何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
荷物の確認は、三度目だった。
着替え。手帳。筆記具。教会から借りた本は、返してある。
クラウディア様からいただいた薬の袋を、鞄の外側の物入れへ移した。必要になったとき、服を全部出さずに取り出せる。
紐を結び直していると、戸口から声がした。
「ノエル。まだかかる?」
お嬢様が、帽子を両手に持って立っていらした。
赤いリボンを結んだ、つばの広い帽子である。旅用の服は裾が短めで、いつもより歩きやすそうだった。
「もう済みます」
「さっきもそう言っていたわ」
「念のため、もう一度だけ」
「忘れたものがあったら、向こうで借りましょう」
俺の鞄を覗き込み、教本の角を指で押す。
「それも持っていくの?」
「読みかけですので」
「……そう」
何か言いたそうだったが、お嬢様は本を取り出したりはしなかった。
俺が留め具を閉めるのを待ち、先に廊下へ出られる。
その足取りが軽い。
山へ行くのを、楽しみにしていらっしゃるのだろう。
王都を離れたのは、朝のうちだった。
奥様とお嬢様の乗る馬車へ、俺も乗せていただいた。別の馬車に使用人と荷物が乗り、前後には護衛の騎士がついている。
公爵様は、お仕事のためお留守番である。
出発前、何度も同じことをおっしゃっていた。
「川へ近づきすぎるな。森へ入るときは護衛と一緒に。寒ければ、すぐ一枚着るんだぞ」
「お父様。まだそんなに寒くありませんわ」
「山は違う」
お嬢様の帽子を直し、肩の布を直し、最後には俺の上着まで確かめた。
奥様が馬車からお呼びになって、ようやく手が離れた。
行き先は、王都から東へ二日ほど進んだ山間にある、公爵家の山荘だった。
海へ向かう街道から外れ、山道を上った先にあるという。夏の暑さを避けて過ごすため、屋敷の者が先に支度へ入っている。
俺にとっては、初めて行く場所だ。
以前の周にもお嬢様がお出かけになったことはあるが、俺は王都に残っていた。教会の仕事や、来客の準備をしていた覚えがある。
こうして隣へ座り、街並みが畑へ変わっていくのを見るのは、今回が初めてだった。
「あれ、麦かしら」
「はい。こちらは、まだ刈り入れ前のようですね」
お嬢様が窓の外を指す。
俺は反対側の席から身を乗り出しかけ、膝へ置いた鞄を押さえた。
「ノエルもこっちへ来ればいいのに」
「窮屈になりませんか」
「二人とも小さいでしょう」
それは、そうだった。
奥様に目を向けると、笑ってうなずいてくださる。
俺はお嬢様の隣へ移った。
窓枠の下に顎を乗せるようにして外を見ると、麦の穂の向こうに荷車が見えた。畑の端で、子どもがこちらへ手を振っている。
お嬢様も手を振り返した。
「あんなに走ったら、転ぶわ」
そう言いながら、その子が見えなくなるまで窓を見ていた。
昼は、街道沿いの宿で休んだ。
食事をする間に馬を休ませ、馬車の車輪を点検する。俺も外の様子を見ようと腰を浮かせたが、奥様に呼び止められた。
「ノエルさん。あなたの食事はまだ残っていますよ」
「ですが、荷物が」
「荷物には見てくださる方がいます」
窓から中庭を見ると、従僕がちょうど俺の鞄を別の荷物の上へ載せ直していた。
俺は座り直した。
お嬢様が、皿に残ったパンをこちらへ寄せる。
「ほら。出発するまでに食べないと」
「はい」
「私より遅いわよ」
ご自分の皿は、もう空だった。
俺が食べ終わるまで、お嬢様は席を立たなかった。
一日目の宿では、俺は従僕たちと同じ部屋を使った。
寝台へ腰を下ろすと、窓の外で馬が鳴いた。慣れた屋敷より、外の音が近い。
上着を脱ぎ、明日の分の服を確かめる。
昼に座っていた時間が長かったので、まだ眠くなかった。借りてきた燭台のそばで、手帳を開く。
山荘での予定。同行する護衛の人数。教会へ戻る日。
書きつけたところで、同室の従僕が水差しを置いた。
「ノエルさんは明日もお嬢様とご一緒でしょう」
「はい」
「朝が早いですから、今夜は休んでください。廊下にも人がいますよ」
見張りをしようとしていたわけではない。
そう答えかけて、手帳を閉じた。
寝台は壁際にあり、部屋の戸が見える。隣では、大人の男がもう靴を脱いでいた。
俺が眠っても、困ることはない。
水を一口飲み、横になった。
☆
翌日は、昼を過ぎたころから景色が変わった。
畑が少なくなり、道の両側へ木々が迫る。窓から入る風は冷たく、汗ばんでいた首筋が乾いていった。
山道へ入る前に馬車が止まり、お嬢様の肩へ薄い上着がかけられる。
公爵様のおっしゃったとおりだった。
「ノエルも着て」
「まだ大丈夫です」
「お父様に叱られるわ」
俺の上着も、膝へ載せられた。
逆らうほどの理由はないので、袖を通した。
山荘は、森の縁に建っていた。
石造りの低い建物で、日当たりのよい側に木の長椅子が並んでいる。前には牧草地が広がり、その向こうへ山の稜線が続いていた。
窓を開ければ、王都の通りの音はしない。
風が葉を揺らす音と、どこかで鳴く鳥の声が聞こえる。
俺が通された小部屋は、お嬢様のお部屋と同じ廊下にあった。間に侍女の部屋が一つあり、奥様のお部屋も近い。
荷物を置くと、すぐに呼ばれた。
「見て。あそこまで歩けるのですって」
お嬢様の指の先に、白い石を敷いた道が見えた。
道は建物の裏を回り、林の手前の柵へ続いている。
「今日はお庭だけになさいませ」
侍女が帽子を持ってきた。
お嬢様は素直にかぶり、俺を見上げる。
「一緒に行きましょう」
俺は頷き、戸口を空けた。
庭と言っても、王都の屋敷とは違った。
土の上に石が置かれ、踏み外すと靴が草へ沈む。道の端には、小さな白い花が群れていた。
お嬢様は花へ手を伸ばしたが、摘まずに戻した。
「名前、分かる?」
「申し訳ありません。私は」
「クラウディアなら、分かるかしら」
「薬になるものなら、ご存じかもしれません」
お嬢様は花の形をよく見てから、歩きだした。
「絵にして送ったら、教えてくださるかしらね」
その言葉を聞いて、少し嬉しくなった。
以前なら、お二人がお互いを話題にするときは、もう少し声が硬かった。
今は、小さな花の名前を尋ねる手紙を考えている。
木陰を抜けたところで、風が吹いた。
お嬢様は帽子のつばを押さえたが、後ろのリボンが枝へ引っかかった。
俺は足を止めていただき、結び目をほどかないよう、枝を押し下げた。ちょうどよい高さにある。背伸びをする必要もなかった。
「取れました」
「ありがとう。曲がっていない?」
こちらへ向き直り、少し顎を上げられる。
帽子を直している間、お嬢様は動かなかった。赤いリボンの片方だけが長くなっていたので、左右を揃える。
「これで、よろしいかと」
「あなたはかぶらないの?」
「木陰が多いですから」
答えると、お嬢様は自分の帽子を持ち上げ、俺の頭へ乗せた。
つばが目の前へ落ちる。
慌てて押さえると、すぐ近くで笑い声がした。
「似合うわ」
「前が、見えません」
帽子を返す。お嬢様はまたかぶり直し、今度は俺が何も言わなくても、枝から離れて歩いてくださった。
柵のそばで、山荘の管理をする男が待っていた。
この辺りの森も見回っている人だという。護衛の騎士に道の様子を説明し、俺たちにも、木々の間へ勝手に入らないよう話した。
「鹿もおりますが、狼も通ります。こちらを見て逃げることのほうが多いですが、近づいてよいということではありませんので」
「このお庭にも来るの?」
「普段は、もっと山の奥におります。夜に声が聞こえることはありますよ」
お嬢様が林へ顔を向けた。
俺も見る。枝と枝の間が暗く、奥までは見通せない。
管理人は、川沿いの道なら案内できると言った。上流へ向かいすぎなければ足場もよく、山荘の者が毎日使う道らしい。
騎士が明日の天気を尋ねている間、お嬢様は柵へ手を置いた。
「あなたはどこへ行きたい?」
「お嬢様のお供をいたします」
「そうではなくて」
青い瞳が、俺を見る。
「あなたが、行きたいところ」
考えていなかった。
どこなら人目があるか。どの道なら馬車へ戻りやすいか。そんなことは、着いてからずっと見ていたのに。
俺は牧草地の向こうへ目をやった。
木々の切れ目に、水が光っている。
「……川を、見てみたいです」
「では、明日は川ね」
お嬢様が、すぐに決めた。
もちろん、奥様と護衛の許しをいただいてから、という話になったが。
夕食のあと、長椅子の置かれた軒先へ出た。
昼は見えなかった星が、山の上にいくつも出ている。
お嬢様は膝に毛布をかけ、温めた乳の入った杯を持っていらした。俺にも同じものが用意されている。
少し離れた戸口に、侍女がいた。
「本は読めた?」
「まだです」
「そう」
なぜか、満足そうだった。
俺は杯へ口をつけた。甘味は少なく、温かい。
「明日も読めないかもしれません」
「川へ行くものね」
「はい」
「その次は花の絵を描くのを手伝って」
「私でよろしければ」
滞在中の予定が、一つずつ埋まっていく。
お嬢様は膝の上で、毛布の端を俺のほうへ引いた。
「少しそちらへかけてもいい?」
「冷えていらっしゃいますか」
「風でずれるの」
俺の膝に端を乗せると、たしかに毛布は動かなくなった。
肩が触れるほど近くへ、お嬢様が座り直す。
しばらく二人で、星を見た。
星の名前を尋ねられ、一つだけ答えられた。ほかは分からなかったので、そう申し上げると、お嬢様は笑った。
「何でも知っているわけではないのね」
「もちろんです」
「じゃあ、明日聞きましょう。ここに住んでいる方なら、知っているかもしれないわ」
また、明日の予定が増えた。
俺は手帳を持ってきていなかったが、忘れないだろうと思った。
山のほうから、長い声が聞こえた。
お嬢様が顔を上げる。管理人の言っていた狼の声だろうか。
騎士は戸口から森を見たあと、その場へ戻った。近くではないらしい。
「本当に、いるのね」
「そのようですね」
お嬢様は怖がっている様子もなく、もう一度山を見た。
やがて杯が空になり、侍女が俺たちを呼びに来た。
毛布を畳み、お嬢様のあとから部屋へ戻る。
鞄の中の本は、その夜も開かなかった。