何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
「傷に、かけるわ」
少女はそう言って、瓶の栓に指をかけた。
一度、滑った。
もう一度つまみ直す。
奥の男が、出口を見た。
俺は光の壁を保ちながら、声をかけた。
「急がなくても、大丈夫です」
自分の腕から血を流して言うことではなかったかもしれない。
少女がこちらをにらむ。
「急ぐわ」
「……お願いいたします」
栓が抜けた。
少女は傷へ瓶を傾けようとして、俺の袖に気づいた。
裂けた布が、血で濡れて腕に貼りついている。
「ここ、少し動かすから」
「はい」
指先で、布をよけてくれた。
ひんやりしたものが傷に触れる。
布に吸われた分を確かめ、少女がもう一度、瓶を傾けた。
痛みが増すかと思い、歯を食いしばった。
違った。
熱が引いていく。
裂けたところへ、薄い膜が張った。
それが肌の色に変わり、流れていた血が止まった。
俺は、思わず腕を見た。
効いた。
しかも、早い。
クラウディア様が、こんな薬を作れる方だったとは。
魔法に秀でていることは知っていた。だが、錬金術にも通じていたなど、これまでの周回では一度も聞いたことがない。
どういうことだろう。
「痛い?」
「いえ。もう、随分と」
言い終える前に、奥の男が逃げ出した。
追わなかった。
俺の後ろには少女がいる。
薬のことは、あとで考えればいい。
今は、この方を無事に外へ連れ出すことだけを考えろ。
外から、先生が入ってきた。
その後ろに衛兵の姿が見える。
「二人とも、こちらへ」
先生と衛兵が来たのを確かめ、俺は結界を解いた。
近づいてきた先生の手が、肩に触れる。
そこでようやく、身体から力が抜けた。
☆
薬草店の奥には、小さな腰掛けがあった。
そこへ座らされ、先生に腕を見せた。
傷は閉じている。
血のついた袖だけが、そこに傷があったことを物語っていた。
「薬を、使っていただきました」
隣の少女を見た。
空になった瓶を、両手で包んでいる。
先生は傷のあったところを確かめ、腕を動かせるか尋ねた。
指を曲げ、肘を曲げる。
少し引きつる感じはあるが、痛みはほとんど残っていなかった。
「よく効いていますね」
先生の言葉に、少女が顔を上げた。
「本当に?」
「ええ。こちらへ渡してもらえますか」
瓶を受け取り、底に残った薬と、紙の札を見た。
材料の名らしい文字が、細かく書かれている。
俺には、少し離れていて読めなかった。
「あなたの薬ですか」
「私が、作りました」
さっきより、小さな声だった。
「家の者に確かめてもらったものです。傷を治す薬で、変なものは入れていません」
「責めているのではありませんよ」
先生は瓶を返した。
「この子を助けてくれて、ありがとう」
少女は何も答えず、札の端を指で押さえた。
入口のほうでは、衛兵が店主に話を聞いていた。
御者と、通りにいた男たちは捕まったらしい。
奥へ逃げた男については、別の衛兵が追っている。
俺は立ち上がりかけた。
先生の手が、肩へ戻った。
「あなたの仕事はここまでです」
「ですが、奥の出口は」
「知っていることはここで話しなさい」
座り直した。
膝に、力が入らなかった。
疲れているのだと、ようやく分かった。
☆
水をいただき、見たことを順番に話した。
閉じた窓。少女の口を押さえた手。馬車から隣の店へ移ろうとしたこと。
人の数を尋ねられたので、見えた範囲を答えた。
見ていないところまで、分かったように言わない。
衛兵が書き留め、隣の少女へ向き直った。
「お名前と、お家を教えていただけますか」
少女は背筋を伸ばした。
「アルトハイムの家です。クラウディアと申します」
衛兵の筆が止まった。
先生も、こちらを見た。
そうなるだろう。
俺は水の杯を持ち直した。
家へ知らせる使いが、すぐに出された。
少女は店主の奥方に手を拭いてもらい、傷の有無を確かめられた。
手首に赤い跡はあったが、大きな怪我はない。
それを聞いて、俺もようやく息をつけた。
先生は手首の跡を治す前に、触れてもよいかと尋ねた。
少女はうなずいたが、手が近づくと肩を固くした。
すぐに、先生の動きが止まる。
「痛ければ、教えてくださいね」
俺は彼女の顔を見た。
薬を渡してくれたときには、こちらの傷ばかり気にしていた。
自分の腕も痛かっただろうに、一度も口にしていなかった。
光が消えたあと、少女は手首をそっと回した。
赤い跡がなくなっても、つかまれていた場所を何度か確かめている。
傷を閉じるだけで、何もかも済むわけではない。
診療室で教わったことだった。
俺は大丈夫ですかと尋ねかけ、やめた。
大丈夫だと答えなければならない気がしたら、この方はそう言ってしまいそうだった。
材料を見に来た先で、付き添いとはぐれたのだという。
家の者が待っていると声をかけられ、曲がり角で腕をつかまれた。
知らない馬車だと気づいたときには、口を塞がれていた。
途中から、声が途切れた。
奥方が背中へ手を置く。
「続きは、お迎えが来てからでも」
衛兵もうなずいた。
俺は、膝の上の袋を開けた。
「パンがございますが」
クラウディア様が俺を見た。
自分でも、ひどく間の抜けた申し出だと思った。
「今すぐでなくても。水も、いただけます」
「……あなたが食べるものでしょう」
「二つにできます」
割ろうとして、先生に止められた。
手を拭くのが先だった。
新しい布で指を拭いてもらい、半分を差し出す。
少女はしばらく見ていたが、受け取った。
「ありがとう」
まだ、食べなかった。
それでも、空の瓶を握っていた手が少し緩んだ。
「さっき、あなたの目に星みたいなものが光っていたわ」
クラウディア様が俺の顔を見て言った。
神術を使ったときの五芒星だろう。
「力を使うと、浮かぶことがあるのです」
「……そうなのね」
彼女はもう一度俺の目を見てから、手元のパンへ視線を落とした。
☆
「あの薬は、いつもお持ちなのですか」
尋ねると、クラウディア様は小さくうなずいた。
「初めて、ちゃんとできたものだから」
袋の内側へ、瓶をしまう。
空になっても捨てないらしい。
「お守りみたいに持っていたの」
「大切なものを、使っていただいたのですね」
「でも、何にもならなかったわ」
俺は顔を上げた。
少女は自分の靴を見ていた。
片方のつま先が削れ、白くなっている。
「持っていても、捕まったもの。栓を抜くこともできなかった」
そこで、言葉を切った。
パンを膝へ置き、指を握る。
「もっと魔法を覚えなさいって言われていたの。瓶ばかり並べていないで、いざというときに自分を守れるようにって」
家族の言葉なのだろう。
その心配自体は、間違っていない。
今日、この方は危険な目に遭った。
「そのとおりだった」
俺は、治った腕を見た。
「ですが、この薬がなければ、私はまだ血を流しておりました」
「神官なら、治せるでしょう」
「あのときは、結界を保つだけで精一杯でした」
強がる理由はなかった。
現に、膝はまだ頼りない。
「傷が塞がったので、そちらへ気を取られずに済みました。先生が来るまで、待つことができたのです」
「でも」
「ご自分を守れなかったことと、私を助けてくださったことは、別ではございませんか」
少女は口を閉じた。
俺はパンを一口食べた。
少し乾いていた。
さっきから腹が減っていたらしく、飲み込むと、もう一口欲しくなった。
「おいしいです。いただいたほうが、よろしいかと」
「……急に、パンの話に戻るのね」
「申し訳ありません」
謝ると、少女はほんの少し、口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
自分の分を、小さくかじる。
俺たちはしばらく、黙って食べた。
☆
迎えに来た侍女は、戸口で少女を見つけた途端、膝をついた。
「お嬢様」
呼びかける声が、かすれていた。
後ろの護衛も、頭を深く下げている。
少女は何か答えようとした。
だが、差し出された腕へ手を伸ばしたところで、顔が歪んだ。
声を上げずに、泣き始めた。
俺は目を伏せた。
ずっと、我慢していたのだ。
知っている人が来るまで。
先生が俺を連れ、少し離れた場所へ移った。
家の者と衛兵の話が済むのを待つ。
「ノエル」
「はい」
「気づいて知らせてくれたのは、よかった」
俺は先生を見上げた。
「あの子へ手を伸ばしたことも、何も考えていなかったとは思いません」
「……はい」
「けれど、あなたまで連れ去られるところでした」
言い返せなかった。
七歳の腕では、同じくらいの子供を引き寄せるだけで足元が崩れた。
助けるつもりで、二人とも奥へ転んでいたら。
「次に同じことがあっても、同じように動けばよいとは思わないでください」
「承知いたしました」
先生は息をつき、血のついた袖を新しい布で覆ってくださった。
「帰りは馬車にしましょう」
「買い物が、まだ」
「その話をすると思いました」
店の前には、もう包みを積んだ荷車があった。
見習いたちが、残りを済ませてくれたのだ。
クラウディア様が出てきた。
目元は赤かったが、俺の前で足を止めた。
「あなたの名前を聞いていないわ」
「ノエルと申します」
「教会にいるの?」
「学びに通っております。暮らしているのは、ローゼンベルクのお屋敷です」
少女が一度、まばたきをした。
後ろの侍女の顔も、わずかに変わる。
そうだった。
東のローゼンベルク公爵家と、西のアルトハイム公爵家。
海のローゼンベルクに、森のアルトハイム。家紋を彩る色も、赤と青だ。
何もかも競い合うように対照的な両家は、昔から互いを敵視していた。
「そう」
クラウディア様は、それだけ答えた。
それから、俺の腕を見た。
「痛くなったら、ちゃんと言って」
「はい。ありがとうございます」
彼女はうなずき、侍女と一緒に馬車へ乗った。
☆
屋敷へ戻ると、奥様とお嬢様が玄関にいらした。
先生が先に知らせを出していたらしい。
お嬢様の視線が、俺の袖で止まった。
布で隠れている。
けれど、傷を負ったことまでは隠せなかった。
「ただいま、戻りました」
お嬢様は、返事をなさらなかった。
俺の前まで歩いてきて、手を伸ばす。
袖に触れる直前で、指が止まった。
「もう、治っております」
「……見せて」
奥様にうなずかれ、布を外した。
閉じた傷を見ても、お嬢様のお顔は晴れなかった。
「血が、出たのでしょう」
「はい。ですが、薬を」
「痛かったでしょう」
俺は言葉を止めた。
大したことはないと答えるつもりだった。
それを聞きたいのでは、ないらしい。
「……少し」
お嬢様は、傷のないほうの手を握った。
指先が冷たかった。
俺を見ているのに、別のものを見ているようなお顔だった。
よほど驚かせてしまったのだろう。
「無事に帰ってくると、申し上げたのに。申し訳ございません」
「帰ってきたわ」
小さな声だった。
「今、ここにいるもの」
握る力が強くなった。
俺は、その手を握り返した。
奥様が、先生を居間へお通しした。
俺も事情を話しに行く。
お嬢様は、ずっと手を離さなかった。
聖女の居場所は、確かめられなかった。
代わりに、思いがけない方と知り合った。
治った腕には、まだ薬の匂いが残っていた。
あの小さな瓶を作った手も、馬車へ乗る頃には、もう震えていなかった。
居間で話を終えると、今日はもう部屋で休むように言われた。
俺はうなずいた。
いつものように、まだできることを探す気にはならなかった。
お嬢様と歩きながら、何度か腕を動かしてみる。
痛くない。
布の下から血がにじむこともない。
自分で治した傷なら、それで確認を終えただろう。
今日は、あの方にも伝えたかった。
いただいた薬は、そのあともちゃんと効いています、と。
☆
ノエルが部屋へ戻るのを見届けてから、私は裏庭へ向かった。
侍女には、いつもの稽古だと伝えてある。
無事だった。
玄関で見た、血のついた袖が頭を離れない。それでも、握り返してくれた手は温かかった。
今日は、ちゃんと帰ってきてくれた。
ほっとすると、今度は別のことが気になった。
アルトハイムのご令嬢。
助けてもらったうえに、ノエルの傷を自分の薬で治したという。
……泥棒猫が現れた気がする。
薬を使ってくれたことには、お礼を言わなくてはならない。
それと、安心していられるかどうかは、別だった。
「お待たせしたわ」
裏庭には、ノエルにも剣を教えている護衛がいた。
差し出された小さな木剣を、両手で受け取る。
「今日は、お休みになってもよろしいのでは」
「いいえ。お願いするわ」
前の人生で、私には勇者の力があった。
けれど、力が目覚めたからといって、剣の扱いまで身についたわけではなかった。
思うように動けず、走れば息が切れた。ノエルは敵と戦いながら、そんな私まで守らなければならなかった。
今度は、自分の足でついていきたい。
彼が傷ついたとき、何もできずに立っているのは、もう嫌だった。
構え、足を踏み出す。
木剣を振ると、先ほど教えられた位置より肩が上がった。
「肩に力が入りすぎています。まずは、ゆっくり」
息を吐いて、構え直した。
勇者の力がいつ戻るかは分からない。けれど、足の運びも、剣の握り方も、今から覚えることはできる。
ノエルが教会へ行っている間や、自室で勉強している時間を選んで、少しずつ教わっていた。
彼に知られたら、きっと心配される。私を守るのは自分の役目だと、また一人で引き受けようとするだろう。
「この稽古のことはノエルには内緒よ」
「承知しております。ただし、お約束の回数までです」
「ええ」
彼を困らせるために、強くなりたいのではない。
決められたところで休むことも、覚えなければならなかった。
息を整え、護衛を見上げる。
「もう一度、お願いします!」