何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
公爵様は、俺の話を途中で遮らなかった。
山で狼を拾い、治療し、名前までつけた。
そこまでお伝えすると、机の向こうで大きな手が組まれた。
「妻からも聞いた。森へ帰れるようになったのだろう」
「はい。森へ帰したあと、自分で山荘へ戻ってきました」
「今は管理人が世話をしている」
「手紙では、そのように」
膝の上に置いた手へ、少し力が入った。
公爵様は背もたれへ身体を預ける。
「君はどうしたい」
尋ねられることは分かっていた。
それでも、すぐには答えられなかった。
俺の希望を申し上げるだけで、この家にいる方々の仕事が増える。
屋敷には馬もいるし、子供たちも庭へ出る。狼を迎えるために、皆の暮らしまで変えていただくわけにはいかない。
「こちらで、暮らせる場所をいただけるなら。迎えに行きたいと思っております」
公爵様が頷いた。
「その狼は馬を襲わないか」
「確かめては、おりません」
「では、襲わないと決めて扱ってはならないな」
おっしゃるとおりだった。
人に慣れたことと、馬のそばに置けることは違う。
公爵様は執事を呼ばれた。庭の一角と、使っていない道具小屋の場所について尋ねる。
二人の話では、馬屋から離れた道具小屋が使えそうだった。周りに柵を設ければ、庭を行き来する人の通り道とも分けられる。
「まずは囲いを作る。出入りをする人も決める。君が教会へ行っている間も、水は要るだろう」
「はい」
公爵様は俺の隣のお嬢様にも目を向けられた。
「山の獣を連れてくるのだ。人へ向かうようなら、置き方を考え直す。妻にも話してあるが、セレスも一人で世話をしないこと」
「はい。お世話をする人と一緒に行くわ」
お嬢様が頷かれると、公爵様は俺へ視線を戻された。
俺も頷き、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、その狼が落ち着いてからでいい」
それから、公爵様は少し笑われた。
「名をつけたら離れがたくなったか」
それだけではないと思ったが、うまく言えなかった。
傷が治り、森へ帰れるようになっても、あの狼は俺のところへ戻ってきた。
これからも元気でいるか、そばで見ていたかった。
「……はい」
答えると、公爵様はそれ以上お尋ねにならなかった。
☆
迎えに行くのは、俺だけではなかった。
山荘へ荷を届ける馬車に同乗し、帰りに狼を連れてくることになった。騎士と馬の世話をする者も同行する。
お嬢様は屋敷に残られる。
出発の日、玄関で小さな包みを渡された。
「布よ。中へ敷いてあげて」
包みを開くと、狼が顎を置いていた毛布の切れ端が入っていた。山から持ち帰り、洗ってくださったらしい。
「お嬢様からだと、お伝えします」
「まず顔を見せてあげて。急に箱へ入れないでね」
「はい」
お嬢様は俺の襟を一度直し、手を戻された。
「あなたも帰ってきてね」
旅行の前より、声が静かだった。
俺はご心配をかけないよう気をつけると申し上げた。
狼を連れて帰るための道具は、もう馬車に積まれている。
その中に、俺の身体では持ち上げられない木の枠もあった。
山荘へ着くと、管理人が門へ出てきた。
俺を見るなり、後ろを振り返る。
「あちらにおりますよ」
薪小屋の前で、灰色の狼が立ち上がった。こちらへ耳を向けて数歩進むと、小走りに近づいてくる。
「ヘルヘイム」
呼ぶと、俺の前で止まった。
鼻先が腹へ当たる。服を嗅ぎ、手を嗅ぎ、最後に顔を見上げた。
俺が頭を撫でると、掌へ頭を預けてきた。
「留守にして悪かった」
管理人が笑った。
「よく森へ出ていましたが、夕方には戻ってきました。馬車の音がすると、柵まで見に行くこともあって」
俺は狼の横へしゃがんだ。
後ろ脚に血の固まりはなく、庇うような歩き方もしていなかった。
管理人は食べた量を記した紙を出してくれた。
「ありがとうございました」
「私も、ずいぶん顔を覚えてもらいました」
管理人が手を差し出すと、狼は鼻で触れた。
留守の間に、管理人にも懐いていたらしい。
その様子が、少し嬉しかった。
運ぶための箱は、昼のうちに小屋の前へ置いた。
格子のある丈夫なもので、横になっても身体がつかえない。扉は開けたままにし、中へお嬢様の布を敷いた。
狼は、しばらく外から嗅いでいた。
俺が入口の横へ座ると、隣へ来る。
「ここで運ぶ。馬車が揺れるからな」
言っても、入らない。
肉を置けば入るのではないかと騎士が尋ねたが、管理人は先に水を替えた。
狼は飲み終え、箱の中を覗く。前脚を一本入れ、すぐ戻した。
扉には触れず、狼が自分から入るのを待った。
日が傾く頃、ヘルヘイムはようやく布の上へ乗った。
一周して座り、俺を見る。
扉を少し動かすと耳が立ったので、そこで止めた。
扉を閉じても落ち着いていられるか、箱ごと持ち上げても嫌がらないかは、翌朝確かめることにした。
迎えに来たのだから、早く連れて帰りたい気持ちはあった。
だが、無理に押し込めば、今度は俺が手を伸ばすだけで逃げるかもしれない。
その夜は箱の扉を開けておいた。
狼が中で眠り始めるまで、俺は管理人と小屋の外で話をした。
翌朝、管理人が箱の中の水を替えてくれた。
狼が飲み終わるのを待ち、俺は扉を閉じる。すぐにこちらを振り向いたが、名前を呼ぶと立てていた耳が緩んだ。
すぐに開け直す。
ヘルヘイムは外へ出ず、布の上で座り直した。
次に、箱を少しだけ持ち上げてもらった。
底が浮くと狼は立ち上がり、格子へ鼻を押しつけかけた。俺が箱の横へしゃがんで声をかけると、こちらを見て鼻先を引っ込める。
運ぶのは同行した大人たちに任せ、俺は狼のそばについていた。
「積むときも、この向きでお願いします」
馬車に乗る俺の席から、顔が見えるようにしていただく。
箱を載せ終え、管理人へ頭を下げた。
管理人は俺へ答えたあと、格子の前で腰をかがめる。
「向こうでも、ちゃんと食べるんだぞ」
ヘルヘイムが鼻を動かした。
世話の記録を鞄にしまった。王都で世話をする者にも渡しておこう。
☆
王都までの道では、何度も停まった。
馬の休憩とは別に、狼へ水をやり、布が濡れていないか確かめる。
箱のそばには馬を近づけず、泊まる場所も先に決めてあった。
俺は箱の格子から顔が見える場所に座った。狼が鼻先を動かし、こちらの匂いを嗅いでいる。
急に大きな音がすれば立ち上がる。俺は手を格子へ入れず、名前を呼んだ。
「もう少しだ。着いたら、水を替える」
狼は顔を向けた。
通じる言葉がいくつあるのか、分からない。
ただ、何度か声をかけると、張っていた脚の力が緩んだ。
俺が声をかけると落ち着く様子を、馬の世話をする者も休憩のたびに見ていた。
公爵邸の裏門に着いたとき、お嬢様はもう待っていらした。
奥様の隣で、箱の中を見つめられる。
扉を開ける前に、庭へ続く柵が閉まっていることを確かめた。
騎士が箱を地面へ下ろす。
「ヘルヘイム」
お嬢様の声で、狼が立ち上がった。
扉が開いても、すぐには出てこない。土を嗅ぎ、見慣れない小屋を見て、それから俺の靴へ鼻を寄せた。
俺が一歩退くと、狼も外へ出た。
お嬢様は駆け寄られなかった。
旅先で教わったとおり、手を低く置いて待たれる。
狼が近づき、その指を嗅いだ。
「お帰りなさい」
ここへ来るのは、初めてだ。
けれど、お嬢様はそうおっしゃった。
その言葉に、俺も少しほっとした。
新しい小屋には、水の器と、洗った毛布が用意されていた。
大人が立って入れる高さがあり、馬屋や厨房から荷を運ぶ通路とも離れていた。
狼は周囲を嗅いでから、小屋の入口へ座った。
落ち着いたところで、世話を手伝う者が近づく。
まず名前を呼び、俺の隣に立っていただいた。
狼が嫌がらなければ、少しずつ顔を覚えてもらう。
「世話をする者がいないときは、囲いに入らないよう皆に伝えておきます」
執事が言った。
囲いの外へ、世話に入る者の名を書いた板が掛けられた。
俺の名もある。教会へ出る日は別の者に頼み、帰ってから食べた量を確かめることにした。
夕方、公爵様も裏庭へいらした。
狼は立ち上がったが、吠えなかった。
「思っていたより大きいな」
「まだ若いようです。もう少し、大きくなるかもしれません」
管理人の手紙をお見せした。
公爵様は読み終えると、俺へ返された。
「では、君ももう少し大きくならなくては。散歩で引かれて転んでは困る」
お嬢様が俺の隣で笑われた。
丈夫な紐も用意してあったが、散歩はまだ先だ。まずは首輪を見せ、首に当てても嫌がらないか確かめなくてはならない。
俺は頭を下げ、急がず慣らすと申し上げた。
厨房から夕方の肉が届いた。
器を持ってきた者が入口で止まり、置く場所を俺へ尋ねる。
管理人の記録を見せると、朝と夜で量を分けるのですね、と頷いた。
「今夜は、私が置いてみてもよろしいですか」
狼はその声を聞いている。
俺はお嬢様と少し離れ、器を置くところを見ていた。近づく足音で耳が動いたが、歯は見せなかった。
人が退いてから、ヘルヘイムが立つ。
食べ始めたのを見て、器を運んだ者も息を吐いた。
「覚えてもらえそうですね」
俺は頷いた。
俺がいなければ食事も取れないままでは、この家で暮らし続けられない。
新しい世話係からも食事を受け取ったことを、記録に書き足した。
公爵様が戻られたあと、お嬢様は小屋の前に敷いた布へ座られた。
狼はその足元に伏せる。
俺は水の器を替え、布の端へ腰を下ろした。
「山より音が多いわね」
通りを走る馬車の音がする。
小屋の屋根へ鳥が降り、向こうの庭で誰かが枝を切っていた。
狼の耳は、そのたびに別の方向へ動く。
「少しずつ、慣れてくれれば」
「あなたも最初は屋敷の音を聞いていた?」
俺は頷いた。
何がどこから聞こえるかを覚えることは、夜に動くためにも必要だった。
だが、それだけをお伝えするのは、お嬢様のご質問とは違う気がした。
「孤児院とは、随分違いました」
「今は?」
廊下を歩く靴の音で、誰が来たか分かることもある。
いつ食事が運ばれ、いつ窓が閉められるかも知っている。
俺は小屋を見てから、お嬢様へ答えた。
「帰ってきたと、分かる音になりました」
お嬢様は何も言わず、狼の頭を撫でられた。
しばらくして、俺の手もその隣へ置く。
ヘルヘイムが、二人の手の下で目を閉じた。