何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~   作:名もなきそば付き

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本日は二話投稿となります。こちらは一話目です。


【挿絵表示】

二章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。

また作中に挿絵が1枚あります。そちらもAI画像ですのでご注意ください。



第二十一話☆聖女と旧神

 フィオナは、自分の名前を書いた紙を三度確かめた。

 最後の文字が、少し右へ傾いている。

 けれど、線の向きは間違っていない。

 

 紙を畳む前に、幼い声がフィオナの内側へ届いた。

 

『いいじゃない。読めるわ』

 

 声の主は、寝台の端に腰かけていた。

 フィオナよりも幼く見える少女だ。淡い紫の髪を背中へ流し、床に届かない足を揺らしている。

 その目には、はっきりとした五芒星があった。

 

「ノエルさんにも読めるでしょうか」

 

『あの子なら、あなたが逆に書いても分かると思うけれど』

 

「逆じゃないものを見てもらいたいんです」

 

 少女は目を丸くしてから、笑った。

 

『そうね。そのほうがいい』

 

 扉の向こうで、母がフィオナを呼んだ。

 迎えの神官が来たらしい。

 フィオナは返事をして、紙を布の袋へしまった。

 

「行ってきます、神様」

 

『ええ。いってらっしゃい』

 

 母が扉を開けたとき、寝台の上には誰もいなかった。

 フィオナはそれを不思議に思わず、母の差し出した外套へ腕を通した。

 

     ☆

 

 今日、大聖堂へ行くのは、祈りと文字を教わるためだった。

 南の教会でノエルに会ってから、十日ほど経っている。

 

 道の途中で、フィオナは何度も袋の上から紙を確かめた。

 折ったところが破れていないか。どこかへ落としていないか。

 そのたびに、同行する神官が、忘れ物ですかと尋ねてくれた。

 

「いいえ。持ってきました」

 

 答えると、ほっとした顔をされる。

 まだ見せてもいない紙を、何度も出したりしまったりしているのだから、心配されても仕方がなかった。

 

 大聖堂の門をくぐる前に、フィオナは袋の口を結び直した。

 今日、必ず会えるわけではない。

 ノエルは仕事の時間が合えば、と言っていた。

 

 それでも、探してしまった。

 廊下を歩く黒髪を見つけて顔を上げ、背の高さが違うと分かって目を戻す。

 

「先にお勉強の部屋へ行きましょうね」

 

「はい」

 

 返事をしながら、頬が熱くなった。

 神様にも、きっと見られている。

 

 文字の稽古では、名前のほかに、薬や布を表す言葉も教わった。

 見本を写すだけならできると思っていたが、似た文字が続くと分からなくなる。

 指導役の神官に一つずつ示してもらい、何とか一行を書き終えた。

 

 やがて、昼の休憩になった。

 フィオナが紙を片づけていると、開いた扉の向こうを、小さな神官が通りかかった。

 

 黒い髪に、琥珀色の瞳。

 今度こそ、間違いなかった。

 

「ノエルさん」

 

 椅子から立ち上がりかけて、フィオナは手元を見た。

 まだ、筆が出ている。

 紙を重ねて筆を置き、教えてくれた神官に断ってから、廊下へ出た。

 

 ノエルは、扉の脇で待っていた。

 

「こんにちは。今日はお勉強ですか」

 

「はい。あの、今、お話ししても大丈夫ですか」

 

「食堂へ向かうところですので、歩きながらでもよろしければ」

 

 うなずき、隣に並ぶ。

 今すぐ紙を見せたかったが、歩きながらでは読みにくいだろう。

 袋に手を入れかけて、やめた。

 

「何か、お持ちになったのですか」

 

「名前、書けたんです」

 

 口から出た途端、声が弾んだ。

 ノエルが廊下の端へ寄り、足を止める。

 

「拝見しても?」

 

 紙を広げる指が、少しもつれた。

 それでも、今度は落とさずに差し出せた。

 ノエルは紙の端を持ち、一行を読んだ。

 

「フィオナ様。はい。読めます」

 

「本当に?」

 

「ええ。先日の文字も、正しく書けております」

 

 彼は微笑んだ。

 フィオナは紙より、その顔を見ていた。

 南の教会では、何か考え込んでいることが多かった。自分が話しかけると、答える前に少しだけ黙る。

 今日は、その間がなかった。

 

「次は母の名前も書こうと思います」

 

「きっと、お喜びになるでしょう」

 

 紙を返してもらい、丁寧に畳んだ。

 帰ったら神様にも話そうと思った。

 字を褒めてもらえたことと、笑ってくれたことは、分けて話さなければならない。

 

 再び歩き出すと、今度はノエルから尋ねられた。

 

「初めて治癒を使えたのは、いつ頃なのですか」

 

「少し前です。母の指を治してあげたくて」

 

「その前から、祈りを習っていらしたのですか」

 

「教会で聞いたのを覚えているだけで。お勉強は光が出るようになってからです」

 

 何も、嘘は言っていない。

 けれど、いちばん大事なことを隠している気がして、フィオナは袋を持つ手に力を入れた。

 ノエルは、それ以上尋ねなかった。

 

「そうでしたか。お母様も、驚かれたでしょう」

 

「はい。私の手を何度も見ていました」

 

 母は、治った指より、光の出た娘の手を心配した。

 その話をすると、ノエルは少しだけ表情を和らげた。

 

     ☆

 

 食事のあとには、治癒の練習もあった。

 フィオナは用意された小さな神官服に着替えてから、診療室へ向かった。

 といっても、練習のために誰かを傷つけるわけではない。

 診療室へ来た人の中から、指導役の神官が軽い怪我を選び、そばで見守ってくれる。

 

 最初の相手は、庭の石段で転んだ少年だった。

 膝を洗われたのが痛かったらしく、母親の服をつかんでいる。

 フィオナがしゃがむと、泣きそうな顔で見つめ返してきた。

 

「手を近づけるね。触ってほしくなかったら、言って」

 

「また、水、かける?」

 

「私はかけないよ。光が出るだけ」

 

 少年が、神官の持つ水の器を見た。

 もう洗い終わりましたよと言われるまで、母親の服を離さなかった。

 

 フィオナは、待った。

 早く治してしまえば痛くなくなるのだから、と思う気持ちはあった。

 けれど、何も言われずに手を出されたら、自分も怖い。

 

 少年が小さくうなずいてから、祈りを始めた。

 

 膝の擦り傷に、薄い光が広がった。

 フィオナの桃色の瞳にも、淡い五芒星が浮かぶ。

 右に一つ、左に一つ。細い線で結ばれた星は、力を込めると少しだけ明るくなった。

 

 祈りが届く相手を、フィオナは知っている。

 小さな姿で足を揺らし、名前を書いた紙を褒めてくれた神様。

 今も聞いてくれていると思うと、肩から力が抜けた。

 

 傷が塞がり、少年が自分の膝を見る。

 指導役の神官に確かめてもらってから、フィオナは手を引いた。

 

「もう痛くない?」

 

 少年が、そっと脚を伸ばす。

 次には少し大きく動かし、母親の顔を見上げた。

 

「曲がる」

 

「よかった」

 

 フィオナは笑った。

 頬が自然に緩み、開いた唇から小さく息がこぼれる。

 瞳に残る五芒星はまだ淡く光っていたが、その笑顔には気負いがなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 診療室の奥で、ノエルが清潔な布を棚へ戻していた。

 こちらを見ていたことに気づくと、彼は小さくうなずいた。

 

 フィオナは、また笑いそうになった。

 だが、少年が転んだときの話を始めたので、そちらへ顔を戻した。

 走る競争をしていて、自分のほうが速かったのだという。

 

「今日は競争はお休みにしようね」

 

 母親に言われ、少年は不満そうに口を尖らせた。

 その顔を見て、フィオナは今度こそ声を出して笑った。

 

     ☆

 

「笑ってくださったんです」

 

 その夜、フィオナは畳んだ紙を机へ置き、寝台の少女へ報告した。

 母は階下で、残った針仕事をしている。

 この部屋に聞こえる話し声は、母にはフィオナの声だけなのだという。

 

「文字を読んで、よく書けましたって」

 

『そこまでは言っていなかったでしょう』

 

「……そういうお顔でした」

 

 神様は、楽しそうに笑った。

 フィオナは頬を膨らませかけたが、すぐにつられて笑ってしまった。

 

 リュシエラ。

 そう名乗ったこの神様と話すようになったのは、まだ、そう昔のことではない。

 

 母が針仕事で指を痛めた夜だった。

 フィオナは教会で聞いた祈りを思い出し、一人で真似をした。

 言葉の順も、終わり方も、正しくは覚えていなかった。

 母の指を治してほしい。ただ、その願いを聞いてくれる誰かへ、懸命に祈った。

 

 そのとき、誰もいないはずのところから、返事があった。

 

『あなたもこちらへ呼びかけるのね』

 

 最初は、怖かった。

 だが、小さな少女は母の指を見て、もう少しそばへ、と言った。

 教わるままに手をかざすと、光が生まれた。

 

 今も、教会の人が教える祈りを、フィオナは覚えようとしている。

 ただ、呼びかける相手として思い浮かべるのは、この少女だった。

 

「神様。ノエルさんのときも、間違えたから、聞こえたんですか」

 

『そうよ。ほんの少し、教わった通りではなかったの』

 

 リュシエラが紙の上へ目を落とす。

 

『あなたより先に、あの子の祈りが届いたわ』

 

「でも、ノエルさんは神様とお話ししないんですよね」

 

『今、あなたがしているようにはね』

 

「教えてあげたら、うれしいと思います。いつも聞いてくださっているって」

 

 神様はすぐには返事をしなかった。

 膝の上で指を重ね、少し困った顔になる。

 

『伝えたいことは、たくさんあるの。でも、あなたが私の話を伝えに行ったら、あの子はあなたを調べるでしょうね』

 

「……信じてもらえませんか」

 

『簡単には。あの子がそうするだけの理由があるのよ』

 

 その理由を、フィオナは知らなかった。

 ノエルが時々、ひどく遠いものを見ていることだけは知っている。

 目の前に自分がいるのに、ほかの誰かの言葉を聞いているような顔をするのだ。

 

『だから、急がないで。会えたばかりでしょう』

 

「はい」

 

 紙の折り目を、指で押さえた。

 

「ノエルさんって、神様のお話で思っていた通り、格好いい男の子ですね」

 

『私、男の子だと言ったかしら』

 

 フィオナは顔を上げた。

 リュシエラが、口元へ指を当てている。

 

『ノエルは、女の子よ』

 

「……え?」

 

『でも、そのことを誰に話すかは、あの子が決めること。あなたがほかの人に言っては駄目』

 

 フィオナは何度か瞬きをした。

 黒い神官服を着た姿と、丁寧に紙を返してくれた手を思い出す。

 言われても、今日のノエルが別の人になるわけではなかった。

 

「では、格好いい女の子なんですね」

 

 神様が、うれしそうにうなずいた。

 

『そう。かわいいでしょう』

 

「格好いいと言いました」

 

『よく見ていれば、分かるわ』

 

 まるで、フィオナだけがまだ知らない、とっておきのことがあるような言い方だった。

 少し悔しくなって、フィオナは今日のノエルの話を続けた。

 歩くのをやめて紙を読んでくれたこと。治療が終わると、黙ってうなずいてくれたこと。

 神様は、そのたびに楽しそうな顔をした。

 

『そうでしょう。あの子はそういうことをするの』

 

 自分が褒められたような声だった。

 

 フィオナは、机の上の紙をもう一度開いた。

 隣に母の名を書くための場所を残してある。

 

「次に会ったときも、お話ししてくれるといいな」

 

『ええ』

 

「神様が私と仲良くするように言ってくださったら――」

 

 言いかけて、フィオナは首を振った。

 

「それだと、違いますね」

 

 リュシエラが、続きを待った。

 

「私と話したいから、来てくれたらいいんです」

 

 小さな神様は、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに笑った。

 

『そうね。私もそう思うわ』

 

 階下から、もう寝る時刻だと母の声がした。

 フィオナは紙を畳み、袋へ戻した。

 明日は母の名前を書く。読んでもらう相手が、一人増えていた。

 

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