何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
「今日は、私の隣に座っていなさい」
診療室へ入るなり、神官様は椅子を指さした。
机の端には、俺の分の筆と紙が置いてある。
「治療のお手伝いは」
「必要なら頼みます。まずは、お名前と症状を」
椅子に上がり、足をそろえた。
五歳になった秋から、教会へ来る日が増えた。
屋敷への迎えには大人がつき、帰る時刻も決まっている。神官として働きたいと申し出ても、半日だけの手伝いからだった。
以前なら、もう少し先のことを任されていた。
そう思ってから、以前の自分はもっと大きかったのだと思い直す。
「頼まれる前に治そうとしないこと。よいですね」
「はい」
筆を取ったところで、最初の患者が入ってきた。
☆
男は、左の手首を布で巻いていた。
椅子に座ると、俺を見て、隣の神官様へ目を戻す。
「その子も、ここにいるんですか」
「記録を手伝ってもらっています。話したことを外へ漏らさないのも、勉強のうちです」
俺は頭を下げた。
男は少しためらったあと、荷を下ろすときに手を痛めたと話した。
腫れている。
治せる傷だった。
俺が手を出すより先に、神官様が布を外した。
「いつから痛みますか」
「昨日の昼からです」
「そのあとも、お仕事を?」
「片手では間に合わなくて」
机の下で、男の右手が膝を握った。
俺は聞いたことを書き留める。
昨日。荷を下ろすとき。仕事は続けた。
神官様が手首を支え、短く祈った。
光が消えると、男は指を開いた。
それから、驚いたように手首を動かす。
「ありがとうございます。これで戻れます」
「今日は重い荷を持たないように」
男の動きが止まった。
「でも、治ったんでしょう」
「今の傷は治りました。昨日と同じ持ち方で、同じ重さのものを運べば、また痛めることがあります」
男は困った顔をした。
神官様も、仕事を休めの一言では済まないと分かっているようだった。
「荷を分けるか、誰かと持てますか」
「親方に、言ってみます」
「お願いするために、私からも一筆書きましょう」
俺は新しい紙を差し出した。
神官様が礼を言い、短い文を書く。
傷は、もう治っている。
しかし男が本当に安心した顔をしたのは、その紙を受け取ったときだった。
次の患者を呼ぶ前に、神官様が俺の記録をご覧になった。
「何か、書き足すことは?」
俺は男が出ていった扉を見た。
「荷の持ち方について、お話ししたことですか」
「ええ。次に同じ手を痛めて来たとき、今日何を話したか分かるように」
文字を足す。
治した、それだけでは記録にならない。
知っていたはずのことを、改めて教わった。
次に来た老婦人は、治療が終わっても椅子を立たなかった。
膝の上の袋を開き、何度も中を探っている。
ようやく出てきたのは、小さな硬貨が一枚だった。
「今日は、これしかなくて」
神官様は、その手を押し戻した。
「お気持ちだけで結構です。帰りの買い物にお使いください」
「でも、この間も診てもらったでしょう」
「ですから、今日来てくださってよかった。歩き方が楽になったか、確かめられました」
老婦人はまだ、申し訳なさそうだった。
俺は記録から目を上げた。
何か一つでも返さなければ、帰りづらいのだろう。
その気持ちは、少し分かる。
「家で、布を繕うくらいならできるんだけど」
「今日は手も休めてください。お仕事を探していただくために、お返ししたのではありませんよ」
神官様は柔らかく言った。
老婦人はやっと袋を閉めた。
扉まで送って戻ると、俺は机の上の寄付の箱を見た。
朝より少し、中身が増えている。
それでも、この部屋で使う布や薬の量には、とても追いつかない。
「この部屋の費用は、どちらから出るのですか」
「教会へ納められる寄付などからですよ。今日来た方だけで、今日の分を払うわけではありません」
神官様は、老婦人の記録をめくった。
「払えるときに納めた人が、払えなくなって来ることもあります。初めから持っていない人もいる。それを、ここで選り分けては困るでしょう」
「はい」
俺が孤児院で診てもらったときも、硬貨など持っていなかった。
祈りの言葉を覚える前から、この仕組みの中にいたのだ。
先ほどの老婦人は、治療のお礼に何か仕事をしようとしていた。
俺も屋敷で世話をしていただくたびに、できることを探している。
神官様の言葉を聞いていると、自分も少し休むように言われた気がした。
俺は寄付の箱から目を離し、次の紙を用意した。
廊下で、小さな子供の泣き声が聞こえた。
☆
午前の終わり近く、小さな女の子が母親に連れられてきた。
膝に血がにじんでいた。
母親の袖を握り、椅子へ座るのを嫌がっている。
「転んだところを、見せてくれるかな」
神官様が尋ねると、女の子は首を振った。
「また痛くする」
「汚れを落とすときには、少し痛むかもしれません。でも、そのあとは治しましょう」
女の子の手に、ますます力が入る。
母親は困り、俺たちに謝った。
俺は椅子から下りた。
「こちらの椅子なら、足が床につきますよ」
自分の使っていた椅子を示す。
女の子は、俺の顔を見た。
神官様より目線が近いせいか、少しだけ肩の力が抜けた。
「そこに座れば、お母様の手をつないだままでいられます」
「……ずっと?」
「はい」
母親がうなずく。
女の子はようやく座った。
神官様が膝を確かめ、俺へ目を向けた。
「治癒をお願いできますか。先に、傷をきれいにします」
「はい」
水が触れると、女の子は泣いた。
俺は急かさず、母親の手を握り直すのを待った。
傷についた砂がなくなったところで、膝のそばに手をかざす。
「今から、お祈りをしますね」
光が、擦りむいたところを覆った。
女の子は泣きながら、俺を見上げていた。
やがて声が小さくなる。
「お目々に、星」
「手のほうも、少し光っていますよ」
視線を傷へ向けてもらう。
まだ怖がっている相手に、見慣れない目まで近づけることはない。
「もう、痛くない?」
「そっと曲げてみてください」
女の子は母親の顔を見て、それから膝を動かした。
痛くないと分かると、すぐ椅子から下りようとする。
俺はその前に、落ちていた靴を拾った。
「こちらも、履いてから」
母親が笑い、何度も礼を言った。
帰り際、女の子は扉のところで振り返った。
「また、いる?」
「いる日も、ございます」
「転ばない日に、来てもいい?」
神官様が、お祈りにおいでと答えた。
女の子は、今度は自分から母親の手を引いて出ていった。
俺は手を下ろした。
この程度の傷なら、続けて何人でも治せる。
ただ、椅子へ座ってもらうまでのことは、傷を閉じるより長くかかった。
「よく待てましたね」
神官様に言われた。
「怖がらせてしまうかと思いました」
「怖がっていると気づいてくれれば、それで十分です」
紙には、転倒による膝の傷と書いた。
その下に、母親と手をつなぐと落ち着く、と小さく添えた。
☆
片づけのあと、別の神官様が診療室へ来た。
俺が最初に神術を見せたときにも、立ち会っていた方だった。
「今日も、瞳に印が出ましたか」
「はい。治癒を行ったときに」
隣の神官様が答える。
俺は洗った杯を布で拭きながら、二人を見た。
「痛みや、見え方の変化は?」
「ございません」
「使ったあと、妙に眠くなることは」
「普段と変わりません」
尋ねられるたびに、同じ返事をする。
五芒星は珍しいらしく、教会では俺がここへ通い始めた頃から記録を取っていた。
だが、それが何を意味するか、はっきりした説明はまだ聞いていない。
最初の人生には、なかった。
少なくとも、誰かに指摘されたことはない。
それを口にすれば、説明することが増えすぎる。
「変わったことがあれば、すぐに知らせなさい」
「承知いたしました」
もう一人の神官様が出ていくと、診療室は静かになった。
俺は布を畳み、棚へ戻した。
「お昼まで、もう少しお手伝いできます」
「お迎えの時刻です」
壁の時計を見る。
そうだった。
「まだ外に、お待ちの方が」
「午後を担当する者が来ていますよ」
廊下には、別の神官がいた。
俺よりずっと大きな手で、薬箱を運んでいる。
自分が席を立っても、診療は続く。
屋敷の帳面のときと、同じことだった。
俺は今日の紙をそろえた。
神官様が順番を確かめ、最後にうなずく。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
頭を下げたとき、腹が鳴った。
声より、はっきり聞こえた。
神官様が笑いをこらえる。
「そちらも、忘れずに」
「……はい」
☆
迎えの馬車までの短い道で、教会の裏手を見た。
大きな荷車が一台止まっている。
荷を受け取る者の向こうに、灰色の上着を着た男が二人いた。
腰に剣を下げている。
そのうち一人は、見覚えのある歩き方をしていた。
まだ若い。
俺に書類の読み方と、人の話の聞き方を教えた頃より、頬の傷も浅かった。
「どうしました」
付き添いに尋ねられ、俺は視線を戻した。
「いえ。あちらの方々は、教会のお仕事を?」
「そうですよ。詳しいことは、先生にお尋ねなさい」
男がこちらを見た。
俺は軽く頭を下げた。
向こうも、ただの子供への挨拶として返した。
異端審問官。
今の俺は、まだその仕事へ手を伸ばせない。
焦るな。
治癒と記録で信用を作り、少しずつ近づけばいい。
昔は、そうして道を開いた。
馬車へ乗り、膝の上で手を重ねた。
昨日より、指の動きがよくなった気はしない。
それでも、一年前よりは確かに筆を長く持てる。
屋敷へ戻ると、お嬢様が食堂へ続く廊下で待っていてくださった。
「今日は、どんなことをしたの?」
「お名前を書いて、治療のお手伝いを少し」
「どなたを治したの?」
答えかけて、止まる。
「……患者様のことは、あまり詳しくお話しできません」
「そうね」
お嬢様はすぐにうなずいた。
「では、あなたのことを聞かせて。うまくできた?」
俺は朝の椅子を思い出した。
治せると分かっていたのに、待った時間。
帰っていくときには、自分で歩いていた小さな靴。
「できたことも、ございます」
「よかったわ」
お嬢様は、食堂の扉へ向かった。
俺も隣を歩く。
厨房から、温かい汁物の匂いがした。
配られた匙を持つと、もう一度腹が鳴りそうになった。
お嬢様が先に召し上がるのを待って、俺も口へ運ぶ。
「おいしい?」
「はい」
今日は、すぐに答えられた。
午後の予定を考える前に、もう一口いただいた。