何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
馬車の扉が開いたとき、まず数えたのは、入口までの段だった。
七段。
両側に手すりがあり、その手前で王城の使用人が客を迎えている。
雨は降っていない。石も乾いていた。
先に降りた公爵様が振り返る。
奥様、お嬢様、俺の順に馬車を降りた。
「足元ばかり見ていると、ぶつかるわよ」
お嬢様に言われ、顔を上げる。
広い階段の上で、幾つもの窓が明るく光っていた。
「失礼いたしました」
王城へ来たことはあるが、この身体では初めてだった。
学園に通っていた頃には、舞踏会にもお供した。だが、この年の舞踏会には一度も来ていない。いつもなら屋敷へ上がったばかりで、留守を預かる側だった。
門のところで客の名を確かめる係が、手元の紙へ目を落とす。
公爵夫妻とお嬢様の名が呼ばれ、次に、ノエルと続いた。
俺が返事をすると、係は何も尋ねず、通るように手を差し出した。
名前は、本当に出されていた。
当たり前のことを、今になって確かめた気がする。
屋敷からの護衛は決められた控えへ向かった。広間の警備は王城の衛兵が受け持つ。
俺は剣を持っていない。
今夜は、お嬢様に付き添うために来たのだ。
それでも、衛兵の立つ場所を目で追ってしまう。
柱の陰。階段の上。外へ通じる扉。
「お父様たちから、離れないでね」
お嬢様は、俺の手を取った。
「私がお申し上げすることかと」
「先に言ったほうがよいでしょう」
それは、何の決まりなのだろう。
尋ねる前に、公爵様がこちらを振り返った。
「二人とも、こちらだ」
お嬢様が歩きだす。
袖の金糸が、壁の灯りを受けて光った。
☆
広間の音が、廊下まであふれていた。
弦の音に、重なる話し声。
磨かれた床には、幾つもの靴が映っている。
飲み物を載せた盆が通るたびに、人の間へ細い道ができた。
入ってすぐのところで、公爵様が知人に呼び止められた。
俺はお嬢様の半歩後ろで足を止める。
「大きくなられましたな」
「この間お会いしたときは、まだ抱かれていたのに」
お嬢様は順に礼をして、挨拶を返した。
返事に困っていらっしゃる様子はない。
以前、俺が仕え始めた頃も、お嬢様はこの年だった。礼儀を知らない方ではなかったが、気に入らないことがあれば、もっとはっきり顔にも言葉にも出していらした。
今のお嬢様は、大人の長話にも穏やかに相槌を打っている。
……やはり、この頃からこんなにおとなしい方だっただろうか。
二歳からおそばにいるうちに見慣れてしまったが、昔を思い返すと、どうにも違う。
俺が知らなかっただけでは、説明がつかない気もした。
俺も紹介されたときだけ顔を上げ、頭を下げた。
「娘のそばに置いているノエルです。教会へ通いながら、一緒に学んでいます」
公爵様は、そう説明された。
神官として何ができるのかは、誰にも尋ねられなかった。
そのかわり、名前を呼ばれ、こちらが自分の娘だと紹介される。
俺まで挨拶をする相手に数えられると、どうにも落ち着かない。
お嬢様は、そのたびに俺のほうを見ていた。
下がりすぎないよう、確かめているらしかった。
挨拶が一段落すると、奥様が壁際の席を示した。
「少し、あちらでお待ちなさい。向こうのお話が済んだら、戻りますから」
「はい」
お嬢様が返事をする。
付き添いの侍女が一緒に来て、二人分の飲み物を頼んでくれた。
公爵夫妻の姿も、ここから見えた。
椅子へ座る前に、俺は上着の裾を確かめた。
皺を作らないように下へ引く。
お嬢様が、その手を見ている。
「破れないわよ」
「借り物ではございませんが、やはり」
「あなたの服でしょう」
それが落ち着かない理由だった。
これだけの布で、普段の上着を何枚作れるだろう。
運ばれてきた杯を受け取る。
赤い果汁が入っていた。
一滴でも胸へこぼせば、白いシャツに跡が残る。
慎重に口をつけると、お嬢様が笑いそうなお顔になった。
「その飲み方、しばらく続くのかしら」
「慣れれば、もう少し」
「服より先に、果汁が温まってしまうわ」
口元が緩み、少しだけ多く飲めた。
☆
水色の髪が見えたのは、杯を置いたときだった。
向こうの通路を、大人たちと一緒に歩いてくる。
クラウディア様は、淡い青の礼装を着ていた。歩くたび、重ねた薄い布の裾がわずかに揺れる。
俺たちに気づくと、足が止まった。
隣の婦人へ何か告げている。
うなずかれ、侍女を伴ってこちらへ来た。
「こんばんは」
まず、お嬢様へ挨拶をした。
それから、俺を見る。
「お手紙、ありがとう」
「こちらこそ。栓の絵を拝見いたしました」
「紐は、少し短くしてみたわ」
すぐに返事が戻ってきた。
俺は持っていた杯を置き、両手で長さを示しかけた。
ここは薬瓶を並べる卓ではないと思い出し、手を下ろす。
「後日、改めてお聞かせいただけますか」
「ええ」
クラウディア様の視線が、俺の襟へ移った。
「今日は、違う服なのね」
「公爵家で、ご用意いただきました」
「そう。似合っているわ」
「私が選んだの」
お嬢様が、横からおっしゃった。
いや、俺も選ぶように言われたはずだ。
布と袖の長さではほとんど意見を通せなかったが、襟の飾りは一緒に選んだ。
訂正するほどのことでもなく、俺は黙っていた。
クラウディア様はお嬢様の顔を見た。
「そうなのね」
それだけだった。
けれど、返事のあと、少し間があった。
今のは、何だろう。
俺は二人の顔を見比べた。
「お手紙では、手袋でも開けられたと書いてあったわね」
先に話を戻したのは、クラウディア様だった。
今日は薬の話を長くするつもりはなかったのだが、尋ねられれば答えられる。
「薄手のものでしたら。ただ、濡れているときは試しておりません」
「次は、それも確かめてみるわ」
「今夜は、瓶を持ってきてはいらっしゃらないでしょうね」
お嬢様がお尋ねになると、クラウディア様は眉を少し上げた。
「お礼の訪問ではないもの」
「ええ。舞踏会ですものね」
にこりと笑われる。
クラウディア様も口元だけで笑った。
そうだ。この顔なら知っている。
俺が何か申し上げるべきか考えていると、別の声が割って入った。
☆
「お二人とも、こちらにいらしたんですね」
少年が二人、立っていた。
俺たちより少し年上に見える。
先ほど、公爵様が挨拶を交わした家のご子息だった。
お嬢様たちへ礼をし、近くで踊っている子供たちの話をする。
俺は、杯のそばへ半歩下がった。
年の近い貴族同士で親しくなる場だ。
俺が間に入る必要はない。
「そちらは、どちらの家の方ですか」
一人が、俺を見た。
「ノエルと申します。セレスティア様のおそばに上がっております」
「そば付き?」
「はい」
少年は俺の上着を見直した。
もう一人が、その隣で何か小さく言う。聞き取れなかったが、二人とも笑った。
「では、後ろで待つものではないのですか。客と同じ場所にいらしたので、間違えました」
もっともな指摘に聞こえた。
実際、いつもなら壁際へ控えている。
「失礼いたしました。私が」
「私が、ここにいてと頼んだのよ」
お嬢様が言った。
謝りかけた俺の袖に、指が触れる。
「ご挨拶する間も、一緒にいてもらうつもりなの」
「でも、お仕えする方なのですよね」
「ええ。父もご紹介したでしょう」
少年が、広間の奥へ目を向けた。
公爵様は、まだ大人同士の話をしている。
もう一人の少年が、俺の襟を指さした。
「その服も、公爵家からいただいたのですか」
「はい」
「ずいぶん、ご立派だ。家名がなくても、服だけなら公爵家の子になれるんですね」
隣の少年が笑った。
今度は、何を面白がっているのか分かった。
俺は両手を前にそろえた。
お嬢様の前で言い返すわけにはいかない。大事にしたくもなかった。
俺が一度下がれば、それで済む。
「少し、失礼いたし――」
「今のお言葉は、ノエルの服を用意した私の家にも向けたものかしら」
お嬢様の声が、はっきりと響いた。
大声ではない。
それだけに、近くの話し声が一つ途切れた。
「そんなつもりでは」
「では、どういう意味だったの?」
俺は袖を引かれたまま、立っていた。
少年は口を開き、隣の少年を見る。
さっきまで一緒に笑っていた相手は、何も言わなかった。
「……少し、冗談を」
「ノエルは、笑っていないわ」
別の声だった。
クラウディア様が、少年の前へ目を向けていた。
「人の服を指さして笑うことは、こちらの舞踏会ではお許しになるの?」
「あなたには、関係のない」
「私とお話ししていた方よ」
静かな返事だった。
「途中でいらしたのは、そちらでしょう」
俺は、息をするのを忘れかけた。
お嬢様とクラウディア様が、同じ少年を見ている。
互いの言葉を打ち消さず、俺を下がらせようともしない。
学園で、このお二人の間に立ったときとは、何もかもが違った。
少年が、もう一度何か言いかけた。
その肩へ、大人の手が置かれた。
「何の話をしている」
少年たちの父親だった。
付き添いの侍女が呼びに行ってくれたらしい。
お嬢様は、先ほどの言葉をそのまま伝えた。
何も足さなかった。俺がどう思ったかを代わりに話すこともしなかった。
父親の目が、息子から俺へ移る。
それから、セレスティア様とクラウディア様を見た。
「失礼をいたしました」
父親に促され、二人の少年が頭を下げた。
俺も頭を下げかけ、お嬢様の指に止められる。
「……承りました」
それだけ答えた。
父親は改めて公爵家へ詫びると言い、少年たちを連れて離れていった。
☆
音楽は、途切れていなかった。
俺たちの周りに生まれた小さな隙間も、人が行き交ううちに埋まった。
お嬢様の手が、ようやく袖から離れる。
「申し訳ございません」
二人が、同時にこちらを向いた。
その顔を見て、今のは間違えたと思った。
「……ありがとうございます」
言い直すと、お嬢様は小さく息を吐いた。
「あなたが謝ったら、あの言い方が正しかったことになるでしょう」
「場を騒がせるほどのことでは、と」
「先に騒がしくしたのは、向こうよ」
クラウディア様が、侍女の差し出した杯を取った。
「せっかくのお話を、途中で止められてしまったわ」
「薬のお話ね」
お嬢様がすぐにおっしゃる。
「ええ。薬の話よ」
クラウディア様は、今度はこちらへ顔を向けた。
「続きは、手紙に書くわ」
「はい。お待ちしております」
家の者に呼ばれ、彼女は席を離れた。
去り際、お嬢様へも礼をする。
お嬢様は礼を返したが、手を振りはしなかった。
急に仲良くなられたわけでは、ないらしい。
それでも、さっきは確かに、二人で俺をかばってくださった。
「お嬢様」
「何?」
なぜクラウディア様まで、と尋ねるのは失礼だろうか。
そんなことで迷っている間に、お嬢様は俺の襟元へ目を留めた。
「少し曲がっているわ」
上着ではなく、喉元の結び飾りだった。
直そうとすると、先に小さな手が伸びた。
「これでいいわ」
「ありがとうございます」
「似合っているのだから、そんなに肩を縮めないで」
さっきから、自分の手を前へそろえていた。
俺は指をほどき、背筋を伸ばす。
仕立屋が整えた上着は、動いても乱れていなかった。
近づいてきた奥様が、広間の奥を示した。
「殿下へのご挨拶の順になりましたよ」
俺は顔を上げた。
第二王子殿下が、お嬢様と同じくらいの子供たちに囲まれている。
来た。
この方と、お嬢様が出会う夜だ。
お嬢様は袖口を確かめ、俺へ手を差し出した。
「行きましょう、ノエル」
俺はその手を取り、公爵夫妻の後について歩きだした。