何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~   作:名もなきそば付き

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【挿絵表示】

一章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。


第十話☆夫人と二人の会話

 教会への外出が決まった翌日、奥様に呼ばれた。

 

 昼食のあとのことだった。

 お嬢様は先生と音楽の勉強をしている。俺が席を外すと知ると、終わったら来てちょうだいとおっしゃった。

 

「何のお話かしら」

 

「外出のお許しについてかと」

 

 そう答えたが、自信はなかった。

 

 教会から予定は届いているはずだ。

 同行する大人も、帰る時刻も決まっている。

 俺が余計なことを申し出なければ、叱られる理由はない。

 

 その、余計なことを考えているのだが。

 

 扉の前で上着を整える。

 手のひらの赤みは、もう引いていた。

 

「お入りなさい」

 

 奥様の声に従い、小さな居間へ入った。

 窓辺の卓には、教会から届いた封筒が置かれていた。

 

     ☆

 

「街へ行くお話は先生から伺いました」

 

 奥様は向かいの椅子を示した。

 俺が腰を下ろすと、侍女が水を置いてくれる。

 

「勝手に別の場所へ行かないこと。頼まれても、一人で荷物を届けに行かないこと。守れますか」

 

「はい」

 

 路地へ入るつもりは、まだない。

 今回は、通りの様子が分かればいい。

 

「先生から離れずに戻ってまいります」

 

「それなら、行っていらっしゃい」

 

 許可は、思ったより簡単に下りた。

 俺は礼を言った。

 奥様は封筒を閉じ、その上へ手を置く。

 

「それから、もう一つ。あなた自身のことで、お話ししておきたいの」

 

 背筋を伸ばす。

 

「はい」

 

「そんなに構えなくてもいいわ」

 

 奥様は侍女へ目を向けた。

 

「少し二人にしてちょうだい」

 

 扉が閉まる。

 隣の部屋から聞こえていた食器の音も、遠くなった。

 

 仕事の話ではない。

 そのことだけは分かった。

 侍女にも聞かせたくない、私的なお話なのだろうか。

 だが、まったく心当たりがない。

 これまでの人生を振り返っても、この時期に奥様と二人きりで話した覚えはなかった。

 

「教会での役目が増えてきたそうね」

 

「記録や、品物の確認をお手伝いしております」

 

「剣の稽古も」

 

「無理をしないよう、ご指導いただいております」

 

「ええ。あの方からもそう聞いています」

 

 返事に困った。

 俺の知らないところで、大人たちは話をしている。

 当然なのに、ときどき忘れる。

 

「これから先も神官のお仕事を続けたい?」

 

「はい」

 

「セレスティアのそばで?」

 

「お許しいただける限りは」

 

 奥様は少しだけうなずいた。

 俺の答えを確かめるような、ゆっくりとした動きだった。

 

「では、そのためにも、私に困っていることを話せるようにしておきましょう」

 

 何か、不備があっただろうか。

 部屋も、食事も、衣服も、十分すぎるほどいただいている。

 

「今のところ、特には」

 

「今はなくても、この先、身体のことで誰かに相談したくなるかもしれません」

 

 指が止まった。

 卓の下でそろえていた両手が、少し冷えた。

 

「あなたが女の子だということは、知っていますよ」

 

 奥様は、静かに言った。

 

     ☆

 

 聞き間違いではなかった。

 

 俺の身体は、女だ。

 生まれたときから、何度やり直しても、それは変わらない。

 

 今はまだ、小さい。

 神官服を着て、髪を短く整え、男として振る舞っていれば、外から見ただけでは分からない。

 それで通ってきた。

 

 だが、この屋敷へ来たときは、二歳だった。

 自分だけで何もかも済ませられる身体ではなかった。

 

「……いつから、お気づきに」

 

「ここへ来て、初めて熱を出したときから」

 

 覚えている。

 教会へ行く予定の日に、起き上がれなくなった。

 行かなければと言い張り、結局、一日寝台に戻された。

 

「汗をかいていたから、着替えを手伝ったでしょう。あなたは半分眠っていたけれど」

 

 そのあたりの記憶は、曖昧だった。

 誰かが水を飲ませてくれたことと、冷たい布が気持ちよかったことしか覚えていない。

 

「でも、目が覚めると、いつもの服を着たがった。呼ばれ方も、そうね。何度か一緒に過ごせば、あなたがどう扱ってほしいかは分かります」

 

 俺は膝の上の手を見た。

 

 知られていない、と思っていた。

 正確には、何も言われなかったので、そう思うことにしていた。

 

 孤児院で世話をしてくれた人は知っている。

 教会にも、昔からの記録はある。

 世界中から事実を消したわけではない。

 

 それでも、ここでは。

 

「お嬢様には」

 

「私からは、話していません」

 

 息が漏れた。

 それを見て、奥様は眉を少し下げた。

 

「そんなに、怖いことなのね」

 

「……申し訳ございません」

 

「謝ってほしくて呼んだのではないのよ」

 

 奥様は水の杯を、俺のほうへ寄せた。

 持ち上げようとして、やめる。

 指がこわばって、杯を取り落としそうだ。

 お嬢様には知られていないと分かっても、まだ緊張が抜けない。

 

「この先、着るものや、身体のことで困ったら、私に言いなさい。必要なら、相談する相手も一緒に考えます」

 

「私は、このまま」

 

「ええ」

 

「男として、お嬢様にお仕えしたいのです」

 

 言い終えるまで、奥様は待ってくださった。

 

「分かりました」

 

 それだけだった。

 理由を言うようにも、考え直すようにも、命じられなかった。

 

 俺は顔を上げた。

 

「よろしいのですか」

 

「今すぐあなたの望まない格好をさせるつもりはありません」

 

 奥様は俺の上着に目を向け、それから顔へ戻した。

 

「ただ、苦しいことまで我慢しないで。あなたが自分で決めたいことと、助けが必要なことは、分けて考えましょう」

 

 その言葉を、すぐには飲み込めなかった。

 

 自分で選んだことだ。

 ならば、そのための不便も、苦しさも、自分で何とかするものだと思っていた。

 それを理由に誰かの手を借りれば、もう一度、選び直せと言われる気がした。

 

「理由も、お尋ねにならないのですか」

 

「話したくなったら、聞かせてちょうだい」

 

 奥様は答えた。

 

「私はあなたのことを全部知っているわけではないもの」

 

 俺は袖口を握った。

 今の服も、ここで用意していただいたものだ。

 短い髪も、整えてくれる人がいる。

 自分一人で選び、自分一人で守っているつもりだった姿に、ずっと誰かの手が入っていた。

 

「お世話をしてくださる方にも、ご迷惑を」

 

「困ることがあれば、私のところへ来てもらいます。あなたも、嫌なことを言われたり、不安になったりしたら教えてね」

 

 周りの人にどう説明するかまで、俺一人で考えなくてもいいらしい。

 

「最初に、お話ししておくべきでした」

 

「二歳のあなたが?」

 

 言葉が止まった。

 

「ここへ来たばかりの子に、何もかも説明しておきなさいとは言えないわ」

 

 奥様は静かに続けた。

 

「今だってまだ七歳でしょう。自分でできることが増えても、困ったときに頼る相手まで減らさなくていいのよ」

 

 俺にとっては、長い時間だった。

 自分で決め、結果を引き受け、何度も戻った。

 その積み重ねを、奥様は知らない。

 

 だからこそ、今の俺に向かって、そう言ってくださる。

 うまく返事ができず、俺はただうなずいた。

 

     ☆

 

 窓の外で、鳥が鳴いた。

 俺はようやく水を飲んだ。

 喉が、乾いていた。

 

「お仕事を続けるうえで、困ることはあるかもしれません」

 

 奥様は、卓の封筒に触れた。

 

「教会の手続きもあるでしょう。正式な役目につくなら、そのときに確認する必要があります。私一人で何でも約束はできないけれど、一人で抱え込まなくていいのよ」

 

「はい」

 

「無理に他人の前で話させることはしません。相談が必要になったら、まずあなたにも伝えます」

 

 俺は杯を置いた。

 小さな音がした。

 

 教会へ入り、公爵家へ近づき、仕事を得る。

 いつもは、その順番だった。

 できるだけ自分で身の回りを整え、大人の手を借りなくてもよくなってから、ここへ来た。

 

 今回は、違った。

 知らないうちに運ばれ、食べさせてもらい、熱が出れば寝かしつけられた。

 俺が隠しているつもりのことを、知る人もいる。

 

 それでも、部屋は取り上げられなかった。

 お嬢様のそばから、離されもしなかった。

 

「……おそばにいて、よろしいのですね」

 

 同じことを、もう一度尋ねた。

 奥様は、今度ははっきりうなずいた。

 

「セレスティアの遊び相手として、あなたを迎えました。今、その役目を変える理由はないわ」

 

 七歳になっても、奥様にとっての俺は、まだ遊び相手なのだ。

 神官で、文官で、いずれ護衛でもあるつもりだった。

 なのに、その呼び方を聞くと、少しだけ肩の力が抜けた。

 

「あの子と喧嘩をすることだって、あっていいのよ」

 

「私がお嬢様と、ですか」

 

「そう。いつも、あの子の言うとおりにしなくても」

 

 それは、難しい。

 先日も休むように言われ、結局、布を手に当てていただいた。

 俺が断ろうとすると、別の方向から話を進めてこられる。

 

「お嬢様は、お優しいので」

 

「優しいことと、頑固なことは、両立するわ」

 

 思わず、奥様の顔を見た。

 奥様は少し笑っていた。

 

 胸の奥にあった硬いものが、わずかに緩んだ。

 

「ありがとうございます」

 

 今度は、謝らずに言えた。

 

     ☆

 

 居間を出ると、廊下の向こうから音が聞こえた。

 同じ短い旋律が、何度も繰り返されている。

 途中で止まり、最初へ戻る。

 

 音楽の授業は、まだ終わっていなかった。

 俺は扉の外で待った。

 

 なぜ、こんなに恐れたのだろう。

 

 知られたら、男として見てもらえなくなる。

 お嬢様が俺へ向ける顔も、変わるかもしれない。

 

 それが嫌だった。

 

 そば付きとしてなら、女でも働ける。

 実際、そうしていた人生がある。

 最初から、できなかったわけではない。

 

 それでも、足りなかった。

 

 何が足りなかったのか。

 考えようとすると、覚えている声が近づいてくる。

 

 扉が開いた。

 

「ノエル。待っていたの?」

 

 お嬢様が、譜面を抱えて立っていた。

 俺は背筋を伸ばした。

 

「はい。先ほど、お話が終わりましたので」

 

「お母様は何て?」

 

「外出のお許しをいただきました」

 

「よかったわね」

 

 お嬢様は笑った。

 いつもと変わらない。

 ついさっきまで、奥様に何を話していたかも知らない。

 

 俺は、その笑顔を見ていた。

 

「どうしたの?」

 

「いえ。お荷物をお持ちいたします」

 

 譜面へ手を伸ばす。

 お嬢様は全部を渡さず、譜面の束を二つに分けた。

 半分だけ、俺の腕に載せる。

 

「こちらをお願い」

 

「全部、お持ちできますが」

 

「知っているわ」

 

 お嬢様は自分の分を抱え直し、歩き始めた。

 俺も隣に並ぶ。

 

 歩くたび、金色の髪が窓からの光を受けて揺れた。

 手を伸ばせば、すぐ届く。

 今は、何も失っていない。

 

 だからこそ、変えたくなかった。

 

 男として、この方の隣にいる。

 そう決めた日のことを、俺は一度も忘れていなかった。

 

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