何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
フィオナは、自分の名前を書いた紙を三度確かめた。
最後の文字が、少し右へ傾いている。
けれど、線の向きは間違っていない。
紙を畳む前に、幼い声がフィオナの内側へ届いた。
『いいじゃない。読めるわ』
声の主は、寝台の端に腰かけていた。
フィオナよりも幼く見える少女だ。淡い紫の髪を背中へ流し、床に届かない足を揺らしている。
その目には、はっきりとした五芒星があった。
「ノエルさんにも読めるでしょうか」
『あの子なら、あなたが逆に書いても分かると思うけれど』
「逆じゃないものを見てもらいたいんです」
少女は目を丸くしてから、笑った。
『そうね。そのほうがいい』
扉の向こうで、母がフィオナを呼んだ。
迎えの神官が来たらしい。
フィオナは返事をして、紙を布の袋へしまった。
「行ってきます、神様」
『ええ。いってらっしゃい』
母が扉を開けたとき、寝台の上には誰もいなかった。
フィオナはそれを不思議に思わず、母の差し出した外套へ腕を通した。
☆
今日、大聖堂へ行くのは、祈りと文字を教わるためだった。
南の教会でノエルに会ってから、十日ほど経っている。
道の途中で、フィオナは何度も袋の上から紙を確かめた。
折ったところが破れていないか。どこかへ落としていないか。
そのたびに、同行する神官が、忘れ物ですかと尋ねてくれた。
「いいえ。持ってきました」
答えると、ほっとした顔をされる。
まだ見せてもいない紙を、何度も出したりしまったりしているのだから、心配されても仕方がなかった。
大聖堂の門をくぐる前に、フィオナは袋の口を結び直した。
今日、必ず会えるわけではない。
ノエルは仕事の時間が合えば、と言っていた。
それでも、探してしまった。
廊下を歩く黒髪を見つけて顔を上げ、背の高さが違うと分かって目を戻す。
「先にお勉強の部屋へ行きましょうね」
「はい」
返事をしながら、頬が熱くなった。
神様にも、きっと見られている。
文字の稽古では、名前のほかに、薬や布を表す言葉も教わった。
見本を写すだけならできると思っていたが、似た文字が続くと分からなくなる。
指導役の神官に一つずつ示してもらい、何とか一行を書き終えた。
やがて、昼の休憩になった。
フィオナが紙を片づけていると、開いた扉の向こうを、小さな神官が通りかかった。
黒い髪に、琥珀色の瞳。
今度こそ、間違いなかった。
「ノエルさん」
椅子から立ち上がりかけて、フィオナは手元を見た。
まだ、筆が出ている。
紙を重ねて筆を置き、教えてくれた神官に断ってから、廊下へ出た。
ノエルは、扉の脇で待っていた。
「こんにちは。今日はお勉強ですか」
「はい。あの、今、お話ししても大丈夫ですか」
「食堂へ向かうところですので、歩きながらでもよろしければ」
うなずき、隣に並ぶ。
今すぐ紙を見せたかったが、歩きながらでは読みにくいだろう。
袋に手を入れかけて、やめた。
「何か、お持ちになったのですか」
「名前、書けたんです」
口から出た途端、声が弾んだ。
ノエルが廊下の端へ寄り、足を止める。
「拝見しても?」
紙を広げる指が、少しもつれた。
それでも、今度は落とさずに差し出せた。
ノエルは紙の端を持ち、一行を読んだ。
「フィオナ様。はい。読めます」
「本当に?」
「ええ。先日の文字も、正しく書けております」
彼は微笑んだ。
フィオナは紙より、その顔を見ていた。
南の教会では、何か考え込んでいることが多かった。自分が話しかけると、答える前に少しだけ黙る。
今日は、その間がなかった。
「次は母の名前も書こうと思います」
「きっと、お喜びになるでしょう」
紙を返してもらい、丁寧に畳んだ。
帰ったら神様にも話そうと思った。
字を褒めてもらえたことと、笑ってくれたことは、分けて話さなければならない。
再び歩き出すと、今度はノエルから尋ねられた。
「初めて治癒を使えたのは、いつ頃なのですか」
「少し前です。母の指を治してあげたくて」
「その前から、祈りを習っていらしたのですか」
「教会で聞いたのを覚えているだけで。お勉強は光が出るようになってからです」
何も、嘘は言っていない。
けれど、いちばん大事なことを隠している気がして、フィオナは袋を持つ手に力を入れた。
ノエルは、それ以上尋ねなかった。
「そうでしたか。お母様も、驚かれたでしょう」
「はい。私の手を何度も見ていました」
母は、治った指より、光の出た娘の手を心配した。
その話をすると、ノエルは少しだけ表情を和らげた。
☆
食事のあとには、治癒の練習もあった。
フィオナは用意された小さな神官服に着替えてから、診療室へ向かった。
といっても、練習のために誰かを傷つけるわけではない。
診療室へ来た人の中から、指導役の神官が軽い怪我を選び、そばで見守ってくれる。
最初の相手は、庭の石段で転んだ少年だった。
膝を洗われたのが痛かったらしく、母親の服をつかんでいる。
フィオナがしゃがむと、泣きそうな顔で見つめ返してきた。
「手を近づけるね。触ってほしくなかったら、言って」
「また、水、かける?」
「私はかけないよ。光が出るだけ」
少年が、神官の持つ水の器を見た。
もう洗い終わりましたよと言われるまで、母親の服を離さなかった。
フィオナは、待った。
早く治してしまえば痛くなくなるのだから、と思う気持ちはあった。
けれど、何も言われずに手を出されたら、自分も怖い。
少年が小さくうなずいてから、祈りを始めた。
膝の擦り傷に、薄い光が広がった。
フィオナの桃色の瞳にも、淡い五芒星が浮かぶ。
右に一つ、左に一つ。細い線で結ばれた星は、力を込めると少しだけ明るくなった。
祈りが届く相手を、フィオナは知っている。
小さな姿で足を揺らし、名前を書いた紙を褒めてくれた神様。
今も聞いてくれていると思うと、肩から力が抜けた。
傷が塞がり、少年が自分の膝を見る。
指導役の神官に確かめてもらってから、フィオナは手を引いた。
「もう痛くない?」
少年が、そっと脚を伸ばす。
次には少し大きく動かし、母親の顔を見上げた。
「曲がる」
「よかった」
フィオナは笑った。
頬が自然に緩み、開いた唇から小さく息がこぼれる。
瞳に残る五芒星はまだ淡く光っていたが、その笑顔には気負いがなかった。
診療室の奥で、ノエルが清潔な布を棚へ戻していた。
こちらを見ていたことに気づくと、彼は小さくうなずいた。
フィオナは、また笑いそうになった。
だが、少年が転んだときの話を始めたので、そちらへ顔を戻した。
走る競争をしていて、自分のほうが速かったのだという。
「今日は競争はお休みにしようね」
母親に言われ、少年は不満そうに口を尖らせた。
その顔を見て、フィオナは今度こそ声を出して笑った。
☆
「笑ってくださったんです」
その夜、フィオナは畳んだ紙を机へ置き、寝台の少女へ報告した。
母は階下で、残った針仕事をしている。
この部屋に聞こえる話し声は、母にはフィオナの声だけなのだという。
「文字を読んで、よく書けましたって」
『そこまでは言っていなかったでしょう』
「……そういうお顔でした」
神様は、楽しそうに笑った。
フィオナは頬を膨らませかけたが、すぐにつられて笑ってしまった。
リュシエラ。
そう名乗ったこの神様と話すようになったのは、まだ、そう昔のことではない。
母が針仕事で指を痛めた夜だった。
フィオナは教会で聞いた祈りを思い出し、一人で真似をした。
言葉の順も、終わり方も、正しくは覚えていなかった。
母の指を治してほしい。ただ、その願いを聞いてくれる誰かへ、懸命に祈った。
そのとき、誰もいないはずのところから、返事があった。
『あなたもこちらへ呼びかけるのね』
最初は、怖かった。
だが、小さな少女は母の指を見て、もう少しそばへ、と言った。
教わるままに手をかざすと、光が生まれた。
今も、教会の人が教える祈りを、フィオナは覚えようとしている。
ただ、呼びかける相手として思い浮かべるのは、この少女だった。
「神様。ノエルさんのときも、間違えたから、聞こえたんですか」
『そうよ。ほんの少し、教わった通りではなかったの』
リュシエラが紙の上へ目を落とす。
『あなたより先に、あの子の祈りが届いたわ』
「でも、ノエルさんは神様とお話ししないんですよね」
『今、あなたがしているようにはね』
「教えてあげたら、うれしいと思います。いつも聞いてくださっているって」
神様はすぐには返事をしなかった。
膝の上で指を重ね、少し困った顔になる。
『伝えたいことは、たくさんあるの。でも、あなたが私の話を伝えに行ったら、あの子はあなたを調べるでしょうね』
「……信じてもらえませんか」
『簡単には。あの子がそうするだけの理由があるのよ』
その理由を、フィオナは知らなかった。
ノエルが時々、ひどく遠いものを見ていることだけは知っている。
目の前に自分がいるのに、ほかの誰かの言葉を聞いているような顔をするのだ。
『だから、急がないで。会えたばかりでしょう』
「はい」
紙の折り目を、指で押さえた。
「ノエルさんって、神様のお話で思っていた通り、格好いい男の子ですね」
『私、男の子だと言ったかしら』
フィオナは顔を上げた。
リュシエラが、口元へ指を当てている。
『ノエルは、女の子よ』
「……え?」
『でも、そのことを誰に話すかは、あの子が決めること。あなたがほかの人に言っては駄目』
フィオナは何度か瞬きをした。
黒い神官服を着た姿と、丁寧に紙を返してくれた手を思い出す。
言われても、今日のノエルが別の人になるわけではなかった。
「では、格好いい女の子なんですね」
神様が、うれしそうにうなずいた。
『そう。かわいいでしょう』
「格好いいと言いました」
『よく見ていれば、分かるわ』
まるで、フィオナだけがまだ知らない、とっておきのことがあるような言い方だった。
少し悔しくなって、フィオナは今日のノエルの話を続けた。
歩くのをやめて紙を読んでくれたこと。治療が終わると、黙ってうなずいてくれたこと。
神様は、そのたびに楽しそうな顔をした。
『そうでしょう。あの子はそういうことをするの』
自分が褒められたような声だった。
フィオナは、机の上の紙をもう一度開いた。
隣に母の名を書くための場所を残してある。
「次に会ったときも、お話ししてくれるといいな」
『ええ』
「神様が私と仲良くするように言ってくださったら――」
言いかけて、フィオナは首を振った。
「それだと、違いますね」
リュシエラが、続きを待った。
「私と話したいから、来てくれたらいいんです」
小さな神様は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに笑った。
『そうね。私もそう思うわ』
階下から、もう寝る時刻だと母の声がした。
フィオナは紙を畳み、袋へ戻した。
明日は母の名前を書く。読んでもらう相手が、一人増えていた。