胸に芽生えた。
逃げるためでも、止まらないためでもない。
勝つ意味を知ったからこそ抱いた、真っ直ぐな欲求だった。
強さの中にある誇り、勝利への意志。
それを知った瞬間、アイは自分がこれまで追い続けてきたものとは、次元の違う世界に立っていることを、うっすらと理解した。
「ラッキーライラック、3戦3勝!
無敗の女王がここに誕生しました!」
ゴール前で全力を尽くす姿を見て、アイは息を飲む。
止めてくれた存在は、自分に夢を与えてくれる存在に変わっていた。
止まっていた時計が、動き出す。
あの日、未来にはなんの不安もなかった。
ただ今は、彼女の走りに心を奪われるばかり。
胸の奥で芽生えた羨望は、まだ言葉にならず、ただ静かに自分を突き動かしていた。