何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
改めて、第二十六話から第二十八話までを順に投稿いたします。
本日は三話投稿となります。こちらは二話目です。
【挿絵表示】
二章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。
狼が小屋の戸口へ鼻を押しつけたのは、朝の食事を済ませたあとだった。
隙間から外を嗅ぎ、片方の前脚で床を掻く。
俺が水の器を持って入ろうとすると、身体を横へずらして、戸の向こうを覗こうとした。
「外へ行きたいのか」
もう、立つたびに腰を落とすことはない。
囲いの中なら、端から端まで歩けるようになっていた。曲がるときに傷めた脚を気にすることも、昨日はなかった。
俺は空の器を取って、管理人へ声をかけた。
薪小屋の前にある囲いは、狭い。
怪我をした獣を休ませるには都合がよかったが、歩けるようになった狼を、いつまでも閉じ込めておく場所ではなかった。
管理人も同じことを考えていたらしく、森側の門を見た。
「今日あたり、開けてみましょうか」
俺は狼へ目を向ける。
狼は戸口へ戻り、外の風を嗅いでいた。
「まだ、ここで食べていますが」
「森へ戻れるものなら、戻ったほうがよいでしょう。もともと、この山で暮らしていたのですから」
最初に奥様と交わした約束でもある。
傷が治れば、帰すことを考える。
俺は、そのつもりで世話をしてきたはずだった。
「お嬢様にも、お伝えしてきます」
器を洗う場所へ置き、建物へ向かった。
後ろから、床を爪で掻く音がした。
お嬢様は、朝の勉強を終えたところだった。
俺の話を聞くと、本の間から指を抜き、栞を挟まれた。
「今日、帰すのね」
「戻れるか、試してみようということになりました」
「……そう」
窓から、薪小屋の屋根が少しだけ見える。
お嬢様はそちらを見ていたが、すぐに椅子を降りた。
「私も行くわ。お母様に聞いてくる」
お引き止めにはならなかった。
俺は部屋に残り、机の上の本を閉じた。
頁の端に、花びらを挟んだ紙がある。クラウディア様へ送る絵のために、庭師からもらったものだった。
狼の世話をしている間にも、山荘での日々は過ぎている。
帰り支度を始めるまで、もう何日もなかった。
昼前、森へ続く門のそばに集まった。
奥様も、少し離れた長椅子へいらしている。侍女がお嬢様の上着を直し、護衛が林の手前を確認した。
狼を街道へ追い出すのではない。建物の裏にある公爵家の林へ、道を開けるだけだ。
馬屋と台所へ続く柵は閉めたままで、山側の門だけ、管理人が開いた。
狼は、すぐには出なかった。
鼻を動かし、門の柱を嗅ぐ。それから、前脚を一本、外の土へ置いた。
俺は数歩離れて待った。
「行っていい」
狼がこちらを見た。
次の脚が出る。後ろ脚も、引きずらずに門を越えた。
草の生えた斜面へ上がり、立ち止まる。
灰色の毛が風に動いた。
小屋の中にいたときより、少し大きく見えた。
「ちゃんと歩けているわね」
お嬢様が言った。
俺は頷く。狼は低い石を避け、木の根をまたいだ。
そのまま、枝の陰へ入っていく。
一度だけ尾が見え、やがてそれも見えなくなった。
誰も追わなかった。
俺も、呼び止めなかった。
「よかったですわね」
奥様のお声に、お嬢様が返事をする。
俺も遅れて頭を下げた。
管理人は門を開けたまま、しばらく外の作業をするという。俺は空になった小屋へ戻り、使っていた布をまとめた。
毛布には、灰色の毛がたくさんついていた。
外で払うと、乾いた草の欠片も落ちてくる。
水の器を持ち上げかけ、元へ戻した。
戻ってくるとは限らない。
だが、片づけるのは夕方でもいいだろう。
「ノエル」
お嬢様が、囲いの外に立っていた。
「お茶にしましょう。もう用意してくださったわ」
「はい。これだけ済ませてから」
「……その毛布、さっきも払っていなかった?」
俺は手元を見た。
もう、草は落ちてこなかった。
畳んで脇へ置き、手を洗ってから、お嬢様についていった。
軒先の卓には、温かいお茶と、小さなパンが並んでいた。
果実を煮たものが添えられている。お嬢様が、俺の皿へ一匙分けてくださった。
「今日も川へ行けるそうよ」
「またですか」
「前は途中で帰ってきたでしょう。今度はお茶を持って」
たしかに、前に出かけたときは、川を見ていた時間より狼のそばにいた時間のほうが長かった。
俺はパンを手に取った。
「お嬢様は、お疲れではありませんか」
「私は大丈夫。あなたは?」
「私も、大丈夫です」
「では、決まりね」
お嬢様は、窓の向こうにいる侍女へ手を振った。
俺はパンに果実をのせ、一口かじる。
甘さを確かめていると、お嬢様がそっと尋ねた。
「寂しい?」
狼のことだと、すぐに分かった。
答えるまで、少し間が空いた。
「……世話をしに行くつもりで、立ってしまいそうです」
朝と昼、それから夕方。
ここ何日かは、食事を済ませると薪小屋へ向かっていた。
お嬢様は笑わなかった。
「私はお水を持っていきそう」
俺がお茶を飲み終えて立ち上がると、お嬢様も腰を上げた。
二人とも薪小屋のほうへ向きかけて、止まる。
顔を見合わせると、少し笑えた。
昼のあと、川へ出かけた。
同じ道を、管理人と騎士、侍女と一緒に歩く。
川岸へ着いたとき、俺は崩れた斜面へ目を向けた。狼が横たわっていた場所には、細い枝が何本か流れ着いていた。
あのまま残していたら、どうなっていただろう。
考えかけて、やめた。
今日は、自分の脚で森へ入っていった。それでよいはずだ。
「魚、今日は見えるかしら」
お嬢様の声に、流れへ向き直る。
俺が布を敷くと、お嬢様は腰を下ろし、今度は指を伸ばさずに待った。
水の底に、細い影が現れる。
お嬢様は声を上げず、俺の袖を二度つまんだ。
頷いて、一緒に見た。
帰りは少し遠回りをした。
管理人が、牧草地の端に咲く花を見せてくれたのだ。クラウディア様へ送った絵の花とは、葉の形が違う。
お嬢様が名前を尋ね、侍女が紙へ書き留める。
俺はその間に、近くの木陰を見た。
灰色の毛が、葉の間に見えた気がした。
立ち止まると、騎士も止まった。
お嬢様が、俺の視線の先を見る。
「……あの子?」
狼が立っていた。
離れた木のそばで、鼻を少し上げている。
俺たちを見ているが、こちらへ走ってくる様子はない。
首の横に、まだ薄く土の色が残っていた。看病していた狼に間違いなかった。
「無事だったのね」
お嬢様が小さく言った。
俺は手を下げたまま、狼へ声をかける。
「これから、山荘へ戻るところだ」
狼の耳が動く。
それ以上は近づかず、俺はお嬢様の隣へ戻った。
歩きだすと、木々の間で灰色の身体も動いた。
追い越さず、離れすぎず、こちらと同じほうへ進んでいる。
管理人がそれに気づき、口元を緩めた。
「まだ、小屋を覚えているようですね」
山荘の裏へ回ると、狼は俺たちより先に門の前へ出ていた。
門は、まだ開いている。
こちらを振り返ってから、中へ入った。
俺は思わず足を速めた。すぐに歩幅を戻したが、お嬢様には見られていた。
「ノエル。お水を替えましょう」
「はい」
返事も、少し早くなった。
狼は水を飲み、毛布の匂いを確かめたあと、俺の前へ座った。
俺がしゃがむと、鼻先が手へ近づく。
しばらく嗅がれてから、指の下へ、頭が入ってきた。
触れてもよいのだろうか。
耳の後ろへそっと指を置くと、目が細くなった。
「おかえり」
言ってから、少しおかしくなった。
帰すつもりで開けた門なのに。
狼は顎を上げ、もう少し手のほうへ頭を寄せた。
「名前、つけないの?」
お嬢様が、そばへしゃがんだ。
狼がこちらを見る。お嬢様は急いで触れず、俺と同じように待っていた。
「狼、と呼ぶのも変でしょう。また来るなら」
「私が決めても、よいのでしょうか」
「ほかに呼んでいる方がいるのかしら」
首輪もない。誰かに飼われている様子も、管理人は見たことがないという。
本当は呼ばれた名前があるのかもしれないが、この狼に尋ねても答えは返らない。
俺は毛を撫でる手を止め、顔を見た。
「呼んでほしくない名前なら、嫌がってくれ」
お嬢様が、口元へ手を当てた。
「そんな決め方なの?」
「気に入るかどうかは、本人にしか分かりませんので」
俺は、世話の合間に考えていた呼び名を口にした。
「ヘルヘイム、はどうだ」
狼の耳が立った。
俺がもう一度呼ぶと、顔が少し持ち上がる。
「ヘルヘイム」
鼻先が俺の指へ触れた。
今度は歯を立てず、軽く押してくるだけだった。
俺はその額を撫でた。
「明日も来るなら、そう呼ぶぞ」
狼は手の下で頭を動かした。
撫でるのをやめると、今度は俺の手首へ鼻を寄せる。もっと、ということだろうか。
俺が手を戻すのを見て、お嬢様が笑った。
「あなた、もう決めていたのね」
「いくつか、考えてはいました」
「いつから?」
水の器を持って小屋へ入るたび、何と呼べばよいか考えていた。
けれど、世話をする間だけの名前をつけて、こちらばかり慣れてしまうのもどうかと思っていたのだ。
「……昨日より、前です」
お嬢様はそれ以上尋ねず、狼と俺の手を、交互に見ていた。
「嫌では、なさそうですね」
「ええ。あなたに呼ばれるのは好きみたい」
お嬢様も、同じ名前を呼んだ。
狼はそちらへ顔を向ける。差し出された手を嗅ぎ、じっと待った。
お嬢様の指が、頭へ触れた。
灰色の毛を一度、二度、撫でる。
「……柔らかいところもあるのね」
声が嬉しそうだった。
狼は逃げなかった。お嬢様が手を戻してから、俺の膝へ顎を乗せた。
思ったより重い。
「私はもういいの?」
お嬢様が尋ねても、動かない。
俺は笑いをこらえたが、少し漏れた。
こちらを見たお嬢様も、やがて笑った。
その夜、奥様に名前を決めたことを報告した。
森へ戻したあと、自分で帰ってきたことも。
奥様はお聞きになり、管理人にも様子を確かめてから、滞在中は薪小屋を使ってよいとおっしゃった。
「王都へ連れて帰るかどうかは、また別のお話ですよ。こちらの都合だけでは決められませんから」
「承知しました」
俺は頭を下げた。
お嬢様も、今はそれ以上お頼みにならなかった。
寝る前に水を替えに行くと、ヘルヘイムは小屋の外にいた。
夜の森を見ている。
俺が近づくと、耳だけがこちらへ動いた。
「ヘルヘイム」
顔が向く。
「水を置いた。もう、部屋へ戻るからな」
立ち上がった狼が、数歩ついてきた。
居住する建物へ続く柵の前で止まる。俺が柵を閉めても、向こうへ行こうとはしなかった。
明かりのついた窓へ近づいてから、振り返った。
灰色の身体は、まだそこにあった。
俺が手を振ると、ゆっくり腰を下ろす。
明日の朝は、あの名前を呼んで、水を持っていこうと思った。