何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
第一話☆まだ何もしていない
目を開けると、天井に染みがあった。
右に二つ。左に一つ。
その間を走る細い亀裂も、見覚えがある。
戻った。
息を吸う。
喉は痛くない。胸も潰れていない。
毛布の外へ手を出すと、小さな指が五本並んだ。
「……よし」
声まで幼い。
何がよしなのかは、俺にも分からなかった。
☆
寝台から降りるだけで、ひと仕事だった。
足が床に届かない。腹ばいになって縁を越え、毛布にしがみつきながら、どうにか着地する。前はここで手を滑らせ、額を切った。
今回の俺は、そんな失敗はしない。
立ち上がった途端、膝が折れた。
床に両手をつき、しばらく待つ。
この時期の身体は、歩くというだけのことを大仕事にしてくれる。気を抜けば転ぶし、少し動けば眠くなる。剣を握る以前の問題だった。
それでも、戻れた。
廊下の向こうから、麦粥の匂いがする。
誰かが泣いていて、誰かがその泣き声に文句を言っている。窓の外では、まだ葉の少ない枝が揺れていた。
全部、いつもの朝だった。
俺は床を押し、もう一度立った。
☆
孤児院の朝食は、薄い麦粥と柔らかく煮た豆だ。
貧しくはある。肉が出る日は少ないし、服には継ぎが当たっている。
だが、腹を空かせたまま眠る子はいない。冬には薪が届き、熱を出せば神官に診てもらえる。王家からの支援が滞っていないおかげだと、昔、院長が教えてくれた。
ありがたいことだ。
俺もここの食事で育った。
ただ、今日は急いでいる。
「そんなに慌てたら、こぼしますよ」
「はい。申し訳ありません」
返事をしたところで、匙から粥が落ちた。
世話係の修道女が布を取りに行く。
俺は机を見つめた。
頭の中では、もう三つ先のことを考えている。それなのに、この手は粥ひと匙を満足に運べない。
焦っても仕方がない。
順番だ。
まず教会に入る。
神官として使えることを認めさせる。
それから公爵家へ近づく。
前回より早く。前回より確実に。
俺が手を伸ばせる場所に、お嬢様を置く。
「どうしました?」
戻ってきた修道女が、俺の顔をのぞき込んだ。
「手を、見せていただけますか」
「手?」
差し出された指には、細かいひび割れがいくつもあった。冷たい水で洗濯をしているせいだ。知っている。俺がここを出たあとも、この人はずっと子供たちの服を洗っていた。
その手に、自分の手を重ねる。
祈りの言葉は、考えるより先に出てきた。
掌が温かくなる。
指の間から、淡い光が漏れた。
修道女の息が止まった。
ひび割れがふさがっていくのを確かめてから、俺は手を離した。
「神官様に、お話を聞いていただきたいのです」
言い終える前に、抱き上げられた。
近い。顔が近い。
「院長先生!」
耳元で叫ばれ、俺は目を閉じた。
この人は、毎回声が大きい。
☆
昼までには、教会から人が来た。
夕方には、俺は馬車に乗せられていた。
見送りに出てきた修道女が、包みを膝に載せてくれた。
「お腹が空いたら、食べなさい」
中には、いつもより少し厚く切られたパンが入っていた。
「また顔を見せてくださいね」
「はい。お世話になりました」
深く頭を下げると、髪を撫でられた。
俺はこの先、何度もここへ戻ってくるのかもしれない。
けれど、この人にとっては、今日初めて俺を送り出すのだ。
馬車が動き始めても、修道女は手を振っていた。
俺も、小さな窓から手を上げた。
門が見えなくなるまで、下ろせなかった。
ここまでは、予定どおりだ。
多少早すぎる気もしたが、癒やしの力を持つ孤児など、教会が放っておくはずもない。まして、まだ一人で外を歩かせてもらえない年頃で、祈りの作法まで身につけている。
説明は、いつもと同じにした。
礼拝の言葉を覚えました。
手が痛そうだったので、お祈りしました。
温かくなったので、治ると思いました。
嘘はついていない。
誰の礼拝を、いつ覚えたのかまでは聞かれなかった。
大聖堂に着いてからも、似たような質問が続いた。祈りを唱え、用意された聖具に触れ、何人かの大人を驚かせる。
幼いからと侮られるのも困るが、驚かれすぎるのも困る。
日が暮れる頃には、眠気で瞼が落ちかけていた。
「立派な神官になれるでしょう」
「ありがとうございます」
「明日から、少しずつ学んでいきましょうね」
「はい。私にできることでしたら、何でも」
机の下で、両手を握る。
できることは多い。
癒やしも、結界も、書類仕事も。
人に見せるべきでない術も。
ただ、この身体では、できないことのほうがまだ多かった。
☆
与えられた部屋で、一人になる。
寝台。机。椅子。水差し。
前回と同じだった。
椅子によじ登り、机に紙を広げる。借りた筆は、握るには少し太い。
書き出した最初の文字が潰れた。
舌打ちしかけて、やめる。
誰かに見せるものではない。俺が読めればいい。
日付を書き、その下に必要なことを並べた。
神官としての実績。
公爵家への紹介。
異端審問官への道。
最後の行で、筆を止める。
あの娘は、まだ光の魔法に目覚めていない。
前回は、間に合った。
だから、お嬢様は学園を無事に卒業できた。
婚約を破棄されることもなかった。
結婚の日取りまで決まっていた。
そこまで考えて、指先に力が入った。
紙に黒い染みができる。
あれで終わりだと思った。
ようやく、お嬢様を幸せにできたのだと。
結婚の話を聞くたび、胸が痛んだ。
嫌な予感だと思っていた。
実際、そのあとには、もっとひどいことが待っていた。
筆を置く。
考えるのは、あとだ。
前回できたことは、今回もできる。
その先で失敗したなら、今度はその先を変えればいい。
明日は、外へ出る口実を作ろう。
あの娘の居場所は分かっている。
俺は紙を折り、机の引き出しへしまった。
寝台へ向かう前に、床に膝をつく。
疲れていても、これだけは欠かせない。
指を組み、目を閉じる。
祈りの言葉を、ひとつずつ口にする。
今日の食事に。
傷を癒やす力に。
もう一度、立ち上がる機会を与えられたことに。
そして最後に、お嬢様の無事を願った。
返事はない。
何度繰り返しても、神様は、どうすればお嬢様を救えるのか教えてくださらない。
それでも、力は貸してくださる。
なら、方法くらいは俺が探すべきだろう。
「明日も、よろしくお願いいたします」
頭を下げてから立ち上がろうとすると、足がしびれていた。
寝台までは、這って戻った。
☆
翌朝、部屋の扉が叩かれた。
「枢機卿猊下がお呼びです」
「……私を、ですか」
迎えの神官は、柔らかくうなずいた。
俺はまだ食べかけだったパンを見た。
枢機卿。
この王都アルヴェリアの大聖堂は、聖都に次ぐ規模を誇る。枢機卿がいらっしゃること自体は、何もおかしくない。
だが、なぜ俺が呼ばれる。
昨日、入ったばかりだぞ。
早い。
いくら何でも早すぎる。
前回、初めて会ったときには、神官としていくつも仕事を済ませていた。癒やしの力がある、というだけで呼びつける方ではない。
昨日、何かやりすぎたか。
修道女の手。
聖具への祈り。
質問への返事。
頭の中で順に確かめながら、長い廊下を歩く。
隣の神官は、俺の歩調に合わせてくれていた。ありがたいが、今はそれすらもどかしい。
通された部屋には、赤い衣の老人がいた。
机の上に、一通の書状がある。
見覚えのある紋章が、封蝋に押されていた。
心臓が、一度強く鳴った。
「急な話で悪いが、君の行き先が決まった」
枢機卿は、書状に手を置いた。
「公爵家からの指名だ。明日から、公女様のおそばに上がってもらう」
聞き間違いだと思った。
「……どなたが、ですか」
「君が」
「どちらへ」
「公爵家へ」
「何のために」
「公女様をお守りするためだな」
老人が、少し首をかしげる。
「難しかったかね」
難しい。
話の意味ではない。
話がこうなる理由が、まったく分からない。
まだ何もしていない。
公爵家に手紙は出していない。
出入りの商人にも会っていない。
紹介を頼むはずの神官には、挨拶さえしていない。
昨日ここへ来たばかりだ。
俺は書状を見た。
枢機卿を見た。
もう一度、書状を見た。
あの紋章を間違えるはずがない。
「……なんでさぁぁあ?!」
口から出ていた。
隣の神官が肩を跳ねさせる。
枢機卿の手が、書状の上で止まった。
俺は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。あまりに身に余るお話で」
「……なるほど」
納得しないでほしい。
できれば説明してほしい。
しかし枢機卿は、俺がどれほど尋ねても、公爵家たっての希望だと繰り返すだけだった。
☆
翌日には、ローゼンベルク家の王都屋敷の前にいた。
馬車の踏み台へ足を下ろす。
門も、庭も、玄関へ続く石畳も、何度も見たものだった。
なのに、息が浅くなる。
この時期の庭は知らない。
あの木は、こんなに小さかったのか。
出迎えた執事長に連れられて、屋敷へ入る。
きっちり撫でつけた髪には、まだ黒いものが交じっていた。
俺の知っているこの人は、いつも真っ白な髪をしていた。
……初めて見るな、こんなに若い執事長。
公爵夫妻への挨拶で何を話したのか、半分も覚えていない。幼い身で緊張しているのだと受け取られたらしく、奥様は何度も優しく声をかけてくださった。
その向こうに、金色が見えた。
小さな椅子に、背筋を伸ばして座っている。
両手を膝にそろえ、こちらを見ていた。
……あれ?
この頃のお嬢様は、その、ずいぶんとお転婆だったと聞いている。
奥様も、昔はじっと座っているだけでひと苦労だったと笑っていらした。
今日は、おとなしくしていらっしゃるのか。
お嬢様だ。
前に会ったときより、ずっと幼い。
当たり前だ。
そういう場所まで、戻ってきた。
分かっていたはずなのに、足が止まった。
頬に血の色がある。
髪は乾いている。
唇が、かすかに開く。
声を聞くより先に、俺は膝をついていた。
「本日より、お仕えいたします」
喉が詰まる。
ここで泣くな。
初対面だぞ。
「私にできることでしたら、何なりとお申しつけください」
返事がなかった。
失敗したかと思い、顔を上げる。
お嬢様は、俺を見つめていた。
やがて椅子から降り、とことこと近づいてくる。
差し出された手が、俺の手に触れた。
温かかった。
「では、明日も来てちょうだい」
俺はまばたきをした。
「……明日も、ですか」
「ええ」
「もちろんでございます」
そんなことを頼まれるとは思わなかった。
明日だけではない。
明後日も、その次も。
あなたが望む限り、そばにいる。
お嬢様は俺の手を握ったまま、ようやく笑った。
「それから、お茶の時間も一緒にいて」
「はい」
「お庭へ行くときも」
「かしこまりました」
「お勉強のときもよ」
「お邪魔にならないようにいたします」
「邪魔にはならないわ」
即答だった。
そばで奥様が小さく笑った。
「ずいぶん気に入ったのね」
「ええ」
お嬢様は、今度も迷わず答えた。
ありがたい。
あまりにありがたくて、かえって不安になる。
俺はまだ、何の役にも立っていない。
書類の一枚も片づけていなければ、遊び相手にさえなっていない。
それなのに、もうこんなに信頼してくださるのか。
胸の奥が熱くなった。
今度こそ、この方の目に狂いはなかったと証明しなければ。
☆
自室に戻り、扉が閉まるのを待った。
侍女の足音が遠ざかる。
私は寝台に腰を下ろした。
膝にそろえていた手をほどくと、指が少しこわばっていた。
「ふふっ、ふふふ」
口元を押さえても、笑いが漏れた。
肩が揺れる。寝台の縁から浮いた足が、ぱたぱたと動いてしまう。
会えた。
本当に、会えた。
さっきは背筋を伸ばして、両手をぎゅっと重ねていた。足にも力を入れて、じっと待っていた。
そうしていないと、姿が見えた途端に駆け寄ってしまいそうだったから。
小さくなっていた。
声も、手も。
突然呼ばれて困っていたけれど、私が話しかけると、ちゃんと答えてくれた。
明日も来ると、約束してくれた。
もう一度、両手を重ねる。
さっき触れた温かさを思い出すと、また頬が緩んだ。
「ふふっ」
誰も見ていないのだから、もう我慢しなくてもいい。
枕を抱き寄せ、顔をうずめた。笑い声を吸い込んだ枕ごと、腕の中でぎゅっと抱きしめる。
今度は、待っているだけにはしない。
顔を上げても、口元は緩んだままだった。