何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
冬のあいだに、ヘルヘイムは少し大きくなった。
俺たちも九歳になった。
朝の勉強で使う椅子も替わった。机の奥に置いた紙へも、以前ほど身を乗り出さずに手が届く。
狼の水を替えて戻る頃には、お嬢様がもう教本を開いていらした。
「今日は歴史の続きでしょう」
「はい。先生が、地図も使うと」
机には、海と川を描いた紙がある。
港の名前を確かめていると、廊下で足音が停まった。
執事が奥様へ、王城から届いた招待状のことを話していた。
聞くつもりはなかったが、第二王子の殿下のお名前が耳へ入った。
俺は筆を止めた。
お嬢様も顔を上げられる。
「どうしたの?」
「いえ。お迎えの時刻が、変わるのでしょうか」
口にしてから、何のお迎えかも聞いていないことに気づいた。
お嬢様は不思議そうに俺を見たが、先生がいらしたので、それ以上はお尋ねにならなかった。
先生が地図の川を指した。
川を上る船に何を積むか、海から来た荷をどこで分けるか。
お嬢様は前に習ったことを使い、答えを出された。
俺も答えながら、招待状のことを考えていた。
以前の周なら、今頃にはお嬢様と第二王子の婚約が決まっていたはずだ。
何度も同じ日に決まったとまでは覚えていない。だが、俺が屋敷へ来たばかりの頃から、殿下へ差し上げる手紙や、贈り物の相談があった。
少なくとも、九歳の春を迎える頃には、家の中で婚約者として扱われていた。
今回は、そんな話を聞かない。
王城の舞踏会でも、お嬢様は殿下と長く話したがらなかった。
そのあとは俺と踊り、旅先では川や花の絵を楽しんでいらした。
お手紙を書く相手にクラウディア様が増えたのに、殿下へ何かを用意する姿は、一度も見ていない。
「ノエル。その荷は、どこへ届きますか」
先生に呼ばれ、俺は紙を見る。
川の支流へ指を置いたままだった。
「……こちらの町へ、先に分けられるかと」
「ええ。王都だけへ集めればよいわけではありませんね」
授業は続いた。
俺は筆を持ち直し、先生の説明へ意識を戻した。
☆
お嬢様が奥様のお部屋へ行かれたあと、俺は執事にお尋ねした。
王城へ伺う予定があるのかと。
執事は手にしていた書類を揃えてから答えた。
「来月の集まりですね。お嬢様も、ご両親とお出かけになります」
「殿下と、お会いになるのでございますか」
「ご挨拶の機会はあるでしょう」
それ以上の説明はなかった。
俺はお礼を言いかけ、少し迷った。
婚約のお話でございますか、と尋ねてよい立場なのだろうか。
そば付きなら知っておくべきことではある。だが、話が進んでいるのなら、俺へ知らせる時期も決めていらっしゃるはずだ。
「何か気になることが?」
執事が尋ねた。
俺は言葉を選び、殿下へ差し上げるものを用意するのかと聞いた。
それなら、お嬢様のご予定にも関わる。
「今のところ、そのお申しつけはありません。必要になれば、お伝えします」
教会へ行く時刻だった。
俺はそれ以上お引き止めせず、頭を下げた。
診療室では、怪我をした職人が順番を待っていた。
手を挟んだと聞いていたが、傷は指だけではなかった。腕へ上がる腫れを見て、先生が先に座らせる。
俺は水と清潔な布を用意した。
治療の間、職人は仕事場へ伝言を頼みたいと言った。
先生は使いを呼び、伝言の宛先を職人に尋ねた。
「いつもの方なら分かります」
職人はそう言ったが、先生は名前を聞き直した。
俺は伝言の宛先と内容を帳面に書き留め、使いへ渡した。
先生がこちらを見る。
「ノエル。腕も診てあげてください」
「はい」
力を使うと、職人が俺の目を見た。
もう診療室へ何度か来ている方だったので、驚きは短かった。
治療を終え、指を曲げ伸ばししても痛まないか確かめた。仕事へ戻っても、今日は重いものを持たないようお伝えする。
仕事へ戻るための話をしているうちに、王城の招待状は頭から離れた。
帰る前に、先生に頼まれた書類を奥の部屋へ届けた。
奥の部屋では、大聖堂へ移る見習いの荷物がまとめられていた。
書類には、見習いがこれまでに受けた指導の内容が記されていた。
今周は、屋敷へ来た時期が違う。
クラウディア様を助け、フィオナにも以前より早く会っている。
それでも、お嬢様の婚約の話だけは、同じものとして扱っていた。
俺は馬車に乗ってから、今日まだ聞いていないことを考えた。
☆
屋敷へ戻ると、奥様が居間にいらした。
お嬢様は刺繍を教わるため、別の部屋へ行っている。
俺はご挨拶をし、少しお時間をいただけるか尋ねた。
奥様が椅子を示される。
「王城のお話?」
執事からお聞きになっていたらしい。
俺は座り、殿下へ贈り物を用意するのか尋ねたことをお伝えした。
「セレスティアへ聞いてもよかったでしょう」
「はい。ただ、まだお伝えいただく前のことでしたら」
奥様は俺の顔を見て、それから卓の上の封筒へ目を移された。
「あの子と殿下の婚約のことを気にしているのね」
俺は頷いた。
何度も見た未来のことだとは言えない。
お嬢様が殿下と踊るものだと考えていた、とだけ申し上げた。
「婚約はしていませんよ」
はっきりしたお返事だった。
俺は一瞬、続きを待った。
今はまだ、という言葉は足されなかった。
「あの子は望まなかったの。お父様にも、自分で話しました」
王城へ行けば殿下へご挨拶をすることもあるが、両家で婚約の話を進めてはいないという。
「失礼なことを、申し上げたのでしょうか」
思わず尋ねていた。
俺の覚えているお嬢様なら、ご自分から殿下との結婚を望んでいた。
殿下へのお気持ちが変わるほどのことを、何か言ってしまわれたのではないか。
奥様は首を振られた。
「そういうお話ではないわ。お会いするからといって、好きにならなければいけない決まりもないでしょう」
「それに、私たちは王家との縁を積極的に求めているわけではありません。あの子が望まないのなら、無理に婚約を進めるつもりはないの。お父様も同じお考えよ」
それはそうだった。
お嬢様が殿下を好いていることまで、毎回同じだと決めつける理由はない。
この人生では、違うものを好きになられたのかもしれない。
「あの子も、これからいろいろな方と知り合います。そのうえで考えればよいと、お父様もおっしゃっているわ」
奥様は封筒を卓の端へ寄せられた。
「今度の集まりには行きたいそうよ。殿下以外にもお会いする方はいるし、ローゼンベルクの娘としてご挨拶をする機会も大切ですから」
王城へ行くことと、殿下との婚約は別なのだ。
俺は卓の封筒へ目を落とした。中身も知らず、殿下のお名前を聞いただけで婚約に結びつけていた。
「あの子が誰かとお話しするとき、あなたもいつもそばにいるでしょう」
「はい」
「好きかもしれないと思ったからと、気を回しすぎないでね。友達になりたいだけかもしれないわ」
思い当たることがあり、返事が少し遅れた。
昔のお嬢様が殿下を見れば、ご一緒できるよう席を空けていた。
今回も同じことをすれば、望んでいない相手の隣へ俺が送り出してしまう。
「ご本人のお話を、伺うようにいたします」
奥様は頷き、招待状を開かれた。
集まりには親子で来る方が多く、庭も使うと書かれているそうだ。
お嬢様には、同じ年頃の方と話す機会もあるのだろう。
俺は同行する者の控える場所を尋ねた。奥様はその点はまだ分からないとお答えになり、執事へ確かめるよう頼まれる。
「帰る時刻は一緒に決めればよいでしょう。あの子が疲れたかどうかは、あなたのほうが分かるから」
俺は帳面を開き、同行する者の控える場所を確かめるよう、集まりの予定の隣へ印をつけた。
奥様はその手元を見て、今から全部書かなくても大丈夫ですよ、と笑われた。
俺は頷いた。
安心すべき話なのだと思った。
婚約者のいる殿下へ聖女が近づくことも、それをお嬢様が咎めることも、同じ形では起こらない。
過去を知っているから防げることはある。だが、今は存在しない婚約のために動けば、かえってお嬢様を困らせる。
「お教えいただき、ありがとうございます」
「本人からも聞いてあげて。あなたにどう思われるか、気にしているかもしれませんから」
奥様はそうおっしゃった。
俺はご心配には及びませんと答えたが、何が心配なのかまでは分からなかった。
☆
お嬢様は、居間へ戻ると俺の顔を見られた。
奥様は先に席を外されている。
俺が立つ前に、お嬢様が隣の椅子へ座られた。
「お母様と何のお話だったの?」
俺は、殿下との婚約はしていないと伺ったことも、お嬢様が望まれなかったと聞いたことも、隠さずお伝えした。
お嬢様の指が、椅子の肘掛けから離れた。
「ええ。したくないと言ったわ」
「ただ、次の集まりにはお出かけになると」
「ええ。クラウディアも来るそうだから。庭に花が咲いたときだけ開ける場所があるんですって」
お嬢様は、何の花なのかを調べていらしたらしい。
俺が知らないうちに、王城へ行く楽しみを別に見つけていた。
殿下にお会いしなければ退屈されるのでは、と尋ねるつもりだった言葉を、俺は飲み込んだ。
お嬢様は花のお話を終えると、こちらを見つめられた。
俺が何かを申し上げるのを待っていらした。
「お嬢様のお望みが通って、何よりです」
お嬢様の口元が少し緩んだ。
だが、まだ何かお尋ねになりたそうだったので、俺は続きを待った。
「殿下と結婚しなかったら困る?」
「私が、でございますか」
「あなたが」
困ることはない。
お嬢様にとって困ることが生まれれば、一緒に考える必要はある。だが、殿下のおそばへ行くためにだけ、ここにいるのではなかった。
むしろ、殿下と結婚なさらないと聞いて嬉しいと思ってしまった。
お嬢様ご自身の望みなのだから、それを喜ぶのはよいはずだ。だが、それだけで嬉しいのかと問われたら、すぐには頷けなかった。
「お嬢様がどちらへ行かれても、お供するつもりです」
言うと、お嬢様は少し目を伏せられた。
「私はここにいたいわ」
「はい」
「あなたも?」
俺は頷いた。
今の俺の居場所は、ここだった。
お嬢様は膝へ置いた手を伸ばし、俺の指を取られる。
「ではしばらく同じね」
笑って、そうおっしゃった。
その笑顔を見ながら、俺はようやく息を吐いた。
今度は、殿下のもとへ嫁がせるために守るのではない。
それならお嬢様は、どなたのもとで幸せになられるのだろう。
握られた手を戻さずに、俺は少し先のことを考えた。
このあと29話よりも前の本文を全部直します。
色々気に入らないところがたくさん見つかったので。ただ話の内容は変わりません。