何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
第十九話☆聖女候補のいる場所
王城へ上がった日の服は、衣装タンスの中にしまってある。
今朝、袖を通したのは、洗い慣れた神官服だった。
裾を整え、祈祷書を鞄へ入れる。今日は大聖堂から、南の地区にある小さな教会へ向かうことになっていた。
「南のほうへ行くのね」
朝食のあと、お嬢様が尋ねた。
俺は卓の脇に立ち、今日の予定をお伝えした。
「はい。治療のお手伝いと、薬の届け物がございます」
「帰りも先生と?」
「教会まで一緒に戻ります。屋敷へは、いつもの馬車で」
お嬢様は一つうなずき、俺の鞄に目を落とした。
「それ、重くない?」
「帳面と祈祷書だけですので」
「そう。では、お昼を食べ損ねないようにね」
鞄を取り上げることも、予定を変えることもなさらなかった。
その代わり、俺が部屋を出るまで、こちらを見ていた。
クラウディア様を助けた日のことが、まだご心配なのだろう。
あれから、教会の外出では同行する者と帰る時刻を、前より細かく伝えるようになっている。
俺自身も、勝手に寄り道をするわけにはいかなかった。
それでも、南の教会へ行けるのは都合がよい。
フィオナが暮らしていた家は、そこから遠くない場所にあった。
☆
八歳になった今も、あの路地の奥へは入れていない。
去年の買い出しは、誘拐事件のために途中で終わった。
そのあとは大聖堂での仕事が続き、外へ出ても決められた店を回るだけだった。屋敷へ迎えに来る馬車を待たせてまで、抜け出すことはできない。
無理をして不審を買えば、この先に動ける機会まで失う。
前の周で、フィオナに近づいたのはもう少しあとだ。
彼女が光の力に目覚め、教会の庇護に入るよりも前。
まだ時間はあるはずだった。
だが、今周は俺が公爵家へ行く時期も、クラウディア様と会う場所も変わっている。
覚えている日付だけを頼りに、いつまでも先延ばしにはできない。
「今日は治療を待つ方のお名前を聞いてください」
隣を歩く先生が言った。
荷車には薬の包みと清潔な布が載っている。年長の見習いが押し、先生と俺がその横についていた。
「向こうの方だけでは、受付まで手が回らないそうです」
「治癒は、使わなくてもよろしいのですか」
「必要になれば頼みます。まず、何に困って来たのかを聞いてくださいね」
「承知いたしました」
南の教会では、普段は薬と手当てが中心になる。
神術を使える者が来る日は人が増えるので、大聖堂からも時折、手伝いを送っているらしい。
俺が行くのは、今回が初めてだった。
荷車が石畳のくぼみを越え、包みが一つ揺れた。
落ちる前に押さえる。
年長の見習いに礼を言われ、手を離した。
この身体での歩幅や、届く距離は、もう分かっている。
荷車ごと支える力はなくても、包みを押さえるのに困るほどではない。
俺は足を緩めず、道の向こうへ目をやった。
橋の手前に、去年も見たパン屋があった。
その先の路地には洗濯物が渡され、白い布の下を人がくぐっていく。
フィオナの家へ続く道だ。
教会へは、次の角を曲がる。
俺は路地の位置を確かめてから、先生のあとについていった。
☆
南の教会には、大聖堂のような高い塔はなかった。
鐘を吊った小さな屋根があり、入口の前に長椅子が三つ並んでいる。
既に二つは埋まっていた。
先生が迎えの神官と話している間に、荷車の包みを運び込む。
薬を置く棚の前には、脚の短い踏み台があった。背の低い者もここで仕事をするらしい。
「そちらは下から二段目へお願いします」
横から声がした。
桃色の髪だった。
顎のあたりで切りそろえられた髪の先が、白い襟に触れている。
薄いクリーム色の、飾り気のないワンピースに、仕事用の前掛けをつけている。棚の位置を示していた指が、俺を見て止まった。
包みを持つ手に、力が入った。
幼い。
けれど、見間違えるはずがなかった。
聖女フィオナ。
お嬢様の婚約が壊れ、学園で居場所を失う、その始まりにいた少女。
そして、前の周で俺が殺した相手だった。
「……ここでしょうか」
声は、普段どおりに出た。
「はい。あ、でも、奥にあるほうを先に使うから」
少女が踏み台へ乗る。
既にあった包みを手前へ寄せ、今届いたものの場所を空けた。
俺はそこへ薬を置いた。
棚の脇には、大人用の前掛けが二枚、掛けてあった。
少女のものは、それより短く仕立て直してある。ここへ来たのは、今日が初めてではない。
棚の位置に迷う様子もなく、使いかけの布を取り出し、籠の底へ敷いていく。
俺の知らないところで、この場所へ通い、やり方を教わっていたのだ。
どうして、ここにいる。
家へ行く方法を考えていた。
いつなら母親と離れるのか。今は何をして過ごしているのか。
確かめるはずだった相手が、教会の棚の前に立っている。
「大聖堂から来てくださった方ですよね」
「はい」
「私、フィオナといいます」
知っている。
そう答えないよう、わずかに息を置いた。
「ノエルと申します」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
踏み台から下りようとした足が止まり、慌てて棚につかまり直す。
「やっぱり」
「……何か?」
「いえ。お会いできて、うれしいです」
まだ、挨拶をしただけだ。
だが、彼女は古い知り合いに会えたように笑っていた。
昔も、こういう笑い方をした。
殿下も、ご子息たちも、皆がそれを自分に向けられた特別なものだと思った。
俺は棚から一歩離れ、入口にいる先生を見た。
フィオナは空になった籠を持ち、俺と一緒に先生のところへ戻った。
「先生、薬はこちらへ置きました」
「ありがとう。ノエルとも挨拶ができましたか」
「はい」
こちらの神官がうなずく。
「この子も最近手伝いに来るようになりましてね。光の力を授かったばかりなのですが、よく働いてくれます」
もう、目覚めている。
俺は驚きを顔に出さないようにした。
覚えている時期より早い。前の周のやり方を、そのまま繰り返すことはできなくなった。
「お母様と、お近くにお住まいなのですか」
尋ねたのは先生だった。
「はい。橋の近くです。夕方までに戻る約束をしています」
家は変わっていない。
母親も、まだいる。
違うのは、彼女が既に神の力を使えることだった。
神官は、奥の机から紙を一枚取った。
「大聖堂でも改めて見ていただく予定です。枢機卿様からお口添えをいただけるそうで」
先生が、その紙の署名を確かめた。
脇から見えた名は、俺を公爵家へ送り出してくださった枢機卿様のものではない。
フィオナの後ろ盾となる方だ。
その点は、過去と同じだった。
聖女候補として扱われる前に、と思っていた。
しかし、教会はもう、この子を見つけている。
「ノエル。入口をお願いできますか」
「はい」
今、考え込んでいるわけにはいかない。
俺は帳面を持ち、待っている人たちの前へ出た。
☆
名前を聞くだけでは、順番は決められなかった。
早く来た人から書き留めていると、後ろの女性が、抱いていた子を見せた。
顔が赤い。母親の肩に頬をつけ、呼ばれても目を開けない。
先生を呼び、先に中へ入っていただく。
長椅子の端で、男が膝を叩いた。
「こっちは鐘が鳴る前からいるんだぞ」
「申し訳ございません。順番は覚えております。ですが、あのお子さんは――」
「分かってるよ。熱があるんだろ」
男は言い終えてから、顔を背けた。
袖をまくった腕に、昨日ついたらしい傷がある。力仕事をする方なのだろう。
気が立っているのは、待たされた時間だけが理由ではなさそうだった。
「お仕事へ、戻られるお時間がございますか」
「昼までに戻れなきゃ、今日の分はほかへ回される」
傷を治すことより、その先が心配なのだ。
俺は時刻を確かめ、先生へ伝えることにした。
そのとき、フィオナが水差しを持ってきた。
「お水、飲めますか。今朝からいらしたんですよね」
「ああ。すまんな」
男が杯を受け取る。
少女はすぐには離れず、腕の傷へ視線を向けた。
その手が、少し上がる。
俺は帳面を閉じた。
今、ここで勝手に治療を始めれば、入口で待っている全員が彼女へ集まる。
まだ中で処置を受けていない人もいるのだ。
「フィオナ様」
呼ばれて、彼女はこちらへ顔を向けたが、視線は俺の少し横で止まった。
そこには誰もいない。
フィオナは上げかけた手を下ろし、自分の前掛けの前へ戻した。
「……先生に、聞いてきますね」
そう言って、先に中へ入った。
言いかけていた注意が、口の中に残った。
俺は背中を見送ったあと、帳面を開き直した。
少しして、神官が入口へ出てきた。
男の傷と、ほかに待っている人の具合を順に確かめる。
俺たちは指示を受け、入口とは別の長椅子を空けた。軽い手当てで済む方は、そちらで見ていただくことになった。
フィオナは杯を集めた。
男に笑いかけ、返された杯を籠へ入れる。
治療を頼まれても、その場で一人ずつ引き受けることはしなかった。
教わったばかりだから、守れているのかもしれない。
周囲に先生がいるから、勝手を控えたのかもしれない。
たった一度のことで、判断するべきではなかった。
だが、俺の知るフィオナなら、どうしただろう。
困っているのだからと、先に手を伸ばしてはいなかったか。
相手が困っていても、まず周りを見てほしい。手を差し出す前に、誰かに確かめてほしい。
あれほど繰り返し、言い聞かせた。
お嬢様の安全がかかっていたのだ。忘れるはずがない。
それでも変わらなかった彼女が、今は自分から手を止めた。
入口の人が途切れた頃、彼女が隣へやって来た。
「ノエルさん。お名前の横の、これは何ですか」
「先ほどの方が、お昼までにお仕事へ戻りたいとおっしゃっていたので。先生へお伝えするためです」
「怪我のことだけじゃないんですね」
「ご事情が分かれば、できることもございますから」
フィオナは、帳面の小さな書き込みを見つめた。
やがて顔を上げると、また、あのうれしそうな顔になる。
「私も教えていただいていいですか」
返事をするまでに、少し間が空いた。
教えたことはある。
何度も。言葉を変えて、場所を変えて。
それで、お嬢様を救おうとしたことがある。
「……私に分かることであれば」
「ありがとうございます」
彼女は俺の手元を見るために身を寄せ、近づきすぎたと気づいたように、半歩身を引いた。
初めて会ったはずの相手に、どうしてこれほど気を許せるのだろう。
こちらが抱えているものなど、知らないにしても。
ああ、もう。ここで殺してしまおうか。
何も知らずに笑いかけられるたび、そんな考えが浮かぶ。
また話を聞いて、また信じて、同じことになったら。
そのとき失うのは、お嬢様なのだ。
俺は、息を吐いた。
だが、この子が俺を知っているらしい理由さえ、まだ聞いていない。
「私のことを、どなたかからお聞きになりましたか」
フィオナの指が、籠の持ち手を握り直した。
隠し事を見つけられた子のような顔だった。
「はい」
少女は、俺を見上げた。
「会ってみたかったんです。ずっと」