何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
「明日は、お休みよ」
夕食のあと、お嬢様はそうおっしゃった。
俺は翌日の予定を思い返した。
文字の授業はない。教会から先生がお見えになる日でもない。
お嬢様は奥様と過ごされると聞いていた。
「かしこまりました」
ちょうどよかった。
書きかけの帳面を整理し、祈祷書の傷んだ糸を直して、靴の泥を落とす時間が取れる。
「今、何をしようと思ったの?」
なぜ分かるのだろう。
「身の回りを、少し」
「それは、休みなの?」
「普段はできないことを済ませられますので」
お嬢様は奥様を見た。
奥様も、お嬢様を見た。
短い間に、何かの相談が済んだらしい。
「明日は、私と遊びましょう」
「お嬢様は、奥様とご一緒では」
「午前のお話は、今夜にしたわ」
「何も、私のために」
「私が、遊びたいの」
そうおっしゃるなら、従うほかない。
俺は頭を下げた。
「喜んで、お供いたします」
お嬢様はなぜか、まだ納得していないようだった。
☆
四歳の春は、風が強かった。
翌朝、窓を開けると、カーテンの端が内側へふくらんだ。
庭の木が揺れている。
外遊びをするには、少し寒いかもしれない。
上着を用意しようと衣装タンスを開き、その下の棚に積んだ紙を見つけた。
昨日、片づけるつもりだったものだ。
一枚だけ。
どの帳面へ挟むか決めておけば、あとで迷わない。
紙を広げる。
教会から借りた本の一覧だった。
返す日付を確かめ、次に借りる本の名を書き足す。
そういえば、こちらの本も返却が――。
「始めていると思ったわ」
扉のところに、お嬢様がいた。
今朝は帽子を手に持っている。
「おはようございます」
「おはよう。何をしているの?」
「片づけを」
「書くものを増やしているように見えるわ」
俺は紙を見た。
そのとおりだった。
お嬢様は机に近づき、書きかけの欄を見た。
「今日返すの?」
「いえ、来週です」
「では、来週までにしましょう」
紙を奪われるのかと思った。
けれど、お嬢様は触れなかった。
俺が自分で畳むのを、待っていらした。
どうにも、負けた気がする。
俺は筆を置き、紙を棚へ戻した。
「これでよろしいでしょうか」
「ええ。何をして遊ぶか、決めましょう」
「もう、お決めになっているのでは」
「まだよ」
お嬢様は帽子を卓へ置いた。
「あなたにも、決めてもらうの」
☆
選ぶというのは、難しい。
庭の散歩なら、お嬢様のお疲れにならない道を知っている。
読書なら、お好きな本を覚えている。
積み木なら、高く積むより、家を作るほうがお気に召す。
しかし、そのどれも、お嬢様の好みだった。
「ノエルがしたいことよ」
「では、お庭で」
「何をするの?」
警備の確認。
口にする前に飲み込んだ。
お嬢様はじっと待っている。
答えを用意してくださるつもりはないらしい。
窓の外を見た。
風が、雲を押している。
「……何かを、飛ばしてみるのはいかがでしょう」
「飛ばす?」
「紙を使って。子供の頃、孤児院で作ったことがございます」
寄付の荷物を包んでいた紙を、修道女が取っておいてくれたのだ。
破れていないところを選び、年上の子たちとつなぎ合わせて使った。
言ってから、少しまずかったと思った。
今も、子供だった。
「もっと小さい頃に」
言い直すと、お嬢様は気にした様子もなくうなずいた。
「作り方は、覚えている?」
「おおよそは」
「では、それにしましょう」
侍女に相談すると、薄い紙と糸、それに小枝を持ってきてくれた。
庭師が切った枝の中から、軽いものを選んだそうだ。
刃物を使うところは、大人に頼む。
俺たちは卓の上で、紙を広げた。
十字に枝を重ね、糸で結ぶ。
紙を張り、下へ細い尾をつける。
簡単なはずだった。
「曲がっているわね」
「……そのようです」
中央の結び目が動いた。
枝が斜めにずれ、四角い紙が引きつる。
昔、教えてくれた年上の子は、もっと簡単そうに作っていた。
俺は結び直そうとして、糸を引いた。
今度は紙が少し裂けた。
「ノエル」
「申し訳ありません。すぐに」
「押さえていましょうか」
顔を上げる。
お嬢様は、小枝の両端に手を置いていた。
「こちらを持てばいい?」
「……はい。少し、そのままで」
二人で押さえると、結びやすかった。
破れたところには、小さな紙を上から貼った。
やり直した跡は、どうしても残る。
「新しく作り直しましょうか」
「まだ、飛ぶか試していないでしょう」
お嬢様はそう言って、貼った紙をそっと押さえた。
乾くまで待つ間に、絵を描くことになった。
俺は鳥を描いた。
お嬢様は花を描いた。
「これは、鶏?」
「空を飛ぶ鳥のつもりでございます」
「足が、強そうね」
お嬢様は声を震わせた。
自分でも、そう思った。
「歩くほうが、得意かもしれません」
そこで、お嬢様はとうとう笑いだした。
笑いながら、自分の花の横へもう一つ、丸いものを描く。
「こちらは、何でしょう」
「花よ」
「……なるほど」
「今、何だと思ったの?」
「車輪かと」
今度は俺も、笑ってしまった。
☆
庭へ出ると、作ったものは思ったより大きく見えた。
侍女が敷物を広げる間、俺は周りを見回した。
通用口は閉まっている。
庭師が花壇にいる。
塀の向こうから、荷車の音がした。
反射的に、お嬢様の前へ出た。
門のほうを確かめる。
何も起きていない。
当然だった。ここは公爵家の庭で、塀の外には普通に道がある。
「どうしたの?」
「いえ。何でもございません」
俺は作った紙を持ち直した。
その角をつまむ手に、少し力が入っている。
遊んでいていいのか。
気を抜いた一瞬を、後になって悔やんだことがある。
外を見ていれば。声を聞き逃さなければ。先に気づけていれば。
そんなことを考え始めると、目の前の紙が急に、役に立たないものに見えてきた。
お嬢様が、庭師を呼んだ。
「このあたりで、遊んでもいい?」
「ええ。通り道からも離れていますし、枝も落としてあります」
「門のところには、誰がいるの?」
「いつもの者がおりますよ」
庭師は不思議そうに答えた。
お嬢様はうなずき、俺を見た。
「聞こえた?」
「はい」
「私たちが遊んでいても、皆、お仕事をしているわ」
その向こうで、侍女が敷物の端を押さえている。
門には門番がいて、廊下には使用人がいる。
俺が目を離しただけで、全員がいなくなるわけではない。
「何かあったら、呼んでいただけますか」
俺が頼むと、庭師は大きくうなずいた。
「もちろんです」
お嬢様は、それ以上何も言わなかった。
俺の持つ紙が風にあおられ、頬へ当たった。
思わず目を閉じる。
「……まず、これを飛ばさないといけませんね」
「ええ。顔ではなく、空へ」
紙を下ろすと、お嬢様の口元が笑っていた。
俺はそのお顔を見て、持ち方を変えた。
今日は、この方が望んだ遊びをしよう。
全部を一人で確かめなくてもいいように、今、頼んだのだから。
侍女が後ろで支え、俺が糸を持つ。
風に向かって、少し走る。
紙は持ち上がった。
すぐに横を向いた。
そのまま、草の上へ落ちた。
「……飛びましたね」
「落ちたわね」
お嬢様のほうが正確だった。
尾の向きを直して、もう一度。
今度は右へ曲がり、植え込みに突っ込んだ。
庭師が笑いながら取ってきてくれる。
「左右の重さが違うんでしょう。こちらの枝が、少し太い」
枝を替えてもらうことになった。
その間、お嬢様と芝生の端へ腰を下ろす。
下には侍女が敷いてくれた布があった。
「魔法で浮かせることも、できますが」
俺が言うと、お嬢様は首を振った。
「それでは、あなたが飛ばしているのでしょう」
「風で飛ばすのも、同じでは」
「違うわ。手を離したら、落ちてしまうのでしょう?」
確かに、そうだ。
風で上がるものに、風以外の力を足してしまうのは、少し違う。
庭師が戻ってきた。
修理した紙を持ち上げると、今度は風を受ける角度が安定していた。
俺が糸を引く。
お嬢様が隣を走る。
地面から離れた紙が、俺たちの頭より高く上がった。
「ノエル、見て」
「見ております」
「もっと上よ」
糸が指を引っ張った。
小さな力だ。
それでも、自分の手の先に空がつながっているようだった。
お嬢様にも糸を持っていただく。
二人の手が、同じ方向へ引かれる。
鳥と花の絵が、青い空の下で揺れた。
飛んでしまえば、鳥の足が太いことなど分からない。
「飛びました」
「ええ」
お嬢様は、今度は笑わなかった。
まぶしそうに目を細めて、ずっと上を見ていた。
やがて風が弱くなり、紙はゆっくり下りてきた。
走れば、まだ上げられたかもしれない。
だが、お嬢様の息が弾んでいたので、そこで終わりにした。
「明日も飛ぶかしら」
お嬢様が、下りてきた紙を見ながら尋ねた。
「風があれば、飛びますよ」
「なかったら?」
「……待ちましょう」
俺がそう答えると、お嬢様はうなずいた。
☆
部屋へ戻る前に、靴の泥を落とした。
今度はお嬢様も、仕事をしているとはおっしゃらなかった。
遊んで汚した靴を手入れするのは、休みの続きらしい。
俺の靴と、お嬢様の靴が並ぶ。
侍女が仕上げに布で拭き、二足をそろえた。
「楽しかった?」
お嬢様に尋ねられた。
俺は、答えを探さなくてもよかった。
「はい」
「失敗しても?」
「最後は、飛びましたので」
お嬢様は少し考えた。
「私は、作っているときも、楽しかったわ」
車輪のような花と、歩くほうが得意そうな鳥。
糸がほどけて、何度も結び直した卓。
俺も、あの時間を嫌だとは思わなかった。
何一つ、予定どおりには進まなかったのに。
夕方、部屋の棚から帳面を出した。
お嬢様は、もうご自分の部屋に戻っている。
今なら少しだけ、片づけられる。
紙の端を持ち上げる。
その隣に、明日飛ばすものが立てかけてあった。
尾の紙が一枚、外れかけている。
俺は帳面を戻し、糊を借りに行った。
翌朝、乾いた尾を確かめていると、お嬢様が扉から顔を出した。
「今日も、働いているの?」
「いえ」
俺は、直したところを見せた。
「風待ちでございます」
お嬢様は一度まばたきをして、それから、昨日と同じように笑った。