何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~   作:名もなきそば付き

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一章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。


第三話♡一回目――最初のご主人様

「あなた、私の家来になるの?」

 

 初めてお会いしたお嬢様は、椅子の上に膝をついていた。

 

 奥様に名前を呼ばれると、慌てて座り直す。

 けれど、こちらを見つめる目の輝きは変わらなかった。

 

「はい。本日から、おそばに置いていただきます」

 

「私だけの?」

 

 困って、隣の神官様を見た。

 うなずかれたので、もう一度、はいと答えた。

 

 お嬢様は椅子から飛び降りた。

 

「では、いらっしゃい。見せてあげたいものがあるの」

 

「セレスティア。まだお話の途中ですよ」

 

「歩きながらでもできるわ」

 

 奥様のお返事を待たず、小さな手が袖をつかんだ。

 神官服の裾を踏まないようにするだけで精いっぱいで、私は慌ててついていった。

 

 廊下を曲がると、すぐに走りだす。

 

「あの、お嬢様」

 

「早く。お茶の前に見せたいのよ」

 

 連れていかれたのは、庭の隅だった。

 植え込みの陰に、細い枝が何本も集めてある。

 

「小鳥のおうち」

 

 お嬢様は胸を張った。

 

 枝を重ねただけだった。

 屋根にしたらしい葉が、風で一枚飛んでいく。

 

「どう?」

 

「……入り口は、どちらでしょう」

 

 お嬢様は枝の山を見た。

 

 しばらくして、一番上の枝を取り除いた。

 

「ここ」

 

「雨が入ってしまいませんか」

 

 今度は、私を見た。

 

「それを考えるのが、あなたのお仕事でしょう」

 

 なるほど。

 家来というのは、そういうものらしい。

 

 私は地面に膝をつき、倒れそうな枝を押さえた。

 

     ♡

 

 孤児院にいた頃、神官様が来る日は、皆が少しそわそわした。

 咳の長引く子や、膝をすりむいた子が順番に並ぶ。

 

 私も、その列に並んだことがある。

 傷がふさがるのが不思議で、祈りの言葉を何度もまねした。

 

 ある日、同じことができた。

 

 それから教会へ移り、文字と計算を教わった。

 神術だけでなく、帳面をつける手際も褒めてもらえた。

 

 嬉しかった。

 役に立てば、ここにいていいのだと思えた。

 

 もちろん、働かない子を孤児院から追い出す人などいなかった。

 それでも、誰かが忙しそうにしていると、座っているのが落ち着かなかった。

 

 公爵家へ行くと決まったときにも、同じことを考えた。

 

 失敗しないようにしよう。

 何でも、早く覚えよう。

 

 お嬢様が学園へ入る、五年前のことだった。

 

 任されたのは、日々の体調を見ることと、勉強のお手伝い。それから、遊び相手だった。

 お嬢様がお使いになる文具や本の帳面もつけた。

 

 初めのうちは、それだけだった。

 

 けれど、字が読めるならと書類を渡され、計算ができるならと数字の確認を頼まれた。

 誰かに悪気があったわけではない。

 私が、そのたびに引き受けていたのだ。

 

 ある午後、お嬢様が部屋へ入ってきた。

 

「お庭へ行くわよ」

 

「申し訳ありません。これが終わりましたら」

 

 帳面から顔を上げずに答えた。

 

 返事がない。

 

 代わりに、紙が持ち上がった。

 筆先が空を切り、書きかけの数字から細い線が伸びた。

 

「これは誰のお仕事?」

 

「倉庫の品数を確かめるもので」

 

「誰の、と聞いているの」

 

 名前を答えると、お嬢様は帳面を抱え、そのまま廊下へ出た。

 追いかけた先で、ちょうど執事長と出くわした。

 

「これを返しておいてちょうだい」

 

 真っ白な髪の執事長が、帳面と私を交互に見る。

 

「お嬢様。何か不備がございましたか」

 

「まだできていないわ」

 

「でしたら」

 

「ノエルは私の遊び相手なの。私と遊ぶ時間がなくなるほど、お仕事を頼んでは駄目でしょう」

 

 執事長は、少し目を丸くした。

 やがて、私の指先に残るインクへ目を留めた。

 

「承知いたしました。こちらは私から話しておきましょう」

 

 叱られると思っていた。

 そうではなかったらしい。

 

 お嬢様は、また私の袖をつかんだ。

 

 庭へ出ると、お茶の支度ができていた。

 椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。

 

「座って」

 

「私は、こちらで」

 

 後ろへ下がろうとすると、袖がぴんと張った。

 

「座ってと言ったのよ」

 

 おそるおそる腰を下ろす。

 お嬢様は菓子皿を引き寄せ、焼き菓子を二枚、私の前へ置いた。

 

「それを食べたら、お話を読んでちょうだい」

 

「はい。すぐに」

 

「食べてから」

 

 伸ばしかけた手を、本から戻した。

 

 菓子は、まだ少し温かかった。

 噛むと甘く、指に細かな粉がついた。

 

 お嬢様は何も急かさなかった。

 自分の菓子をかじりながら、花壇へ来た鳥を眺めていた。

 

 こうして座っているだけでよいのだろうか。

 

 何度もそう思った。

 けれど、隣に置かれた本へ手を伸ばすたび、お嬢様に見つかってしまった。

 

 その日は、菓子を二枚とも食べ終わるまで、仕事をしなかった。

 

     ♡

 

 お嬢様は、わがままだった。

 

 雨が降れば庭へ出たいと言い、晴れれば暑いと文句を言った。

 勉強を嫌がって隠れたくせに、私が別の仕事を始めると、探すのをやめたと怒った。

 

 それでも、嫌だと思ったことはなかった。

 

 私が風邪をひいた日は、お見舞いの果物を抱えてきた。

 食べきれないと伝えると、早く治って食べればいいと言った。

 

 だんだんと、庭を走ることは減った。

 食卓で好き嫌いを言わなくなり、侍女に言いすぎたあとには、気まずそうに謝るようになった。

 

 学園へ上がる頃には、姿勢を崩さず長い挨拶を聞けるようになっていた。

 

 同じ方なのだと分かるのは、二人でお茶を飲むときくらいだった。

 

「ノエル。その本は、お茶が済んでから」

 

「はい」

 

 返事をすると、お嬢様は満足そうに笑う。

 

 私は、この時間が好きだった。

 

 だから、学園へもそば付きとして同行すると決まったときには、ほっとした。

 離れずに済む。

 またお茶を淹れて、本を運んで、少しのお小言をいただける。

 

 そんな日々が続くものだと思っていた。

 

     ♡

 

「そのように、殿下のお手を取るものではありません」

 

 お嬢様の声で、私は顔を上げた。

 

 学園の中庭だった。

 第二王子殿下の隣に、見慣れない制服姿の娘が立っていた。

 

 フィオナ。

 光の魔法を使う、平民出身の聖女候補。

 

「でも、お怪我をされていて」

 

「治療をなさるのなら、そうお断りしてからです。殿下にも、周囲にも分かるように」

 

 娘は、つないでいた手を見た。

 殿下が先に口を開いた。

 

「私がよいと言っている。そこまで責めることではないだろう」

 

「責めているのではございません。今後、お困りにならないようにと」

 

「ありがとう、セレスティア様。気をつけます」

 

 娘は笑った。

 殿下の手を、もう一度両手で包みながら。

 

 お嬢様の唇が、きゅっと結ばれた。

 

 似たようなことが、何度もあった。

 

 廊下で遠くの殿下を呼び止める。

 婚約者のいる子息と、二人で出かけようとする。

 

 そのたびに、理由はあった。

 疲れた顔をしていた。相談があると言われた。困っているように見えた。

 

 一度、書庫で二人きりになったとき、私も尋ねてみた。

 

「先に周りの方へ伝えてからでは、いけませんか」

 

「そうしたほうがいいのは、分かっているんです」

 

 フィオナは、借りた本を胸に抱いた。

 

「でも、今にも泣きそうな人がいると、待っていられなくて。母にも、困っている人を助けなさいって、ずっと言われていたから」

 

 嘘をついているようには見えなかった。

 

 彼女を慕う人は増えていった。

 剣の稽古で失敗した騎士団長のご子息も、人前で弱音を吐かない宰相のご子息も、彼女の前ではよく笑った。

 

 そして、そのご子息たちは、お嬢様にだけ冷たい顔を向けるようになっていった。

 

 けれど、令嬢たちの多くは、お嬢様の言葉にうなずいていた。

 

 お嬢様の指摘は、どれも至極まっとうなものだった。

 王族への礼を守ること。婚約者のいる相手との距離をわきまえること。

 貴族として育つ中で、皆が繰り返し教わってきたことばかりだ。

 

 だから、お嬢様に冷たい顔を向ける令嬢は少なかった。

 自分の婚約者がフィオナと親しくしている姿を見て、困っている人もいた。

 

 まして、お嬢様を慕う令嬢たちが、正しい注意をした方だけが悪者にされるのを、面白く思うはずもなかった。

 

 そのうちの一部が、陰で行動を起こした。

 

 教本がなくなった。

 制服が汚された。

 やがて、フィオナが階段で突き飛ばされたという話が広まった。

 

 お嬢様は、令嬢たちを集めた。

 

「私のためだというのなら、今すぐおやめなさい」

 

 低い声だった。

 

「そのようなことを望んだ覚えはありません」

 

 誰も、顔を上げなかった。

 

 私は後ろに立っていた。

 その言葉を聞いていた。

 

 だから、説明すれば分かってもらえると思った。

 

     ♡

 

 年が明けた学園の舞踏会で、音楽が止まった。

 

「セレスティア・フォン・ローゼンベルク。君との婚約を破棄する」

 

 殿下の声は、広間の隅まで届いた。

 

 お嬢様は、殿下を見つめたまま立っていた。

 周囲の人が一歩ずつ退き、そこだけが空いた。

 

 私は控えていた壁際から歩き出した。

 

 教本を隠したこと。

 衣服を傷つけたこと。

 階段から突き落とそうとしたこと。

 

 殿下が読み上げる行いには、お嬢様の身に覚えのないものばかりだった。

 

「私が命じたという証拠はございますか」

 

「君を慕う者たちがしたことだ。君だけが知らなかったと言うのか」

 

「ですから、やめるようにと申しつけました」

 

 お嬢様が私を見た。

 ほんの一瞬だった。

 

「私も、その場におりました」

 

 前へ出ようとした腕を、近くの生徒につかまれた。

 

「従者は下がれ」

 

「ですが、お嬢様は」

 

「主人をかばう者の言葉を、証言として聞けというのか」

 

 何を言えばよいのか、分からなくなった。

 

 かばいたいのは本当だった。

 けれど、嘘ではない。

 私は、聞いたことを話しているだけだ。

 

 殿下の隣にいたフィオナが、何か言いかけた。

 騎士団長のご子息に肩を支えられ、言葉が途切れた。

 

 お嬢様は、背筋を伸ばしていた。

 

「父を通じ、改めてお話をさせていただきます」

 

 それだけ言って、頭を下げた。

 退出する背中へ、誰も道を譲ろうとしなかった。

 

 私は腕を振りほどき、お嬢様の前へ出た。

 人の間に身体を入れ、扉までの道を作った。

 

 外へ出ると、頬が冷えた。

 

「馬車を呼んでまいります」

 

「ここにいて」

 

 小さな声に、足が止まった。

 

「……少しだけ」

 

「はい」

 

 お嬢様は私の袖をつかんでいた。

 その手が、震えていた。

 

     ♡

 

 馬車は、すぐには来なかった。

 

 御者への伝言を使用人に頼み、私たちは迎えを待った。

 広間からは見えない、玄関脇の回廊だった。

 

 靴音がした。

 

 フィオナとよく一緒にいた、ご子息の一人だった。

 父親は、王家の暗殺部隊を率いる人物だと聞いていた。けれど、その息子が普段何をしているかまでは知らなかった。

 姿を見せるまで、近づいていることに気づかなかった。

 

「お迎えですか」

 

 そう尋ねた私に、彼は答えなかった。

 

 手が動いた。

 

 お嬢様が、私の袖を離した。

 

 崩れた身体を抱き留める。

 何が起きたのか、まだ分かっていなかった。

 

 ただ、手が濡れた。

 

「お嬢様?」

 

 返事がない。

 

 祈りの言葉を唱えた。

 傷へ手を当てた。

 

 いつもなら、温かくなる。

 傷がふさがる。

 

 光は灯った。

 それなのに、お嬢様は目を開けなかった。

 

「公爵家に戻られては、面倒になる」

 

 頭の上で、声がした。

 

 顔を上げると、短い刃が見えた。

 その持ち主は、眉ひとつ動かしていなかった。

 

 私たちが何をしたというのだろう。

 

 お嬢様は帰ろうとしただけだ。

 父に話すと、そう言っただけだ。

 

 腕の中で、指が動いた。

 私の服を探すように、わずかに持ち上がった。

 

 握った。

 両手で包んだ。

 

 お茶を飲みましょう。

 お部屋へ戻って。

 お好きなお菓子も、用意しますから。

 

 唇は動いたはずだった。

 声になったかは、分からなかった。

 

 指から、力が抜けた。

 

 祈りを続けた。

 何度も、お名前を呼んだ。

 

 いつまで待っても、叱ってはくださらなかった。

 

 足音が、近づく。

 

 私はお嬢様を横たえた。

 冷たい石に直接触れないよう、膝にかけていた外套を敷いた。

 

 それから、立った。

 

 人の身に神を降ろしてはならない。

 

 教会で、繰り返し念を押されていた。

 

 神との親和性が高いあなたは、その身に神を降ろせてしまうかもしれない。

 けれど、呼び寄せられることと、その力に耐えられることは違う。

 器は耐えられず、力を借りた代償に壊れるのだと。

 

 構わなかった。

 

 いつもと同じように、指を組んだ。

 今日の食事にも、無事に過ごせた一日にも、感謝できなかった。

 

 たった一つだけ、願った。

 

「神よ。この人を、許さないでください。私の全てを捧げます」

 

 紫色の、神々しい光が指の間からあふれた。

 視界の端で、頬にかかった髪にも同じ紫の輝きが宿っていた。

 

 初めて、相手の顔が変わった。

 逃げようとした肩へ、手を伸ばした。

 

 刃が身体に入った。

 それでも、手は届いた。

 

 つかんだ服を、離さなかった。

 もう片方の手で、相手の顔をつかんだ。

 

 何かが砕ける音がした。

 相手のものなのか、自分のものなのかも分からなかった。

 

 膝が落ちる。

 伏せた顔の向こうに、お嬢様の手が見えた。

 

 もう少しだった。

 ほんの少し、指を伸ばせば。

 

 私は、そこまで這っていけなかった。

 

     ♡

 

 誰かの泣く声で、目が覚めた。

 

 見知らぬ天井だった。

 いや、違う。

 

 古い染み。

 その間を走る、細い亀裂。

 

 覚えている。

 ずっと昔、毎朝見上げていた。

 

 起き上がろうとして、布団の中でもがいた。

 腕が短い。

 手も、小さい。

 

 傷がない。

 服にも、血がついていない。

 

「……お嬢様」

 

 幼い声が出た。

 

 扉が開いた。

 修道女が顔を出し、私を見て笑った。

 

「もう起きたの? 今日は早いのね」

 

 知っている人だった。

 神官の素質があると分かり、教会に引き取られる日、いつもより大きなパンを持たせてくれた人。

 

 私は手を伸ばした。

 

「ローゼンベルク、家の」

 

「難しい言葉を覚えたのね。誰に聞いたの?」

 

「お嬢様は」

 

 修道女は困ったように眉を下げ、寝台のそばへ来た。

 泣いていると思われたのかもしれない。

 

 抱き上げられて、窓の外が見えた。

 

 庭の木が、小さかった。

 食堂の横にあった物置も、まだなかった。

 

 私は修道女の服を握った。

 何度も指を動かし、手の大きさを確かめた。

 

 夢なら、覚めないでほしい。

 

 もし、本当に戻ったのなら。

 

 また、お会いできる。

 

 私の名前を呼んで、袖を引いてくださる。

 食べ終わるまで待っていてくださる。

 

 あの方は、まだ生きている。

 

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