何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
翌朝、勉強が始まる前に、教本に挟んだ紙へ三つほど書いてみた。
人の話を聞く方。
約束を守る方。
お嬢様に、無理をさせない方。
家の名前は、一つも出てこなかった。
学園で顔を合わせた貴族の子息なら知っている。だが、俺が覚えているのは、お嬢様が困っていたときに何をしたか、何をしなかったかということばかりだ。
結婚して幸せになれる方、と考えると、それだけでは足りない。
何より、今はまだ子供だ。
学園での振る舞いも、同じになるとは限らなかった。
「何を書いているの?」
お嬢様が机の向こうから覗かれた。
俺は手で隠すようなことはせず、紙を少し寄せた。
「お嬢様にふさわしい方は、どのような方かと」
お嬢様の顔が、ゆっくりこちらへ向いた。
「何をするのに?」
「その……ご結婚を、お考えになる際に」
お嬢様が筆を置かれた。
小さな音がして、俺も書きかけの手を止めた。
「まだ考えていないわ」
「はい。お急ぎになるお話ではないと、奥様も」
「ではどうして今書いたの?」
もっともなご質問だった。
危険への備えなら、早いに越したことはない。だが、結婚相手まで同じように考えるのは、失礼にもほどがあった。
俺は筆を置いた。
「殿下との婚約がないなら、お嬢様が本当に望まれる方とお会いになれるのだと思いまして」
お嬢様は、三つの言葉を読まれた。
それから俺を見る。
「私が望む方なら何でもいいの?」
「お嬢様を大切にしてくださることは、必要かと」
「そう」
紙の端へ、指が置かれた。
「あなたはこの三つをどうやって確かめるつもり?」
俺は答えを探した。
人の話を聞くかどうかなら、会って話せばよい。
だが、一度聞いてくれたからと、いつもそうするとは限らない。
約束を守る方かどうかも、少し話しただけでは分からない。
お嬢様に無理をさせないか。それは、もっと分からない。
何を無理だと感じられるかを、俺が全部知っているわけでもなかった。
「……何度か、お話ししていただいて」
「それで分からなかったら?」
「ご本人にも、お尋ねします」
「誰にでも大事にしますと言えるでしょう」
お嬢様のおっしゃるとおりだった。
俺は三つの言葉を見つめた。
並べた三つには、肝心のお嬢様のお気持ちが入っていなかった。
「すみません。先にお嬢様のお考えを、伺うべきでした」
お嬢様が、紙から手を離される。
怒っていらっしゃるというより、何かを諦める手前のようなお顔だった。
「私は話していて楽しい方がいいわ」
俺は紙からお嬢様へ目を戻した。
「一緒にいて黙っていても困らない方。それから、私のお話を聞いてご自分のお話もしてくださる方」
俺は頷いた。
聞いてほしいだけではなく、相手のお話も知りたいのだろう。
「それと、私が嫌だと言ったのに、私のためだと押しつけない方」
少し声が低くなった。
俺は自分の紙を裏返した。
「このようなことをお考えになるのが、お嫌でしたか」
「あなたが私をどなたかのところへ送り出す相談をするのは」
そこで言葉が止まった。
俺は、お嬢様の次の声を待つ。
しばらくして、机の上の教本がこちらへ押された。
「今はこちらを読んでちょうだい」
俺は続きを尋ねず、頼まれた場所から読み始めた。
☆
数日後、屋敷に小さな客人が来た。
公爵様のお知り合いの家の子息で、お嬢様と同じくらいの年だった。
両親が公爵様と話す間、庭でご一緒することになった。
俺がその方を見ていたのは、先日のことが頭に残っていたからだ。
口に出して縁談を進めるつもりはない。
ただ、どのような方がお嬢様と楽しく話せるのかは、知っておきたかった。
少年は、港で見た船の話をした。
大きな帆の下で働く人が豆粒のように見えたという。
お嬢様は興味を持たれ、荷物がどこから来たのか尋ねた。
少年は考え、自分では分からないと答えた。
「父に聞けば知っていると思う」
「ではあとで教えてくださる?」
「うん」
知ったふりをしない方だった。
俺は少し感心したが、お嬢様はすぐにこちらを見た。
「ノエルは船の中を見たことがあった?」
「領地で、少しだけ。荷を下ろすところを」
「私も見てみたいわ。絵で見るのと違うのでしょうね」
俺がお答えしていると、少年が庭の奥を見た。
柵の向こうで、灰色の狼がこちらを見ている。
「犬?」
「狼よ。ヘルヘイムというの」
お嬢様が答えられた。
少年の足が止まった。
俺はすぐ、囲いから外へ出てこないと説明した。近づく場合は世話をする者へ尋ね、勝手に手を出さないでいただく。
少年は頷いた。
「君が飼っているの?」
俺へのご質問だった。
「こちらで、お世話になっております。山で怪我をしていたところを、助けまして」
「二人で?」
「騎士や管理人にも、手伝っていただきました」
俺の説明が長くなりそうだったので、お嬢様が先に、川へ行った話をされた。
狼を見つけ、山荘の薪小屋へ運んだこと。
水を飲むときに、ずっと見ていてはいけなかったこと。
少年は面白そうに聞いていた。
「僕も見たい。ここからならいい?」
勝手に走っていかなかった。
俺は頷き、柵の手前で止まる位置をお伝えした。
お嬢様は少年の少し後ろを歩き、俺はその隣にいた。
ヘルヘイムが立ち上がる。
少年が半歩退いたので、俺は狼の名を呼んだ。
灰色の鼻先が、こちらへ向く。
「よく覚えているんだね」
少年はそう言い、次は少し低い声で名前を呼んだ。
狼は彼を見たが、近づかなかった。
少年はそれ以上呼びかけず、柵の手前から狼を眺めていた。
よい方なのだろう。
だが、俺がそう考えたところで、お嬢様のご希望にはならない。
お茶が用意されたと侍女に呼ばれ、三人で庭を戻った。
俺は杯へ手が届くよう、客人の椅子を卓へ寄せた。
少年は席へ着くと、お嬢様に少し待っていてと言った。
侍女へ場所を尋ね、両親のいる部屋へ向かう。
すぐに戻ってきたときには、小さな紙を持っていた。
「さっきの荷物のことを聞いてきた」
父親が書いてくれたらしい。
見せてくれた名前の中には、お茶もあった。
少年は目の前の杯を指し、こういうものも船で来るのだと話した。
「すぐに教えてくださったのね。ありがとう」
お嬢様が紙を見る。
俺も横から読ませていただいた。
海を渡ってきた茶と、領地で採れる茶とは違う。少年の家では、その違いも教わったという。
「ここで飲んでいるのも同じところから?」
今度は少年が俺へ尋ねた。
俺は茶を運んだ侍女へ確かめる。
今日のものは、ご両親が領地から持ってきた茶だそうだ。
「では違うんだね」
少年は杯へ顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
違いまではまだ分からなかったらしく、首を傾げる。それを見て、お嬢様もご自分の杯を取られた。
「私も海の向こうのものを飲んでみたいわ」
「うちで出すとき、誘うよ」
お嬢様は、お母様に相談すると答えられた。
お嬢様は俺へ目を向け、笑みを浮かべられた。
「ノエルにも淹れていただけるかしら」
少年が頷く。
俺は二人へお礼を申し上げた。
今、目の前で決まったのは、違うお茶を飲む約束だった。
☆
客人が帰ると、お嬢様が俺を窓辺へ呼ばれた。
手には、三つの言葉を書いた紙がある。
捨てずに教本へ挟んでいたものだった。
「今日あの方を見ていたでしょう」
俺は返事に迷った。どのような目で客人を見ていたかまで、分かっていらっしゃるようだった。
「感じのよい方だと、思いました」
「ええ。私もそう思うわ」
お嬢様は素直にお認めになった。
俺が次の言葉を探す前に、紙が差し出される。
「でも、これに当てはまったら誰でもよいわけではないのよ」
「承知しております」
「本当に?」
俺は紙を受け取った。
安心してそばに置ける方かどうかばかりを見ていた。お嬢様が好きになるかどうかは、俺には選べない。
「お嬢様のお好きな方を、私が選ぶことはできません」
言うと、ようやく頷いていただけた。
「相談したくなったら私から話すわ」
「はい」
お嬢様は窓の外を見られた。
少し先で、侍女が風に動く布を留め直している。
狼の囲いからは、木を引っ掻く音がした。
「それより、今度はあなたのお話を聞きたいの」
俺が振り向くと、お嬢様もこちらへ顔を戻された。
「あなたはどのような方が好き?」
思ったより答えにくい問いだった。
どのような方を守りたいかなら、すぐに答えられる。
俺が好きになる方とは、何が違うのだろう。
お嬢様は急がせず、両手を前で組まれた。
「ご結婚の、お話でございますか」
「お友達でもよいわ。話したいと思う方」
ならば、少し考えられた。
患者の話をよく聞く先生。
こちらの答えを待ってくれる教官。
薬の説明をするとき、顔の明るくなるクラウディア様。
フィオナについては、まだそのまま好きだとは言えない。
しかし、次に何を覚えてくるか、確かめたいと思っている。
俺は幾人かのお名前を挙げた。
お嬢様は最後まで聞いてくださったが、少しずつ口が結ばれていく。
「……私は?」
小さな声だった。
俺は驚いて顔を上げた。
お嬢様を、ほかの方と同じように挙げてよいとは考えていなかった。
「お嬢様には、何かあれば真っ先にお伝えしたくなります。それが当たり前でしたので、ほかの方と並べて考えておりませんでした」
お嬢様が顔を上げられた。
俺は失礼なことを言ったのかと思い、言い直そうとした。
お嬢様が先に笑われる。
「では今日はそれでいいわ」
窓辺から離れ、いつもの椅子へ向かわれた。
俺もその後ろを歩く。
紙を教本へ戻そうとすると、お嬢様が、書き足すなら裏へとおっしゃった。
表の三つは、そのまま置いておくのだという。
俺は裏へ、小さく一行書いた。
お嬢様が話したくなるまで、こちらで相手を決めない。
それを見せると、お嬢様は頷かれた。
そのまま本を開き、肩の触れる場所へ椅子を寄せられる。
俺も隣で教本を開いた。