何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
侍女の呼ぶ声で、お茶の時間だと知った。
目を開けた瞬間、俺は寝台から起き上がった。
窓が明るい。
眠る前と、光の向きが違う。
「申し訳ございません。すぐに参ります」
「急がなくても大丈夫ですよ」
大丈夫なはずがなかった。
お仕えする初日から、主人を待たせた。
踏み台へ片足を下ろし、もう片方を出そうとして掛け物に引っかかる。
侍女の腕に抱き留められた。
「まず、こちらを外しましょうね」
「……ありがとうございます」
お礼を言いながら、俺は天井を見た。
護衛の道は遠い。
小さな談話室に着くと、お嬢様は窓辺の椅子に座っていた。
まだ卓には茶器が出ていない。
どうやら、ぎりぎり間に合ったらしい。
「お待たせいたしました」
「よく眠れた?」
「はい。おかげさまで」
「そう」
それだけで、お嬢様は機嫌よく足をそろえた。
俺は椅子の後ろへ回った。
「ノエル」
「はい」
「そこじゃないわ」
隣の椅子を指さされる。
俺は、一度、その椅子を見た。
小さい。
確かに、俺でも座れる。
しかし、それとこれとは話が別だった。
「お客様がお見えになるのでは」
「今日は来ないわ」
「では、奥様が」
「お母様は、お手紙を書いていらっしゃるの」
逃げ道が、一つずつふさがっていく。
「私がお席をいただいては、給仕ができません」
「お茶は、この人が用意してくれるわ」
お嬢様は侍女を見た。
侍女はにこりと笑い、茶器を載せた盆を掲げた。
まったく困っていない。
「熱いものを運ぶのは、まだ私どもにお任せください」
「ですが」
「ノエル」
椅子を、もう一度指さされる。
俺は座った。
足が床につかない。
落ち着かない理由が、一つ増えた。
☆
卓に出されたのは、小さく切った焼き菓子と、温かい乳だった。
お嬢様は自分の杯を両手で持ち、口をつける前に少し待った。
俺の前にも、同じものがある。
「召し上がらないの?」
「いただきます」
一口飲んだ。
眠り起きの喉に、穏やかな温かさが通っていく。
その様子を、お嬢様がじっと見ていた。
「何か、ついておりますか」
「いいえ」
今度は菓子の皿を、こちらへ寄せてくださった。
「これも」
「ありがとうございます」
小さな一切れを取る。
口に入れると、ほろりと崩れた。
甘い。
表面の焼けたところが、少しだけ香ばしい。
「いかが?」
「大変おいしゅうございます」
お嬢様の口元が緩んだ。
自分で作った菓子を褒められたようなお顔だった。
俺は空いた手を膝に置いた。
お嬢様も、菓子を召し上がる。
侍女は壁際へ下がった。
静かになった。
何をすればいいのだろう。
お茶なら注ぐ。
皿が空けば片づける。
お嬢様がお話しになるなら、相づちを打つ。
だが、全部、先に止められてしまった。
「……お庭へ出られる際は、私が先に道を確かめます」
とりあえず、今後の仕事について話した。
「明日のこと?」
「はい。雨上がりには滑る場所もございますので」
「一緒に歩く約束でしょう」
「もちろんです。その前に、危険がないか」
「庭師に聞けばいいわ」
正しかった。
今の庭を知っているのは、俺より庭師だ。
「では、お勉強の道具を」
「それは先生がお持ちになるわ」
「……はい」
また静かになった。
お嬢様は菓子を持ったまま、俺を見ている。
給仕をしない俺は、ひどくつまらないのではないだろうか。
何か、気の利いた話を。
王都のこと。領地のこと。公爵家の港に入る船の――。
「ノエルは、何が好き?」
用意しかけた船の話が、どこかへ行った。
「好きなもの、でございますか」
「ええ」
考えた。
仕事で使いやすい筆。
重心の合う剣。
雨でも湿気を吸いにくい火口。
全部、ここでお話しすることではなかった。
「……お嬢様のお役に立つことでございます」
お嬢様は、菓子を皿に置いた。
「そう」
少しだけ声が低くなった。
間違えたのか。
「では、食べ物では?」
「いただけるものは、何でも」
「何でも好きなの?」
「好き嫌いは、ございません」
「嫌いなもののお話ではないわ」
俺は口を閉じた。
確かに、そのとおりだ。
だが、食べられれば十分だと思ってきた。
温かければありがたいし、量があれば助かる。
好きなものを選ぶという順番が、なかなか回ってこなかった。
お嬢様は皿を眺め、二種類の菓子を指さした。
「こちらと、こちらなら?」
一方は先ほどいただいた、やわらかな焼き菓子。
もう一方には、小さく刻んだ干し果物が入っていた。
「どちらも、おいしそうでございます」
「では、両方食べてから」
そういう問題なのだろうか。
お嬢様が見ているので、果物の入ったほうを取った。
少し酸っぱい。
甘い生地の中で、それがよく分かった。
「……こちらでしょうか」
「どうして?」
「果物が入っているので、最後まで同じ味にならずに」
言いかけて、自分の皿を見た。
まるで料理を品評しているようだ。
「申し訳ありません。先ほどのものも、大変おいしく」
「謝らなくていいわ」
お嬢様は、同じ菓子を一つ取った。
慎重にかじり、少し考えている。
「私は、最初のほうが好きかもしれない」
「では、そちらを」
皿を寄せようとすると、首を横に振られた。
「あなたの好きなものが、分かったわ」
そのための質問だったらしい。
お嬢様はうれしそうだった。
俺には、それが少し不思議だった。
☆
お茶のあとは、本を一冊持ってきていただいた。
厚い紙に、鳥と木と家が描いてある。
文字は少ない。
幼い子供が絵を見ながら、言葉を覚えるための本だ。
背の下のほうに、布で補った跡があった。
少し古い本らしい。
「ほかにもございますよ」
侍女が、もう二冊を卓へ載せた。
赤い表紙と、青い表紙。
お嬢様は一冊ずつ触り、結局、最初の鳥の本を手元へ引いた。
「これがいいわ」
「では、残りはこちらへ」
侍女が棚へ戻すのを見て、俺は立ち上がりかけた。
お嬢様の手が袖に触れる。
「どこへ?」
「お片づけを」
「もう、片づいたわ」
見れば、侍女はちょうど棚の扉を閉めたところだった。
役に立つより早く、仕事が終わってしまう。
座り直すと、お嬢様は本を二人の間へ置いた。
俺は表紙の布を見た。
端が少し浮いている。
「あとで、ここを直していただきましょう」
「読めない?」
「いえ。今は問題ございませんが、傷みが広がる前に」
「では、読んでからね」
そう言って、浮いた布を小さな指で押さえる。
その仕草が、妙に丁寧だった。
「お気に入りなのですか」
「……まだ、よく知らないわ」
お嬢様は答えて、表紙の鳥を見た。
「でも、こちらがいいの」
理由をうまく言えないこともある。
俺は本の下へ手を添えた。
重さのある本を、二人で支える。
侍女が杯を下げるとき、俺の皿を見て微笑んだ。
「果物のほうがお好きなのですね。料理人にも伝えておきます」
「わざわざお伝えいただくほどでは」
「喜びますよ。いつも、お嬢様がどれを召し上がったか尋ねられますから」
厨房で作ったものが、ここへ来る。
ここでどう食べられたかが、厨房へ戻る。
食べるだけでも、返せるものがあるらしい。
「……では、大変おいしかったと」
「はい」
「私は、やわらかいほうよ」
お嬢様も口を添えた。
侍女が二人分を覚えるようにうなずき、退いていく。
俺は自分の皿を見送った。
残してはいけないと考えるばかりで、何をおいしいと感じたか、誰かに伝えたことは少なかった。
先ほど答えられて、よかったのかもしれない。
お嬢様は最初の頁を開き、俺のほうへ傾けた。
「読める?」
「はい」
黄色い鳥が、赤い木の実を探している。
短い文章を読み上げると、お嬢様は指で鳥をなぞった。
「どうして、一羽なのかしら」
「食べ物を探しに出たのでしょう」
「おうちには、誰かいる?」
次の頁を見た。
巣は描かれていない。
「まだ、分かりません」
「そうね」
次へ進む。
鳥は池を越え、茂みの下で木の実を見つけた。
しかし、木の実は枝の奥にある。
そこへ、別の鳥が来た。
「こちらの鳥は、何をすると思いますか」
今度は俺から尋ねた。
お嬢様はしばらく絵を見ていた。
「一緒に取るのよ」
頁をめくる。
二羽で枝を引いていた。
「おっしゃるとおりでした」
「ええ」
得意そうに胸を張る。
かわいらしい。
こういうお顔を、俺は知らなかった。
一周目にお会いしたときでさえ、今よりずっと大きかった。
もっと前から仕えた周もあったが、それでも、この時期には屋敷の外から様子を探るばかりだった。
目の前で頁をめくり損ね、二枚一緒につまんでいる姿は初めてだ。
手を伸ばしかけて、止めた。
お嬢様がもう一度やり直す。
今度は一枚だけ、めくれた。
木の実を分けた鳥たちは、同じ枝に並んでいた。
そこで、本は終わりだった。
「もうおしまい?」
「はい」
「帰らないのね」
「この枝が、おうちなのかもしれません」
お嬢様は、最後の絵を長く見ていた。
それから本を閉じ、俺の膝へ置いた。
「明日も読みましょう」
「同じものでよろしいのですか」
「ええ。次は、私も読むわ」
別の本を用意するつもりだった。
一度読めば、筋は分かる。
だが、同じ話をもう一度読むのが嫌だとは、少しも思わなかった。
「では、こちらをお預かりいたします」
「忘れないでね」
「はい」
本を抱えたまま椅子から下りる。
床へ足がついた途端、やるべきことを思い出した。
部屋に戻ったら、教会へのお礼の文面を考えなければ。
それから、今日伺った予定を整理して――。
「ノエル」
呼ばれて振り返る。
お嬢様は椅子に座ったまま、手をこちらへ出していた。
「私も下りるわ」
「失礼いたしました」
手を取る。
侍女が反対側から支え、お嬢様の靴が床に触れた。
歩きだしても、手は離れなかった。
何も働かなかった。
茶器一つ運ばず、皿一枚片づけず、菓子を食べ、本を読んだだけだ。
なのに、お嬢様は満足そうに隣を歩いている。
これでよかったのだろうか。
考えながら、本の背を指でなぞった。
最後の頁にいた二羽の鳥は、何も運んでいなかった。
あの絵を、お嬢様は気に入っていらした。
明日も、同じところまで読もう。