何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
改めて、第二十六話から第二十八話までを順に投稿いたします。
本日は三話投稿となります。こちらは三話目です。
【挿絵表示】
二章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。
帰りの馬車には、狼は乗っていなかった。
山荘を出る前、ヘルヘイムは俺の荷物を嗅ぎ、車輪のそばまでついてきた。御者が馬を落ち着かせる間、管理人が狼の前に立ってくれた。
馬と狼を、いきなり同じ車列へ入れることはできない。
王都の屋敷に置く場所も、俺が決めてよいものではなかった。
「まずお父様にお話ししましょう」
奥様がおっしゃった。
管理人は、こちらで世話を続けてもよいと請け合ってくれた。森へ出ていくなら無理に引き止めず、戻ってきたら水と食べ物を用意する。それまでと同じ扱いだ。
俺は膝をつき、灰色の頭へ手を置いた。
「少し留守にする。この方の言うことを聞いてくれ」
狼は管理人を見ず、俺の顔を見ていた。
意味が分かったかは知らない。手を離すと、鼻先が掌を追った。
お嬢様が隣にしゃがみ、もう片方の耳の後ろを撫でる。
「いい子でね」
馬車が動きだしてからも、しばらく窓の外を見ていた。
柵の内側に座った狼が小さくなる。見えなくなったところで、お嬢様も窓から顔を離された。
膝の上には、旅先で花を描いた紙があった。
「これも渡さなくては」
「はい。お土産と、一緒に」
山のことを話せる相手が、王都で待っていた。
以前には用意したことのない土産が、鞄の中に二つ入っている。
☆
数日後、クラウディア様がローゼンベルク邸へお見えになった。
青いドレスの袖から覗く手には、封の開いた手紙がある。
お嬢様が山荘から送ったものだった。
「噛まれたって書いてあったわ」
ご挨拶のあと、最初に言われたのがそれだった。
「傷は、すぐに治しました」
「血を流して帰ってこないでと言ったのに」
言った、とお嬢様が横で頷かれる。
こちらには、味方がいないらしい。
俺は掌を上へ向けてお見せした。噛まれた痕も、赤みも残っていない。
クラウディア様はその手を両手で取られた。親指の付け根をそっとなぞり、裏へ返して、今度は指を一本ずつ確かめる。
「ここだったの?」
「はい。ですが、もう痛みもございません」
曲げてお見せすると、クラウディア様は俺の指を支えたまま、掌へ顔を近づけられた。
お嬢様は口を結び、膝の上で指を組み直される。目は、重なった手へ向いていた。
だが、傷のあったところを確かめてくださっている間は、何もおっしゃらなかった。
「本当に何も残っていないのね」
クラウディア様が顔を上げる。
俺も頷こうとして、すぐ目の前にあるお顔を見た。
目が合うと、クラウディア様の動きが止まった。
それから頬が赤くなる。
「……よかったわ」
少し身を引かれたが、手はまだ握られたままだった。
クラウディア様は手元を見下ろし、ようやく指を離された。
頬の赤みを残したまま、卓へ置いた手紙を揃える。
「あの布は使った?」
「はい。助かりました。お薬はまだ、いただいたままです」
「そう」
声が少し柔らかくなった。
使わないで済んだことは、喜んでいただけたらしい。
「手の血を拭うのに使いました。洗ってありますが、こちらは新しいものをお返ししたほうが」
「返さなくていいの。使ってもらうために渡したのよ」
俺が返事をすると、クラウディア様は俺の手をもう一度見た。
「次のは少し厚くしてみるわ」
「厚くすると、何が変わるのでございますか」
「押さえるときに折り畳まなくてもよくなるでしょう。ただ、指へ巻くと使いにくいから」
傷があった場所へ、ご自分の指をそっと重ねられる。
お嬢様が、その手元を見た。
「大きいものと小さいものを分けたらどうかしら」
クラウディア様は指を離し、お嬢様へ向き直った。
「袋の中で見分けられればよいわね」
「結ぶ紐の色を変えれば分かるわ」
「ノエルは暗いところでも使う?」
急に尋ねられ、俺は少し考えた。
「できれば、灯りのあるところへ移ってから使いたいですが」
「そうよね。傷も見えなくなるもの」
クラウディア様は、紐の結び方も違えば手で分かると言った。
お嬢様が机へ腕を置き、ご自分ならどこへ結び目をつけるか示される。
最初は俺の傷のお話だったはずが、二人で袋の形まで考え始めていた。
「この布は私の袋へ入れるのよ」
「でも工房で作るのは私でしょう」
お嬢様とクラウディア様が顔を合わせた。
俺は袋を二つ用意すればよいのではと申し上げかけ、お茶の時間が終わりそうなことに気づいた。
「使い終えましたら、どこが助かったかお伝えいたします」
そう答えると、二人ともこちらを向いた。
「「使う機会がないほうがいいわ」」
声が重なった。
今度は、どちらかが言い直すこともなかった。
クラウディア様は手帳を取り出しかけ、お嬢様の顔を見た。
卓にはお茶が用意されている。
「書いてもいいかしら」
「ええ。お茶の上へ手帳を置かなければ」
お嬢様は空いている場所へ皿を寄せてくださった。
クラウディア様が侍女から筆を受け取り、短く書きつける。
俺は袋を取り出し、卓へ置いた。
山荘の近くで買った、乾燥した薬草だった。
「こちらは管理人に確かめていただきました。お渡しするなら、どこで採れたものかも書いておくようにと」
産地と乾かした日を書いた紙をお見せすると、クラウディア様は先ほどより真剣なお顔になった。
袋を開ける前に、一言尋ねられる。
「ここで匂いを見ても大丈夫?」
「強いものでございますか」
「薬に使うものだけれど、よく乾かしてあれば、それほどではないはずよ」
侍女が小皿を持ってきてくれた。
葉を一枚取り出すと、乾いたものが触れ合う音がした。
クラウディア様は裏へ返し、葉脈を見てから鼻へ近づけた。
「こういうのが欲しかったの。ありがとう」
袋を両手で抱えた顔に、工房で見た笑みが浮かぶ。
学園にいた頃は、こんなふうに笑う方だとは知らなかった。
「私からもあるわ」
お嬢様が花の絵を広げられた。
青紫の花が、紙の片側へ少し寄って描かれている。もう片側には、俺が書いた葉の形と、管理人に教わった名前があった。
「薬になるか聞いたでしょう。ノエルが名前を覚えてきたの」
「この花なら、家の庭にもあるわ。でも、この葉は……」
クラウディア様は紙を見つめた。
お嬢様が、花だけでなく葉も描くように言われたのだと説明される。薬にするなら、花が咲く前の姿も分からなくては困るから、と。
「根は見た?」
「掘ってはいけないと言われたから、そのままよ」
「それなら、今度うちにあるものを見せるわ。鉢に植えたものなら見られるから」
お嬢様が笑って頷かれた。
どちらも途中で相手の話を遮らない。俺は二人のお茶の減り具合を見ながら、皿の位置を少し直した。
「その紙、いただいてもいい?」
「あなたに差し上げるために描いたのよ」
クラウディア様が紙を受け取る。
お嬢様は渡し終えてから、俺の手元を見られた。
「ノエルも次は絵を描いてね」
「私の絵ですと、葉の形が分からなくなるかと」
「前よりは上手になったでしょう」
「船よりは、描く場所が小さいので」
クラウディア様が首を傾げた。
説明を求められ、俺は昔、公爵様の描いた舟へ人を描き足したことをお話しした。
人を大きくしすぎ、荷物を積む場所がなくなってしまったのだ。
お嬢様は、最後には岸にいる人になった、と付け足される。
その隣へご自分も描き足したことは、あまりおっしゃらない。
「私なら乗せるわ」
クラウディア様が言った。
「船を、でございますか」
「あなたを」
「海は風が強いのよ。ノエルは私の隣に乗せるわ」
お嬢様の返事が早かった。
俺はまだ、実際の船旅の話になったのか、絵の話をしているのか分からなかった。
どちらにしても、海へ出るなら船を扱える方に同行していただかなくてはならない。
そう申し上げると、二人ともこちらを見た。
それから、同じようにお茶を飲まれる。
卓には、山で買った木苺の蜜を挟んだ焼き菓子もあった。
クラウディア様が一つ取り、お嬢様も同じものを選ばれた。
山の土産がどちらのお口にも合ったので、俺は少し安心した。
☆
フィオナに土産を渡したのは、その翌日だった。
診療を終えたあとの食堂で、俺は小さな包みを差し出した。
大聖堂での勉強の合間に、南の教会へ手伝いに来ていたらしい。前より字の増えた帳面が、肘の隣にある。
「旅行へ行ったと聞きました。山だったんですね」
「ええ。こちらは、お母様の分もございます」
焼き菓子のほかに、少し日持ちする蜜漬けを入れた。
渡す相手が二人なら、片方だけが食べられないものにならないようにと、店の人が教えてくれたものだ。
フィオナは包みを持ち上げた。
「重い。こんなに?」
「菓子より、瓶の重さでございます」
「母が好きそうです。酸っぱい実も、煮ると食べられるって、いつも言うから」
瓶を光へ透かし、嬉しそうに笑った。
瞳に印は出ていない。ただ、そこにいる人間の顔だった。
俺は机へ紙を一枚置く。蜜漬けを使う量と、開けたあとの保管の仕方を書いたものだった。
フィオナは、一文字ずつ指で追った。
「全部一度に食べるものではないんですね」
「パンへ少し載せると、よいそうです」
「母と試します。お皿に出したほうが取りやすそう」
紙を包みの中へしまい、それから俺へ向き直る。
「旅のお話、聞いてもいいですか」
山荘の庭と、川の小さな魚の話をした。
夜は王都より暗く、星がよく見えたこと。花の名前を、管理人に教わったこと。
狼の話になると、彼女の顔が近づいた。
「怪我をしていたんですか」
「今は、歩けるようになりました」
「人の脚と違うのに、治せたんですね」
感心されたが、俺は首を振った。
「まず血を止めました。あとは、世話をする方に相談して。知らない身体を、人と同じように扱ってよいとは思えませんので」
神術は、何でも勝手に直してくれる道具ではない。
力を使うこちらが見当違いのことをすれば、よい結果になるとは限らなかった。
フィオナは帳面を開く。
「それを書いてもいいですか」
お茶会でも聞いた言葉だった。
俺が頷くと、彼女は筆を取った。狼、という字で少し止まり、こちらを見る。
紙の端へ書いてお見せした。
「名前はあるんですか」
「ヘルヘイム、と」
その下へ、もう一つ書く。
フィオナは見比べながら写した。
「会ってみたいです」
筆を置いてから、付け加えた。
「でも、怖がらせたくないです。会っても大丈夫そうなら教えてください」
俺は少し返事を遅らせた。
以前は、困っている人を見かければ、相手の事情を聞く前に助けようとしていた。
今は狼の話を聞いただけでも、近づいてよいかを気にしている。まだ何も注意していないのに。
一体、今までと何が違ったのだろう。
もしまた戻ることになったら、何をすれば彼女は同じように変わるのか。理由が分からなければ、次もこうなるとは限らない。
そこまで考えて、目の前のフィオナへ視線を戻した。俺の返事を待っている。
今度こそお嬢様を救うつもりでいるのに、また失敗したときのことまで考えていた。
そのための備えをやめることも、まだできなかった。
「そのときは、先生にもお話しします」
「はい」
夕方の鐘が鳴った。
彼女は包みを抱え、食堂の扉で振り返る。
「次は私も何か持ってきますね」
「お返しでしたら、どうぞお気遣いなく」
「でも、食べてもらいたいものがあるんです」
それなら断る理由はない。
俺が頷くと、フィオナは笑って帰っていった。