何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
外出の日、持たせていただいた袋は軽かった。
布と、水と、小さなパン。
帳面は先生が持つ。買ったものは荷車へ載せる。俺が運ぶ予定の荷物は、一つもなかった。
「途中で増やして帰ってこないでね」
玄関で、お嬢様が袋を見ながらおっしゃった。
「お土産でしたら、少しだけ」
「お仕事のことよ」
そちらだった。
昨日も、戻ってから手伝えることはないかと尋ね、午後は休むように言われたばかりだ。
「先生のお話をよく聞いて、帰ってまいります」
「ええ。いってらっしゃい」
いつものお見送りだった。
そう思いながら、俺は門の外へ出た。
☆
教会で先生と合流し、年長の見習い二人と南へ向かった。
一人が荷車を押し、もう一人が店の名を読み上げる。
まず布。その次に薬草。最後に、頼んであった空の壺を受け取る。
俺は先生の隣を歩き、曲がる道を確かめていた。
王都の南側は、朝からにぎやかだった。
店先でカゴを洗う女。木材を運ぶ男。焼きたてのパンを積んだ台。
前を横切る荷車の列が通り過ぎるのを待つだけでも、屋敷の庭を一周するより時間がかかる。
「疲れたら、言いなさい」
「まだ大丈夫です」
先生は俺の歩幅に合わせてくださっていた。
それでも大通りへ出たときには、少し背中が汗ばんだ。
通りの向こうに、細い路地がある。
フィオナが母親と暮らしていた家は、あの先だったはずだ。
俺は足を止めず、入口だけを見た。
洗濯物が上がっている。階段の横には水桶。角にあった修理屋の看板は、今は別の形をしていた。
記憶の中の街と、同じではない。
「こちらですよ」
「はい」
先生の声に、顔を戻した。
今は所在を確かめるだけだ。
勝手に離れない。そう約束した。
七歳の今なら、歩いて確かめられる範囲は広がった。
それでも、一人で出歩く許しはない。
教会の用事に同行できるまでに、ここまでかかった。
以前の周なら、店へ届け物を頼まれた帰りに、少し遠回りをした。
もう少し背が伸びてからだ。
同じ道へ出るのでも、通る時期が変われば、会う人も変わる。
路地の入口で、桃色の布が揺れた。
つい、目で追った。
洗濯物だった。
「何か、気になりますか」
「通りが多いので、覚えておこうと思いまして」
「一度に全部覚えなくても結構ですよ。迷ったら、店の人に教会への道を尋ねなさい」
先生は角のパン屋を指した。
店主がこちらに気づき、粉のついた手を上げる。
「あの方も診療室へ来ます。店を覚えておくと、困ったときに頼れますから」
俺は頭を下げた。
道を確かめるとき、抜けられる路地と、見つからずに動ける場所ばかり見ていた。
声をかけてよい相手がいることも、覚えておくべきなのだろう。
布の店では、見習いの一人が注文を書いた紙をなくしかけた。
袖にも袋にもなく、結局、自分の持っていた帳面に挟まっていた。
「ここへ入れたら、なくさないと思ったのに」
「入れたことを忘れては、同じですね」
先生が言うと、もう一人が笑った。
俺も、少し笑った。
受け取った布は、思っていたより重かった。
抱えてみたいと申し出る前に、見習いが荷車へ載せてしまう。
代わりに端を押さえ、覆いの布をかけるのを手伝った。
薬草の店へ着いた頃には、鐘が一度鳴った。
☆
店先には、乾かした葉が束ねてつるしてあった。
戸を開けると、土と草の匂いがした。
先生が店主と話す間、俺は見習いと一緒に包みの数を確かめた。
同じ薬草でも、葉だけを分けたものと、茎の混じったものでは値段が違う。
帳面の短い品名からは、分からなかったことだ。
「こちらは間違えて煮出すと渋くてね」
店主が別の籠を示した。
「治療ではなく、染め物に使うんだ。隣に置くなといつも言っているんだが」
奥へ声をかけると、返事があった。
先生が注文の品を確かめに奥へ進む。
俺は出入口の脇で、包みを渡す役になった。
荷車は、すぐ外に止めてある。
三つ目を手渡したとき、通りを馬車が横切った。
黒い車体。窓の板戸は、わずかな隙間を残して閉じられていた。
人混みに阻まれ、人の歩くほどの速さで進んでいる。
後ろを歩いていた男が、何度も肩越しに道を見ている。
胸の奥が、ざわついた。
お嬢様に危険が迫っていたときにも、こんな感覚があった。
あの男から目を離すなと、直感が告げていた。
俺は包みから手を離した。
男の腰には剣がなかった。
だが、右手を上着の内側に差し入れたまま、抜こうとしない。
馬車が角の荷車につかえたときも、苛立つより先に、周りの人間を見た。
護衛か。
そうなら、別におかしくはない。
窓の隙間で、何かが動いた。
水色の細いものが、黒い窓枠にかかった。
髪だった。
小さな顔が、ほんの一瞬だけこちらを向く。
口を押さえる手が見えた。
「先生」
声を出した。
窓が閉まった。
「あの馬車です。中の子が、口を押さえられています」
先生は俺の指す先を見た。
荷車を押していた見習いが、道の真ん中へ一歩出る。
後ろの男が、それを見た。
目が合った。
男は御者へ短く何か言った。
「衛兵を呼びなさい」
先生の声が変わった。
見習いの一人が走り出す。
「その馬車、止まりなさい」
通りに声が響いた。
御者は答えず、手綱を引いた。
だが前には、壺を積んだ荷車がいる。
細い道を、すぐに抜けられるはずがなかった。
扉が開いた。
水色の髪の子が、引きずり出された。
男は片手でその腕をつかみ、もう片方の手で口を塞いでいた。
声を上げようとしているのに、くぐもった声しか漏れない。
その顔に、見覚えがあった。
幼い頃の姿は、ほとんど見たことがない。
それでも、水色の髪と涼しげな目元に、学園で見慣れた面影があった。
クラウディア。
お嬢様と、いつも冷たい挨拶を交わしていた公女だった。
なぜ、ここにいる。
浮かんだ疑問は、すぐに追いやった。
この方がこの年頃に、どんな暮らしをしていたかは知らない。
学園でお会いする前に、どこへ出かけ、誰と過ごしていたかなど、調べたこともなかった。
学園では、男性が近づくと顔をこわばらせ、一歩離れる方だった。
男性がお嫌いなのだと、それだけで片づけていた。
お嬢様との不仲ばかり気にして、その理由を考えたこともなかった。
少女の靴が、馬車の踏み板に引っかかった。
男が苛立ち、さらに強く引く。
嫌っていたのではなく、怖がっていたのだろうか。
このまま連れ去られたら、何をされるか分からない。
そんなふうに連れていかれてよい方ではない。
お嬢様と仲が悪かったことなど、今は関係がなかった。
☆
思い出したのは、学園の廊下だった。
水色の長い髪。
声を荒らげず、相手の言葉の穴を正確に突く少女。
お嬢様が笑うと、あちらも笑った。その場の空気だけが、少し冷えた。
目の前の子は、笑っていなかった。
口を塞ぐ手から逃れようと、必死に顔を背けていた。
男に腕を引かれ、靴の片方を路面にこすっていた。
もう一人が、薬草店の隣の戸を開ける。
使われていない店らしく、看板は外されていた。
奥へ通り抜けられるのだろう。
「先生、あの子が隣の店へ連れていかれます。参りましょう」
俺は戸口から一歩踏み出した。
「ここにいなさい」
先生が前へ出た。
男の一人が、上着の中から刃物を抜いた。
店先で悲鳴が上がる。
先生は手を広げた。
薄い光が、通りの人々と男の間を隔てる。
刃がぶつかり、乾いた音がした。
「下がって。店の中へ」
残った見習いが客を誘導した。
俺も、一度は戸口の内側へ戻った。
そのすぐ横を、少女が通った。
男の手に、小さな腕がつかまれている。
自由なほうの手を振り上げると、指先に青白い光が集まった。
魔法を使おうとしている。
だが、男が強く腕を引いた。
彼女の放った光が壁を打ち、石の表面を削った。
少女の身体が傾く。
男は構わず、開いた戸の奥へ引き込もうとした。
今なら、届く。
追いかける必要はない。
隣の入口へ向かう少女は、すぐ目の前を通っていた。
「先生、あの子を離させます」
返事を待つ前に、俺は手を伸ばした。
男を倒すほどの威力では、すぐそばの少女まで巻き込んでしまう。
今は、手を離させるだけでいい。
神術の〈衝撃〉。
力を小さく絞り、少女を引く男の腕へ放った。
腕をつかむ手が緩み、口を塞いでいた手も外れた。
少女が、俺のほうへ倒れ込む。
店先へ踏み出し、腕を伸ばした。
受け止めようとした。
重かった。
大人の身体なら、そのまま抱えて退けた。
今の俺にはできない。
足を踏ん張る間もなく押され、肩が隣の店の戸口に当たった。
少女を落とすまいと踏み直した足が敷居を越え、二人とも店の中へよろけた。
抱き上げて走るつもりだった。
考えたというより、身体がそう動こうとした。
朝の鍛錬で何度も直されたはずの歩幅を、ここでも使ってしまった。
俺は倒れかけた身体を、戸の縁で支えた。
少女だけは床へ落とさずに済んだ。
その一瞬で、外へ戻る場所を塞がれた。
男が振り返った。
俺は少女を背にかばい、手のひらを上げた。
薄い結界が、刃を受ける。
強く押され、靴が床を滑った。
短い腕だった。
昔なら届いた位置に、相手の手首がない。
倒そうとするな。
今は、少女を外へ逃がせばいい。
俺は少女へ顔を向けずに言った。
「立てますか」
「……立てる」
「外に、神官がいます。そちらへ」
背後で、別の足音がした。
先ほど隣の戸を開けた男が、店の奥から近づいてきた。
少女を裏口から連れ出すため、先回りしていたのか。
少女が息をのんだ。
俺は半歩、後ろへ下がった。
まずい。
この広さでは、二人を同時に遠ざけられない。
☆
窓には板が打ちつけられていた。
店の中には空の棚と、古い台がある。
光は、開いた入口から入るだけだった。
入口の向こうでは、先生が刃物を持った男と向き合っていた。
男が通りの人へ近づくたび、光の壁で押し戻している。
あの男を放って、こちらへ来るわけにはいかないのだろう。
見習いの一人は衛兵を呼びに走り、もう一人は薬草店の客を奥へ避難させている。
二人とも俺より年上だが、学んでいるのは治癒や祈り、教会の仕事だ。刃物を持った相手との戦いには慣れていない。
加勢を頼めば、危険に巻き込むだけだ。
今の俺は、まだ弱い。
仮に剣があっても、この身体では、少女を守りながら二人を相手にするのは難しい。
一人を倒そうと踏み込めば、もう一人に少女へ近づく隙を与えてしまう。
無理に攻めるより、結界で近づけさせず、助けを待つほうがいい。
先生が来るまで、この子を守る。
今は、それだけを考えろ。
「こちらへ」
俺は少女を台の陰へ寄せた。
外の先生から見える場所だ。
奥まで連れ込まれれば、助けに来る人にも居場所が分からなくなる。
少女は俺の袖を握った。
力が強かった。
「手は、動きますか」
小さくうなずく。
「では、頭を守っていてください」
男が近づいた。
俺は床へ手を当て、光の壁を広げた。
台と壁の間を塞ぐ。
通りへ向かう道を開けたまま、奥から来る男を止める。
術の扱いは分かっている。
だが、結界を支え続ける負荷に、幼い身体がついてこない。息が浅くなり、腕が震えた。
「ノエル!」
外から先生の声がした。
「二人です。子供は、ここにいます」
答えた瞬間、入口側の男が動いた。
振り向く。
結界を重ねるより早く、刃が腕に触れた。
熱い。
袖が裂けた。
それでも手を下げず、男を押し返した。
先生の光が、その背後から伸びる。
「離れなさい」
男が戸の外へ引き戻された。
誰かが叫び、店先の籠が倒れた。
俺は膝をついた。
結界は残っている。
奥にいる男は、それを確かめるように足を止めた。
血が手首へ伝った。
少女の目が、そこに止まる。
「あなた、腕が」
「見なくて、構いません」
言い方を間違えた。
見なければ傷が消えるわけではない。
「治せます。少し、待ってください」
今、治癒へ意識を移せば、奥の結界が薄くなる。
男はまだ動かない。
逃げるか、こちらを押し切るか、迷っている。
外から笛が聞こえた。
衛兵だ。
もう少しだった。
少女が袖を離した。
逃げようとしたのではなかった。
胸元の小さな袋を開き、中を探っている。
出てきたのは、細い瓶だった。
両手で隠せるほどの、小さなもの。
「傷の薬が、あるの」
声が震えていた。
「でも、これは……私が作ったものだから」
差し出しかけた手が止まる。
俺は、その瓶を見た。
目の前にいるのは、まだ幼い少女だ。
学園で見た冷たい顔も、立派な魔法も、今ここにはない。
けれど、逃げるより先に、俺の傷を見てくれた。
「使わせていただけますか」
そう頼むと、少女は瓶を握り直した。