何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
刃が頬をかすめた。
熱さを感じるより先に左へ踏み込み、相手の腕の内側へ入る。短剣を持つ手首を押さえ、肘へ掌を当てた。
先生の軸足が動いた。足払いが来る。
押さえた手首を離して抜けようとしたが、逆に腕をつかまれ、引き戻された。踏み直す前に、踵を払われる。
息を吐いて身体を丸め、背中から床へ落ちた。転がって距離を取ったときには、異端審問官の先生が剣先を俺の喉へ向けていた。
「今ので死んでいる」
「……はい」
先生が短剣を引く。
俺は起き上がり、先生に向き直った。
訓練場の床に落ちた血はまだ数滴だったが、袖で拭えば服を汚す。持参した布を取ろうとすると、先生に手を止められた。
「先に治せ。その後で床だ」
先生から目を離さず、短く祈った。
頬の傷に直接、光が宿る。両手は下げたまま、裂けたところが閉じていった。
人前なら手をかざして治す。手も向けずに傷口だけを光らせるのは、普通の神官の治し方ではない。余計な疑いを招きたくなかった。
先生はこの治し方を知っている。ここで両手を空けておけるなら、いつもの形にこだわる理由はない。
先生から差し出された手鏡を左手で受け取り、顔を映す。右手は空けたまま、鏡の縁越しに先生の肩と足を見ていた。
水差しへ向かうはずの足が、こちらへ踏み込んだ。
身体を沈め、頭の上を通る剣をかわす。続く蹴りには前腕を合わせたが、受けた勢いで二歩退かされた。腕が痺れる。
手鏡は握ったまま、柱を避けて右へ回る。先生もこちらを向き直り、剣を止めた。
「見ていたか」
「はい。ですが、蹴りまでは外せませんでした」
「受けるなら、もう少し流せ。まともに合わせれば腕を潰される」
先生と向き合ったまま短く祈ると、左腕に光が走り、痛みが引いた。鏡を持つ手には触れず、そのまま先生へ返した。
入口まで三歩。右に長椅子。左に柱。最初に確かめた配置は変わっていない。
床の血を拭くためにしゃがむと、先生の剣が肩へ伸びてきた。布を持つ手を止めずに身をずらす。剣の腹が、上着だけをかすめた。
そのまま空いている左側へ立ち上がり、先生の手元を見た。
今度は追ってこなかった。
十二歳になり、先生との稽古はこういうものが増えていた。
型の確認は短く済ませ、間を置かずに打ち合う。治療中や武器を拾う隙にも、先生は容赦なく仕掛けてきた。
この稽古で使う神術は、自分の傷を治す分だけだ。
結界で先生の刃を止めてしまえば、剣や身体で受け流す稽古にはならない。
神術で治すことを前提にしているから、浅い傷も打ち身も避けてはくださらない。
それでも、目や喉を本当に傷つけるような一撃は寸前で止まる。俺が受け身を取れなければ、床に落ちる前に襟をつかまれることもあった。
こちらの身体で受けられる限度を見極めたうえで、ぎりぎりまで攻めてくる。
「最初の足払いは」
「見えていました。手を離す前に引かれました」
「お前が抜けるほうへ引いた。逆なら残れたか」
「踏み直せれば。ですが、あの力で腕をつかまれたままでは、長くは持ちません」
先生がうなずいた。
押さえた手首をひねるところまでは入れた。だが、肘を崩しきる前に力で戻され、こちらの腕を取られた。
同じ場所へ入り直すなら、つかまれる前に離すか、身体ごと回って関節を取る。相手の腕力に逆らって踏ん張るつもりはない。
覚えている手順に、身体はもうついてくる。
成長するたびに変わる間合いも、このくらいの年齢なら何度も測り直してきた。足を出す順番を考える必要はない。
ただ、先生の腕を十分に押し切るにはまだ力が足りないし、踏み込みを一歩減らせるほど脚も長くない。
先生はその差を使って、こちらの崩しを潰してくる。
「もう一本、お願いいたします」
先生が剣を構える。
俺は長椅子へ置いた大剣を取り上げた。
慣れた柄を握ると、気持ちが落ち着いた。
先生の動きを見ながら、切っ先の高さを合わせた。
先生が間合いを詰めた。
刃を合わせずに退き、柱を背にしないよう斜めへ動く。先生の剣がこちらの右を狙ったところで、大剣を立てた。
金属が鳴る。
受け止めて押し合えば負ける。刃を滑らせ、先生の切っ先を外へ逃がす。
剣を逸らした隙に、柄で先生の顔を狙った。
先生は顔を引き、俺の膝を狙う。
踏み替えてかわし、その足が戻る前にもう一度剣を出す。
先生がさらに半歩引いた。切っ先が上着をかすめる。
先生の剣なら、こちらへ返せる距離だった。追って腕を伸ばせば、先に斬られる。
肩を伸ばして追わず、先生がかわした先へ踏み込んだ。
柄の端が、先生の腹の前で止まった。
同時に俺の脇腹へ剣の腹が当たった。
「相討ちだ」
先生が言った。
俺は息を吐く。
「脇腹の一本は、避けきれませんでした」
「お前の柄も入っている。今のでよい」
それ以上の褒め言葉はなかった。
しかし、先生はすぐに次を始めず、水差しを取ってくださった。
壁際で水を飲む。
窓は高いところにあり、ここからは空しか見えない。王都の昼の音も、厚い壁を通ると遠かった。
「学園では、その剣は持ち歩けんぞ」
「承知しております」
「手が空いていても同じように動けるか」
先生が、何も持っていない俺の手元へ目を向けた。
剣を持っていれば、腕の短さを刃の長さで補える。何も持たずに先生を止めるには、近づかなければならない。
神術が使えても、味方のいる場所へ無闇に光を放つわけにはいかない。
クラウディア様を助けたときには、男の手を離させるだけでよかった。
次もそれで済むとは限らない。
「次は、入口を塞がれたところからお願いいたします」
「お前一人で逃げるのか」
「後ろに、もう一人いるつもりで」
先生が水差しを置いた。
「なら、後ろばかり見て死ぬなよ」
長椅子の端へ古い外套が掛けられる。
今度は、あそこから離れすぎてもいけない。
☆
教会を出る前に服を替えた。
稽古用の上着の肘に裂け目ができていた。帰って繕うつもりだが、お嬢様の目の前へそのまま出る理由はない。
洗面器の水で首筋まで拭い、袖口に血が残っていないか確かめる。
替えのシャツに腕を通し、持参した上着を着る。剣と稽古着は布で包んだ。
顔の傷も腕の痛みも残っていない。鏡で襟元まで確かめてから、迎えの馬車へ乗った。
屋敷へ戻ると、お嬢様は裏庭でヘルヘイムの毛を梳いていらした。
俺を見るなり狼が立ち上がり、背中に当てられていた櫛に毛が引っかかりかけた。
「待って。あと少しなの」
お嬢様に言われ、ヘルヘイムは座り直した。
ただし、顔はこちらへ向けたままだ。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。今日は長かったのね」
「帰る前に、少し手間取りまして」
包みを受け取ろうとした侍女へ、先に自室へ置いていただくよう頼んだ。
お嬢様の目が一度そちらへ動く。
何か聞かれるかと思ったが、櫛を籠へ戻しただけだった。
「ヘルヘイムはもう終わり。次はあなたよ」
「私も梳いていただくので?」
「違うわ。肩に葉っぱがついているもの」
どうやら馬車を降りて庭へ来る間についたらしい。
お嬢様の手が肩へ伸びる。
葉を取ってくださった指が、襟へ少し触れた。
ふと、その手へ目が留まった。指のつけ根に、前には気に留めなかった硬そうなところがある。
最近、剣を握る時間が増えたのだろうか。
「ノエル」
呼ばれて目を上げると、お嬢様が俺の顔をのぞき込んでいらした。
「今度お母様と出かけるの。学園で使うものを少しずつ見に行くんですって」
「もう、そのご準備ですか」
「もうすぐでしょう。あなたも一緒に来てね」
手はすでに俺の襟から離れていた。
学園の話になれば、確かめたいことはいくつもある。
授業で使う本は教会にも一部あるが、買わずに借りられるものと、手元へ置くべきものを分けておきたい。
「一覧をいただけましたら、今夜のうちに見ておきます」
「じゃあ私の分も一緒に見ましょう」
お嬢様が先に歩き出す。
ヘルヘイムの籠を持って、そのあとを追った。
☆
ノエルの部屋の明かりが消えてから、私は寝台を抜け出した。
上着を羽織り、机の下へ隠しておいた木剣を持つ。
窓を開け、冷たい空気を部屋へ入れた。
家具から離れ、部屋の中央に立った。木剣を振るには十分な広さがある。
昼の稽古で教わったように、木剣をゆっくり振る。
腕だけで持ち上げず、足から動く。
床を鳴らせば侍女が来てしまうから、足を置くときには気をつけた。
あの包みには、着替えが入っていたのだと思う。
教会へ行くときには着ていなかった上着だった。
前にもこのくらいの年頃には、ノエルは異端審問官になるための稽古を受けていた。
今も同じなら、ただ本を読んでいるだけではないはずだ。
葉を取ったとき、襟元へ顔を近づけると、かすかに血の匂いがした。
今日も傷を負ったのだと、分かった。
あの夜と同じだった。
私が死ぬ間際、最後までそばにいてくれたノエルの匂い。
傷がないか確かめたかった。それなのに、顔を離すのが惜しかった。
もう少し近づけば、もっとはっきり分かる気がした。あの夜のノエルが、今ここにいるのだと。
治せるからと、傷をつけてもいいと思っていそうだった。
私が見れば心配すると分かっているから、着替えてくる。
けれど、匂いまで消えてはいなかった。
木剣の柄を握ったまま、自分の手を鼻先へ寄せた。
葉を取った指には、もう何も残っていない。
そんなところだけは、よく分かるのに。
木剣を持つ手へ目を落とした。
今日はノエルに見られた気がする。
手袋をすればよかっただろうか。でも、家の中で急に手袋をするほうがおかしい。
「……まだ、内緒なの」
小さく言って、もう一度構える。
前の私は、剣を握る手が痛くなっただけでやめていた。
学ばなくても、お父様の騎士がいた。ノエルがいた。
自分で誰かを守らなければならない日が来るなんて、考えていなかった。
あのときの光を思い出す。
できるはずだった。
それなのに、剣を持つ腕はすぐ重くなり、逃げる足まで遅くなった。ノエルは何度も私のために戻った。
私が立ち止まらなければ、あの人は。
木剣を振り下ろした。
息を整え、構え直して、もう一度。
今度は一緒に帰る。
守ってもらうためだけに、あの人の隣へ立つのではない。
握った右手が、ふっと温かくなった。
木剣を止める。
窓から入る月明かりとは違う、薄い光が指の間にあった。
息をのんだ。
剣を左手へ持ち替え、右の掌を開く。
その上に、光が残る。
ノエルが傷を治すときの光ではない。
あの夜、初めて私の手に宿ったものと同じだった。
「……出た」
思わず戸口を見る。
扉は閉じたまま。廊下から足音も聞こえない。
私の部屋には、私しかいない。
手を握ると光は見えなくなったが、開けばまた指先が淡く明るくなった。
木剣の柄へ添える。
握り方を変えずに、光だけを刃へ移そうとしてみる。
木目の上を細い光が走った。
先まで届く前に消えたけれど、私は柄を握り直し、もう一度手元を見つめた。
先生に教わった構えを取る。
腕は震えなかった。あの夜と違い、構えたまま光を見ていられる。
ノエルへ見せたいと思った。
どんな顔をするだろう。
驚いたあと、きっと褒めてくれる。けれど、その次には心配して、危ないことをしないでくださいと言う気もする。
私は手を閉じた。
今夜の光は、まだ誰にも言わない。
木剣を置く前に、もう一度だけ振った。
今度は小さな光が、刃と一緒に動いた。
ノエルは周回しすぎて精神安定しているけど、お嬢様は初回帰でノエル居ないと精神がこんな感じになります。