何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
荷物は、包み一つに収まった。
替えの衣服と、教会でいただいた小さな祈祷書。それに、使いかけの石鹸。
結び目を作ろうとした指が滑り、俺は三度目のやり直しに入った。
「手伝おうか」
「ありがとうございます。もう少しでございます」
結べた。
持ち上げると、底から石鹸が落ちた。
向かいの神官様は、何も言わずに拾ってくださった。
昨日は公爵家へのご挨拶を終えてから、教会へ戻った。今日からは、屋敷に部屋を用意していただけるという。
何度も住んだ場所だ。何がどこにあるかは分かる。
分からないのは、なぜ今なのか、という一点だけだった。
「公爵家でも、学びは続けるのですよ」
「はい」
「神術の扱いを確かめる日は、迎えを出します。一人で街へ出ないように」
「承知いたしました」
「困ったことがあれば、向こうの大人に言うこと」
「はい」
神官様はそこで言葉を切った。
俺の顔を見て、少し困ったように笑う。
「何でも、はいと引き受けなくてもよいのですからね」
そんなに難しいことを頼まれるだろうか。
祈祷書の角を包みの内側へ押し込みながら、俺は考えた。
お嬢様付きの神官。書類の手伝い。お勉強の補助。
できることは多い。今までより早くそばに置いていただけたのだから、その分だけ備えを進められる。
細い指は少々扱いづらいが、身体はいずれ育つ。
「……あなたは、まだ二歳なのですよ」
神官様が、念を押すように言った。
「受け答えを聞いていると、つい忘れそうになりますが」
俺の顔と、うまく結べない包みとを、交互に見る。
「私がこのくらいの頃も、こんなに話していたのでしょうかね……」
首をひねり、それから小さく頭を振った。
……少し、やりすぎたかもしれない。
いつもなら、教会へ入ってから、読める文字を少しずつ増やした。教わった計算を早く覚え、任された仕事をきちんと片づける。
そうして、よくできる子供だと思ってもらってから、公爵家へ近づいていた。
今回は、その手順をほとんど踏んでいない。
神術を見せたと思ったら、試験を受け、枢機卿に呼ばれ、もう公爵家だ。
俺も戸惑っているが、見送る側はもっと困るだろう。
「できることが多くても、身体は小さいのですから」
神官様は、包みの結び目をそっと直してくださった。
「まず、寝ることと食べること。それも忘れないように」
「……はい」
こちらは、難しかった。
☆
屋敷の玄関で、金色の頭が動いた。
「ノエル」
お嬢様だった。
侍女が差し出した手につかまり、最後の一段を慎重に下りていらっしゃる。
俺を見て歩みを速めかけ、後ろから名前を呼ばれた。
「階段では、走りませんよ」
「走っていないわ」
まだ、という言葉が頭に浮かんだ。
もちろん口にはしない。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。ちゃんと来たのね」
「お約束いたしましたので」
小さな手が伸びてくる。
俺は包みを持ち替え、その手を取った。
指先が温かい。
今日も。
俺よりわずかに先を歩こうとしたお嬢様が、包みを見下ろした。
「それだけ?」
「はい。必要なものは、こちらに」
「そう」
なぜか、つないだ手に力がこもった。
部屋へ案内される前に、公爵夫妻のいらっしゃる居間へ通された。
昨日もご挨拶したはずなのに、改めて公爵様の前に立つと、背筋が伸びた。
「本日から、お世話になります」
「よく来たね。娘が、君の来るのを随分と楽しみにしていた」
公爵様の視線が、つないだ手に落ちた。
お嬢様は離そうとせず、俺の隣に立っている。
「今朝は、馬車の音がするたびに玄関へ行きたがっていたのよ」
奥様がおっしゃると、お嬢様は少しだけ唇を結んだ。
「来たら、お迎えするつもりだったの」
「ああ。よい心がけだ」
公爵様の声には、笑いが混じっていた。
お嬢様が俺を見て、困ったように笑う。
そんなに待っていてくださったのか。
「何か特別なことをしてほしいわけではない。まずは、よい遊び相手になってやってくれ」
「はい。必ず、お役に立ちます」
頭を下げると、少し間があった。
「……働きぶりを求めるには、まだ早いな」
顔を上げた。
公爵様は怒っているのではなかった。
むしろ、どう伝えればよいか考えていらっしゃるようだった。
「君も、ここで育つのだから」
育つ。
仕える、ではなく。
「教会での学びも続けると聞いている。必要なものは、遠慮なく言いなさい。分からなければ、執事長や妻に尋ねるといい」
「……ありがとうございます」
役目をいただきに来たつもりだった。
けれど公爵様は、勉強と暮らしの話をしている。
俺が何を片づけられるか、一度もお尋ねにならなかった。
「娘も、君と一緒なら楽しく学べそうだ」
「ええ。私がお部屋も見せてあげるわ」
「案内は執事長に任せなさい。お前まで迷子になっては困る」
「迷子になんて、ならないわ」
お嬢様はきっぱり答え、俺の手を引いた。
俺はもう一度、公爵夫妻に頭を下げた。
お嬢様と手をつないだまま、執事長の後について廊下を進んだ。
右の角を曲がる。
その先なら、物置の隣に小部屋がある。昔、夜遅くまで帳面を広げていた部屋だ。
ところが執事長は、角を曲がらなかった。
「こちらでございます」
客室の並ぶ廊下に入り、扉を開く。
俺は敷居の前で止まった。
寝台があった。
窓もあった。
それはいい。
暖炉と、衣装タンスと、丸い卓まであるのは、どういうことだろう。
「……お客様がいらっしゃるのですか」
「あなたの部屋です」
聞き間違いではなかった。
「私には、少々広すぎるかと」
「隣に世話をする者が控えます。夜、何かあれば呼びなさい」
「ですが、使用人の部屋は」
「あなたは、まだ一人で湯も運べないでしょう」
包みの重さが、急に気になった。
言い返せない。
執事長は腰を落とし、目の高さを合わせてくださった。
「公爵様と教会とのお話で、当家が暮らしと教育をお預かりします。お嬢様のおそばにいることと、大人と同じだけ働くことは、別です」
「……かしこまりました」
仕事を取り上げられたわけではない。
寝台の高さを見れば、確かに踏み台も必要だった。
俺が足元の現実を認める間に、お嬢様は窓辺へ向かっていた。
「ここから、お庭が見えるのよ」
声が弾んでいる。
俺も近づいた。
見慣れた庭だった。
昔は枝の影で暗くなっていた小道に、今は光が落ちている。
低い生け垣の向こうで、庭師が手を上げた。
「雨の日も見えるわ」
「はい。よいお部屋を、ありがとうございます」
「気に入った?」
「もったいないほどでございます」
「そうじゃなくて」
お嬢様は俺を見上げた。
俺も、この身体では見上げられるほど大きくない。
目が合うと、返事を待つ青い瞳が、すぐ近くにあった。
「……気に入りました」
「なら、よかった」
それでようやく、お嬢様は窓の外へ顔を戻した。
包みを開くと、祈祷書の間から小さな紙が落ちた。
孤児院の名と、修道女の名が書いてある。
教会を出るとき、神官様が挟んでくださったものだ。
連絡が必要なら、教会を通すように。
そう言われていた。
「それも、ご本?」
「いえ。私がお世話になった方のお名前です」
「お手紙を書くの?」
まだ、そのつもりはなかった。
無事に公爵家へ入ったことは、教会から伝わるだろう。
それで十分だと思っていた。
「必要がございましたら」
「なくても、書いていいでしょう」
お嬢様は紙を見つめたまま言った。
俺は、パンを渡してくれた手を思い出した。
いつもより厚い一切れ。
教会へ行けば食事は出るのに、道中で腹が減るかもしれないと持たせてくれた。
そうだ。
向こうには、まだ俺の様子が分からない。
「……お部屋をいただいたことを、お伝えしようと思います」
「お菓子も食べたら、それもよ」
「はい」
「嫌なことは、書かなくていいという意味ではないわよ」
顔を上げた。
お嬢様は、真剣なお顔をしている。
「何か嫌なことがあったら、ちゃんと言うのよ」
「そのようなことは」
「まだ、なくても」
返事を急ぎすぎたらしい。
俺は頭を下げ直した。
「承知いたしました」
執事長が、紙を指さした。
「書きたいことを私にお話しなさい。お手紙にしましょう」
「私が書いてもよろしいでしょうか」
「もちろん。けれど、長くなれば手が疲れます。お名前だけでも構いません」
名前だけ。
そんな手紙を出したことは、なかった気がする。
俺は祈祷書を卓に置いた。
この部屋のことを伝えれば、あの人も安心してくれるだろう。
「それから、孤児院へ伺うことはできますか」
「日を決め、付き添いをつければ。まずは、こちらの暮らしに慣れてからですね」
戻れない場所になったわけではない。
分かっていたはずなのに、そう聞くと少し息がしやすくなった。
「そのときは、お土産を用意しましょう」
お嬢様が言った。
全員分なら、それなりの数が必要だと申し上げると、何人いるのかと尋ねられた。
俺は一人ずつ思い出して、数えた。
これから孤児院に来る子まで、数に入れてしまわないように。
☆
昼までに、屋敷の決まりを教わった。
階段は誰かと一緒に使う。
厨房に勝手に入らない。
火のついた暖炉へ近づかない。
庭の奥へ行くときは声をかける。
お嬢様にも、同じことを言い聞かせたばかりだそうだ。
つまり、俺も遊び相手として規則を守らせる側に――。
「ノエル。今のは、あなたへのお話ですよ」
「はい」
奥様は優しくおっしゃった。
なぜ考えが分かったのだろう。
午後には、小さな卓で予定を決めた。
教会の先生が来る日。庭へ出る時間。食事と昼寝。
書記の方が横で筆を持ち、奥様のお言葉を書き留める。
「文字は、どのくらい読めるの?」
「祈祷書でしたら、一通り」
「まあ」
書記の筆が止まった。
また少し、先へ進みすぎたらしい。
「意味の分からないところもございます」
嘘ではない。
神への祈りは、何年続けても分からないことばかりだった。
「では、先生に見ていただきましょう。書くほうは?」
「練習をいたします」
先ほどの包みを思い出し、そう答えた。
指に力が入らないまま細かな字を書けば、すぐにつる。
昔の俺なら、他人の字の癖までまねできたのに。
「お勉強は、私とするのよね」
隣から、お嬢様が口を挟んだ。
「先生と相談してからね」
「一緒がいいわ」
奥様が俺に視線を向ける。
当然、異存はない。
「ご一緒させていただければ、光栄でございます」
「ノエルも、こう言っているわ」
「まだ相談するとも言っていないでしょう」
奥様は笑った。
お嬢様は、決まったことのように卓へ手をそろえている。
なるほど。
落ち着いて見えても、やはりこの頃から、ご自分でお決めになる方なのだ。
俺は妙に安心した。
その後、お嬢様が昼寝へ連れていかれた。
俺も部屋へ戻された。
寝台には、昼のうちから薄い掛け物が整えられている。
だが、眠る前に確認しておきたいことがあった。
屋敷の見取り図。門番の交代。裏の通用口の鍵。
卓の上にあった紙を引き寄せる。
羽根ペンは届かない棚に片づけられていたので、祈祷書の間に挟んできた短い木炭を出した。
廊下を一本。
階段を二つ。
ここが、お嬢様のお部屋。
前とは、違う。
まだ子供部屋だ。
窓の位置から考え直さなければならない。
外から近づくなら、庭の――。
「ノエル」
顔を上げた。
扉のところに、さっき別れたはずのお嬢様が立っていた。
後ろには、困り顔の侍女がいる。
「お眠りになったのでは」
「あなたが寝たか、見に来たの」
「私は、少し確かめることが」
「それは?」
「屋敷の中を、早く覚えようと思いまして」
お嬢様は紙をのぞき込み、黙った。
木炭の線はひどく太い。
門を書いたつもりが、箱にしか見えなかった。
「……明日、歩けばいいわ」
「ですが」
「私も一緒に歩くから」
その言葉に、手が止まった。
俺が覚えている廊下を、この方はまだ知らない。
少なくとも、こんなに小さな足で歩くと、どのくらいかかるのかは。
紙の上で経路を引くより、一緒に確かめるほうがいい。
「……では、明日、お願いいたします」
「ええ」
木炭を置くと、お嬢様は満足そうにうなずいた。
そして、侍女に向き直る。
「眠るそうよ」
「では、お嬢様も」
「ええ」
今度は素直だった。
扉が閉まる直前、金色の頭がもう一度こちらを向いた。
「起きたら、お茶にしましょう」
「かしこまりました」
返事をしてから、寝台へ上がった。
踏み台は、足の短さを責めずに支えてくれた。
掛け物を引く。
知らない石鹸の匂いがする。
窓の外では、庭師が誰かと話していた。
門番の交代も、鍵も、確認しなければならない。
教会へ通う道も、街の様子も。
早く。今度こそ、手遅れになる前に。
そう考えていたのに、まぶたが重くなった。
お茶の時間には、呼びに来てくださる。
ここには、お嬢様がいる。
紙の上の太い線を思い浮かべる。
あれでは、せっかく作った見取り図も、子供の落書きだ。
明日、一緒に歩いてから、書き直そう。
つないだ手の温かさを、まだ覚えていた。