1. 祝福は素直に、視線はまだ同じ高さで
年が明けて、しばらく経った頃だった。
ドバイの話は、まだ先の予定だ。
三月末の開催に向けて、準備や移動が本格化するのはもう少し後。
今は、ほんの短い“間”のような時間。
だからこの集まりも、あくまで軽いものだった。
「ララ、ほんとにおめでとう!」
開口一番、アイはそう言って笑った。
取り繕う様子も、落ち着いた振る舞いもない。
ただ純粋に、嬉しそうだった。
「……ありがと」
「もう! その反応!」
「何やの」
「もっと誇っていいところでしょ。G1よ、エリ女よ?」
ララは肩をすくめる。
「結果が出ただけよ」
「違うわ」
アイは、はっきりと言い切った。
「ララが――“女王”が、戻ってきたってこと」
「……」
その言葉に、ララは一瞬だけ動きを止めた。
グラスを持つ指が、わずかに強ばる。
――復活。
――戻ってきた。
――女王。
そういう言葉には、どうしても身構えてしまう。
「女王て。私のんは、もうアイさんに禅譲済みやで」
「何言ってるのよ」
アイは、むしろ楽しそうに続ける。
「二人の女王。かっこいいでしょ?」
「私、知ってたもの」
「私のララが、これくらいで挫けるはずないって!」
「せやな」
ララは、すっと力を抜いて笑った。
「誰かさんが独占しよったさかい、私の分、回ってこんかっただけや」
「ちょっと、それどういう意味?」
「心当たり、あるやろ?」
軽口。
いつも通りのやり取り。
ララは普段通りに見えるのに、
復活や再戦といった話題には、
どこか一線を引くくせに。
「でも、これでやっとよね」
「なにが?」
「また、“ちゃんと”戦えるってこと」
アイの声には、迷いも、重さもなかった。
むしろ――楽しみで仕方がない、という響き。
「いつにする?」
「……はい?」
「次。いつやる?」
あまりにも当然のように言うものだから、
ララは思わず吹き出した。
「気、早すぎるやろ」
「だって、そうでしょ?」
アイは笑う。
「追いついたんだもの。その先があるじゃない」
――追いついた、その先で。
その言葉は、まだこの時点では、重すぎなかった。
二人の視線は、同じ高さにあった。
「ま、そう焦らんでもええ」
「焦ってないわよ?」
「焦っとる顔や」
「してない!」
「アイさん、ステイ!」
「ララっ!?」
そんなやり取りをしながら、時間は穏やかに過ぎていく。
有馬記念の話は、深く触れられなかった。
ドバイの話も、まだ現実味を帯びていない。
この時のアイは、思い詰めてなどいない。
ただ前を向いて、次を考えているだけ。
そしてララもまた、
“戻った”と言われることに、少しだけ身構えながらも、
まだそれを笑って受け流せていた。
───
2. 初夏へゆく君/うららかな春
私は今年も中山記念から始動した。
中団からの運び、最終コーナーを回ると、前との差はわずかだった。直線で脚を伸ばす。
坂を越え、小回りをこなす。一年ぶりの舞台だがやっぱりそうだ。負けはしたが、敗北よりも手応えが大きい。
「……中山でも行けそうやな」
小さく呟く。
阪神ほどではないが、やはりこの舞台は合う。
その実感を得ただけでも十分だった。
続く大阪杯。阪神レース場との相性は間違いない。今回は前目につけ、迷いなく仕掛けた。
自身は後方脚質に変わったがそれでも阪神は前が有利。直線で接触もあったが、体幹がぶれない。押し切れる――そう信じた通り、ゴール前で前を捕らえて、差し切った。
ティアラ限定だけでない。私は力をつけている。確かな手応えが、身体の成長を証明していた。
宝塚記念はチャンスのはずだったが、急な雨。ぐちゃぐちゃになった馬場は、一周回って相性最悪だった。
力任せの末脚は滑って空回り。
クロノジェネシスの重馬場適性に、屈して六着。敗因は明白で、体感できたこと自体が前進だった。
――まだ、伸びられる。
成功も失敗も全部飲み込んで、糧にできてる実感があった。
───
私は今年もドバイから始動。…だったんだけど、世界的に流行した感染症に、とうとう中止が決定した。
世界情勢の混乱に、私を含め出走予定のメンバーは急なドバイ観光をするしかなかった。
レースはしていないが、疲労は確実に蓄積されている。それでも日本の代表として帰国後の活躍を誓った。
元々ドバイと安田記念で春は切り上げる予定だったけど、この異常事態に、もう一戦、どこかが必要だった。ヴィクトリアマイル参戦は、そんな事情の結実で。
正直力は抜けている。独走で快勝。レコードには、わずかに届かなかったが、それすら「余白」として受け止められる。
G1競争7勝は歴代最多に並んだ。周りからの圧力を感じる。次は8勝、新記録だと。
安田記念。スタートでわずかに遅れ、春の遠征疲労が微かに脚に影響したか、末脚の切れ味もイマイチ。
完璧ではない条件のなかで、二着。だが、それすら強さの証明となる。
負けることよりも、期待を裏切らないこと。今の私は、そんな場所に立っていた。
───
3. 成長する挑戦者
宝塚記念を敗れた私は、秋の大目標、エリザベス女王杯の連覇に向けて、夏の札幌記念を復帰戦とした。
宝塚記念の雨は予想していたが、あそこまでひどくなるのは想定外だった。あの後はトレーニングで確認していたが、レース場では別の課題が見つかるかもしれない。
今日のレースは、次への確認の場と割り切って挑んだ。
好スタートを決めたので、今日は先行に決めた。
この方が八割ほどでの巡航ができるので、感覚を試すには向いている。
特に問題なく最終コーナー。有力どころは私より後方、エリ女想定の子は…確か同期のノームコアさん。
手の内はさらさず、手札を増やす。このまま先行の脚を測ってしまおう。
最終直線、後方から飛んできた二人に差されるが、折り込み済み。勝ちたかったが、成果は十分。
「今日は完敗です。やっぱマイルが本線の二人はちゃいますなぁ」
ノームコアさんに声を掛ける。多分、信じてないやろうけど、油断してくれたら万々歳や。
そして、秋の大目標――エリザベス女王杯。札幌で得た情報はしっかり活用させてもらう。
スタートして先行したのはノームコアさん。
同期やし、引退が近い。もう一つG1タイトルを狙ってるんやろな。
せやけど今回は阪神レース場での代替開催。京都はともかく、阪神は私の庭や。好きなだけ逃げたらええ。
レースは終盤、最終コーナーが近づく。ノームコアさんはやはりガス欠で、先頭やけどもう限界。
最終コーナー、失速したノームコアさんが壁になり先団が固まる。私はそれを避けて大外に持ち出すと、そのまま抜け出した。
ウマ込みで内は無理。
外なら私より大回りする。
ならこのままゴールまで粘り切る。
後方、外から来るのを感じるが、大丈夫。今の私でもこれだけの脚は出せる。
「やりました! ラッキーライラック、連覇達成!」
「…ぷっはあ!」
ようやく確信して、息を吐く。完璧なレースプラン、最後は根性!
ようやく一息ついた。…最後はクビ差か。思った以上に詰められてた。
二着はサラキアさん、この子も同期かいな!
後で確認しとかんと。
年末の有馬記念。
中山の坂、相性はいいけど、それでも阪神よりはアカンな。最後のノビがイマイチやった。
勝ったクロノちゃんみたいに早めに前につけた方が良かったか。
エリ女二着のサラキアさんはすんごい脚で坂をものともせんかったし、中山もコツを掴んだらまだ私は成長できる。
今日で引退なんて悔しい。確かに悔しい。でも、それ以上に、理解もあった。
――まだ、伸びられる。
敗北も勝利も、すべては経験。身体も心も、まだ成長できる。
一年を通して、私は自分の背中を信じられるようになった。まだ完成ではない。レースからは離れても、私はまだまだ進化できる。
───
4. 完成した偶像
秋シーズンは天皇賞(秋)から。世間は私が勝つことを求めている。
G1タイトル7勝の壁を超えた「最強女王」がどんなコメントするかを待ちわびている。
挑戦者たちを前に、最後の百メートルで急加速。前を差し切り、先頭でゴールに飛び込んだ。
「予想通り」「期待通り」。
勝利の言葉が重なり、偶像としての存在を確かなものにする。
私はカメラに向かって両手で指を八本掲げた。
ジャパンカップ。
今年のクラシック世代は、三冠のコントレイルくん。
ティアラ三冠のデアリングタクトちゃんが、それぞれ無敗で記録を達成した。
そんな2人はみんなに夢を与えたいとジャパンカップでの対決を誓い、私にも挑戦状を叩きつけた。
「最強女王」として私は頷いた。
「新世代」か、「最強」か、皆が私たちに夢を見ていた。
レースが始まる。
あの日のようにキセキが逃げる。
今日は大逃げだ。後方をどんどん離していく。
私はやや後方で、冷静に状況を見極める。
直線、前を行くグローリーヴェイズをかわす。
さらに前を行くキセキを追い詰める。
後方からデアリングタクトとカレンブーケドール、大外からコントレイルが加速し、追いかけてくる。
迷いなく、ためらいなく。
すべてを振り切った。
G1九勝目。
拍手、歓声、称賛。
鳴り止まぬ「最強」の呼び声のなか、私は静かにスタンド前を引き上げた。
───
5. 春遠からじ
あの日始まった因縁は、解かれることなく今日へ行き着いた。
冬来りなば、春遠からじ。
終わらない2人の春はどこにゆくのだろう。