何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~   作:名もなきそば付き

6 / 7

【挿絵表示】

一章の表紙イメージです。AI画像ですのでご注意ください。


第六話☆屋敷での一日

 踏み台が一つ、要らなくなった。

 

 朝、顔を洗おうとして、いつもの場所にないことに気づいた。

 侍女を呼ぶ前に手を伸ばすと、水差しの取っ手へ指が届いた。

 

 なるほど。

 

 両手で持ち上げ、少しずつ水を注ぐ。

 こぼさずにできた。

 たったそれだけで、今日は随分と働けそうな気がした。

 

 屋敷へ来て、一年余りが過ぎていた。

 俺もお嬢様も、三歳になった。

 相変わらず文字の練習には太い筆を使うが、自分で上着の留め具を外せるし、結び目も作れる。

 小さな身体にも、慣れというものはあるらしい。

 

 廊下へ出ると、向こうからお嬢様が歩いてきた。

 今日は紺色のリボンだった。

 

「おはよう、ノエル」

 

「おはようございます」

 

「髪が跳ねているわ」

 

 頭に手を当てる。

 後ろが、少し浮いていた。

 

「失礼いたしました」

 

「こっちよ」

 

 お嬢様の手が伸びる。

 届かないので、俺は頭を下げた。

 小さな手のひらで、二度、押さえられる。

 

「直ったわ」

 

「ありがとうございます」

 

 手を離した途端、毛先が戻ったらしい。

 お嬢様は笑いをこらえる顔をした。

 結局、侍女が櫛を持ってきてくれた。

 

     ☆

 

 午前は、文字の授業だった。

 

 先生が単語を読み、俺たちが書く。

 覚えている綴りを、覚えていない指で形にする。

 急ぐと、丸く書くべきところが尖る。

 

「ノエル。もう少し、大きく書いてごらん」

 

「はい」

 

 字を詰めれば、紙を節約できる。

 そう思ったのだが、今は練習なのだから余白を惜しむなと言われた。

 

 隣のお嬢様も、同じ字を書いている。

 読み上げる声は迷わないのに、筆先はたびたび止まった。

 幼い頃から、こんなに熱心に学ばれていたのか。

 

 俺は自分の紙へ目を戻した。

 お嬢様が頑張っているのに、俺が先に終えて暇そうにするわけにはいかない。

 

 先生は二枚を並べ、うなずいた。

 

「では、お互いのお名前を書いてみましょう。お嬢様のお名前は、家名まで」

 

 先生が手本を置いた。

 セレスティア・フォン・ローゼンベルク。

 

「長いわね」

 

 お嬢様が、自分の名前を眺めておっしゃった。

 

「一度に書こうとせず、少しずつで構いませんよ」

 

 先生は、俺の前へ紙を寄せた。

 

 お嬢様の名を書く。

 セレスティア・フォン・ローゼンベルク。

 何度も書いた名だった。

 書状の宛名に。持ち物の帳面に。必要な薬の包みに。

 

 最後の一文字だけ、筆が止まった。

 

「ノエル?」

 

「いえ」

 

 書き終える。

 お嬢様がこちらの紙をのぞき込んだ。

 

「きれいね」

 

「まだ、曲がっております」

 

「読めるもの」

 

 お嬢様の紙には、俺の名があった。

 ノエル。それだけだ。俺には、後ろに続ける家名はない。

 最初の一文字が大きく、最後は少し窮屈そうだ。

 

 先生は直すところを教え、それから、二人ともよく書けたと言った。

 お嬢様は紙を捨てず、机の端へそっとよけた。

 

「午後は、地図にしましょうか」

 

 先生が言う。

 俺は顔を上げた。

 地図なら、確かめたいことが山ほどあった。

 

「その前に、昼食です」

 

 先生は俺を見て言った。

 なぜ先に釘を刺されるのだろう。

 

     ☆

 

 食堂へ行く途中、裏廊下で料理人の声がした。

 

「足りないのではなく、まだ届いていないんです」

 

「でも、帳面には三箱とあります」

 

 帳面を抱えた若い使用人が、困っていた。

 俺は足を止めた。

 料理人の手には、空の木箱がある。

 

「どうなさったのですか」

 

 尋ねると、二人とも、今気づいたようにこちらを見た。

 干した果物が、注文した数だけ見当たらないらしい。

 

 卓の上の帳面を、背伸びしてのぞく。

 注文した数は三箱。届いた数は二箱。

 その下には、残りの一箱は明日届くと書いてあった。

 注文の数を、届いた数だと思ってしまったらしい。

 

「その三箱は、ご注文の数では」

 

 指を出しかけたところで、後ろから名前を呼ばれた。

 執事長だった。

 

「何か、お困りですか」

 

「まだ届いていない一箱も、数に入っているようです」

 

「では、私に見せてください」

 

 執事長が二人の間へ入った。

 帳面を開き直し、納品の紙と照らし合わせる。

 届いたのは二箱で間違いなく、残りは翌日の便で届くと確認できた。

 

 若い使用人が赤くなって頭を下げる。

 

「申し訳ございません」

 

「注文した数と、実際に届いた数を、分けて確かめなさい」

 

「はい」

 

 解決した。

 俺はほっとした。

 

 廊下へ戻ると、執事長が歩調を落とした。

 

「気づいたことを教えてくれるのは、助かります」

 

「お役に立てましたら」

 

「ただ、次からは、まず私に」

 

 顔を上げる。

 叱られているのかと思ったが、声は穏やかだった。

 

「あの者は、あなたより長くここで働いています。人前で子供に間違いを直されるのを、気にすることもあるでしょう」

 

 なるほど。

 数字しか見ていなかった。

 

「余計なことをいたしました」

 

「隠す必要はありません。伝え方の話です」

 

 執事長は少し考え、言い足した。

 

「それと、直せるものを全部、引き取らないこと。あの者が次に間違えないためにも、本人に確かめてもらわなければ」

 

 俺が片づければ、早い。

 いつもそう考えていた。

 その先で誰が困るのかまで、数えていなかった。

 

「覚えておきます」

 

「ええ。さあ、お嬢様がお待ちです」

 

 食堂の扉を開けると、お嬢様がこちらを見た。

 俺の皿には、まだ蓋がしてあった。

 

「迷子になったの?」

 

「少し、帳面を拝見しておりました」

 

「昼食へ来るだけだったでしょう」

 

 おっしゃるとおりだった。

 執事長が後ろで、小さく咳払いをした。

 笑ったのかもしれない。

 

     ☆

 

 午後の地図には、王都と東の海が描かれていた。

 

「こちらが、今いるアルヴェリアです」

 

 先生が王都を指す。

 そこから道をたどり、東へ向かう。

 

「ローゼンベルクの領地は、こちら。海から来た荷が、国の内側へ運ばれます」

 

「お父様のところね」

 

 お嬢様が言った。

 

「そうです。今いるお屋敷は王都のお屋敷。領地には、また別のお屋敷があります」

 

 俺は道の線を見た。

 川を越えるところに、橋の印がある。

 あのとき使おうとした道は、この地図には描かれていなかった。

 

「ノエルは、どちらを見ているの?」

 

「東への道でございます」

 

「船を見たい?」

 

 お嬢様の問いに、俺は少し遅れてうなずいた。

 先生が帆船の絵を出してくださる。

 船底に荷物が詰められ、甲板には人が立っている。

 

 今日教わるのは、橋の位置ではなかった。

 

「これほど大きな船でも、風がなければ進めないのですか」

 

 俺が尋ねると、先生はうれしそうに答えた。

 風を待つこと。港で潮を読むこと。無理に出れば戻れなくなること。

 

 お嬢様は絵をのぞき込み、荷物の一つを指さした。

 

「さっきの果物も、船で来たのかしら」

 

「品によっては、そうでしょうね」

 

 厨房の空箱が、急に遠い場所とつながった。

 帳面に書かれた一箱を、ここまで運んできた人がいる。その果物を使って、料理を作る人もいる。

 俺は地図の端を押さえ、もう一度、道をたどった。

 

 授業の終わりに、公爵様が顔を出された。

 王城からお戻りになったところらしく、まだ外套をお召しだった。

 

「何を習った?」

 

「船と、お荷物のことよ」

 

 お嬢様が地図を指さす。

 公爵様は椅子の後ろに立ち、娘の描いた小さな船をご覧になった。

 

「こちらは、どこへ行く船かな」

 

「まだ決めていないわ」

 

「では、港で待っているところだな」

 

 お嬢様は納得したようにうなずいた。

 席をお譲りしようと腰を浮かせると、公爵様が俺の肩にそっと手を置いた。

 

「座ったままでいい」

 

「はい」

 

「君も、船を描いたのか」

 

 俺の紙には、先生が黒板に書いた言葉が並んでいた。

 港。荷。風。

 絵は一つもない。

 

「次は、描いてみます」

 

「別に、同じことをしなくても構わんよ」

 

 公爵様は卓の余った紙を取り、簡単な舟を描かれた。

 お嬢様が身を乗り出す。

 帆を足すと、ぐっと船らしくなった。

 

「お上手ね」

 

「昔は、もう少しましだった」

 

 差し出された筆を、俺はためらって受け取った。

 舟のそばに、人を一人描いてみる。

 大きすぎた。

 

「荷物を積む場所が、なくなってしまいました」

 

「なら、その人は岸にいることにしよう」

 

 公爵様が一本、線を引いた。

 船を見送る人になった。

 

 お嬢様が、その隣にもう一人描く。

 丸い頭が二つ、岸辺に並んだ。

 

 侍従が迎えに来るまで、公爵様はそこにいらした。

 出ていかれると、室内は少し静かになった。

 

「お忙しいのに、ありがとうございます」

 

 閉まりかけた扉へ礼を言う。

 公爵様は振り返った。

 

「娘の勉強を見るくらいの時間は取るさ」

 

 扉が閉まったあと、俺は二人の人影を見た。

 公爵様の描いた線は、俺たちの下で少し曲がっていた。

 領地の境界を引くときのような、厳密な線ではない。

 それでも、お嬢様はその紙を大切そうに抱えていた。

 

     ☆

 

 授業が終わる頃、雨が降りだした。

 

 庭へは出られない。

 代わりに、屋根のある廊下から雨を眺めた。

 庭師が鉢を抱えて走り、近くにいた下働きの少年が扉を押さえる。

 

 その手が、鉢の縁にこすれた。

 少年は顔をしかめたが、庭師が通るまで扉を離さなかった。

 

「手を見せていただけますか」

 

 俺が声をかけると、少年は驚いた顔をした。

 

「これくらい、大丈夫です」

 

「水を使うと、しみますよ」

 

 そっと手を差し出してもらう。

 薄く皮がむけただけだ。

 傷の周りを布で拭いてもらい、短く祈った。

 

 やわらかな光が、手の甲を覆う。

 傷が閉じるまで待って、指を離した。

 

「もう、痛くはありませんか」

 

 少年は返事をせず、俺の顔を見ていた。

 後ろのお嬢様も、何もおっしゃらない。

 

「何か?」

 

「目に、星が」

 

 俺は瞬きをした。

 ああ、また出たのか。

 力を使うと、瞳に五芒星が浮かぶことがある。教会でも、何度か指摘されていた。

 自分では見えないので、忘れがちになる。

 

「神術を使ったためでしょう。手のほうは、いかがですか」

 

 少年は慌てて指を曲げた。

 

「痛くないです。ありがとうございます」

 

「よかった」

 

 庭師にも礼を言われた。

 俺は扉を離れ、お嬢様の隣へ戻る。

 

「……今ので、疲れたりはしないの?」

 

「この程度でしたら、問題ございません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 お嬢様は俺の手に触れた。

 熱でも確かめているのだろうか。

 小さな擦り傷を治しただけで、こんなに気遣われるとは思わなかった。

 

「無理は、しないでね」

 

「承知いたしました」

 

 庭の土に、雨の匂いが広がった。

 お嬢様は手を離し、軒先から落ちる雫を数え始めた。

 すぐに数え切れなくなって、笑った。

 

 夕方、執事長に呼ばれた。

 今日の地図を片づけるついでに、朝の手紙を出すと言う。

 孤児院へ送る、短い近況だった。

 

 俺は最後の余白に、二行だけ足した。

 

 今日は、雨でした。

 お嬢様と、船の勉強をしました。

 

 書いてから、もう一度読んだ。

 取り立てて報告するような、大きな出来事はなかった。

 けれど、消さずに渡した。

 

 明日は晴れるだろうか。

 晴れたら、あの鉢がどこへ置かれたか、見に行こうと思った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。