何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
教会への外出が決まった翌日、奥様に呼ばれた。
昼食のあとのことだった。
お嬢様は先生と音楽の勉強をしている。俺が席を外すと知ると、終わったら来てちょうだいとおっしゃった。
「何のお話かしら」
「外出のお許しについてかと」
そう答えたが、自信はなかった。
教会から予定は届いているはずだ。
同行する大人も、帰る時刻も決まっている。
俺が余計なことを申し出なければ、叱られる理由はない。
その、余計なことを考えているのだが。
扉の前で上着を整える。
手のひらの赤みは、もう引いていた。
「お入りなさい」
奥様の声に従い、小さな居間へ入った。
窓辺の卓には、教会から届いた封筒が置かれていた。
☆
「街へ行くお話は先生から伺いました」
奥様は向かいの椅子を示した。
俺が腰を下ろすと、侍女が水を置いてくれる。
「勝手に別の場所へ行かないこと。頼まれても、一人で荷物を届けに行かないこと。守れますか」
「はい」
路地へ入るつもりは、まだない。
今回は、通りの様子が分かればいい。
「先生から離れずに戻ってまいります」
「それなら、行っていらっしゃい」
許可は、思ったより簡単に下りた。
俺は礼を言った。
奥様は封筒を閉じ、その上へ手を置く。
「それから、もう一つ。あなた自身のことで、お話ししておきたいの」
背筋を伸ばす。
「はい」
「そんなに構えなくてもいいわ」
奥様は侍女へ目を向けた。
「少し二人にしてちょうだい」
扉が閉まる。
隣の部屋から聞こえていた食器の音も、遠くなった。
仕事の話ではない。
そのことだけは分かった。
侍女にも聞かせたくない、私的なお話なのだろうか。
だが、まったく心当たりがない。
これまでの人生を振り返っても、この時期に奥様と二人きりで話した覚えはなかった。
「教会での役目が増えてきたそうね」
「記録や、品物の確認をお手伝いしております」
「剣の稽古も」
「無理をしないよう、ご指導いただいております」
「ええ。あの方からもそう聞いています」
返事に困った。
俺の知らないところで、大人たちは話をしている。
当然なのに、ときどき忘れる。
「これから先も神官のお仕事を続けたい?」
「はい」
「セレスティアのそばで?」
「お許しいただける限りは」
奥様は少しだけうなずいた。
俺の答えを確かめるような、ゆっくりとした動きだった。
「では、そのためにも、私に困っていることを話せるようにしておきましょう」
何か、不備があっただろうか。
部屋も、食事も、衣服も、十分すぎるほどいただいている。
「今のところ、特には」
「今はなくても、この先、身体のことで誰かに相談したくなるかもしれません」
指が止まった。
卓の下でそろえていた両手が、少し冷えた。
「あなたが女の子だということは、知っていますよ」
奥様は、静かに言った。
☆
聞き間違いではなかった。
俺の身体は、女だ。
生まれたときから、何度やり直しても、それは変わらない。
今はまだ、小さい。
神官服を着て、髪を短く整え、男として振る舞っていれば、外から見ただけでは分からない。
それで通ってきた。
だが、この屋敷へ来たときは、二歳だった。
自分だけで何もかも済ませられる身体ではなかった。
「……いつから、お気づきに」
「ここへ来て、初めて熱を出したときから」
覚えている。
教会へ行く予定の日に、起き上がれなくなった。
行かなければと言い張り、結局、一日寝台に戻された。
「汗をかいていたから、着替えを手伝ったでしょう。あなたは半分眠っていたけれど」
そのあたりの記憶は、曖昧だった。
誰かが水を飲ませてくれたことと、冷たい布が気持ちよかったことしか覚えていない。
「でも、目が覚めると、いつもの服を着たがった。呼ばれ方も、そうね。何度か一緒に過ごせば、あなたがどう扱ってほしいかは分かります」
俺は膝の上の手を見た。
知られていない、と思っていた。
正確には、何も言われなかったので、そう思うことにしていた。
孤児院で世話をしてくれた人は知っている。
教会にも、昔からの記録はある。
世界中から事実を消したわけではない。
それでも、ここでは。
「お嬢様には」
「私からは、話していません」
息が漏れた。
それを見て、奥様は眉を少し下げた。
「そんなに、怖いことなのね」
「……申し訳ございません」
「謝ってほしくて呼んだのではないのよ」
奥様は水の杯を、俺のほうへ寄せた。
持ち上げようとして、やめる。
指がこわばって、杯を取り落としそうだ。
お嬢様には知られていないと分かっても、まだ緊張が抜けない。
「この先、着るものや、身体のことで困ったら、私に言いなさい。必要なら、相談する相手も一緒に考えます」
「私は、このまま」
「ええ」
「男として、お嬢様にお仕えしたいのです」
言い終えるまで、奥様は待ってくださった。
「分かりました」
それだけだった。
理由を言うようにも、考え直すようにも、命じられなかった。
俺は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「今すぐあなたの望まない格好をさせるつもりはありません」
奥様は俺の上着に目を向け、それから顔へ戻した。
「ただ、苦しいことまで我慢しないで。あなたが自分で決めたいことと、助けが必要なことは、分けて考えましょう」
その言葉を、すぐには飲み込めなかった。
自分で選んだことだ。
ならば、そのための不便も、苦しさも、自分で何とかするものだと思っていた。
それを理由に誰かの手を借りれば、もう一度、選び直せと言われる気がした。
「理由も、お尋ねにならないのですか」
「話したくなったら、聞かせてちょうだい」
奥様は答えた。
「私はあなたのことを全部知っているわけではないもの」
俺は袖口を握った。
今の服も、ここで用意していただいたものだ。
短い髪も、整えてくれる人がいる。
自分一人で選び、自分一人で守っているつもりだった姿に、ずっと誰かの手が入っていた。
「お世話をしてくださる方にも、ご迷惑を」
「困ることがあれば、私のところへ来てもらいます。あなたも、嫌なことを言われたり、不安になったりしたら教えてね」
周りの人にどう説明するかまで、俺一人で考えなくてもいいらしい。
「最初に、お話ししておくべきでした」
「二歳のあなたが?」
言葉が止まった。
「ここへ来たばかりの子に、何もかも説明しておきなさいとは言えないわ」
奥様は静かに続けた。
「今だってまだ七歳でしょう。自分でできることが増えても、困ったときに頼る相手まで減らさなくていいのよ」
俺にとっては、長い時間だった。
自分で決め、結果を引き受け、何度も戻った。
その積み重ねを、奥様は知らない。
だからこそ、今の俺に向かって、そう言ってくださる。
うまく返事ができず、俺はただうなずいた。
☆
窓の外で、鳥が鳴いた。
俺はようやく水を飲んだ。
喉が、乾いていた。
「お仕事を続けるうえで、困ることはあるかもしれません」
奥様は、卓の封筒に触れた。
「教会の手続きもあるでしょう。正式な役目につくなら、そのときに確認する必要があります。私一人で何でも約束はできないけれど、一人で抱え込まなくていいのよ」
「はい」
「無理に他人の前で話させることはしません。相談が必要になったら、まずあなたにも伝えます」
俺は杯を置いた。
小さな音がした。
教会へ入り、公爵家へ近づき、仕事を得る。
いつもは、その順番だった。
できるだけ自分で身の回りを整え、大人の手を借りなくてもよくなってから、ここへ来た。
今回は、違った。
知らないうちに運ばれ、食べさせてもらい、熱が出れば寝かしつけられた。
俺が隠しているつもりのことを、知る人もいる。
それでも、部屋は取り上げられなかった。
お嬢様のそばから、離されもしなかった。
「……おそばにいて、よろしいのですね」
同じことを、もう一度尋ねた。
奥様は、今度ははっきりうなずいた。
「セレスティアの遊び相手として、あなたを迎えました。今、その役目を変える理由はないわ」
七歳になっても、奥様にとっての俺は、まだ遊び相手なのだ。
神官で、文官で、いずれ護衛でもあるつもりだった。
なのに、その呼び方を聞くと、少しだけ肩の力が抜けた。
「あの子と喧嘩をすることだって、あっていいのよ」
「私がお嬢様と、ですか」
「そう。いつも、あの子の言うとおりにしなくても」
それは、難しい。
先日も休むように言われ、結局、布を手に当てていただいた。
俺が断ろうとすると、別の方向から話を進めてこられる。
「お嬢様は、お優しいので」
「優しいことと、頑固なことは、両立するわ」
思わず、奥様の顔を見た。
奥様は少し笑っていた。
胸の奥にあった硬いものが、わずかに緩んだ。
「ありがとうございます」
今度は、謝らずに言えた。
☆
居間を出ると、廊下の向こうから音が聞こえた。
同じ短い旋律が、何度も繰り返されている。
途中で止まり、最初へ戻る。
音楽の授業は、まだ終わっていなかった。
俺は扉の外で待った。
なぜ、こんなに恐れたのだろう。
知られたら、男として見てもらえなくなる。
お嬢様が俺へ向ける顔も、変わるかもしれない。
それが嫌だった。
そば付きとしてなら、女でも働ける。
実際、そうしていた人生がある。
最初から、できなかったわけではない。
それでも、足りなかった。
何が足りなかったのか。
考えようとすると、覚えている声が近づいてくる。
扉が開いた。
「ノエル。待っていたの?」
お嬢様が、譜面を抱えて立っていた。
俺は背筋を伸ばした。
「はい。先ほど、お話が終わりましたので」
「お母様は何て?」
「外出のお許しをいただきました」
「よかったわね」
お嬢様は笑った。
いつもと変わらない。
ついさっきまで、奥様に何を話していたかも知らない。
俺は、その笑顔を見ていた。
「どうしたの?」
「いえ。お荷物をお持ちいたします」
譜面へ手を伸ばす。
お嬢様は全部を渡さず、譜面の束を二つに分けた。
半分だけ、俺の腕に載せる。
「こちらをお願い」
「全部、お持ちできますが」
「知っているわ」
お嬢様は自分の分を抱え直し、歩き始めた。
俺も隣に並ぶ。
歩くたび、金色の髪が窓からの光を受けて揺れた。
手を伸ばせば、すぐ届く。
今は、何も失っていない。
だからこそ、変えたくなかった。
男として、この方の隣にいる。
そう決めた日のことを、俺は一度も忘れていなかった。