何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
「私のことを、どなたから?」
聞き返すと、フィオナは少し考えた。
俺は、教会で誰かが噂を広めている可能性を考えていた。幼い神官がいるという話だけなら、患者の口から伝わっていてもおかしくない。
「橋のそばのパン屋さんも、お話ししていました。大聖堂に、何度も治療をしてくれる、小さい神官様がいるって」
「こちらにも、いらっしゃる方なのですね」
「はい。ノエルさんはパン屋さんの手を治したんですよね」
覚えはあった。
粉の袋を運ぶときに、手首を痛めた方だ。先生が先に診て、俺が治癒を使った。
俺だけが治したわけではないのだが、患者にしてみれば、光を出した者のほうが印象に残るのだろう。
「それで、ご存じだったのですか」
「それも、あります」
ほかにもあるらしい。
だが、問いを重ねる前に、奥から昼食の支度ができたと呼ばれた。
フィオナが空の籠を持ち上げる。
「ノエルさんもこっちです」
彼女は歩き出し、俺が来るのを待って、戸口で振り返った。
こちらは、お前を殺すつもりで近づいたのだ。
そんな顔で待たれる筋合いはない。
俺は笑い返さず、彼女のあとについていった。
☆
食事は、治療の部屋の裏にある長い卓で取った。
昼の鐘が鳴っても患者は来るので、神官たちは交代で食べる。俺たちには先に座るよう言われた。
フィオナは俺の向かいに腰を下ろした。
パンを割り、温かいスープの椀を両手で囲む。
「いつもはお屋敷で食べるんですか」
「仕事の時間によります。大聖堂でいただく日もございます」
「公爵様のお屋敷って、大きいんですよね」
「ええ」
「お部屋、間違えませんか」
出入りする貴族の名や、持ち物を尋ねられると思っていた。
俺は一度、彼女の顔を見た。
「……今は、間違えません」
「今は?」
「初めは、覚える必要がありましたので」
初めて仕えたときのことだ。
今周は道を知っていたが、過去と家具の置き場所が違っている部屋はあった。
フィオナは納得したようにうなずいた。
「大聖堂も広かったから。お祈りするところへ戻るつもりが、台所に出ちゃったんです」
「もう、大聖堂へは?」
「一度だけ。私の光を調べていただいて。今度は、祈り方やお勉強も、もっと教わるそうです」
既に、そちらも済んでいるのか。
俺の知らない日に来て、帰っていたらしい。
「お名前も書けるようにしないといけなくて」
彼女は指で、卓の上に文字をなぞった。
一文字だけ、線の向きが逆だった。
「こちらから、こうです」
つい、指摘した。
フィオナが指を止め、俺の示した向きでもう一度なぞる。
「こう?」
「はい」
「よかった。あとで紙にも書いてみます」
それから、彼女は隣の見習いにも同じ文字を見せた。
間違っていないか確かめてもらうと、満足したようにパンをかじる。
字を直すのは、難しくない。
決まった形を示し、繰り返せばよい。
だが、人とどう接するかは、そう簡単には直らなかった。
フィオナが、壁際の小さな卓へ視線を向けた。
午前に診てもらった老婦人が、薬を待って座っている。付き添いの娘は、薬の説明を聞くために奥へ行っていた。
「あの方、お一人ですね」
少女が椀を置く。
俺は、椅子が引かれる音を聞いた。
「お嬢さんが、すぐお戻りになりますよ」
「でも、ずっと窓を見てるから」
聞き覚えのある言い方だった。
寂しそうだから。
困っているように見えたから。
だから、自分がそばに行く。
俺はパンを置いた。
「お話ししたいのかどうかは、まだ分からないのでは」
少し、硬い声になった。
フィオナが振り返る。
「……そう、ですね」
少女は老婦人の前へ行き、膝を折った。
すぐに隣へ座らず、顔を見上げて何かを尋ねている。
老婦人が口を開き、彼女はうなずいた。
戻ってきたのは、ほんの少しあとだった。
「目を閉じて休みたいそうです。娘さんが戻ったら、起こしてほしいって」
自分の席へ座り直す。
それきり、老婦人へ話しかけに行くことはなかった。
俺は、閉じられた目と、食事を再開した少女を交互に見た。
「お話を、しなくてもよかったのですか」
「休みたいなら、話しかけたら困るでしょう?」
当たり前のように言う。
その当たり前が、昔は通じなかった。
「……そうですね」
フィオナが俺を見つめた。
褒めてほしいのかと思ったが、違った。
「ノエルさん、私、また何か間違えましたか」
「いえ」
首を振る。
俺が比べているものを、彼女は知らない。
☆
午後になると、治療の手伝いも頼まれた。
先生が傷を確かめ、薬でよいものと、神術を使ったほうがよいものを分けていく。
フィオナはまず、俺が治癒を使うところを見ることになった。
椅子へ座ったのは、洗い物で指先を痛めた女性だった。
手に触れる許しをいただき、祈る。
深く割れていた指の傷が、薄い光の中で塞がった。
「動かしてみてください」
女性が指を曲げる。
もう一度伸ばし、今度は小さく握った。
「痛くない。ありがとうねえ」
「しばらく、傷のあったところを強くこすらないでくださいね」
先生が付け加える。
次の方のために布を替えようとしたとき、フィオナがこちらの顔をのぞき込んだ。
「本当に、同じなんですね」
「何がでしょう」
「目の中です。星が」
少女は自分の目の下を指した。
先生が横からうなずく。
自分の印は、水面や鏡に映して見たことがある。
だが、この子の目に何が出るかは、まだ見ていない。
フィオナのほうは、前から知っていたことを確かめたような口ぶりだった。
「フィオナにも祈るときに印が出るそうです。ノエルと似ていますね」
似ている。
それでは、あの形ではないのか。
「見せていただいても、よろしいでしょうか」
「はい。あ、次の方は私がやってもいいですか」
フィオナは俺ではなく、先生へ尋ねた。
先生が傷を確認し、うなずいてから、彼女が椅子の前へ立つ。
相手は、右の手の甲に擦り傷を作った少年だった。
「光が出るけど、びっくりしないでね。手を見せてくれる?」
差し出された手の下へ、布を敷く。
祈り始めた少女の瞳に、淡い光が浮かんだ。
五つの頂点を結んだ、星の印。
左右の瞳に、一つずつ。
ハートではなかった。
俺は少女の顔から、目を離せなかった。
傷を覆う光は、俺の治癒とよく似ている。だが、それだけで何かを判断できるほど、瞳の印について詳しいわけではない。
これまで見てきた彼女の瞳には、いつもハートの印があった。
今周は、それが違う。
確かなのは、それだけだった。
「もう一度、これもやって」
少年が左の腕を出した。
そこには古い傷痕があった。
フィオナは手を伸ばしかけ、止めた。
「先生。前の傷も消せるんですか」
「新しい怪我とは違います。今日は無理に触らないほうがよいでしょう」
「ごめんね。これは、まだ私にはできないみたい」
少年が口を尖らせた。
「右手は治ったのに」
「うん。でも、やってみて痛くしたら嫌だから」
フィオナは困った顔のまま、言い直さなかった。
何とかしてあげるとも、次は治せるとも約束しない。
少年の母親が礼を言い、二人は部屋を出ていった。
少女は、その背中をしばらく見ていた。
頼まれたことを断って平気なわけではないらしい。
「……あの子、がっかりしましたね」
「今、できることはなさいました」
俺が答えると、彼女はこちらを見た。
「でも、全部治ったほうが、うれしいでしょう?」
「それは、そうでしょうが」
「だから、もっと教わります。今度はできるかもしれないから」
先生が笑って、今日の手当てを先に覚えましょうと言った。
少女は「はい」と返事をして、使い終わった布を取り替えた。
俺は、その横で自分の手を洗った。
水は、昼より冷たくなっていた。
☆
帰る時刻になると、フィオナは入口まで見送りに来た。
母親が迎えに来るまで、残った布を畳むのだという。
「次も来ますか」
「まだ決まっておりません」
「そうですか」
落胆を隠すのは、あまり上手ではないらしい。
しかし、すぐに顔を上げた。
「私が大聖堂へ行く日は、お会いできるかもしれませんね」
「仕事の時間が合えば」
「そのときもお話ししていいですか」
よくない、と言う理由が思いつかなかった。
避ければ、相手の様子を知る機会もなくなる。
「……手が空いているときでしたら」
「はい。先に聞きます」
彼女は両手を前でそろえ、俺たちに頭を下げた。
頭を上げると、もう笑っていた。
この子を殺すために、近づくつもりだった。
教会から離れる道を歩きながら、俺はそのことを考えた。
既に力を授かり、庇護を受けているから、簡単には手を出せない。
それは事実だ。
だが、それだけが理由ではなかった。
今日のフィオナは、指摘されると手を引いた。
話を聞き、できないことを断った。
過去に何度も求めたことを、目の前でしていた。
あれほど言い聞かせても、自分のやり方を変えなかったのに。
今は、当たり前のようにできている。
だから、もう大丈夫だとは思わない。
今は子どもで、殿下も学園のご子息たちも、そばにいない。
相手が変われば、また同じことをするかもしれない。
それでも、昔と同じだと決めて動くには、違うところが多すぎた。
屋敷へ戻ると、お嬢様が今日の話を聞きたがった。
俺は教会のことと、手伝いに来ていた少女のことをお伝えした。
名前を伏せる理由はなかった。
「フィオナという、私たちと同じくらいの子です」
お嬢様の指が、膝の上で止まった。
だが、それはほんの一瞬で、すぐにいつものお顔へ戻られる。
「その子と一緒に働いたのね」
「はい。まだ教わり始めたばかりのようでした」
「あなたはどう思ったの?」
答えに詰まった。
よく働いていた。覚えようとしていた。
そのどちらも嘘ではないが、それだけを言うのは、何かが違った。
「……もう少し、お話ししてみようと思います」
お嬢様は、しばらく俺を見ていた。
「そう」
問い詰めることはなさらなかった。
俺の鞄を指し、今日も重くなかったかと尋ねてくださる。
部屋へ戻ってから、俺は南の地区を描いた紙を開いた。
路地の奥の家の横に、教会の場所を書き足す。
家を空ける時刻を探るために、用意した紙だった。
その下に、次に会ったら確かめたいことを書いた。
光の力が現れた時期。
誰から祈りを教わったのか。
瞳の印。
紙をしまう前に、今日あったことも短く残した。
老婦人の希望を聞いて、話しかけずに戻ったこと。治せない傷について、勝手な約束をしなかったこと。
次に会うとき、警戒している理由ばかりを思い出さないためだった。
筆を置き、書き足した文字を見つめた。
「……なんで今回は、何もかもこんなに違うんだ」
誰もいない部屋で、ぽつりとこぼした。