何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
鏡の前で、上着の袖を引いた。
手首が出る。
反対の袖も引いてみたが、そちらも同じだった。
洗って縮んだのかと思い、裾を見る。去年は膝の近くまであったはずが、今はずっと上にある。
俺が大きくなったのだ。
クラウディア様がお礼に見えてから、季節が一巡しようとしていた。
俺もお嬢様も、八歳になった。
机に向かっていられる時間は伸びたし、鍛錬でも思うように足が運べるようになった。この年頃の身体の扱い方も、何度となく覚えてきたものだ。
まだ力も、手足の長さも足りない。だが、今の身体でできることは分かっている。
この上着は、直せるだろうか。
縫い代が残っていれば、袖だけでも。
「ちょうどよかったわ」
開いた扉から、お嬢様が入っていらした。
後ろには侍女がいる。腕に大きな箱を抱えていた。
「何が、でございますか」
「その服では、もう窮屈でしょう」
「袖を少し直していただければ」
「あなた、座るときにも裾を引いていたわ」
見られていた。
確かに、椅子へ腰を下ろすたびに肩のあたりが突っ張る。
「新しい服が必要なの。今日は、仕立屋が来るわ」
「私の分まで、お頼みになったのですか」
「ええ」
お嬢様は当然のようにうなずいた。
侍女が箱を卓へ置くと、中には布見本と、何枚かの絵が入っていた。
仕事着にしては、光沢のある布ばかりだ。
☆
王城で、子供たちも招かれる舞踏会が開かれる。
そう聞かされたのは、数日前だった。
お嬢様は、公爵夫妻と一緒に出席される。
俺もお供する。そこまでは、何の不思議もなかった。
困ったのは、奥様が机に広げた服の絵だった。
上着。胴着。きちんと折り目をつけた長いズボン。
教会で着る簡素な神官服とは、まるで違う。
「礼装でしたら、教会のものがございます」
俺が申し上げると、奥様はうなずいた。
「ええ。お祈りのお役目で行くなら、それでよいでしょうね」
「お嬢様のおそばに控えるだけですので」
「控えている間は、服が見えなくなるの?」
隣のお嬢様に尋ねられた。
そういうことではない。
「目立つ必要は、ないかと存じます」
「では、きちんとしていましょう。服のことで目立たないように」
言い返せなかった。
俺の上着は、袖だけでなく肘も薄くなっていた。
王城へ着ていくつもりはないが、お嬢様は俺の袖口をじっと見ている。
奥様は絵の一枚へ指を置いた。
「招待を受けた方に、誰を伴うかは前もってお伝えしています。あなたのお名前も出してあるわ。娘のそばにいる子が、借り物の服で困らないようにしたいの」
「ですが、このような上等なものは」
「代金を心配しているのなら、当家で用意するものです」
奥様の声が、少しだけきっぱりした。
公爵家の顔を立てる服なのだと言われれば、俺が安いものを選び直すわけにもいかない。
「……ありがとうございます」
頭を下げると、お嬢様が絵をこちらへ寄せた。
「ここからは、あなたも選ぶのよ」
ただ着れば済むわけではなかった。
☆
仕立屋は、まず俺の肩を見た。
それから腕を上げ、下ろし、椅子に座るように頼んだ。
「苦しくはありませんか」
「はい」
「それは、苦しいというお返事ですか」
「いえ。問題ございません」
お嬢様が横で笑った。
俺は、薄い上着の上から肩に当てられた布を見下ろす。
針が留めてあるので、勝手に動くのは危ない。
「いつも、こうして背筋を伸ばしていらっしゃる?」
「仕事中は」
「座っているときも、この方はそうよ」
なぜか、お嬢様がお答えになった。
仕立屋がうなずき、背中の布を少しつまむ。
お嬢様は、持ってきた見本を膝へ並べていた。
黒。深い紺。ほとんど黒に見える灰色。
少し離れると、俺には見分けがつかない。
「こちらがいいと思うのだけれど」
黒い布を差し出される。
窓へ向けると、織り目が細かい。
「汚れが目立ちにくく、よいかと」
「最初に気になるのは、そこなのね」
「白いものよりは、手入れが」
「白いシャツも着るのよ」
逃げ道がなくなった。
侍女が、奥様に渡された紙へ何かを書きつけている。
白いものを、何枚用意するつもりだろう。
次に選ぶのは、襟の飾りだった。
仕立屋が金糸の見本を二つ並べた。一方は幅が広く、もう一方は細い縁取りに小さな模様が入っている。
「こちらなら、公爵家のお席でも見劣りしません」
広いほうを示され、俺は口を開きかけた。
お嬢様も、同時に首を傾けた。
「少し、多くないかしら」
意外だった。
こういうときは、華やかなほうをお選びになると思っていた。
「ノエルの顔より、襟に目が行くわ」
そこを気にしていらしたのか。
仕立屋は笑わず、細い見本を俺の胸へ当てた。
「では、このくらいで」
「ええ。あなたは?」
「こちらのほうが、落ち着きます」
答えると、お嬢様は満足そうにうなずいた。
ようやく、一つは意見が合った。
ところが、袖の長さでは合わなかった。
「少し長めにしていただければ、来年も」
「手が隠れてしまうわ」
「折っておけば」
「踊るときに、ほどけたら困るでしょう」
踊る。
思わず、お嬢様を見た。
「誰が、でございますか」
「あなたが」
「どなたと」
お嬢様は返事をせず、こちらを見つめた。
侍女まで、手元の紙へ視線を落とした。
……稽古のお相手、ということだろうか。
舞踏会では、第二王子殿下と踊られるはずだ。その前に練習しておきたい、ということなら分かる。
「お申しつけがございましたら」
「今、申しつけているの」
「かしこまりました」
仕立屋が、咳払いを一つした。
「裾の内側には、伸ばせる分を残しておきます。今は、今のお身体に合うようにいたしましょう」
袖の長さについては、仕立屋にお任せすることになった。
☆
仮縫いまでの間に、踊りの稽古が増えた。
お嬢様の授業に呼ばれ、俺も先生の前で礼をする。
先生に手の位置を確かめてもらい、曲に合わせて一通り踊る。
手順は覚えている。この背丈で無理なく踏み出せる幅も分かる。
だが、お嬢様の足を踏まないようにと下を見たら、すぐに注意された。
「お相手のお顔を見てください」
「はい」
顔を上げる。
お嬢様が、笑いをこらえていた。
「そんなに怖い顔をしなくても」
「踏んでしまわないかと」
「下ばかり見ているほうが、ぶつかるわ」
言いながら、一歩下がる。
俺が続く。
お嬢様の一歩に合わせ、歩幅を小さく取る。
お嬢様は、つま先を引くときにもふらつかなかった。
俺の足も、覚えたとおりに動いている。それなのに、赤い裾が靴へかかるたび、踏みはしないかと気になった。
「もう一度、初めから」
先生が手を打った。
今度は、お嬢様のお顔を見たまま進む。
曲がるところで、裾を避けようと余計に足を引き、お嬢様の靴の端へ触れてしまった。
「申し訳ございません」
「まだ、曲の途中よ」
手を離しかけた俺を、お嬢様が引き留めた。
先生も、続けるようにと指で拍子を取っている。
失敗したところへ戻らず、その次の足を出す。
最後まで踊って礼をすると、お嬢様は俺の手を離した。
「今度は、止まらなかったわね」
「お怪我は」
「していないわ。かすっただけよ」
ようやく息を吐いた。
先生が椅子を勧めると、お嬢様は俺の隣へ腰を下ろした。
「当日も、忘れないでね」
「足の運びでございますか」
「途中で逃げないこと」
あれは逃げようとしたのではなく、お怪我を確かめようとしたのだ。
申し上げる前に水の杯を渡され、言いそびれた。
☆
その翌日、クラウディア様から手紙が来た。
封筒には、俺の名前が書いてあった。
初めてもらった頃には少し傾いていた字が、今はきれいにそろっている。
中には小さな絵が一枚あった。
薬瓶の栓だった。
つまむ部分を広くし、瓶の首と細い紐でつないである。
紐が邪魔にならないか試したところ、持ち方によって指へ絡む、と書かれていた。
最初のお手紙から、一度でよくなったわけではなかった。
栓を大きくしすぎて箱へ入らなくなったことも、紐が濡れてほどきにくくなったことも、教えてくださった。
いただいた二本の薬は、期限が来る前に先生へ相談し、診療室で役立ててもらった。新しい瓶が届いたときには、水を入れて、開けやすさだけを確かめた。
俺は絵の脇へ、手袋をしているときにもつまめたと返事を書いた。
薬の中身については、先生に聞いていただく。
試したことと、思いついただけのことを分けて書くうちに、返事は以前より長くなっていた。
末尾には、王城の舞踏会へ出席する予定だと添えてあった。
俺も伺うと書きかけ、少し考える。
両家のお付き合いまで変わったわけではない。会場で長く薬の話を始めるのも、おかしいだろう。
当日、ご挨拶できましたら。
そう結び、封筒を閉じた。
☆
仕上がった服は、箱から出されると、なおさら立派に見えた。
黒い上着に、細い金の縁取り。
白いシャツ。喉元には黒い結び飾り。
胴着のボタンを留め、上着を羽織ると、肩も背中も引っ張られなかった。
侍女が袖口を直し、鏡の前から退いた。
俺は腕を曲げた。
次に、そっと前へ伸ばす。
「剣を振る服では、ございませんよ」
「まだ、何もしておりません」
「なさりそうでしたので」
この屋敷では、考えるだけでも見つかってしまう。
俺は手を下ろした。
扉の向こうで、靴音が止まった。
お嬢様が入っていらっしゃる。
今日は赤い礼装を試していたらしい。長い袖の先から白い飾りが少し見え、髪には深い赤のリボンをつけていた。
「どう、でしょうか」
尋ねても、すぐには返事がなかった。
お嬢様は俺の足元から顔まで、ゆっくりご覧になった。
「……よく似合っているわ」
声が、いつもより小さかった。
「ありがとうございます。おかしなところは」
「ないわ」
今度は早かった。
近づいてきて、喉元の結び目へ手を伸ばす。
ほどいて結び直すのではなく、端を少しだけそろえてくださった。
鏡の中に、二人が並んでいた。
お嬢様の頭も、俺の頭も、ほとんど同じ高さだった。
いつもなら半歩後ろへ下がるところを、今は袖をつままれている。
「お嬢様も、よくお似合いです」
申し上げると、青い瞳が鏡越しにこちらを向いた。
「本当に?」
「はい。リボンのお色も、お召し物と合っていて」
殿下も、お喜びになるだろう。
そう続けようとして、やめた。
俺の服を見てくださっているときに、ほかの方の話を持ち出すのも違う気がした。
お嬢様は、俺の袖から手を離した。
「では、これで決まりね」
「はい」
仕立屋へ礼を述べ、脱ぐ前にもう一度、姿見を振り返った。
公爵家の費用で仕立てていただいた、男物の礼装。
当日は汚さず、皺にも気をつけて、お嬢様のおそばに控えなければ。
「ノエル」
「はい」
「踊るお約束も、決まったのだからね」
鏡の中で、俺は頭を下げた。
お嬢様が、楽しそうに笑っていらした。