何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~   作:名もなきそば付き

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【挿絵表示】

二章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。



第二十五話☆山で倒れていた狼

 翌朝、お嬢様は朝食を終えるなり、俺のほうを見た。

 

「今日は川でしょう」

「はい。お天気も、よいようです」

 

 昨夜の約束は、覚えていらっしゃった。

 俺も忘れてはいない。食事を済ませ、靴の紐を結び直した。

 案内をしてくれる管理人と、護衛の騎士が二人。侍女も一人ついてきてくれる。

 奥様は軒先で俺たちを見送り、昼には戻るようおっしゃった。

 

「川の中へは入らないこと。石も滑りますからね」

「はい、お母様」

 

 お嬢様が返事をし、俺も頭を下げる。

 上着の内側に薬の袋があるのを確かめて、歩きだした。

 

 森へ入る道は、思ったより広かった。

 薪を運ぶ荷車も通るらしく、土に車輪の跡が残っている。枝が低く伸びているところでは、管理人が先に避けてくれた。

 俺はお嬢様の半歩後ろを歩いた。

 小石の多いところへ来ると、赤い袖から手が伸びてくる。

 その手を取り、足元を見る。

 

「こちらの石は、動きます。少し右へ」

「ええ」

 

 お嬢様は素直に足を置き直した。

 歩き慣れていない道なのに、遅れまいと急ぐ様子はない。俺の歩幅に合わせ、濡れた葉を避けている。

 握った手を離してもよさそうな場所まで来たが、お嬢様は離さなかった。

 

「川の音がするわ」

 

 木々の向こうから、細かな水音が聞こえる。

 道が曲がると、流れが見えた。

 大きな川ではない。石の間を透明な水が走り、日の当たるところだけ白く光っている。

 川岸には、腰を下ろせそうな平たい石があった。

 

「ここまでなら山荘からも近いのです」

 

 管理人がそう言い、足場を確かめてくれた。

 騎士の一人が上流側へ立つ。もう一人は、来た道のほうを見ていた。

 俺はお嬢様の腰かける石へ布を敷いた。

 

「ノエルも座って」

「私は、こちらで」

「そこは濡れているわ」

 

 指さされた足元を見ると、苔の間から水がにじんでいた。

 俺は少し横へ移った。結局、お嬢様と同じ石へ腰を下ろす。

 水面に小さな魚が見えた。お嬢様が指を動かすと、その影に驚いたのか、魚は石の下へ隠れた。

 

「逃げてしまった」

「少し待てば、出てくるかもしれません」

 

 二人で、動かずに待った。

 しばらくして、細い影がまた流れへ出てくる。

 お嬢様が俺の袖をつまんだ。声は出さず、目で知らせてくださる。

 俺も小さくうなずいた。

 

 管理人が異変に気づいたのは、帰ろうとしたときだった。

 上流から、鳥が数羽飛び立った。

 男は枝の揺れを見上げ、それから、川沿いの斜面へ目をやった。

 

「……少し、お待ちください」

 

 騎士が俺たちの前へ出る。

 俺はお嬢様の手を引き、侍女のいる側へ戻った。

 斜面の下に、灰色のものが見えた。

 最初は、倒れた木の根だと思った。だが、動いている。

 ゆっくりと、胸の辺りが上下した。

 

「狼です」

 

 管理人の声が低くなった。

 俺たちより少し上流、崩れた土の下に、一頭の狼が横たわっていた。

 背中の毛は灰色が濃く、腹のほうは少し白い。川へ落ちたのか、後ろ脚の辺りが濡れている。

 その毛の下に、赤いものが見えた。

 

「生きているの?」

 

 お嬢様が尋ねた。

 

「はい。ただ、お近づきになりませんよう」

 

 騎士が答え、剣の柄へ手を置く。

 狼の耳が動いた。こちらを見ようとして、頭がわずかに持ち上がる。

 歯が見えたが、唸り声は途中で切れた。

 

「斜面から落ちたのかもしれません。上の土もまだ新しい」

 

 管理人が言った。

 木の根が露出し、小さな石が川岸まで転がっていた。

 俺はその先を見る。狼の後ろ脚が、不自然に身体の下へ入っている。少なくとも、自力で逃げられる状態ではなさそうだった。

 

「傷を、見てもよろしいでしょうか」

 

 騎士がこちらを見た。

 

「ノエル殿。犬とは違います」

「承知しています。お嬢様は、こちらでお待ちください」

 

 俺は握っていた手を離そうとした。

 だが、指が離れない。

 お嬢様は狼ではなく、俺を見ていた。

 

「あなた一人では行かないで」

「はい」

 

 騎士に同行を頼むと、短くうなずいてくれた。

 もう一人はお嬢様と侍女のそばに残る。管理人には、群れの仲間がいないか周囲を見てもらった。

 俺は川へ下りず、土の固いところから回り込んだ。

 

 近くで見ると、まだ若そうな狼だった。

 俺一人で抱えるには大きいが、成獣の狼と並べたことはないので、年齢までは分からない。

 瞳が俺を追う。

 身体を起こそうとするたび、後ろ脚の傷から血が流れた。

 

「動かなくていい」

 

 しゃがみ、少し離れたところへ片膝をついた。

 言葉が通じるとは思えない。それでも、黙って手を伸ばす気にはなれなかった。

 

「治療をする。痛いところを、見せてくれ」

 

 唸り声が返った。

 そばの騎士は剣を抜いていないが、すぐ動ける姿勢で立っている。俺が襲われれば、狼を斬るだろう。

 ここで慌てさせたくなかった。

 薬の袋から布を取り出し、まず地面へ置いた。

 狼は布を見て、俺を見た。

 

 傷口へ直接触れず、神術を使う。

 掌の先に淡い光が集まった。狼の耳が伏せられ、喉が鳴る。

 俺はそれ以上近づかず、血のにじむ場所へ光を向けた。

 毛が邪魔で、傷の奥までは見えない。人の身体ほど、脚のつき方も分かっていない。

 一度に済ませようとせず、まず出血を抑えた。

 

 狼の呼吸が、少しだけ遅くなった。

 動かそうとしていた脚が止まる。

 しかし、こちらを見る目は変わらない。

 痛みが弱まっても、人間を信用する理由にはならないのだろう。

 

「管理人さん。水をいただけますか」

 

 持っていた水筒を渡してもらった。

 浅い器はなかったので、携帯用の杯へ少量移す。狼の鼻先まで運ぶには、もう少し近づく必要があった。

 俺が身をかがめると、狼の顔が動いた。

 指の付け根に、鋭いものが触れる。

 

「ノエル!」

 

 お嬢様の声がした。

 騎士が動くより先に、俺は空いている手を上げた。

 

「大丈夫です。深くありません」

 

 狼の歯が、手にかかっていた。

 噛みついたというより、近づけた手を止められたような力だった。それでも、皮膚は切れている。

 血が一筋、親指の下へ流れた。

 狼は俺を見ている。逃げられない身体で、歯だけを使って拒んでいた。

 

「……怖かったな」

 

 俺は杯を地面へ置いた。

 狼を押さえつけるつもりも、殴るつもりもなかった。手を止めたまま、声を落とす。

 

「これ以上、近づかない。水は、ここへ置く」

 

 やがて、顎の力が緩んだ。

 歯が離れてから、ゆっくり手を戻した。狼はもう唸っていなかったが、頭を伏せずにこちらを見ている。

 俺は傷を布で押さえた。

 クラウディア様に、また血を流して帰らないよう言われたばかりだ。

 これは、叱られるだろう。

 

「いったん戻ってください」

 

 騎士に肩を引かれた。

 逆らわずに立ち上がると、お嬢様がすぐそばまで来ようとして、侍女に止められていた。

 俺のほうから、お嬢様のところへ戻った。

 

「申し訳ありません。驚かせてしまって」

「手を見せて」

 

 声が硬かった。

 布を少し外すと、お嬢様は眉を寄せた。傷は浅い。水で汚れを落として神術を使うと、血は止まり、切れたところも塞がった。

 俺は指を曲げてみせる。

 

「もう、動きます」

「噛まれたことはなくならないでしょう」

 

 そのとおりだった。

 俺は手を下ろした。

 

「次は、もっと気をつけます」

 

 お嬢様は何も言わず、俺の手首を持った。

 さっきまで傷のあったところを、指の腹でそっと確かめる。

 

 狼は、置いた水を舐め始めていた。

 顔を少し伸ばし、杯を倒さないよう、ゆっくり舌を動かしている。

 あのまま山に置いていけば、傷が塞がっても食べ物を探せないかもしれない。

 だが、公爵家の山荘へ勝手に連れ込めるものでもない。

 俺が相談すると、管理人は少し考えた。

 

「裏の使っていない薪小屋なら。馬屋からも離れています。まずは奥様にお伺いしましょう」

 

 一人が山荘へ戻り、残りの者はここで待つことになった。

 お嬢様にもお戻りいただこうとしたが、首を振られる。

 

「ここで待つわ。近づかないから」

 

 騎士は、お嬢様を道の平らなところへ案内した。狼とは十分離れていて、間に管理人が立っている。

 俺も隣に座った。

 狼は水を飲み終えると、ようやく頭を地面へ下ろした。

 

「助かりそう?」

「血は止められました。あとは、ちゃんと休ませたいです」

「ご飯も食べていないのかしら」

「それも、あるかもしれません」

 

 お嬢様は、狼を見つめた。

 俺の手首を掴んでいた指が、少し緩む。

 

「連れて帰れるなら、私も手伝うわ」

「危ないことは、なさらないでください」

「あなたにも同じことを言ったのよ」

 

 返す言葉がなかった。

 

 奥様の許しが出たのは、しばらく経ってからだった。

 居住する建物へは入れない。子どもだけで世話をしない。傷が治ったあとは、森へ戻すことも考える。

 その条件で、保護することになった。

 毛布と、運搬用の板が運ばれてきた。

 管理人と騎士が相談しながら狼を移す間、俺は頭の見える側にいた。もう手は口元へ出さない。

 

「山荘までだ。そこで、休もう」

 

 狼は歯を見せたが、立ち上がる力はなかった。

 途中で身体がずれると、低く声を上げる。俺はそのたびに声をかけ、運ぶ人に待ってもらった。

 この身体で一緒に担ごうとしても、かえって板を傾ける。

 俺は道の石を避け、狼から見えるところを歩いた。

 

 後ろでは、お嬢様が侍女と一緒に、俺の薬の袋を持ってくださっていた。

 袋の口から、使わなかった瓶が覗いている。

 腕を傷めたときには、クラウディア様が薬を出してくれた。今日は、騎士たちが運んでくれる。

 治療だけ済ませても、この重さを抱えて山荘へ戻ることはできなかった。

 

「ありがとうございます」

 

 担いでいる騎士へ言うと、彼は歩調を変えずに答えた。

 

「帰ったら、我々にも水を一杯お願いします」

「はい。すぐに」

 

 お嬢様もそれを聞いて、小さく頷いていらした。

 

 昼の食卓へは、遅れてしまった。

 奥様に報告をして、手の傷のことも申し上げた。

 お嬢様は横で黙っていたが、俺が「少し」と付け加えると、すぐにこちらを見た。

 俺は言い直した。

 

「噛まれました。治療は済んでいます」

 

 奥様には、傷だけでなく、そのあとの行動まで確かめられた。

 話が終わるころには、温かい料理が運び直されていた。

 

 食後、管理人と一緒に薪小屋を覗いた。

 狼は毛布の上に横たわり、開いた戸のほうを向いていた。

 俺が入ると、耳が動く。

 その目が手へ向いたので、掌を見せた。

 

「もう治った。お前も、早くよくなるといいな」

 

 狼は、何も答えなかった。

 ただ、俺が水の器を置く間、一度も歯を見せなかった。

 

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