何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~   作:名もなきそば付き

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投稿順を誤り、第二十五話の次に第二十八話を公開してしまいました。混乱させてしまい、申し訳ありません。
改めて、第二十六話から第二十八話までを順に投稿いたします。

本日は三話投稿となります。こちらは二話目です。


【挿絵表示】

二章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。



第二十七話☆名前をあげる日

 狼が小屋の戸口へ鼻を押しつけたのは、朝の食事を済ませたあとだった。

 隙間から外を嗅ぎ、片方の前脚で床を掻く。

 俺が水の器を持って入ろうとすると、身体を横へずらして、戸の向こうを覗こうとした。

 

「外へ行きたいのか」

 

 もう、立つたびに腰を落とすことはない。

 囲いの中なら、端から端まで歩けるようになっていた。曲がるときに傷めた脚を気にすることも、昨日はなかった。

 俺は空の器を取って、管理人へ声をかけた。

 

 薪小屋の前にある囲いは、狭い。

 怪我をした獣を休ませるには都合がよかったが、歩けるようになった狼を、いつまでも閉じ込めておく場所ではなかった。

 管理人も同じことを考えていたらしく、森側の門を見た。

 

「今日あたり、開けてみましょうか」

 

 俺は狼へ目を向ける。

 狼は戸口へ戻り、外の風を嗅いでいた。

 

「まだ、ここで食べていますが」

「森へ戻れるものなら、戻ったほうがよいでしょう。もともと、この山で暮らしていたのですから」

 

 最初に奥様と交わした約束でもある。

 傷が治れば、帰すことを考える。

 俺は、そのつもりで世話をしてきたはずだった。

 

「お嬢様にも、お伝えしてきます」

 

 器を洗う場所へ置き、建物へ向かった。

 後ろから、床を爪で掻く音がした。

 

 お嬢様は、朝の勉強を終えたところだった。

 俺の話を聞くと、本の間から指を抜き、栞を挟まれた。

 

「今日、帰すのね」

「戻れるか、試してみようということになりました」

「……そう」

 

 窓から、薪小屋の屋根が少しだけ見える。

 お嬢様はそちらを見ていたが、すぐに椅子を降りた。

 

「私も行くわ。お母様に聞いてくる」

 

 お引き止めにはならなかった。

 俺は部屋に残り、机の上の本を閉じた。

 頁の端に、花びらを挟んだ紙がある。クラウディア様へ送る絵のために、庭師からもらったものだった。

 狼の世話をしている間にも、山荘での日々は過ぎている。

 帰り支度を始めるまで、もう何日もなかった。

 

 昼前、森へ続く門のそばに集まった。

 奥様も、少し離れた長椅子へいらしている。侍女がお嬢様の上着を直し、護衛が林の手前を確認した。

 狼を街道へ追い出すのではない。建物の裏にある公爵家の林へ、道を開けるだけだ。

 馬屋と台所へ続く柵は閉めたままで、山側の門だけ、管理人が開いた。

 

 狼は、すぐには出なかった。

 鼻を動かし、門の柱を嗅ぐ。それから、前脚を一本、外の土へ置いた。

 俺は数歩離れて待った。

 

「行っていい」

 

 狼がこちらを見た。

 次の脚が出る。後ろ脚も、引きずらずに門を越えた。

 草の生えた斜面へ上がり、立ち止まる。

 灰色の毛が風に動いた。

 小屋の中にいたときより、少し大きく見えた。

 

「ちゃんと歩けているわね」

 

 お嬢様が言った。

 俺は頷く。狼は低い石を避け、木の根をまたいだ。

 そのまま、枝の陰へ入っていく。

 一度だけ尾が見え、やがてそれも見えなくなった。

 

 誰も追わなかった。

 俺も、呼び止めなかった。

 

「よかったですわね」

 

 奥様のお声に、お嬢様が返事をする。

 俺も遅れて頭を下げた。

 管理人は門を開けたまま、しばらく外の作業をするという。俺は空になった小屋へ戻り、使っていた布をまとめた。

 

 毛布には、灰色の毛がたくさんついていた。

 外で払うと、乾いた草の欠片も落ちてくる。

 水の器を持ち上げかけ、元へ戻した。

 戻ってくるとは限らない。

 だが、片づけるのは夕方でもいいだろう。

 

「ノエル」

 

 お嬢様が、囲いの外に立っていた。

 

「お茶にしましょう。もう用意してくださったわ」

「はい。これだけ済ませてから」

「……その毛布、さっきも払っていなかった?」

 

 俺は手元を見た。

 もう、草は落ちてこなかった。

 畳んで脇へ置き、手を洗ってから、お嬢様についていった。

 

 軒先の卓には、温かいお茶と、小さなパンが並んでいた。

 果実を煮たものが添えられている。お嬢様が、俺の皿へ一匙分けてくださった。

 

「今日も川へ行けるそうよ」

「またですか」

「前は途中で帰ってきたでしょう。今度はお茶を持って」

 

 たしかに、前に出かけたときは、川を見ていた時間より狼のそばにいた時間のほうが長かった。

 俺はパンを手に取った。

 

「お嬢様は、お疲れではありませんか」

「私は大丈夫。あなたは?」

「私も、大丈夫です」

「では、決まりね」

 

 お嬢様は、窓の向こうにいる侍女へ手を振った。

 俺はパンに果実をのせ、一口かじる。

 甘さを確かめていると、お嬢様がそっと尋ねた。

 

「寂しい?」

 

 狼のことだと、すぐに分かった。

 答えるまで、少し間が空いた。

 

「……世話をしに行くつもりで、立ってしまいそうです」

 

 朝と昼、それから夕方。

 ここ何日かは、食事を済ませると薪小屋へ向かっていた。

 お嬢様は笑わなかった。

 

「私はお水を持っていきそう」

 

 俺がお茶を飲み終えて立ち上がると、お嬢様も腰を上げた。

 二人とも薪小屋のほうへ向きかけて、止まる。

 顔を見合わせると、少し笑えた。

 

 昼のあと、川へ出かけた。

 同じ道を、管理人と騎士、侍女と一緒に歩く。

 川岸へ着いたとき、俺は崩れた斜面へ目を向けた。狼が横たわっていた場所には、細い枝が何本か流れ着いていた。

 あのまま残していたら、どうなっていただろう。

 考えかけて、やめた。

 今日は、自分の脚で森へ入っていった。それでよいはずだ。

 

「魚、今日は見えるかしら」

 

 お嬢様の声に、流れへ向き直る。

 俺が布を敷くと、お嬢様は腰を下ろし、今度は指を伸ばさずに待った。

 水の底に、細い影が現れる。

 お嬢様は声を上げず、俺の袖を二度つまんだ。

 頷いて、一緒に見た。

 

 帰りは少し遠回りをした。

 管理人が、牧草地の端に咲く花を見せてくれたのだ。クラウディア様へ送った絵の花とは、葉の形が違う。

 お嬢様が名前を尋ね、侍女が紙へ書き留める。

 俺はその間に、近くの木陰を見た。

 灰色の毛が、葉の間に見えた気がした。

 

 立ち止まると、騎士も止まった。

 お嬢様が、俺の視線の先を見る。

 

「……あの子?」

 

 狼が立っていた。

 離れた木のそばで、鼻を少し上げている。

 俺たちを見ているが、こちらへ走ってくる様子はない。

 首の横に、まだ薄く土の色が残っていた。看病していた狼に間違いなかった。

 

「無事だったのね」

 

 お嬢様が小さく言った。

 俺は手を下げたまま、狼へ声をかける。

 

「これから、山荘へ戻るところだ」

 

 狼の耳が動く。

 それ以上は近づかず、俺はお嬢様の隣へ戻った。

 歩きだすと、木々の間で灰色の身体も動いた。

 追い越さず、離れすぎず、こちらと同じほうへ進んでいる。

 管理人がそれに気づき、口元を緩めた。

 

「まだ、小屋を覚えているようですね」

 

 山荘の裏へ回ると、狼は俺たちより先に門の前へ出ていた。

 門は、まだ開いている。

 こちらを振り返ってから、中へ入った。

 俺は思わず足を速めた。すぐに歩幅を戻したが、お嬢様には見られていた。

 

「ノエル。お水を替えましょう」

「はい」

 

 返事も、少し早くなった。

 

 狼は水を飲み、毛布の匂いを確かめたあと、俺の前へ座った。

 俺がしゃがむと、鼻先が手へ近づく。

 しばらく嗅がれてから、指の下へ、頭が入ってきた。

 触れてもよいのだろうか。

 耳の後ろへそっと指を置くと、目が細くなった。

 

「おかえり」

 

 言ってから、少しおかしくなった。

 帰すつもりで開けた門なのに。

 狼は顎を上げ、もう少し手のほうへ頭を寄せた。

 

「名前、つけないの?」

 

 お嬢様が、そばへしゃがんだ。

 狼がこちらを見る。お嬢様は急いで触れず、俺と同じように待っていた。

 

「狼、と呼ぶのも変でしょう。また来るなら」

「私が決めても、よいのでしょうか」

「ほかに呼んでいる方がいるのかしら」

 

 首輪もない。誰かに飼われている様子も、管理人は見たことがないという。

 本当は呼ばれた名前があるのかもしれないが、この狼に尋ねても答えは返らない。

 俺は毛を撫でる手を止め、顔を見た。

 

「呼んでほしくない名前なら、嫌がってくれ」

 

 お嬢様が、口元へ手を当てた。

 

「そんな決め方なの?」

「気に入るかどうかは、本人にしか分かりませんので」

 

 俺は、世話の合間に考えていた呼び名を口にした。

 

「ヘルヘイム、はどうだ」

 

 狼の耳が立った。

 俺がもう一度呼ぶと、顔が少し持ち上がる。

 

「ヘルヘイム」

 

 鼻先が俺の指へ触れた。

 今度は歯を立てず、軽く押してくるだけだった。

 俺はその額を撫でた。

 

「明日も来るなら、そう呼ぶぞ」

 

 狼は手の下で頭を動かした。

 撫でるのをやめると、今度は俺の手首へ鼻を寄せる。もっと、ということだろうか。

 俺が手を戻すのを見て、お嬢様が笑った。

 

「あなた、もう決めていたのね」

「いくつか、考えてはいました」

「いつから?」

 

 水の器を持って小屋へ入るたび、何と呼べばよいか考えていた。

 けれど、世話をする間だけの名前をつけて、こちらばかり慣れてしまうのもどうかと思っていたのだ。

 

「……昨日より、前です」

 

 お嬢様はそれ以上尋ねず、狼と俺の手を、交互に見ていた。

 

「嫌では、なさそうですね」

「ええ。あなたに呼ばれるのは好きみたい」

 

 お嬢様も、同じ名前を呼んだ。

 狼はそちらへ顔を向ける。差し出された手を嗅ぎ、じっと待った。

 お嬢様の指が、頭へ触れた。

 灰色の毛を一度、二度、撫でる。

 

「……柔らかいところもあるのね」

 

 声が嬉しそうだった。

 狼は逃げなかった。お嬢様が手を戻してから、俺の膝へ顎を乗せた。

 思ったより重い。

 

「私はもういいの?」

 

 お嬢様が尋ねても、動かない。

 俺は笑いをこらえたが、少し漏れた。

 こちらを見たお嬢様も、やがて笑った。

 

 その夜、奥様に名前を決めたことを報告した。

 森へ戻したあと、自分で帰ってきたことも。

 奥様はお聞きになり、管理人にも様子を確かめてから、滞在中は薪小屋を使ってよいとおっしゃった。

 

「王都へ連れて帰るかどうかは、また別のお話ですよ。こちらの都合だけでは決められませんから」

「承知しました」

 

 俺は頭を下げた。

 お嬢様も、今はそれ以上お頼みにならなかった。

 

 寝る前に水を替えに行くと、ヘルヘイムは小屋の外にいた。

 夜の森を見ている。

 俺が近づくと、耳だけがこちらへ動いた。

 

「ヘルヘイム」

 

 顔が向く。

 

「水を置いた。もう、部屋へ戻るからな」

 

 立ち上がった狼が、数歩ついてきた。

 居住する建物へ続く柵の前で止まる。俺が柵を閉めても、向こうへ行こうとはしなかった。

 明かりのついた窓へ近づいてから、振り返った。

 灰色の身体は、まだそこにあった。

 俺が手を振ると、ゆっくり腰を下ろす。

 明日の朝は、あの名前を呼んで、水を持っていこうと思った。

 

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