何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
「白と、こちらの白。あなたはどちらがいいと思う?」
違いが分からない。
机に広げられた二枚の布を、俺は真剣に見比べた。
どちらも白い。窓からの光を受け、片方には少しだけ黄色みがあるようにも見えた。
「……右でしょうか」
「あら。理由を聞いても?」
「お嬢様のお髪に、よく合うかと」
お嬢様は右の布を持ち上げ、肩へ当てた。
金色の巻き髪が、その上を滑る。
「そうね。私も、こちらが好きだわ」
向かいの仕立屋が、ほっとした顔で帳面に書き込んだ。
どうやら、正解だったらしい。
よかった。
結婚式の衣装なのだ。俺の好みで、妙なものを選ばせるわけにはいかない。
「殿下には、どちらでもよいと言われてしまったの」
「お嬢様なら、どちらもお似合いになるということでしょう」
「あなたまで同じことを言わないでちょうだい。せっかく選んでもらったのに」
「失礼いたしました」
叱る声にも、笑いが混じっている。
窓の外で、庭師が枝を切っていた。
昔は俺の背にも届かなかった木が、今は二階の窓を隠しかけている。執事長は髪に枝葉が落ちるのを嫌い、少し離れたところから指示を出していた。
穏やかな午後だった。
誰もお嬢様を責めない。
招待状を破り捨てる者も、扉の向こうで泣く侍女もいない。
学園は、無事に卒業できた。
婚約も続いている。
お嬢様と第二王子殿下の結婚は、一年後だ。
「袖も、少し変えていただこうかしら」
お嬢様が布を広げる。
その姿に白い婚礼衣装を重ねた途端、胸の奥を細い刃で突かれた。
息が止まる。
「ノエル?」
「はい」
「今、顔色が悪くなったわよ」
「少し、寝不足で」
嘘は、ずいぶん上手になった。
お嬢様は眉を寄せたが、仕立屋が差し出す見本帳へ視線を戻した。
俺は背後へ下がり、気づかれないように胸を押さえる。
近頃、結婚の話になると、こうなる。
日取りを決めたときも。
殿下から贈られた首飾りを、お嬢様がつけたときも。
まだ、何か見落としているのだろうか。
俺は窓に映る部屋を見た。
扉の位置。使用人の顔。仕立屋の荷物。
おかしなものは、何もない。
大丈夫だ。
今回は、うまくいっている。
♡
あの娘は、この春の卒業式にはいなかった。
そもそも、学園へ入っていない。
光の魔法に目覚めるより前に、俺が殺したからだ。
説得したことはある。
お嬢様に近づけさせなかったこともある。
礼儀を教えようとしたことも、殿下との間に割って入ったことも。
それで、何が変わった。
お嬢様の死に方だけだ。
だから今回は、誰にも相談しなかった。
教会で地位を得て、仕事を選べるようになった。
人に見られず出歩く方法も、帰りが遅れた理由の作り方も覚えた。
お嬢様は何も知らない。
知らなくていい。
式で交わす挨拶を練習し、嫁ぎ先へ連れていく侍女のことで悩み、俺には荷物の整理を頼んでくださればいい。
その日の夕方、お嬢様は俺の机に積まれた書類を見て、呆れた顔をした。
「寝不足だと言ったばかりでしょう」
「こちらだけ済ませましたら」
「その『こちらだけ』が減ったところを、私は見たことがないのだけれど」
帳面の上に、白い手が置かれた。
「今日はおしまい」
「ですが」
「お茶に付き合いなさい。私のそば付きでしょう」
逆らえるはずもない。
俺が椅子を引くと、お嬢様は満足そうに笑った。
ああ。
この方は、こうやって笑っていればいい。
そのためなら、俺の手がどれだけ汚れても構わない。
♡
最初の報せは、夕食の途中で届いた。
国境の砦が落ちた。
公爵様は食器を置き、使者を別室へ通した。お嬢様は侍女に食事を下げさせ、奥様の隣で静かに待った。
その夜のうちに、二度目の使者が来た。
夜明けには、大聖堂の鐘が鳴り続けていた。
魔王が現れた。
俺は書状を読み直した。
読み直しても、文字は変わらなかった。
こんな先があるなんて、知らなかった。
いつもは、ここまで来る前に終わっていた。
お嬢様のいなくなった世界に残り、その後の歴史を眺めたことなど、一度もなかった。
王家との婚礼の準備は止まった。
公爵様は王城へ通い、屋敷では薬と食料の手配が始まった。俺も教会の救護に駆り出された。
大聖堂の床に寝台が並ぶ。
最初は通路が残っていた。やがて、横向きでなければ通れなくなった。
癒やしても、癒やしても、次が運ばれてくる。
勝ったという報せのあとに、守り切れなかった町の名が続いた。
地図に引かれる線が、少しずつ王都へ近づく。
お嬢様を東の領地へ移す話が出たとき、俺は賛成した。
海へ出る道もある。王都で逃げ場を失うよりは、ずっといい。
ところが、出立を待つ間に、避難民を受け入れていた王都外の宿営地が襲われた。
お嬢様は、救援物資を届けに来ていた。
俺が見たときには、倒れた荷車の前に立っていた。
背後には、動けない子供がいた。
拾った護衛の剣を、両手で握っていた。
「お嬢様、下がって!」
間に合わない。
この身に神を降ろしても、間に合わない。
魔物の爪が振り下ろされる。
俺は走った。結界を伸ばした。
その向こうで、光が弾けた。
爪も、腕も、その先にあった巨体までが裂けた。
お嬢様は剣を握ったまま、呆然と立っていた。
刃には、まだ白い光が残っている。
勇者の血だ、と誰かが言った。
公爵家だけではない。古い貴族の家々には、そうした祖先の話がいくつも残っている。
だが、血を引くことと、その力を使えることは違う。
お嬢様の手から、剣が落ちた。
倒れる前に抱き留める。
腕が震えていた。立ち上がろうとする膝が、力を失って折れた。
「子供は」
「無事です」
「そう。よかった」
お嬢様は笑った。
俺は、笑えなかった。
♡
追ってくる連中は、荷物にも馬にも目をくれなかった。
お嬢様だけを狙っていた。
東へ向かう街道で二度襲われ、隊を分けた。
護衛が敵を引きつける間に、俺たちは川沿いの旧道へ入った。
それでも、追手は来た。
最初の一人を、大剣で斬った。
返す刃で二人目の短剣を弾く。
手応えが軽い。
飛び退かれた。
逃がす。
追えば、背後が空く。
「私の後ろへ」
「分かっているわ」
お嬢様の声が近い。
よかった。まだ、俺の手が届く。
右から来た刃を受け、左側の木々との間に結界を張る。
乾いた音を立てて、細い矢が砕けた。
一人なら斬れる。
二人でも、まだ何とかなる。
だが連中は、俺と斬り合うつもりがなかった。
一人が踏み込み、残りが散る。
俺が大剣を振り切るのを待って、お嬢様へ刃を向ける。
止めるたびに、腕や脇腹が少しずつ削られた。
お嬢様も剣を抜いた。
白い光が刃を走る。
敵が引く。
その一瞬に、二人で道を駆けた。
けれど、光はすぐに消えた。
お嬢様が木の幹に手をつく。俺は肩を貸し、そのまま歩かせた。
「ごめんなさい。さっきのようには」
「十分でございます。道が空きました」
嘘ではない。
何歩かは稼げた。
それだけだ。
進む先に、黒い影が降りた。
後ろで枝が折れる。
左は崖だった。
はるか下で、川が白く泡立っている。
右の斜面に踏み込めば、木々に視界を遮られ、敵に囲まれる。
正面の一人を斬り倒しても、その間に後ろが来る。
考えている時間を、敵はくれなかった。
お嬢様へ伸びた刃に、大剣を合わせた。
同時に、別の影が足元へ潜り込む。
身体をひねって、お嬢様を引き寄せた。
踵の下で、土が崩れた。
視界が傾く。
大剣を手放した。
空いた腕をお嬢様の背へ回し、二人を包むだけの結界を張った。
衝撃。
光が割れた。
口の中に鉄の味が広がり、それもすぐに冷たい水へさらわれた。
上下が分からない。
服が重い。
腕の中の身体が、離れかけた。
それだけは、駄目だ。
俺は指を食い込ませた。
♡
岸へ這い上がったとき、右腕が動かなかった。
左手と膝で身体を引きずり、お嬢様を水際から離した。
頬に触れる。
冷たい。
「お嬢様」
返事がない。
金色の髪が、顔に張りついていた。
払おうとした指が滑り、頬に泥をつけた。
「お嬢様、聞こえますか」
祈る。
胸元へ触れ、残った力を送り込む。
いつもなら、考えずにできる。
なのに、指先の光は頼りなく明滅するばかりだった。
足りない。
落ちるときに使いすぎた。
分かっている。分かっているから、今だけは。
俺は顔を寄せ、唇を重ねて息を送り、祈りをつないだ。
裂けた口の傷が開く。赤いものが、お嬢様の唇の内側へ混じった。
拭う余裕もなかった。
息をしてください。
どうか。
お嬢様の身体が震えた。
咳が漏れ、指が俺の袖をつかむ。
俺は額を落としかけた。
生きている。
「大丈夫です。すぐに、暖かい場所へ」
その先を、足音が遮った。
川下の斜面から、黒い服の男が降りてくる。
その後ろに、もう一人。
降りる道があったのか。
俺は川を見た。
お嬢様の顔を見た。
もう一度、泳がせることはできない。
立ち上がる。
膝が笑った。
剣はない。
右腕も使えない。
左手を握り、祈りの続きを口にした。
男たちの足が止まる。
俺の手に灯った光を、警戒している。
いいぞ。
少しでいい。そこで待っていろ。
「お嬢様。少し、目を閉じていてください」
返事を待たず、前へ出た。
♡
ノエルの背中が、すぐそこにあった。
私は声を出そうとした。
喉が痛んで、咳にしかならなかった。
彼の右腕から、水が滴っている。
指の先を伝って落ちた雫は、石の上で赤く広がった。
逃げて。
そう言いたかった。
私を引き上げるだけでも、ひどく苦しかったはずだ。
それなのに彼は、一度も私を責めなかった。
左手の光が、薄い壁になる。
黒い服の男たちが、その前で足を止めた。
私も、戦わなくては。
手を伸ばす。
剣はなかった。身体を起こそうとしても、肘が崩れた。
あの光を。
子供を助けたときの、あの力を。
何も起こらない。
こんなときに使えなくて、何のための力なの。
ノエルが一人を殴り倒した。
その脇を、別の男が抜けた。
こちらへ来る。
ノエルが戻った。
間に立つために、戻ってきてしまった。
鈍い音がした。
彼の身体が揺れた。
「ノエル」
やっと呼べた声は、ひどく小さかった。
彼が振り返る。
いつものように、私の言いつけを待つ顔だった。
どうして。
仕事を頼めば引き受けた。
お茶に呼べば、忙しくても来てくれた。
難しいことを言っても、少し困った顔をして、結局はかなえてくれた。
私はそれを、ずっと当たり前のように受け取っていた。
白い布を選んでもらった日のことが浮かんだ。
殿下は、どちらでもよいとおっしゃった。
ノエルは違いも分からないくせに、いつまでも真剣に見比べていた。
私が選んでほしいと言ったから。
もっと、違うことを頼めばよかった。
お茶の時間だけではなく。
庭を歩く間だけでもなく。
ずっと、そばにいてほしいと。
彼が膝をついた。
倒れかけながらも、私の前から退こうとはしなかった。
「申し訳、ありません」
謝らないで。
「今度こそは、お守り、すると」
何を言っているのか、よく分からなかった。
けれど、悔しそうな声だった。
自分の傷のことなど、少しも気にしていない声だった。
私は手を伸ばした。
泥だらけの袖に、指が届いた。
いつも来てくれた。
私が呼べば、必ず。
こんなところにまで。
彼の向こうで、刃が上がった。
私は袖を握ろうとした。
今度は私が離さないように。
指に、力が入らなかった。
☆
目を開けると、天蓋があった。
川の音がしない。
寒くもない。
私は腕を持ち上げた。
小さな手だった。
泥も血もついていない。寝衣の袖からのぞく手首は、頼りないほど細かった。
声を上げると、侍女が駆け寄ってきた。
その顔を見て、また声が出た。
何年も前に、結婚して屋敷を辞めた人だった。
私は何度も、今日がいつなのか尋ねた。
侍女は困りながら、同じ日付を繰り返した。
まだ、ノエルがいない頃だった。
夢だったのだろうか。
袖を握る。
あのときは、どうしても力が入らなかった。
今は、握れる。
私は寝台から降りようとして、侍女に抱き留められた。
「お父様に、お話があるの」
声まで、小さくなっていた。
それでも、話せる。
今なら、お願いできる。
きっと、もう一度会うためだ。
私のそばに、ずっといてくれた人。
最後まで、手を伸ばしてくれた人。
あの人だったのだ。
私は侍女の腕の中で、もう一度父を呼んでほしいと頼んだ。