何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
剣先が、地面に触れた。
「そこまで」
声をかけられ、俺は木剣を下ろした。
振り切った腕が、わずかに震えている。
あと一度なら、同じ軌道を通せる。
だが、その次は分からなかった。
「もう一度、お願いいたします」
「何のために?」
屋敷の護衛を務める男が、俺の手元を見た。
「今の動きを確かめたく」
「なら、休んでからだ。疲れて崩れた動きを覚えても仕方がない」
七歳の手には、大人用の木剣は長すぎた。
今使っているものは短く、軽く削ってある。それでも、振り方を誤れば身体ごと引っ張られる。
頭の中には、大剣を振った感覚が残っていた。
踏み込みも、刃の返し方も知っている。
ついてこないのは、足の長さと、腕の力だった。
俺は剣を置き、指を開いた。
「先にこちらの言う回数で止められるようになれ」
「はい」
「返事はいつもよいんだがな」
護衛は肩をすくめた。
☆
朝の鍛錬を許していただくまでに、ずいぶんかかった。
初めは庭を歩くところから。
次に、転び方と、足の運び。
神聖力で身体を補えばできると申し上げると、それを使わずに立てるようになってからだと言われた。
もっともだった。
力を切らした瞬間に、自分の重さで足を傷めては意味がない。
護衛が地面に二本の線を引いた。
「剣は持たなくていい。この間を前と後ろへ」
俺は線の間に立った。
前へ出る。下がる。
足を交差させず、上体を揺らさない。
昔の歩幅を使うと、前へ出すぎる。
それを戻そうとして、膝が内側へ入る。
「そこだ。大きく動こうとしすぎる」
「承知しております」
「分かっていて直せないのなら、ゆっくりやれ」
俺は息を吐いた。
線を見て、一歩の幅を小さくする。
今度は止まれた。
何百年分の記憶があっても、七歳の脚は七歳の脚だ。
それを毎回、覚え直さなければならない。
「不思議な子だな」
護衛がつぶやいた。
「守りを崩さないのは上手い。だが、自分の腕がどこまで届くかを、時々忘れる」
「……気をつけます」
「誰かに習ったことがあるのか」
ここで、ないと言うのは簡単だった。
だが、一度そう答えれば、この先もずっと説明が必要になる。
「教わったことを、思い出しながら動いております」
「なら、今は私のやり方にも付き合ってくれ」
「はい」
それ以上は聞かれなかった。
助かった、と思った。
同時に、今の師にもきちんと教わろうと思った。
この人が見ているのは、今ここにいる俺の足なのだから。
☆
昼前に教会へ向かった。
診療の手伝いを始めてから、二年近くになる。
患者の名を書く仕事に加え、薬草の在庫や、各地区へ運ぶ包みの数も確認するようになった。
古い帳面を読めることを、何度も確かめてもらった結果だった。
今日は、いつもの机に灰色の上着が掛けてあった。
持ち主は窓辺で書状を読んでいる。
俺が挨拶すると、男は顔を上げた。
頬に浅い傷がある。
二年前、裏手で見かけた異端審問官だった。
「君がノエルか」
「はい」
「字を読むのが早いと聞いた。数字も得意だそうだな」
「お役に立てることがございましたら」
男は向かいの椅子を指した。
机には、同じ日の帳面が二冊あった。
「こちらは倉庫を出た荷。こちらは礼拝所に届いた荷だ。数の合わないところへ印をつけてくれ」
仕事の内容は、珍しくなかった。
俺は座り、日付と品名を順に追った。
包帯。灯油。乾燥させた薬草。
途中で一つ、数字が合わない。
「こちらが、二包み少なくなっております」
「どうしてだと思う?」
答えを知っているような声だった。
昔も、こういう聞き方をする人だった。
「書き間違いか、数え間違い。途中で別の場所へ届けた可能性もございます」
「盗まれた可能性は?」
「それも、ございます。ただ、これだけでは」
男はうなずき、三枚目の紙を出した。
荷車が途中で寄った小さな礼拝所からの受け取りだった。
二包み。
数字が合った。
「正解だ。足りないからといって、最初から盗人を探すな」
俺は紙をそろえた。
以前、この言葉を聞いたときは、教わる余裕がなかった。
早く必要なものを覚えようと、答えばかり求めていた。
男は三枚の紙を並べたまま、窓際に置いてあった包みを開いた。
中から出てきたのは、すり減った木の札だった。
祈りの言葉らしきものが、浅く刻まれている。
「これは病を遠ざける札として売られていた」
俺は札へ手を伸ばしかけ、許可を求めた。
うなずかれたので、裏返して確かめる。
神聖力は感じられない。
「何も、込められていないようですが」
「そうだ。では、売った者を捕らえればいいか」
木の端が、手のひらに当たった。
粗い彫りだった。
同じ形のものを、まとめて作ったのだろう。
「本人が、どのように売っていたかを確かめる必要がございます」
「続けて」
「祈りのときに持つ札なら、力が込められていなくてもおかしくありません。持てば病が治ると説明したなら、話が違います」
男は口元だけで笑った。
「売った者は、祈りの助けにと言っていたそうだ。治る札だと思ったのは、買った者の隣人だった」
俺は札を包みへ戻した。
訴えの書かれた紙だけでは、分からないことだった。
「まだ双方から話を聞いている。誰が、どこで、何と言ったか。それを飛ばすと、こちらが人の暮らしを壊す」
男の指が、包みの紐を結んだ。
乱暴な手つきではなかった。
「役目の名を出せば、相手は怖がる。だからこそ、先に決めつけるな」
「……はい」
俺は昔、この教えを守れただろうか。
聞くべき話を、結論が変わらないからと切り捨てたことはなかったか。
聖女フィオナの顔が浮かび、すぐに消えた。
あの少女については、何度も話した。何度も、別の道を探した。
そう考えてから、俺は札の置かれた場所へ目を戻した。
今、この男に教わっているのは、その話ではない。
「こういった確認も、なさるのですか」
今なら、尋ねられた。
「大半は地味なものだよ」
男は上着を椅子へ掛け直した。
「神の名を使って金を集める者もいれば、教会の品を勝手に売る者もいる。だが、訴えられた者が必ず悪いとは限らん」
聞き取った話。持ち込まれた品。書かれた日付。
それを照らし合わせ、食い違いを確かめる。
危険な相手へ近づくことも、もちろんある。
だが、剣を抜けば仕事が終わるわけではない。
「興味があるのか」
「はい。教会の役に立てるよう、学びたいと思っております」
嘘ではなかった。
それだけでも、なかった。
人の出入りを調べること。
必要な相手に近づき、知られずに動くこと。
俺には、覚え直さなければならない仕事がある。
「では、まずは先生の許可をもらいなさい。君の勉強の時間を私が勝手に取るわけにはいかない」
「かしこまりました」
正式な役目など、まだ望めない。
だが、机の向かいに座るところまでは来た。
☆
午後は、先生と配達の一覧を見直した。
診療に使う布を買い足し、薬草を受け取る日を決める。
年長の見習いたちが街へ出ると聞き、俺は手を上げた。
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」
「買い物ですか」
「はい。帳面の品が、実際にはどのくらいの量なのか、確かめてみたく」
先生は一覧と俺を見比べた。
「荷物を持ちたい、と言いださないなら」
「……はい」
「今、少し間がありましたね」
俺は返事をし直した。
先生は笑い、屋敷へ予定を伝えると言ってくださった。
地図を広げ、回る店を確かめる。
薬草の店は、王都の南寄りにあった。
その少し先に、狭い通りが何本も集まる地区がある。
フィオナがいた場所だ。
前の周では、この時期よりあとに近づいた。
まだ光の力を知らず、学園へ入る未来も知らなかった少女。
その姿を、俺は覚えている。
今も同じ場所にいるとは限らない。
母親の仕事も、借りていた家も、確かめる必要がある。
指を地図から離した。
いきなり何かをするつもりはない。
人の出入りも、今の暮らしも、知らないまま近づくのは危険だ。
お嬢様の婚約が結ばれるより前に。
学園へ、あの少女が入るより前に。
前の周では、卒業まではたどり着いた。
あの先の戦争を防ぐ方法は、まだ分からない。
だが、少なくとも学園で起きたことを、もう一度繰り返させるわけにはいかなかった。
「ノエル。こちらの道を使いますよ」
先生の指が、俺の見ていた場所から外れた。
南の大通りを通り、橋の手前で曲がる。
「その路地は近道ですが、荷車が通れませんから」
「承知いたしました」
俺は、実際に通る道を覚えた。
まずは、その日に見えるものを確かめればいい。
☆
屋敷へ戻ると、お嬢様は応接室で布見本を眺めていた。
まだ仕立てる品が決まったわけではないらしい。
赤い布を窓の光にかざし、侍女と相談している。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。今日は遅くならなかったのね」
「はい」
お嬢様は布を置き、俺の手を見た。
「朝の鍛錬で痛くした?」
「いえ。少し、握りすぎただけです」
「それを痛くしたと言うのではなくて?」
手のひらに、薄く赤いところがあった。
皮は破れていない。
治癒を使うほどでもないと答えると、お嬢様は侍女に冷たい布を頼んだ。
「今日の分は終わったのでしょう」
「はい」
「では、持つのもやめておきなさい」
脇へ抱えた本まで、卓へ置かされた。
剣の話だったはずなのに。
布を手に当てながら、教会で決まった外出の予定を伝えた。
お嬢様は、最後まで聞いてくださった。
「誰と行くの?」
「先生と、見習いの方々です」
「帰るのは?」
「昼過ぎの予定です」
お嬢様はうなずいた。
一緒に行くとは、おっしゃらなかった。
「戻ったら、お話を聞かせてね」
「もちろんです」
「患者様のお話はしなくていいわ。あなたが見たものを」
俺は地図の路地を思い浮かべた。
それは、お話しできない。
「……何か、お土産を探してまいります」
「お仕事に行くのでしょう」
お嬢様が笑う。
「無事に帰ってきて。それでいいわ」
俺は頭を下げた。
その願いなら、守れる。
少なくとも、守るつもりだった。
部屋へ戻り、外出の日を紙に書いた。
今の俺の歩幅では、どれだけ歩けるか。
どこからなら通りが見えるか。
考え始めてから、朝の二本の線を思い出す。
昔の自分なら届く距離を、今の自分にも当てはめてはいけない。
帰る時刻を、予定の一番下へ書き加えた。
その下には何も書かず、筆を置いた。