何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
十二回目の人生では、門を閉めた。
公爵家の王都屋敷。
お嬢様は、その中にいらした。
学園で婚約を破棄されたあと、私はお嬢様を連れて帰った。
追ってくる者がいないか確かめ、馬車を替え、屋敷へ着くまで一度も隣を離れなかった。
今度は、間に合った。
扉が閉まったとき、そう思った。
♡
お嬢様の部屋から、王子殿下に関わるものが運び出された。
舞踏会で使った扇。
王家の紋章が入った箱。
お返事の来なかった手紙の下書き。
全部捨てて、とお嬢様はおっしゃった。
奥様は、捨てるかどうかは後で決めましょうと答え、別の部屋へ移させた。
私は他の侍女たちと同じ、黒地に白い襟のメイド服を着ていた。
白いエプロンの紐を結び直し、何も言わずに空いた棚を拭いた。
こうして、少しずつ忘れていただけばよい。
殿下との縁がなくなっても、お嬢様の人生は続く。
続けられるように、今度こそ守る。
「ノエル」
振り返ると、お嬢様は窓のそばに立っていた。
「今日はお天気がいいわね」
「はい。お庭へ出られますか」
声が明るくなったのが、自分でも分かった。
お嬢様は少し迷い、首を横に振った。
「ここで、いいわ」
「では、お茶をお持ちいたします」
「あなたも一緒に」
「はい」
以前と同じ言葉だった。
私はそれが嬉しかった。
まだ、お茶を飲める。窓を開けられる。話しかけてくださる。
守れたものを一つずつ数え、失ったものを見ないようにしていた。
♡
数日前、学園を去る支度のために戻ったとき、フィオナに呼び止められた。
廊下の端だった。
周りに、殿下たちはいなかった。
「セレスティア様はお元気ですか」
私は抱えていた本を持ち直した。
「お休みになっております」
「お会いできませんか。私、お話ししたいことが」
「今は、お客様をお迎えしておりません」
フィオナは唇を閉じた。
桃色の瞳が、私を見ていた。
その奥に、小さなハートの形が見える。
光が揺れると、一緒に揺れた。
何度見ても、普通の瞳にはないものだった。
けれど、今はその意味を確かめる気になれなかった。
「私、こんなことになるとは思っていなくて」
声は小さかった。
嘘をついているようには見えなかった。
それが、余計につらかった。
「では、殿下にも、そうお伝えください」
「もう、お話ししました。でも」
続きは聞かなかった。
聞けば、また何か期待してしまう。
この人の言葉で殿下が考えを変えるかもしれない。誤解が解けるかもしれない。
そうして待った時間を、私は何度も知っていた。
「お嬢様を、そっとしておいてください」
礼だけして、廊下を離れた。
抱えた本の角が、腕に食い込んでいた。
♡
屋敷には、毎日のように手紙が届いた。
見舞いの品。
気遣う言葉。
遠回しに事情を尋ねるもの。
中には、お嬢様を引き受けてもよいという話もあった。
婚約の申し出という形をしていたが、書かれているのは、相手の家が欲しがるものばかりだった。
港の優先取引権。王都での口添え。過去のことを問わないという、恩着せがましい一文。
公爵様は、その場で断った。
「娘を、何だと思っている」
封筒を置く音が、机に響いた。
私は横で頭を下げたまま、少しだけ安堵した。
ここなら守っていただける。
私だけではなく、公爵様も、奥様もいる。
だが、断ったことまで噂になった。
まだ選り好みをしている。
王子殿下でなければ気に入らないのだろう。
私は聞いた話をお嬢様に伝えなかった。
伝えなければ、傷つかずに済むと思った。
お嬢様は、もうご存じだった。
「お父様はまたお怒りになったのでしょう」
ある午後、刺繍の枠を膝に置いておっしゃった。
「ご無理な申し出でしたので」
「私のために」
「お嬢様がお気になさることでは」
お嬢様が、顔を上げた。
私はそこで口を閉じた。
ご自分のことで、お父様が怒っている。
気にするなと言われて、気にせずにいられるはずがなかった。
「申し訳ございません」
「いいのよ」
お嬢様は刺繍へ目を戻した。
針は、動かなかった。
お嬢様を慕っていた令嬢からも、手紙は届いていた。
またお茶をご一緒したい。自分にできることがあれば言ってほしい。
小さな押し花の添えられたものを、お嬢様は何度も読み返していた。
「お返事を、お書きになりますか」
「そうね」
紙を用意すると、お嬢様は礼の言葉を書いた。
その先で、筆が止まった。
「会えば、何を話すのかしら」
「いつものお話で、よろしいのでは」
「皆、気を遣うでしょう」
私は便箋の端を押さえた。
気を遣わずに話せと言えば、それも負担になる。
会わなくてよいと言えば、この部屋から出る理由をまた一つ減らしてしまう。
「まずは、お返事だけでも」
「……ええ」
書き終えた手紙を、私は預かった。
差し出す相手はいる。
気にかけてくれる人も、いる。
それでも、お嬢様の表情は晴れなかった。
押し花は、机の引き出しにしまわれた。
捨てたいとは、おっしゃらなかった。
♡
ある夕方、私は昔の旅の本を持っていった。
東の海について書かれた本だった。
お嬢様が小さい頃、絵を気に入って何度も開いていたものだ。
「領地へ移られては、いかがでしょう」
私は窓際の卓へ本を置いた。
王都から離れれば、人の口も届きにくくなる。
海を見て、少し休んでいただければ。
「あなたも、来るの?」
「もちろんでございます」
お嬢様は本に手を置いた。
開かずに、表紙をなぞる。
「その先は?」
「その先、ですか」
「領地へ行って、休んで。それから、私はどうするのかしら」
私は答えを探した。
暮らしに不自由はない。
公爵家の娘として、領地の仕事に関わる道もある。
結婚を急ぐ必要もない。
そう伝えると、お嬢様は小さくうなずいた。
「そうね」
納得した声ではなかった。
「殿下のおそばへ行くために、たくさん覚えたわ」
お嬢様は、ご自分の手を見た。
「失礼のないように。恥をかかせないように。困らせないように。できないことがあれば、できるようにしなくてはと思っていた」
私は椅子の横に立って聞いていた。
「でも、あの方は、何を覚えたかなんて、一度も聞かなかったわ」
机の上の本を、お嬢様の指が押した。
ほんの少し、こちらへ動いた。
「私と話していると、疲れるんですって」
言い返したかった。
疲れるようなことを、お嬢様がしたのではない。
聞くべきことを聞かず、守るべき約束を守らなかったのは、あの人のほうだ。
だが、今ここで殿下を責めても、お嬢様のお話を遮るだけだ。
私は言葉を飲み込んだ。
「……それは、おつらかったですね」
ようやく出たのは、それだけだった。
お嬢様の目が、こちらを向いた。
少し長く、私を見ていた。
「あなたは、聞いてくれるのね」
「はい」
「何度、同じことを言っても?」
「何度でも」
お嬢様は、私の袖をつかんだ。
椅子を近くへ寄せるように言われ、私は腰を下ろした。
しばらく、何も話さなかった。
暖炉の中で薪が崩れた。
それを合図にしたように、お嬢様が口を開いた。
「あなたが男だったらよかったのに」
私は、動けなくなった。
「あなたのように、話を聞いてくれる人だったら」
お嬢様は、困ったように笑った。
「……ごめんなさい。あなたに言っても、仕方のないことね」
仕方がない。
その言葉が、頭に残った。
私には、できないことだった。
傷なら治せる。
襲ってくる相手がいれば、前へ立てる。
だが、私は女だ。
男になることなんて……できない。
「お嬢様」
「今のは忘れてちょうだい」
忘れられるはずがなかった。
♡
その夜、お嬢様は少しだけ夕食を召し上がった。
奥様とも、領地へ行く話をした。
私は、使い慣れた筆と本を荷物に入れようと思った。
明日、また尋ねればいい。
持っていきたいものを、一つずつ。
翌朝、お嬢様は返事をしなかった。
私が部屋へ入ったときには、もう遅かった。
祈っても、呼びかけても、手を握り返してはくださらなかった。
自ら命を絶たれたのだと、あとで聞かされた。
その言葉を、私は受け入れられなかった。
門は閉じていた。
侵入者もいなければ、訪問者もいなかった。
なのに、お嬢様は亡くなった。
奥様が、何度も娘の名を呼んでいた。
公爵様は寝台のそばから動かなかった。
旅の本は、昨夜置いたまま、卓にあった。
何か、できたはずだった。
お嬢様が話してくださったことを、私だけで抱えず、奥様にも伝えていたら。
食事を召し上がっただけで、少しよくなったと思い込まなければ。
答えは一つではなかったはずなのに、私の頭には、あの言葉だけが残った。
あなたが男だったら。
何度も繰り返し、意味を探した。
何度も何度も繰り返し、私が男として存在する方法を考えた。
何度も何度も何度も繰り返すうちに、それだけが、私にも変えられることのように思えてきた。
次は、男としておそばに。
そう決めて、私は自ら命を絶った。
♡
次に幼い身体で目を覚ましたとき、十三回目になっていた。
孤児院の天井を見上げた。
右に二つ、左に一つの染み。
その間を走る細い亀裂も、変わっていなかった。
指を動かす。
小さな手だった。
私は、まだ何も変わっていない。
違う。
変えるのだ。
起き上がろうとして転び、修道女に抱き上げられた。
いつもの声が、熱はないかと尋ねる。
私は首を振った。
今度は、違うふうに生きる。
髪が伸びれば、短くしてほしいと頼んだ。
服を選べるようになると、男の子と同じものを望んだ。
初めて会う人がそう扱えば、訂正しなかった。
それで男になれたわけではない。
鏡に映るのは、よく知っている自分だった。
けれど、ほかに何をすればよいのか分からなかった。
私が、お嬢様を守る。
違う。
俺が。
誰に聞かせるでもなく、頭の中で言い直した。
少し気を抜けば、すぐに元へ戻った。
そのたびに、もう一度。
お嬢様の前での言葉遣いは変えなかった。
お仕えする者としての礼まで、失いたかったわけではない。
教会で任される仕事が増えると、私は――俺は、異端審問官の詰める部屋を訪ねた。
「何を学びたい」
頬に傷のある男に尋ねられた。
「人を守るために、必要なことを」
「ずいぶん広いな」
「剣だけでは、足りませんでした」
男が顔を上げた。
私は口を閉じた。
また、言わなくてよいことを言った。
「……何か、あったのか」
「守りたい方が、いらっしゃるのです」
男はしばらく私を見て、それから、机の上の紙を一枚差し出した。
「まず、これを読め。分からないことは、分からないと言え」
私は手を伸ばした。
俺は、その紙を受け取った。
これで何が変わるかなど、分からなかった。
ただ、次にお会いするときには、少しでも望まれた自分に近づいていたかった。
あの方の言葉を、そのまま願いとして抱えて。
すみません。今更ですが必須タグを追加します。ノエル君ではなく、ノエルちゃんでした。
投稿頻度も落とす予定です。ここまでをなるべく早く出したかった。