何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
第二王子殿下は、俺の覚えている顔よりずっと幼かった。
当然だ。
学園でお見かけしたときより、何年も前なのだから。
けれど、学園での印象が強いせいか、殿下の幼いお顔にはどうにも違和感があった。
隣では、お嬢様がいつもと変わらぬ足取りで歩いている。
金色の髪につけた赤いリボンが、歩くたびに揺れた。
公爵様が、殿下の前で足を止める。
挨拶を交わし、娘を紹介された。
「セレスティア・フォン・ローゼンベルクでございます」
お嬢様は、教わったとおりに礼をなさった。
声が上ずることも、殿下のお顔を見つめたまま言葉を忘れることもない。
「よく来てくれたね」
殿下は笑った。
近くにいた大人のほうを一度見てから、お嬢様へ目を戻す。
「ローゼンベルクには、大きな船が来るのだろう」
「はい。海を渡ってくる船もございます」
「城にある船の絵を見たことは?」
「まだ、ございません」
「あちらの回廊にあるんだ。あとで、見ていくといい」
「ありがとうございます」
お嬢様は、もう一度きれいに頭を下げた。
殿下も、うまく話せたことに安心したように笑う。
それだけで、俺の胸の奥が少し固くなった。
殿下は、まだ何もしていない。
目の前の令嬢を迎え、話しかけているだけだ。
あの広間で、お嬢様の名を呼んだ声は、もっと低かった。
今の声と重ねてはいけない。
順番を待つ親子が、後ろに控えている。
俺も紹介されたときに礼をし、口を開くよう求められなかったので、そのまま下がった。
お嬢様は、もう一言くらいお話をなさるだろうか。
そう思っていたら、すぐに俺の隣へ戻っていらした。
「お待たせ」
「……いえ」
待つほどの長さではなかった。
☆
広間の脇へ戻っても、お嬢様は殿下をご覧にならなかった。
侍女から水を受け取り、一口飲む。
それから、俺の手に何もないのを見て、もう一杯頼んでくださった。
「お疲れになりましたか」
「少し。ご挨拶する方が、たくさんいらしたもの」
答えながら、椅子に座る。
俺はその横へ立った。
殿下の周りには、まだ子供たちがいる。
そのうち一人が笑うと、お付きの方まで笑った。
お嬢様なら、あちらの輪へ加わることもできる。
「王子様は、よろしいのでしょうか」
お嬢様が、杯を下ろした。
「何が?」
「もう少し、お話しにならなくても」
「ご挨拶は、済んだでしょう」
「はい。ですが」
続ける言葉に困った。
もっとお近づきになりたいのでは。
そう申し上げる根拠は、今のお嬢様には何もない。
「ノエルは、殿下とお話ししたかったの?」
「私が、でございますか」
「ずっと、あちらを見ているわ」
慌てて視線を戻した。
「お嬢様が行かれるのでしたら、お供しようと」
「今は、ここにいるわ」
隣の椅子を指さされた。
俺は座った。
この頃には、もう殿下のお話をよくなさっていたはずだ。
初めてお会いした夜のことを、あとになって何度も聞いた。
何を言われ、どんなふうに笑ってくださったか。覚え間違いかと思うほど、細かなことまで。
その夜は、今夜ではなかったのか。
記憶をたどっている間に、お嬢様は焼き菓子の皿を手元へ寄せた。
「こちら、果物が入っているわよ」
砂糖の甘さが強いものより、果実の入った焼き菓子のほうが好きだ。
今のお嬢様も、俺の好みを覚えていてくださったらしい。
差し出され、受け取る。
「ありがとうございます」
今は、殿下より菓子が気になっていらっしゃるらしい。
もともと、お好きなものには熱心な方だ。
殿下と初めて会われた夜を、俺は直接見たわけではない。知らなかったお顔があっても、不思議ではないのだろう。
結婚相手のことを、今から急かす必要はない。
この先、気持ちが向くこともある。
そう考えて、俺はそれ以上尋ねるのをやめた。
☆
一曲終わると、踊っていた子供たちが一斉に親のもとへ戻ってきた。
頬を赤くしている子も、靴を気にしている子もいる。
笑いながら同じ動きを繰り返し、侍女にぶつかりそうになって止められた子もいた。
お嬢様は、膝の上で指を組み直した。
踊りたいのだろう。
「次の曲には、出られますか」
尋ねると、青い瞳がこちらを向いた。
「あなたは?」
「お席で、お荷物をお預かりしております」
しばらく返事がなかった。
お嬢様は、ご自分の膝と俺とを交互に見た。
「預ける荷物なんて、持ってきていないわ」
そうだった。
扇も、まだお使いにならない。
必要なものは付き添いの侍女が持っていた。
「……お約束は、覚えております」
「忘れたのかと思ったわ」
「ただ、こちらでは」
床の中央を見た。
家名を紹介されてきた子供たちが、次の曲を待っている。
先ほどの少年たちも、父親のそばにいた。
言いかけた俺を見て、お嬢様は口を閉じた。
怒られたのだろうかと思ったが、そうではなかった。
「少し、歩きましょう」
椅子から下りる。
俺も立つと、お嬢様は侍女に声をかけた。
「お母様に、お伝えしてくれる? 船の絵を見てくるわ」
侍女は奥様のもとへ行き、すぐに戻ってきた。
「回廊の先までなら。私もご一緒いたします」
「ええ」
許しをいただいてから、広間を出た。
俺は振り返った。
殿下は、次に来た令嬢と話していらっしゃる。
お嬢様は振り返らなかった。
☆
回廊には、背の高い絵が何枚も掛かっていた。
山。戦場。冠を載せた人。
その先に、白い帆をいくつも張った船の絵があった。
絵の下には、小さな文字で船の名が書かれている。
お嬢様が、俺の袖を引いた。
「これかしら」
「おそらく」
近づきすぎないように立ち、見上げる。
船のそばには、小舟が浮かんでいた。
俺の覚えている授業の絵より、ずっと細かく人が描かれている。
「荷物を積む場所が、あるわね」
お嬢様がおっしゃった。
「ええ。大きな船ですから」
「あなたが描いたときは、なくなったでしょう」
三歳の頃のことだ。
舟の横へ大きすぎる人を描いて、公爵様に岸辺を足していただいた。
「よく覚えていらっしゃいますね」
「お父様が、ここへ線を引いたのよ」
指で、絵には触れずに空中をなぞる。
お嬢様がその隣へ、もう一人描いたことも思い出した。
「まだ、お部屋にございますか」
「ええ。本の間に入れてあるわ」
片づけるときに捨てても、何の不思議もない紙だった。
俺の字の練習など、とうに重ねて物入れの下へ敷いている。
お嬢様は何年も前の絵を、取っておいてくださったらしい。
「次は、もう少しましに描きます」
「次の絵は、別の紙に描いてね」
仕舞ったものを描き直されるとでも思ったのか。
俺がうなずくと、お嬢様は隣の絵へ進んだ。
回廊の先には、外へ出られる扉があった。
片方が開かれ、冷たい空気が入ってくる。
近くにいた衛兵へ侍女が声をかけると、短く返事があった。
「テラスへ出てもよろしいそうです。柵へは寄らないでくださいね」
お嬢様が俺を見た。
「少しだけ」
床が濡れていないことを確かめ、俺はうなずいた。
☆
テラスは、思っていたより明るかった。
壁の灯りと、開いた扉から漏れる光。
外の庭は暗いが、立っているところの床目は見える。
侍女は扉のそばへ残り、俺たちが寒くなったらすぐ戻れるようにしてくれた。
お嬢様は柵へ近づかず、壁際で空を見上げた。
その隣に立つ。
城の屋根の向こうへ、雲がゆっくり流れていた。
「少し、静かね」
「はい」
広間の音楽は、ここにも届いた。
話し声が遠いので、かえって旋律がよく分かる。
お嬢様が、一歩だけ足を動かした。
稽古で覚えた、最初の足だった。
俺は、すぐに意味が分かった。
今度は、どなたとですかとは聞かなかった。
「こちらで、踊られますか」
「ええ」
「広間ほど、広くはございませんが」
「大きく動かなければいいわ」
扉のそばから、侍女がこちらを見ている。
少し照れくさかった。
けれど、知らない人々が何列も並んでいるわけではない。
俺はお嬢様の前へ回り、礼をした。
差し出された手を取る。
「踏んでも、途中でやめないでね」
「踏まないようにいたします」
「踏んだら、謝って。それから続けて」
「はい」
お嬢様は笑った。
俺は最初の拍子を待った。
小さく前へ出る。
お嬢様が下がる。
金色の巻き髪が揺れ、赤い裾が半歩遅れてついてきた。
次の曲が始まったばかりだったらしい。
聞き覚えのある旋律で、途中から拍子を数えなくても歩けた。
笑顔を向けられると、つい目を伏せそうになる。そのたび、お嬢様の指に少し力がこもる。
「こちらよ」
顔を上げた。
すぐ近くで、目が合う。
こんなふうに笑って踊る方だったのか。
いや、笑うところなら何度も見た。
殿下から声をかけられたとき。新しい衣装が届いたとき。
けれど今、手を取っているのは俺だ。
そのたびに、何か返事をしなくてはと思い、何も言えなくなった。
「難しい顔をしているわ」
「間違えないようにと」
「今、合っているでしょう」
そう言われ、間近の笑顔に気を取られた。一拍だけ、足を出すのが遅れる。
お嬢様の肩が、小さく揺れる。
笑われた。
俺も、笑ってしまった。
それでも止まらなかった。
次の一歩で戻り、曲の終わりに、二人で礼をした。
☆
拍手は、扉のほうから聞こえた。
侍女が小さく手を打ち、それから中を指さした。
「あと少しで、お戻りになるお時間ですよ」
「分かったわ」
お嬢様が答え、俺を見た。
踊り終えたので、つないでいた手は離れていた。
「お疲れではございませんか」
「楽しかったわ」
答えが違う。
そう思ったが、息は乱れていなかった。
頬は赤く、目も輝いている。
「ノエルは?」
「はい。私も」
言ってから、少し驚いた。
上手にできたかではなく、楽しかったかと尋ねられていた。
今日は、答えを間違えずに済んだ。
お嬢様の笑みが、いっそう大きくなった。
声を上げて笑いそうなのを隠すこともせず、俺の前に立っている。
頭の隅に残っていた、殿下のことを忘れた。
今は、広間へ急いで戻る理由がない。
「来てよかったわね」
「はい」
「服も、作ってよかったでしょう」
自分の袖を見た。
黒い布に、細い金の糸。
汚れも裂け目もない。
「大切にいたします」
お嬢様はうなずいた。
それから、こちらへ手を差し出す。
赤い袖からのぞく、小さな手だった。
頬をいっぱいに緩め、青い瞳を細めて笑っていらした。
「また、一緒に踊りましょうね、ノエル」
差し出された手に、いつかの細い指が重なった。
けれど、今、目の前のお嬢様は笑っている。
俺は、その手を取った。
「喜んで」
お嬢様が歩きだした。
俺は遅れず、隣へ並んだ。