何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
アルトハイム家の屋敷へ伺うのは、初めてだった。
門をくぐった馬車の窓から、青い旗が見える。鷹の背後を、杖が斜めに横切っていた。
迎えに出た侍女に案内されながら、俺は持ってきた紙包みを抱え直した。
中身は焼き菓子である。お嬢様が選び、最後に一つだけ、果実の入ったものを足してくださった。
「クラウディアにも食べてもらってね」
そう言われたので、これは俺の分ではない。
多分。
あのお礼の訪問から、クラウディア様は何度か屋敷へいらしている。そのたびに、小さな瓶を一つずつ持ってこられた。
ふたに紐をつけた瓶。片手でも外しやすいよう、栓の頭を大きくした瓶。
お嬢様も一緒に、空の瓶へ水を入れて試した。紐が長すぎると、外した栓が傷口に当たる。短すぎれば、今度は傾けにくい。
そんなことを話していると、クラウディア様はすぐに手帳を開いた。
今日は、その続きをこちらで見せたいというお招きだった。
「ノエル」
階段の上で声がした。
クラウディア様が、手すりに添えていた手を離す。淡い水色の髪を後ろでまとめ、青いワンピースの上から前掛けをつけていらした。
こちらへ一歩踏み出してから、止まる。
「……いらっしゃい」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「堅くしなくていいわ。ここでは」
そうおっしゃるご本人の背筋が、いつもより伸びていた。
俺が頭を上げると、薄い灰色の瞳が紙包みへ向く。
「セレスティア様から?」
「はい。皆様で召し上がってください、と」
「今日はご一緒ではないのね」
「奥様とご用がおありです。お菓子の感想を聞かせてほしいと、おっしゃっていました」
「そう。……ちゃんと、伝えるわ」
クラウディア様は包みを侍女に預けると、廊下の奥へ歩きだした。
俺も続く。付き添ってきたうちの侍女は、先方の侍女と挨拶を交わしてから、少し後ろを歩いていた。
案内されたのは、屋敷の裏庭に面した小部屋だった。
窓際に作業台があり、壁の棚には蓋つきの壺が並んでいる。部屋の隅には小さな炉があったが、今は火が入っていない。
机の上だけが、空いていた。
いや、正確には、二人分の場所だけ空けられている。
端へ寄せた紙の束は、紐でぎゅっと縛ってあった。
「お父様にここを使っていいと言っていただいたの」
クラウディア様は戸を開けたまま、机へ向かった。
「材料を置く場所が欲しいと言ったら、部屋になったわ」
「随分、大事にしてくださるのですね」
「でも、火を使うときは大人と一緒。外から持ち帰ったものも、先に見せることになっているの」
前掛けの端を、指でつまむ。
「材料を見に行くのも、今は、必ずお付きの人と」
「それがよいと思います」
あの路地で腕を引かれていた姿が浮かんだ。
口を塞がれ、声も出せなかった少女が、今は自分の机の前に立っている。
戸口の侍女がこちらへ目を向けた。クラウディア様は一度うなずいてから、卓上の箱を開けた。
「……これなら、家でもできるから」
箱の中に、細長い瓶が六本並んでいた。
瓶の首には短い紐が結ばれ、その先についた栓が、横へ落ちるようになっている。胴には布の帯が巻いてあった。
「濡れた手でも、滑りにくいと思うの。試してくれる?」
「もちろんです」
中身は薬ではなく、色をつけた水だという。
俺は一本を取り、左腕を机に乗せた。以前怪我をしたときと同じように、右手だけで開けてみる。
栓は抜けた。
だが、傾ける途中で紐が親指に引っかかった。
「ここが、少し邪魔になるかもしれません」
「そこを持つの?」
「腕を怪我していると、机に押しつけて開けたくなります。そのまま握り直さず使おうとすると」
もう一度、ゆっくりやってみせた。
クラウディア様が身を乗り出す。髪が瓶へかかりそうになり、耳へかけ直していた。
「……私、両手でしか試していなかったわ」
「左手で開ける場合も、確かめてみましょうか」
「ええ。待って。書くから」
手帳に小さな図が増えていく。
書き終わるのを待ち、今度は右腕を机へ乗せた。どちらの手でも使うなら、紐をつける位置にも工夫が要る。
俺は治療を受ける側にも、する側にもなったことがある。瓶を作ることはできないが、使って困ることなら思い当たった。
「痛いときは、思ったほど指が動きません。急いでいると、瓶もよく見ないので」
「薬を間違える?」
「似たものが並んでいれば」
クラウディア様は、六本の瓶を見比べた。
それから、一本だけ布の帯を二重に巻く。
「触って、違うと分かればいいのかしら」
「目印になりますね。ただ、初めて使う人にも、何の薬か読めるほうが安心です」
「文字も残すわ。……絵も、いるかもしれない」
俺が言ったことより、少し先のことを書いている。
読み書きのできない人へ渡すつもりなのだろうか。
「どなたかに、差し上げるご予定ですか」
「まだ、そこまでは決まっていないわ。でも、作れたのに、使えなかったら嫌でしょう」
ペンの先が止まる。
「あのとき、あなたが使ってくれたから。瓶に入れて終わりではないって分かったの」
血のついた袖と、傷にかけられた冷たい薬を思い出す。
俺の腕は、たしかにあの薬に助けられた。
「とてもよく効きました」
「……それは、前にも聞いたわ」
「はい。何度お尋ねになっても、同じようにお答えします」
クラウディア様が手帳へ顔を伏せた。
けれど、口元が緩んでいるのは見えた。
次は、材料の整理を手伝った。
薬を作るところも見せていただくつもりだったが、今日使う分はもう量ってあるらしい。俺に急いで見せようとして、朝早くから用意したのだという。
戸口にいた若い侍女がそう教えると、クラウディア様は頬を赤くした。
「そこまでは言わなくていいの」
「昨夜から楽しみにしていらしたことも、内緒でしたか?」
「もう。それもよ」
クラウディア様は困ったように眉を下げたが、侍女が笑うと、つられて口元を緩めた。
「あとでお茶をお願い。あなたと、そちらの方の分も淹れてね」
「はい、お嬢様」
侍女は嬉しそうに一礼して、廊下へ下がった。
俺は机に広げられた乾燥した葉を、小皿へ分ける。砕けて細かくなったものと、形の残っているものは、別々に保管するそうだ。
「そんなに潰さなくて平気よ」
「失礼しました。薬草は、もっと細かくするものかと」
「使う前に砕くの。置いておく間に、香りが抜けるから」
説明する声が、さっきより滑らかになっていた。
俺は頷き、指先でつまむ量を減らす。似た色の葉が二種類あり、慣れないと見分けにくい。
迷っていると、横から白い指が伸びてきた。
俺の手の甲へ触れる、少し前で止まる。
「……こっち」
クラウディア様は、葉を指さした。
俺がつまみ直すのを見て、手を引っ込める。
しばらくして、今度は皿を寄せようとした俺の指に、ご自分の指が触れた。
皿から手を離すと、その指も離れた。
「申し訳ありません。近すぎましたか」
「違うわ」
返事が早かった。
俺は椅子を引きかけて、やめた。
クラウディア様は小皿を見たまま、唇を結んでいる。何か言おうとしているようなので、次の葉へ手を伸ばさず待った。
「……手を、見せて」
俺は両手を机へ置いた。
薬草の粉でもついているのだろうか。
クラウディア様の右手が、俺の左手へ重なった。
指を絡めるでもなく、上からそっと乗せるだけの触れ方だった。
こちらより少し長い指が、遠慮がちに曲がる。
「こうしても、いい?」
「はい」
何かを確かめるのだと思った。
だが、クラウディア様は俺の手を裏返したり、指を動かしたりはしない。
重ねたところを見つめている。
「……温かいのね」
「クラウディア様は、少し冷えていらっしゃいますね」
「緊張、していたから」
材料の扱いに失敗しただろうか、と机を見る。
皿はこぼれていない。瓶の栓も、全部閉まっている。
顔を戻すと、クラウディア様と目が合った。
すぐにそらされたが、耳の先が赤い。
「作業は、急がなくても大丈夫です。帰るまで、まだ時間がありますから」
「……ええ」
指先に、ほんの少し力が入った。
クラウディア様は俯いたまま笑った。いつもの、口元だけを僅かに動かす笑い方より、ずっと分かりやすかった。
その顔を見ているうちに、俺も手を動かしそびれた。
窓の外で、庭師が何かを運んでいる。廊下から、お茶の支度をする音が聞こえた。
先に手を離したのは、クラウディア様だった。
「ありがとう。……続きを、しましょう」
葉をつまむ指は、さっきより軽やかに動いていた。
お茶は、作業台から離れた小さな卓に用意された。
持参した焼き菓子の中から、クラウディア様が果実入りのものを選ぶ。
「あなた、これが好きなのでしょう」
「お嬢様から、お聞きに?」
「前に一番先に取っていたから」
そんなことまで見られていたのか。
クラウディア様は一口食べてから、残りを皿へ戻した。
「おいしいわ。セレスティア様にお伝えして」
「かしこまりました」
「それと……次は私が、持っていくから」
研究の話ではないらしかった。
お二人の訪問が、薬の確認だけではなくなっていくなら、よいことだ。
帰り際、小さな布袋を渡された。
中には傷薬が一本と、清潔な布が入っていた。試作品ではなく、俺の腕に使ったものと同じ薬だという。
「もうすぐ山へ行くと聞いたわ」
「はい。お嬢様と、奥様にお供します」
「新しい瓶はまだ全部試せていないから。こっちはいつもの栓にしてあるの」
瓶を作り直したばかりなのに、渡すものは確かめた品を選ぶ。
その慎重さに、俺は安心して袋を受け取った。
「大切に使わせていただきます」
「使わないほうがいいのよ」
クラウディア様が、俺の腕を見る。
「また血を流して帰ってこられても、困るから」
「気をつけます」
屋敷の玄関まで送っていただいた。
別れの挨拶をしていると、クラウディア様の手が少しだけ持ち上がる。
俺が目を向けると、その手は小さく振られた。
こちらも振り返す。
クラウディア様は、今度は顔を隠さずに笑った。
馬車に乗ってから、薬の袋を膝へ置いた。
手の甲に、まだ人の体温が残っている気がした。
俺の知っていた公女は、こんなふうに笑う方だったのだろうか。
学園で向かい合っていたお二人の顔ばかり、よく覚えている。
しかし、今日のことは、覚えておこうと思った。
小さな部屋に用意された二脚の椅子も、手を重ねる前の、あの短い躊躇いも。