何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
踏み台が一つ、要らなくなった。
朝、顔を洗おうとして、いつもの場所にないことに気づいた。
侍女を呼ぶ前に手を伸ばすと、水差しの取っ手へ指が届いた。
なるほど。
両手で持ち上げ、少しずつ水を注ぐ。
こぼさずにできた。
たったそれだけで、今日は随分と働けそうな気がした。
屋敷へ来て、一年余りが過ぎていた。
俺もお嬢様も、三歳になった。
相変わらず文字の練習には太い筆を使うが、自分で上着の留め具を外せるし、結び目も作れる。
小さな身体にも、慣れというものはあるらしい。
廊下へ出ると、向こうからお嬢様が歩いてきた。
今日は紺色のリボンだった。
「おはよう、ノエル」
「おはようございます」
「髪が跳ねているわ」
頭に手を当てる。
後ろが、少し浮いていた。
「失礼いたしました」
「こっちよ」
お嬢様の手が伸びる。
届かないので、俺は頭を下げた。
小さな手のひらで、二度、押さえられる。
「直ったわ」
「ありがとうございます」
手を離した途端、毛先が戻ったらしい。
お嬢様は笑いをこらえる顔をした。
結局、侍女が櫛を持ってきてくれた。
☆
午前は、文字の授業だった。
先生が単語を読み、俺たちが書く。
覚えている綴りを、覚えていない指で形にする。
急ぐと、丸く書くべきところが尖る。
「ノエル。もう少し、大きく書いてごらん」
「はい」
字を詰めれば、紙を節約できる。
そう思ったのだが、今は練習なのだから余白を惜しむなと言われた。
隣のお嬢様も、同じ字を書いている。
読み上げる声は迷わないのに、筆先はたびたび止まった。
幼い頃から、こんなに熱心に学ばれていたのか。
俺は自分の紙へ目を戻した。
お嬢様が頑張っているのに、俺が先に終えて暇そうにするわけにはいかない。
先生は二枚を並べ、うなずいた。
「では、お互いのお名前を書いてみましょう。お嬢様のお名前は、家名まで」
先生が手本を置いた。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
「長いわね」
お嬢様が、自分の名前を眺めておっしゃった。
「一度に書こうとせず、少しずつで構いませんよ」
先生は、俺の前へ紙を寄せた。
お嬢様の名を書く。
セレスティア・フォン・ローゼンベルク。
何度も書いた名だった。
書状の宛名に。持ち物の帳面に。必要な薬の包みに。
最後の一文字だけ、筆が止まった。
「ノエル?」
「いえ」
書き終える。
お嬢様がこちらの紙をのぞき込んだ。
「きれいね」
「まだ、曲がっております」
「読めるもの」
お嬢様の紙には、俺の名があった。
ノエル。それだけだ。俺には、後ろに続ける家名はない。
最初の一文字が大きく、最後は少し窮屈そうだ。
先生は直すところを教え、それから、二人ともよく書けたと言った。
お嬢様は紙を捨てず、机の端へそっとよけた。
「午後は、地図にしましょうか」
先生が言う。
俺は顔を上げた。
地図なら、確かめたいことが山ほどあった。
「その前に、昼食です」
先生は俺を見て言った。
なぜ先に釘を刺されるのだろう。
☆
食堂へ行く途中、裏廊下で料理人の声がした。
「足りないのではなく、まだ届いていないんです」
「でも、帳面には三箱とあります」
帳面を抱えた若い使用人が、困っていた。
俺は足を止めた。
料理人の手には、空の木箱がある。
「どうなさったのですか」
尋ねると、二人とも、今気づいたようにこちらを見た。
干した果物が、注文した数だけ見当たらないらしい。
卓の上の帳面を、背伸びしてのぞく。
注文した数は三箱。届いた数は二箱。
その下には、残りの一箱は明日届くと書いてあった。
注文の数を、届いた数だと思ってしまったらしい。
「その三箱は、ご注文の数では」
指を出しかけたところで、後ろから名前を呼ばれた。
執事長だった。
「何か、お困りですか」
「まだ届いていない一箱も、数に入っているようです」
「では、私に見せてください」
執事長が二人の間へ入った。
帳面を開き直し、納品の紙と照らし合わせる。
届いたのは二箱で間違いなく、残りは翌日の便で届くと確認できた。
若い使用人が赤くなって頭を下げる。
「申し訳ございません」
「注文した数と、実際に届いた数を、分けて確かめなさい」
「はい」
解決した。
俺はほっとした。
廊下へ戻ると、執事長が歩調を落とした。
「気づいたことを教えてくれるのは、助かります」
「お役に立てましたら」
「ただ、次からは、まず私に」
顔を上げる。
叱られているのかと思ったが、声は穏やかだった。
「あの者は、あなたより長くここで働いています。人前で子供に間違いを直されるのを、気にすることもあるでしょう」
なるほど。
数字しか見ていなかった。
「余計なことをいたしました」
「隠す必要はありません。伝え方の話です」
執事長は少し考え、言い足した。
「それと、直せるものを全部、引き取らないこと。あの者が次に間違えないためにも、本人に確かめてもらわなければ」
俺が片づければ、早い。
いつもそう考えていた。
その先で誰が困るのかまで、数えていなかった。
「覚えておきます」
「ええ。さあ、お嬢様がお待ちです」
食堂の扉を開けると、お嬢様がこちらを見た。
俺の皿には、まだ蓋がしてあった。
「迷子になったの?」
「少し、帳面を拝見しておりました」
「昼食へ来るだけだったでしょう」
おっしゃるとおりだった。
執事長が後ろで、小さく咳払いをした。
笑ったのかもしれない。
☆
午後の地図には、王都と東の海が描かれていた。
「こちらが、今いるアルヴェリアです」
先生が王都を指す。
そこから道をたどり、東へ向かう。
「ローゼンベルクの領地は、こちら。海から来た荷が、国の内側へ運ばれます」
「お父様のところね」
お嬢様が言った。
「そうです。今いるお屋敷は王都のお屋敷。領地には、また別のお屋敷があります」
俺は道の線を見た。
川を越えるところに、橋の印がある。
あのとき使おうとした道は、この地図には描かれていなかった。
「ノエルは、どちらを見ているの?」
「東への道でございます」
「船を見たい?」
お嬢様の問いに、俺は少し遅れてうなずいた。
先生が帆船の絵を出してくださる。
船底に荷物が詰められ、甲板には人が立っている。
今日教わるのは、橋の位置ではなかった。
「これほど大きな船でも、風がなければ進めないのですか」
俺が尋ねると、先生はうれしそうに答えた。
風を待つこと。港で潮を読むこと。無理に出れば戻れなくなること。
お嬢様は絵をのぞき込み、荷物の一つを指さした。
「さっきの果物も、船で来たのかしら」
「品によっては、そうでしょうね」
厨房の空箱が、急に遠い場所とつながった。
帳面に書かれた一箱を、ここまで運んできた人がいる。その果物を使って、料理を作る人もいる。
俺は地図の端を押さえ、もう一度、道をたどった。
授業の終わりに、公爵様が顔を出された。
王城からお戻りになったところらしく、まだ外套をお召しだった。
「何を習った?」
「船と、お荷物のことよ」
お嬢様が地図を指さす。
公爵様は椅子の後ろに立ち、娘の描いた小さな船をご覧になった。
「こちらは、どこへ行く船かな」
「まだ決めていないわ」
「では、港で待っているところだな」
お嬢様は納得したようにうなずいた。
席をお譲りしようと腰を浮かせると、公爵様が俺の肩にそっと手を置いた。
「座ったままでいい」
「はい」
「君も、船を描いたのか」
俺の紙には、先生が黒板に書いた言葉が並んでいた。
港。荷。風。
絵は一つもない。
「次は、描いてみます」
「別に、同じことをしなくても構わんよ」
公爵様は卓の余った紙を取り、簡単な舟を描かれた。
お嬢様が身を乗り出す。
帆を足すと、ぐっと船らしくなった。
「お上手ね」
「昔は、もう少しましだった」
差し出された筆を、俺はためらって受け取った。
舟のそばに、人を一人描いてみる。
大きすぎた。
「荷物を積む場所が、なくなってしまいました」
「なら、その人は岸にいることにしよう」
公爵様が一本、線を引いた。
船を見送る人になった。
お嬢様が、その隣にもう一人描く。
丸い頭が二つ、岸辺に並んだ。
侍従が迎えに来るまで、公爵様はそこにいらした。
出ていかれると、室内は少し静かになった。
「お忙しいのに、ありがとうございます」
閉まりかけた扉へ礼を言う。
公爵様は振り返った。
「娘の勉強を見るくらいの時間は取るさ」
扉が閉まったあと、俺は二人の人影を見た。
公爵様の描いた線は、俺たちの下で少し曲がっていた。
領地の境界を引くときのような、厳密な線ではない。
それでも、お嬢様はその紙を大切そうに抱えていた。
☆
授業が終わる頃、雨が降りだした。
庭へは出られない。
代わりに、屋根のある廊下から雨を眺めた。
庭師が鉢を抱えて走り、近くにいた下働きの少年が扉を押さえる。
その手が、鉢の縁にこすれた。
少年は顔をしかめたが、庭師が通るまで扉を離さなかった。
「手を見せていただけますか」
俺が声をかけると、少年は驚いた顔をした。
「これくらい、大丈夫です」
「水を使うと、しみますよ」
そっと手を差し出してもらう。
薄く皮がむけただけだ。
傷の周りを布で拭いてもらい、短く祈った。
やわらかな光が、手の甲を覆う。
傷が閉じるまで待って、指を離した。
「もう、痛くはありませんか」
少年は返事をせず、俺の顔を見ていた。
後ろのお嬢様も、何もおっしゃらない。
「何か?」
「目に、星が」
俺は瞬きをした。
ああ、また出たのか。
力を使うと、瞳に五芒星が浮かぶことがある。教会でも、何度か指摘されていた。
自分では見えないので、忘れがちになる。
「神術を使ったためでしょう。手のほうは、いかがですか」
少年は慌てて指を曲げた。
「痛くないです。ありがとうございます」
「よかった」
庭師にも礼を言われた。
俺は扉を離れ、お嬢様の隣へ戻る。
「……今ので、疲れたりはしないの?」
「この程度でしたら、問題ございません」
「本当に?」
「はい」
お嬢様は俺の手に触れた。
熱でも確かめているのだろうか。
小さな擦り傷を治しただけで、こんなに気遣われるとは思わなかった。
「無理は、しないでね」
「承知いたしました」
庭の土に、雨の匂いが広がった。
お嬢様は手を離し、軒先から落ちる雫を数え始めた。
すぐに数え切れなくなって、笑った。
夕方、執事長に呼ばれた。
今日の地図を片づけるついでに、朝の手紙を出すと言う。
孤児院へ送る、短い近況だった。
俺は最後の余白に、二行だけ足した。
今日は、雨でした。
お嬢様と、船の勉強をしました。
書いてから、もう一度読んだ。
取り立てて報告するような、大きな出来事はなかった。
けれど、消さずに渡した。
明日は晴れるだろうか。
晴れたら、あの鉢がどこへ置かれたか、見に行こうと思った。