何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~   作:名もなきそば付き

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二章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。



第三十二話☆二人の鍛錬

 刃が頬をかすめた。

 熱さを感じるより先に左へ踏み込み、相手の腕の内側へ入る。短剣を持つ手首を押さえ、肘へ掌を当てた。

 先生の軸足が動いた。足払いが来る。

 押さえた手首を離して抜けようとしたが、逆に腕をつかまれ、引き戻された。踏み直す前に、踵を払われる。

 

 息を吐いて身体を丸め、背中から床へ落ちた。転がって距離を取ったときには、異端審問官の先生が剣先を俺の喉へ向けていた。

 

「今ので死んでいる」

「……はい」

 

 先生が短剣を引く。

 俺は起き上がり、先生に向き直った。

 訓練場の床に落ちた血はまだ数滴だったが、袖で拭えば服を汚す。持参した布を取ろうとすると、先生に手を止められた。

 

「先に治せ。その後で床だ」

 

 先生から目を離さず、短く祈った。

 頬の傷に直接、光が宿る。両手は下げたまま、裂けたところが閉じていった。

 

 人前なら手をかざして治す。手も向けずに傷口だけを光らせるのは、普通の神官の治し方ではない。余計な疑いを招きたくなかった。

 先生はこの治し方を知っている。ここで両手を空けておけるなら、いつもの形にこだわる理由はない。

 先生から差し出された手鏡を左手で受け取り、顔を映す。右手は空けたまま、鏡の縁越しに先生の肩と足を見ていた。

 

 水差しへ向かうはずの足が、こちらへ踏み込んだ。

 身体を沈め、頭の上を通る剣をかわす。続く蹴りには前腕を合わせたが、受けた勢いで二歩退かされた。腕が痺れる。

 手鏡は握ったまま、柱を避けて右へ回る。先生もこちらを向き直り、剣を止めた。

 

「見ていたか」

「はい。ですが、蹴りまでは外せませんでした」

「受けるなら、もう少し流せ。まともに合わせれば腕を潰される」

 

 先生と向き合ったまま短く祈ると、左腕に光が走り、痛みが引いた。鏡を持つ手には触れず、そのまま先生へ返した。

 入口まで三歩。右に長椅子。左に柱。最初に確かめた配置は変わっていない。

 床の血を拭くためにしゃがむと、先生の剣が肩へ伸びてきた。布を持つ手を止めずに身をずらす。剣の腹が、上着だけをかすめた。

 そのまま空いている左側へ立ち上がり、先生の手元を見た。

 今度は追ってこなかった。

 

 十二歳になり、先生との稽古はこういうものが増えていた。

 型の確認は短く済ませ、間を置かずに打ち合う。治療中や武器を拾う隙にも、先生は容赦なく仕掛けてきた。

 

 この稽古で使う神術は、自分の傷を治す分だけだ。

 結界で先生の刃を止めてしまえば、剣や身体で受け流す稽古にはならない。

 

 神術で治すことを前提にしているから、浅い傷も打ち身も避けてはくださらない。

 それでも、目や喉を本当に傷つけるような一撃は寸前で止まる。俺が受け身を取れなければ、床に落ちる前に襟をつかまれることもあった。

 こちらの身体で受けられる限度を見極めたうえで、ぎりぎりまで攻めてくる。

 

「最初の足払いは」

「見えていました。手を離す前に引かれました」

「お前が抜けるほうへ引いた。逆なら残れたか」

「踏み直せれば。ですが、あの力で腕をつかまれたままでは、長くは持ちません」

 

 先生がうなずいた。

 押さえた手首をひねるところまでは入れた。だが、肘を崩しきる前に力で戻され、こちらの腕を取られた。

 同じ場所へ入り直すなら、つかまれる前に離すか、身体ごと回って関節を取る。相手の腕力に逆らって踏ん張るつもりはない。

 

 覚えている手順に、身体はもうついてくる。

 成長するたびに変わる間合いも、このくらいの年齢なら何度も測り直してきた。足を出す順番を考える必要はない。

 ただ、先生の腕を十分に押し切るにはまだ力が足りないし、踏み込みを一歩減らせるほど脚も長くない。

 先生はその差を使って、こちらの崩しを潰してくる。

 

「もう一本、お願いいたします」

 

 先生が剣を構える。

 俺は長椅子へ置いた大剣を取り上げた。

 

 慣れた柄を握ると、気持ちが落ち着いた。

 先生の動きを見ながら、切っ先の高さを合わせた。

 

 先生が間合いを詰めた。

 刃を合わせずに退き、柱を背にしないよう斜めへ動く。先生の剣がこちらの右を狙ったところで、大剣を立てた。

 金属が鳴る。

 受け止めて押し合えば負ける。刃を滑らせ、先生の切っ先を外へ逃がす。

 

 剣を逸らした隙に、柄で先生の顔を狙った。

 先生は顔を引き、俺の膝を狙う。

 踏み替えてかわし、その足が戻る前にもう一度剣を出す。

 

 先生がさらに半歩引いた。切っ先が上着をかすめる。

 先生の剣なら、こちらへ返せる距離だった。追って腕を伸ばせば、先に斬られる。

 

 肩を伸ばして追わず、先生がかわした先へ踏み込んだ。

 柄の端が、先生の腹の前で止まった。

 

 同時に俺の脇腹へ剣の腹が当たった。

 

「相討ちだ」

 

 先生が言った。

 俺は息を吐く。

 

「脇腹の一本は、避けきれませんでした」

「お前の柄も入っている。今のでよい」

 

 それ以上の褒め言葉はなかった。

 しかし、先生はすぐに次を始めず、水差しを取ってくださった。

 

 壁際で水を飲む。

 窓は高いところにあり、ここからは空しか見えない。王都の昼の音も、厚い壁を通ると遠かった。

 

「学園では、その剣は持ち歩けんぞ」

「承知しております」

「手が空いていても同じように動けるか」

 

 先生が、何も持っていない俺の手元へ目を向けた。

 剣を持っていれば、腕の短さを刃の長さで補える。何も持たずに先生を止めるには、近づかなければならない。

 神術が使えても、味方のいる場所へ無闇に光を放つわけにはいかない。

 

 クラウディア様を助けたときには、男の手を離させるだけでよかった。

 次もそれで済むとは限らない。

 

「次は、入口を塞がれたところからお願いいたします」

「お前一人で逃げるのか」

「後ろに、もう一人いるつもりで」

 

 先生が水差しを置いた。

 

「なら、後ろばかり見て死ぬなよ」

 

 長椅子の端へ古い外套が掛けられる。

 今度は、あそこから離れすぎてもいけない。

 

     ☆

 

 教会を出る前に服を替えた。

 稽古用の上着の肘に裂け目ができていた。帰って繕うつもりだが、お嬢様の目の前へそのまま出る理由はない。

 

 洗面器の水で首筋まで拭い、袖口に血が残っていないか確かめる。

 替えのシャツに腕を通し、持参した上着を着る。剣と稽古着は布で包んだ。

 

 顔の傷も腕の痛みも残っていない。鏡で襟元まで確かめてから、迎えの馬車へ乗った。

 

 屋敷へ戻ると、お嬢様は裏庭でヘルヘイムの毛を梳いていらした。

 俺を見るなり狼が立ち上がり、背中に当てられていた櫛に毛が引っかかりかけた。

 

「待って。あと少しなの」

 

 お嬢様に言われ、ヘルヘイムは座り直した。

 ただし、顔はこちらへ向けたままだ。

 

「ただいま戻りました」

「お帰りなさい。今日は長かったのね」

「帰る前に、少し手間取りまして」

 

 包みを受け取ろうとした侍女へ、先に自室へ置いていただくよう頼んだ。

 お嬢様の目が一度そちらへ動く。

 何か聞かれるかと思ったが、櫛を籠へ戻しただけだった。

 

「ヘルヘイムはもう終わり。次はあなたよ」

「私も梳いていただくので?」

「違うわ。肩に葉っぱがついているもの」

 

 どうやら馬車を降りて庭へ来る間についたらしい。

 お嬢様の手が肩へ伸びる。

 葉を取ってくださった指が、襟へ少し触れた。

 

 ふと、その手へ目が留まった。指のつけ根に、前には気に留めなかった硬そうなところがある。

 最近、剣を握る時間が増えたのだろうか。

 

「ノエル」

 

 呼ばれて目を上げると、お嬢様が俺の顔をのぞき込んでいらした。

 

「今度お母様と出かけるの。学園で使うものを少しずつ見に行くんですって」

「もう、そのご準備ですか」

「もうすぐでしょう。あなたも一緒に来てね」

 

 手はすでに俺の襟から離れていた。

 学園の話になれば、確かめたいことはいくつもある。

 授業で使う本は教会にも一部あるが、買わずに借りられるものと、手元へ置くべきものを分けておきたい。

 

「一覧をいただけましたら、今夜のうちに見ておきます」

「じゃあ私の分も一緒に見ましょう」

 

 お嬢様が先に歩き出す。

 ヘルヘイムの籠を持って、そのあとを追った。

 

     ☆

 

 ノエルの部屋の明かりが消えてから、私は寝台を抜け出した。

 上着を羽織り、机の下へ隠しておいた木剣を持つ。

 窓を開け、冷たい空気を部屋へ入れた。

 

 家具から離れ、部屋の中央に立った。木剣を振るには十分な広さがある。

 

 昼の稽古で教わったように、木剣をゆっくり振る。

 腕だけで持ち上げず、足から動く。

 床を鳴らせば侍女が来てしまうから、足を置くときには気をつけた。

 

 あの包みには、着替えが入っていたのだと思う。

 教会へ行くときには着ていなかった上着だった。

 前にもこのくらいの年頃には、ノエルは異端審問官になるための稽古を受けていた。

 今も同じなら、ただ本を読んでいるだけではないはずだ。

 

 葉を取ったとき、襟元へ顔を近づけると、かすかに血の匂いがした。

 今日も傷を負ったのだと、分かった。

 

 あの夜と同じだった。

 私が死ぬ間際、最後までそばにいてくれたノエルの匂い。

 

 傷がないか確かめたかった。それなのに、顔を離すのが惜しかった。

 もう少し近づけば、もっとはっきり分かる気がした。あの夜のノエルが、今ここにいるのだと。

 

 治せるからと、傷をつけてもいいと思っていそうだった。

 私が見れば心配すると分かっているから、着替えてくる。

 けれど、匂いまで消えてはいなかった。

 

 木剣の柄を握ったまま、自分の手を鼻先へ寄せた。

 葉を取った指には、もう何も残っていない。

 

 そんなところだけは、よく分かるのに。

 

 木剣を持つ手へ目を落とした。

 今日はノエルに見られた気がする。

 手袋をすればよかっただろうか。でも、家の中で急に手袋をするほうがおかしい。

 

「……まだ、内緒なの」

 

 小さく言って、もう一度構える。

 

 前の私は、剣を握る手が痛くなっただけでやめていた。

 学ばなくても、お父様の騎士がいた。ノエルがいた。

 自分で誰かを守らなければならない日が来るなんて、考えていなかった。

 

 あのときの光を思い出す。

 できるはずだった。

 それなのに、剣を持つ腕はすぐ重くなり、逃げる足まで遅くなった。ノエルは何度も私のために戻った。

 私が立ち止まらなければ、あの人は。

 

 木剣を振り下ろした。

 息を整え、構え直して、もう一度。

 

 今度は一緒に帰る。

 守ってもらうためだけに、あの人の隣へ立つのではない。

 

 握った右手が、ふっと温かくなった。

 

 木剣を止める。

 窓から入る月明かりとは違う、薄い光が指の間にあった。

 

 息をのんだ。

 剣を左手へ持ち替え、右の掌を開く。

 その上に、光が残る。

 

 ノエルが傷を治すときの光ではない。

 あの夜、初めて私の手に宿ったものと同じだった。

 

「……出た」

 

 思わず戸口を見る。

 扉は閉じたまま。廊下から足音も聞こえない。

 私の部屋には、私しかいない。

 

 手を握ると光は見えなくなったが、開けばまた指先が淡く明るくなった。

 木剣の柄へ添える。

 握り方を変えずに、光だけを刃へ移そうとしてみる。

 

 木目の上を細い光が走った。

 先まで届く前に消えたけれど、私は柄を握り直し、もう一度手元を見つめた。

 

 先生に教わった構えを取る。

 腕は震えなかった。あの夜と違い、構えたまま光を見ていられる。

 

 ノエルへ見せたいと思った。

 どんな顔をするだろう。

 驚いたあと、きっと褒めてくれる。けれど、その次には心配して、危ないことをしないでくださいと言う気もする。

 

 私は手を閉じた。

 今夜の光は、まだ誰にも言わない。

 

 木剣を置く前に、もう一度だけ振った。

 今度は小さな光が、刃と一緒に動いた。

 




ノエルは周回しすぎて精神安定しているけど、お嬢様は初回帰でノエル居ないと精神がこんな感じになります。
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