何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
アルトハイム家から、手紙が届いた。
外出から五日目の朝だった。
俺は廊下で執事長に呼び止められ、午後には応接室へ来るようにと言われた。
「先日の件で、お礼にお見えになります。お手紙には、当事者であるご令嬢と、アルトハイム家の代表者が伺うと」
「私も、同席するのでございますか」
「あなたへのお礼ですから」
それは、そうだった。
俺は袖口を見た。
白いシャツに、飾りのない濃紺の上着。同じ色のズボンと合わせた、屋敷でいつも着ている服だ。
裂けた服は、もう着ていない。傷も先生に確かめていただき、手当ては終わっていた。
「いつもの服で、よろしいでしょうか」
「汚れのないものであれば。急に大人の格好をしなくても結構です」
俺はうなずいた。
執事長は、そのあとで少し声を落とした。
「両家のお付き合いについて、気にしているようですね」
顔に出ていただろうか。
「ご迷惑にならなければと」
「公爵様がお迎えするとお返事なさいました。ノエルさんはご自分のお話をすればよいのです」
家同士の事情まで、俺が引き受ける必要はない。
そういうことらしかった。
☆
お嬢様は、すでにご存じだった。
朝の授業が終わると、俺の前へ回り、上着の襟を確かめた。
曲がっているわけでもないのに、小さな手で直してくださる。
「今日はこの服なのね」
「はい」
「そう」
少し考えるようなお顔だった。
だが、別の服にしなさいとはおっしゃらなかった。
「薬を作った方がいらっしゃるのでしょう」
「ええ。お嬢様も、お会いになるのですか」
「私もお礼を言いたいもの」
俺は返事に迷った。
クラウディア様を助けたのは俺で、俺を助けたのはクラウディア様だ。
お嬢様が頭を下げる必要はないと思う。
しかし、それを申し上げれば、また別の話になりそうだった。
「大変よく効くお薬でした」
「それは何度も聞いたわ」
お嬢様の指が、袖から離れた。
「怪我をしてもよかったという意味にはならないのよ」
「……承知しております」
帰ってから、何度も思い返した。
相手の腕をつかんで引き戻す。間に割って入り、自分の身体で押しとどめる。
大人だった頃ならできたことを、今の身体でもできるつもりでいた。
だが、七歳の俺には、大人の男を押さえ込むだけの力も体格もない。
朝の鍛錬でも、護衛にそこを指摘された。
回数を増やす許しは出ず、足の運びからやり直している。
「今日は、剣は振っておりません」
「今日は、でしょう」
お嬢様は、よく聞いていらした。
☆
応接室には、公爵夫妻もいらした。
俺は椅子の後ろに立ちかけ、奥様に呼ばれて席へ座った。
隣がお嬢様。その向こうに、客人の席が用意されている。
卓には、まだ茶器だけが並んでいた。
やがて、執事長が戻ってきた。
公爵様のおそばへ寄り、声を落とす。
「アルトハイム公爵ご本人がお見えです」
公爵様の眉が、わずかに動いた。
「……そう来たか」
奥様が、卓の向こうの椅子へ目をやった。侍女がすぐに席を整え直す。
代表者というから、家の重役か使者がいらっしゃるものだと、俺も思っていた。
確かに、当主も代表者ではあるけれど。
廊下から足音が近づいた。
アルトハイム公爵は、娘を伴って入ってきた。
すらりと背が高く、淡い銀青色の髪を整えている。紺の上着には、青地に鷹をあしらった家紋。灰青色の目が、こちらを静かに見渡した。
迎えに立った公爵様は、肩幅も胸板も厚い。
後ろへ流した濃い金髪は、獅子のたてがみのように豊かだった。胸にある赤地の獅子が、よくお似合いだと思う。
剣を得意とする我が家の公爵様と、魔術を得意とするアルトハイム公爵。並ぶと、体つきまで対照的だった。
「当主自らとは思わなかった。ひと言、知らせてくださればよかったものを」
「当家の代表者が伺うとお伝えしたはずですが」
アルトハイム公爵は、涼しいお顔で答えた。
「それとも、私では不足でしたかな」
「まさか。大変よく伝わるお手紙だった」
「本日は、娘の恩人に礼を申し上げに参りました」
二人が手を差し出した。
握ったところまでは、普通の挨拶だった。
だが、いつまでたっても離れない。公爵様の手の甲に筋が浮き、アルトハイム公爵のこめかみも、ぴくりと動いた。
「お父様?」
お嬢様が呼ぶ。
向こうでも、クラウディア様が父親の袖を引いていた。
「何でもないよ」
「ああ。久しぶりなのでね」
二人はそれぞれ娘に微笑み、ようやく手を離した。
普段はどっしり構えていらっしゃる公爵様も、この方の前ではこうなる。表情を変えないことで知られる相手も、今日ばかりは同じだった。
それでも、公爵様があの方の魔術の腕を悪く言うのは、聞いたことがない。
腕を認めていても、仲よくできるとは限らないらしい。
奥様は何も言わず、席を勧めるように手を添えた。
父親の横から、クラウディア様が一歩進み出た。
青地に金の刺繍を施したドレスに、濃紺のリボン。袖口と裾には、白いレースがあしらわれていた。
頬に土はついていない。髪も丁寧に整えられていた。
あの日は気づかなかったが、髪の間から見える耳の先が、ほんの少し尖っている。
彼女は公爵夫妻の前で、きちんと礼をした。
「クラウディア・フォン・アルトハイムと申します。本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
それから、俺へ向き直った。
「先日は、助けていただきました。改めて、お礼を申し上げます」
灰色がかった瞳が、俺を見る。
声は静かだったが、指はスカートの脇を少し強くつまんでいた。
「ご無事で、何よりでございます」
俺も立って、頭を下げた。
「お薬をいただいたおかげで、こちらもすっかり治りました」
「その後、痛くなったりは?」
「ございません」
ようやく、彼女の指が緩んだ。
公爵様が席を勧めた。
アルトハイム公爵は、俺に向き直った。
「娘を助けてくれたこと、心から感謝する。君にまで怪我を負わせてしまった。すまなかったね」
先ほどまで張り合っていた方が、子どもの俺へ頭を下げた。
慌てて立ち上がりかけると、公爵様に手で制された。
「礼を受けておきなさい、ノエル」
「……はい」
向かいの公爵の手が、娘の肩へそっと触れた。
どちらの家にも、息子はいない。大切に育ててきた、一人きりの娘だ。
その二人が同じ年の、同じ月の、同じ日に生まれたというのだから、不思議な巡り合わせだと思う。
アルトハイム公爵は、付き添いの不手際についても詫びた。
捕らえられた者たちのことは、衛兵と両家の大人が確かめているという。
詳しい話は、別室ですることになった。
「娘も君の薬に礼を言いたいそうだ」
公爵様がおっしゃると、お嬢様が立ち上がった。
「セレスティア・フォン・ローゼンベルクです」
名乗ってから、クラウディア様を見る。
「ノエルの傷を治してくださって、ありがとう」
俺は思わず、二人の顔を見比べた。
学園の廊下では、挨拶の次に続く言葉を、いつも気にしていた。
今日は、違う。
「助けていただいたのは、私のほうです」
「それでも、ありがとう」
クラウディア様は、一度だけ俺を見た。
返事を求められている気がしたが、何と答えればよいのか分からなかった。
「……どういたしまして」
小さな声で、そう返された。
お嬢様はうなずき、席に戻った。
少なくとも、俺には普通のお礼のやり取りに聞こえた。
学園でのお二人を思うと、それがかえって落ち着かなかった。
☆
両公爵が隣室へ移ると、お茶が運ばれてきた。
奥様は窓辺の席で、付き添いの侍女と話している。
俺たちの卓には、焼き菓子が三人分並んだ。
クラウディア様は、手元の小さな箱を開いた。
中には、細い瓶が二本入っている。
「同じものを持ってきたの」
瓶の首には、紙の札が結ばれていた。
以前より、大きな字だった。
「家でもう一度、確かめてもらったわ。傷に使う薬。飲むものではないから」
「いただいて、よろしいのですか」
「そのために持ってきたのよ」
俺は両手で受け取った。
箱の底には布が敷いてある。馬車が揺れても、瓶同士がぶつからないようになっていた。
「ありがとうございます。先生にも、お伝えいたします」
クラウディア様は、ほっとしたようだった。
だが、俺が箱を閉じようとすると、少し身を乗り出した。
「使ったときのこと、聞いてもいい?」
「はい」
「最初に痛みが引いたのと、血が止まったのはどちらが先だった?」
俺は腕を見た。
よく覚えている。
「熱い感じが、先になくなりました。そのあとに、傷が塞がって」
「しみなかった?」
「いえ。冷たかったです」
「傷が閉じたあと、つっぱる感じは?」
「少しございました。翌朝には、ほとんど」
彼女は付き添いの侍女へ顔を向けた。
小さな手帳を渡され、膝の上で開く。
書き始めると、筆が速かった。
さっきまでの改まった様子が、少し薄れた。
「二回に分けてかけたでしょう。最初は、布のほうに吸われてしまったから。量が足りなくなるかと思ったの」
「最後まで、よく効いておりました」
「全部使ったら効くのは、分かっていたわ。でも、どこまで減らせるかは、まだ」
言いかけて、筆が止まった。
「ごめんなさい。怪我の話ばかり」
「私でお答えできることでしたら」
「ノエル」
隣から声がした。
お嬢様が、こちらを見ている。
「試すために怪我をするのは、だめよ」
「そのようなことは」
「しないでね」
念を押された。
クラウディア様まで、真剣にうなずいている。
「それは、しないで。そういう調べ方はしないから」
「……かしこまりました」
二人から言われるとは、思わなかった。
☆
手帳の端に、瓶の絵が描かれていた。
俺が見ていると、クラウディア様は少しためらってから、こちらへ向けた。
「別の形も考えたの」
首の短い瓶と、口の広い瓶。
横には、栓の形がいくつかある。
「あの日、抜きにくかったから」
少女が、指をこする。
震えていた手を、俺は思い出した。
「手が震えていても、開けやすい形にできるとよいですね」
「……慌てなければ、ちゃんと抜けたと思うわ」
「怖いときにも使うものですから。慌てずに済む方ばかりでは、ないかと」
彼女は、手帳へ目を落とした。
俺は空いている紙を一枚、いただいた。
あの瓶の栓を、覚えている範囲で描く。
「小さかったので、つまむ場所が少なかったのだと思います。ここが少し大きければ」
「抜けやすくすると、こぼれるの」
「持つ場所だけ変えることはできますか」
クラウディア様は俺の絵を見た。
それから自分で筆を取り、栓の上へ線を足した。
「こう?」
「はい。そのような形でしたら」
「作ってみないと、分からないけれど」
声が、少し明るくなった。
お嬢様が、空の小皿をこちらへ寄せた。
「薬を使うとき、栓はどこへ置くの?」
俺たちは、同時にお嬢様を見た。
「机がなければ、なくしてしまいそうだわ」
「……床に、落とした」
クラウディア様が言った。
俺は覚えていなかった。
あのときの俺は、薬と傷と、奥の男しか見ていなかったのだ。
「そういうところも直せるのかしら」
「考えてみるわ」
彼女は手帳へ、もう一行書いた。
お嬢様はそれをのぞこうとせず、茶器を持ち上げた。
窓辺で奥様が、こちらを見ていた。
目が合うと、小さく笑われた。
俺は、瓶の絵へ視線を戻した。
家同士の争いの話は出なかった。二人とも、同じ瓶をどう使いやすくするか話している。
☆
帰りの支度が始まる頃、クラウディア様は一枚の紙を手帳から抜いた。
薬を使ったあと、俺が答えたことが書いてある。
確かめるように読み、それから丁寧に挟み直した。
「家であの薬が役に立ったと言ったの」
「はい」
「そうしたら、詳しく聞かれたわ。私が何を作っていたか、前より長く」
それだけ言って、口を閉じた。
家族の考えが、全部変わったわけではないのだろう。
魔法の練習も、続けるのだという。
「また、作れそうですか」
尋ねると、彼女は箱の中の瓶を見た。
「もう作ったでしょう」
「そうでした」
俺が答えると、少し笑った。
今度は、はっきり分かった。
「次はもう少し使いやすくするわ」
「楽しみにしております」
「使わないで済むほうがいいのだけれど」
そのとおりだった。
俺はうなずいた。
玄関まで、お嬢様と一緒にお見送りした。
話を終えたアルトハイム公爵が、馬車のそばで待っていらした。クラウディア様はそちらへ向かう前に、俺を振り返った。
「新しい瓶ができたら、見てもらってもいい?」
「私でよろしければ」
「またお手紙を出すわ」
「次は私にも見せてくださる?」
お嬢様が、俺の隣からおっしゃった。
「栓のことも気になるもの」
「ええ。でも、まずノエルに。実際に使ったときのことを、聞きたいから」
「では、またここへいらして。私も一緒に聞くわ」
クラウディア様は少し間を置いて、うなずいた。
手紙でも済む話だと思ったが、お二人がよろしいのなら、それでよいのだろう。
こうしてお会いするうちに、学園の頃より仲よくなってくだされば、何よりだ。
彼女はそれから、お嬢様にも礼をした。
「今日はありがとうございました」
「ええ。お気をつけて」
親しげに手をつなぐわけでも、次のお茶を約束するわけでもない。
それでも、普通に別れの挨拶ができた。
俺の知っている二人より、ずっと穏やかだった。
馬車が門を出るまで見送ったあと、お嬢様が俺を見た。
「ずっと驚いた顔をしていたわ」
「そうでございましたか」
「薬のお話、楽しかった?」
箱を持ち直した。
薬の効き目を話し、栓の形を考えた。
俺の言葉を聞いて、あの方が筆を動かした。
「はい」
「そう」
お嬢様は、少しだけ唇を結んだ。
何かお気に障っただろうか。
「では、お茶の続きにしましょう。あなた、ほとんど食べていなかったでしょう」
言われて、菓子が残っていたことを思い出した。
手帳を見ているうちに、すっかり忘れていた。
「お供いたします」
お嬢様が、俺の空いている手を取った。
薬の箱は、もう片方で抱えている。
「それもあとで置いてきなさい」
「はい」
部屋へ戻ったら、倒れない場所を探そう。
手紙が届いたら、返事を書こう。
聖女を探しに出たはずの日から、予定になかったことばかり増えている。
けれど、あの瓶を受け取らなければよかったとは、思わなかった。