何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
翌朝、お嬢様は朝食を終えるなり、俺のほうを見た。
「今日は川でしょう」
「はい。お天気も、よいようです」
昨夜の約束は、覚えていらっしゃった。
俺も忘れてはいない。食事を済ませ、靴の紐を結び直した。
案内をしてくれる管理人と、護衛の騎士が二人。侍女も一人ついてきてくれる。
奥様は軒先で俺たちを見送り、昼には戻るようおっしゃった。
「川の中へは入らないこと。石も滑りますからね」
「はい、お母様」
お嬢様が返事をし、俺も頭を下げる。
上着の内側に薬の袋があるのを確かめて、歩きだした。
森へ入る道は、思ったより広かった。
薪を運ぶ荷車も通るらしく、土に車輪の跡が残っている。枝が低く伸びているところでは、管理人が先に避けてくれた。
俺はお嬢様の半歩後ろを歩いた。
小石の多いところへ来ると、赤い袖から手が伸びてくる。
その手を取り、足元を見る。
「こちらの石は、動きます。少し右へ」
「ええ」
お嬢様は素直に足を置き直した。
歩き慣れていない道なのに、遅れまいと急ぐ様子はない。俺の歩幅に合わせ、濡れた葉を避けている。
握った手を離してもよさそうな場所まで来たが、お嬢様は離さなかった。
「川の音がするわ」
木々の向こうから、細かな水音が聞こえる。
道が曲がると、流れが見えた。
大きな川ではない。石の間を透明な水が走り、日の当たるところだけ白く光っている。
川岸には、腰を下ろせそうな平たい石があった。
「ここまでなら山荘からも近いのです」
管理人がそう言い、足場を確かめてくれた。
騎士の一人が上流側へ立つ。もう一人は、来た道のほうを見ていた。
俺はお嬢様の腰かける石へ布を敷いた。
「ノエルも座って」
「私は、こちらで」
「そこは濡れているわ」
指さされた足元を見ると、苔の間から水がにじんでいた。
俺は少し横へ移った。結局、お嬢様と同じ石へ腰を下ろす。
水面に小さな魚が見えた。お嬢様が指を動かすと、その影に驚いたのか、魚は石の下へ隠れた。
「逃げてしまった」
「少し待てば、出てくるかもしれません」
二人で、動かずに待った。
しばらくして、細い影がまた流れへ出てくる。
お嬢様が俺の袖をつまんだ。声は出さず、目で知らせてくださる。
俺も小さくうなずいた。
管理人が異変に気づいたのは、帰ろうとしたときだった。
上流から、鳥が数羽飛び立った。
男は枝の揺れを見上げ、それから、川沿いの斜面へ目をやった。
「……少し、お待ちください」
騎士が俺たちの前へ出る。
俺はお嬢様の手を引き、侍女のいる側へ戻った。
斜面の下に、灰色のものが見えた。
最初は、倒れた木の根だと思った。だが、動いている。
ゆっくりと、胸の辺りが上下した。
「狼です」
管理人の声が低くなった。
俺たちより少し上流、崩れた土の下に、一頭の狼が横たわっていた。
背中の毛は灰色が濃く、腹のほうは少し白い。川へ落ちたのか、後ろ脚の辺りが濡れている。
その毛の下に、赤いものが見えた。
「生きているの?」
お嬢様が尋ねた。
「はい。ただ、お近づきになりませんよう」
騎士が答え、剣の柄へ手を置く。
狼の耳が動いた。こちらを見ようとして、頭がわずかに持ち上がる。
歯が見えたが、唸り声は途中で切れた。
「斜面から落ちたのかもしれません。上の土もまだ新しい」
管理人が言った。
木の根が露出し、小さな石が川岸まで転がっていた。
俺はその先を見る。狼の後ろ脚が、不自然に身体の下へ入っている。少なくとも、自力で逃げられる状態ではなさそうだった。
「傷を、見てもよろしいでしょうか」
騎士がこちらを見た。
「ノエル殿。犬とは違います」
「承知しています。お嬢様は、こちらでお待ちください」
俺は握っていた手を離そうとした。
だが、指が離れない。
お嬢様は狼ではなく、俺を見ていた。
「あなた一人では行かないで」
「はい」
騎士に同行を頼むと、短くうなずいてくれた。
もう一人はお嬢様と侍女のそばに残る。管理人には、群れの仲間がいないか周囲を見てもらった。
俺は川へ下りず、土の固いところから回り込んだ。
近くで見ると、まだ若そうな狼だった。
俺一人で抱えるには大きいが、成獣の狼と並べたことはないので、年齢までは分からない。
瞳が俺を追う。
身体を起こそうとするたび、後ろ脚の傷から血が流れた。
「動かなくていい」
しゃがみ、少し離れたところへ片膝をついた。
言葉が通じるとは思えない。それでも、黙って手を伸ばす気にはなれなかった。
「治療をする。痛いところを、見せてくれ」
唸り声が返った。
そばの騎士は剣を抜いていないが、すぐ動ける姿勢で立っている。俺が襲われれば、狼を斬るだろう。
ここで慌てさせたくなかった。
薬の袋から布を取り出し、まず地面へ置いた。
狼は布を見て、俺を見た。
傷口へ直接触れず、神術を使う。
掌の先に淡い光が集まった。狼の耳が伏せられ、喉が鳴る。
俺はそれ以上近づかず、血のにじむ場所へ光を向けた。
毛が邪魔で、傷の奥までは見えない。人の身体ほど、脚のつき方も分かっていない。
一度に済ませようとせず、まず出血を抑えた。
狼の呼吸が、少しだけ遅くなった。
動かそうとしていた脚が止まる。
しかし、こちらを見る目は変わらない。
痛みが弱まっても、人間を信用する理由にはならないのだろう。
「管理人さん。水をいただけますか」
持っていた水筒を渡してもらった。
浅い器はなかったので、携帯用の杯へ少量移す。狼の鼻先まで運ぶには、もう少し近づく必要があった。
俺が身をかがめると、狼の顔が動いた。
指の付け根に、鋭いものが触れる。
「ノエル!」
お嬢様の声がした。
騎士が動くより先に、俺は空いている手を上げた。
「大丈夫です。深くありません」
狼の歯が、手にかかっていた。
噛みついたというより、近づけた手を止められたような力だった。それでも、皮膚は切れている。
血が一筋、親指の下へ流れた。
狼は俺を見ている。逃げられない身体で、歯だけを使って拒んでいた。
「……怖かったな」
俺は杯を地面へ置いた。
狼を押さえつけるつもりも、殴るつもりもなかった。手を止めたまま、声を落とす。
「これ以上、近づかない。水は、ここへ置く」
やがて、顎の力が緩んだ。
歯が離れてから、ゆっくり手を戻した。狼はもう唸っていなかったが、頭を伏せずにこちらを見ている。
俺は傷を布で押さえた。
クラウディア様に、また血を流して帰らないよう言われたばかりだ。
これは、叱られるだろう。
「いったん戻ってください」
騎士に肩を引かれた。
逆らわずに立ち上がると、お嬢様がすぐそばまで来ようとして、侍女に止められていた。
俺のほうから、お嬢様のところへ戻った。
「申し訳ありません。驚かせてしまって」
「手を見せて」
声が硬かった。
布を少し外すと、お嬢様は眉を寄せた。傷は浅い。水で汚れを落として神術を使うと、血は止まり、切れたところも塞がった。
俺は指を曲げてみせる。
「もう、動きます」
「噛まれたことはなくならないでしょう」
そのとおりだった。
俺は手を下ろした。
「次は、もっと気をつけます」
お嬢様は何も言わず、俺の手首を持った。
さっきまで傷のあったところを、指の腹でそっと確かめる。
狼は、置いた水を舐め始めていた。
顔を少し伸ばし、杯を倒さないよう、ゆっくり舌を動かしている。
あのまま山に置いていけば、傷が塞がっても食べ物を探せないかもしれない。
だが、公爵家の山荘へ勝手に連れ込めるものでもない。
俺が相談すると、管理人は少し考えた。
「裏の使っていない薪小屋なら。馬屋からも離れています。まずは奥様にお伺いしましょう」
一人が山荘へ戻り、残りの者はここで待つことになった。
お嬢様にもお戻りいただこうとしたが、首を振られる。
「ここで待つわ。近づかないから」
騎士は、お嬢様を道の平らなところへ案内した。狼とは十分離れていて、間に管理人が立っている。
俺も隣に座った。
狼は水を飲み終えると、ようやく頭を地面へ下ろした。
「助かりそう?」
「血は止められました。あとは、ちゃんと休ませたいです」
「ご飯も食べていないのかしら」
「それも、あるかもしれません」
お嬢様は、狼を見つめた。
俺の手首を掴んでいた指が、少し緩む。
「連れて帰れるなら、私も手伝うわ」
「危ないことは、なさらないでください」
「あなたにも同じことを言ったのよ」
返す言葉がなかった。
奥様の許しが出たのは、しばらく経ってからだった。
居住する建物へは入れない。子どもだけで世話をしない。傷が治ったあとは、森へ戻すことも考える。
その条件で、保護することになった。
毛布と、運搬用の板が運ばれてきた。
管理人と騎士が相談しながら狼を移す間、俺は頭の見える側にいた。もう手は口元へ出さない。
「山荘までだ。そこで、休もう」
狼は歯を見せたが、立ち上がる力はなかった。
途中で身体がずれると、低く声を上げる。俺はそのたびに声をかけ、運ぶ人に待ってもらった。
この身体で一緒に担ごうとしても、かえって板を傾ける。
俺は道の石を避け、狼から見えるところを歩いた。
後ろでは、お嬢様が侍女と一緒に、俺の薬の袋を持ってくださっていた。
袋の口から、使わなかった瓶が覗いている。
腕を傷めたときには、クラウディア様が薬を出してくれた。今日は、騎士たちが運んでくれる。
治療だけ済ませても、この重さを抱えて山荘へ戻ることはできなかった。
「ありがとうございます」
担いでいる騎士へ言うと、彼は歩調を変えずに答えた。
「帰ったら、我々にも水を一杯お願いします」
「はい。すぐに」
お嬢様もそれを聞いて、小さく頷いていらした。
昼の食卓へは、遅れてしまった。
奥様に報告をして、手の傷のことも申し上げた。
お嬢様は横で黙っていたが、俺が「少し」と付け加えると、すぐにこちらを見た。
俺は言い直した。
「噛まれました。治療は済んでいます」
奥様には、傷だけでなく、そのあとの行動まで確かめられた。
話が終わるころには、温かい料理が運び直されていた。
食後、管理人と一緒に薪小屋を覗いた。
狼は毛布の上に横たわり、開いた戸のほうを向いていた。
俺が入ると、耳が動く。
その目が手へ向いたので、掌を見せた。
「もう治った。お前も、早くよくなるといいな」
狼は、何も答えなかった。
ただ、俺が水の器を置く間、一度も歯を見せなかった。