登校班から宇宙戦士へ 作:匿名希望
コロニー『ヴァルハラ』の医療区画。
無菌室の柔らかな白色光の下で、衛生兵は、自身の身体を貫くデータ端末を見つめながら、静かに息を吐いていた。
頭部ディスプレイに点滅する数値――『侵食率:58%』。
「……あ~あ。ついに、ここまで来ちゃったかぁ」
衛生兵は、波打つライトブラウンのロングボブを軽くかき上げ、エメラルドグリーンの瞳を細めた。
その胸元には、相変わらず部隊最大の超弩級爆乳――Kカップの質量が、前開きの戦術ナースアーマーの隙間からたわわな存在感を主張している。肉体改造のプロセスは着実に進行し、骨格も筋肉の質感も、完全に成人女性のそれへと書き換わっていた。
だが、それ以上に彼女(彼)の内部で大きく揺らいでいたのは、言語野とアイデンティティの境界線だった。
01. 小さな違和感の始まり
「ボクね、昔は『ボク』って言ってたんだよ~」
ふと、処置室のベッドの脇でナノマシンシリンダーを整備していた衛生兵が、ぽつりと言った。
部屋の隅のコンソールでハッキング作業をしていたハッカーが、ぶかぶかのローブのフードを揺らしながら振り返る。
「……データ照合。……検体コード02、役職『衛生兵』。……一人称のデフォルトは『ボク』。
……現在の言語中枢のログによると、侵食率55%を境に、一人称の出力エラーが多発している」
「そうなんだよね~。最初はね、『ボク』って言おうとすると、喉のあたりがキュッて締まるような、変な感じがしてさぁ」
衛生兵は、Kカップの胸元にふっくらとした両手を添え、困ったようにくすくす笑った。
かつてやんちゃな4年生男子として、校庭を泥だらけで駆け回り、擦り傷を作っては「いてて~!」と笑っていた少年の面影は、今やその圧倒的な母性と包容力を湛えた「おっとり系お姉さん」の容姿の中に完全に溶け込んでいる。
しかし、内面にある「やんちゃで人の良い男子小学生の記憶」は、まだしっかりと息を潜めていた。
「でもさ、体がこうなっちゃうとさ……『ボク』って言うのが、なんだか自分の体に似合わない気もしてきてさ。……ねえ、工作員?」
ちょうどその時、ステルススーツ姿の工作員が、仕込みナイフのメンテナンスをしながらドアから入ってきたところだった。
「なによ急に。あたしを巻き込まないでよ」
「ねえ、聞いてよ工作員。ボクがさ、『私』って言ったら、どんな感じがする?」
工作員は怪訝そうに眉をひそめ、八重歯を覗かせながら衛生兵をじろりと睨みつけた。
「……は? なによ気味の悪い。アンタが『私』なんて言ったら、世界が終わる前兆でしょ。
もっとも、アンタのそのKカップの胸で『ボク』って言ってる方が、神経を逆撫でされてイライラするんだから、どっちでもいいわよ!」
「あはは~、相変わらず手厳しいねぇ。でも、そう言われると試したくなっちゃうなぁ」
衛生兵はふんわりと微笑むと、あえて少しだけ澄ました声を作ってみせた。
「――『私』はね、こう見えても衛生兵としての誇りを持っているの。だから、患者の皆様はちゃんとベッドでおとなしくしていてちょうだいね?」
室内に、妙な静寂が訪れた。
Kカップの爆乳を揺らすおっとり系お姉さんが、完璧な淑女のトーンで「私」と言った。
そのあまりの解釈違いの破壊力に、ハッカーは無機質な瞳で「……バグ検知。……音声出力の違和感レベル、限界突破」と呟き、工作員は「うわあああ鳥肌が立った! 二度とその口調を使うな変態お母さん!!」と絶叫して部屋から逃げ出した。
02. 班長の複雑な心境
その夜。レクリエーションルームの隅で、パイロットは、冷えた缶コーヒーを片手に深く考え込んでいた。
(「私」……か……)
パイロット自身、一人称を「アタシ」に固定するまでにどれだけの葛藤があったことか。
元・登校班の班長としてのプライド。男としての意地。そして、美少女の肉体に閉じ込められた羞恥心。
それらをすべて無理やり押し込め、「アタシ」という防衛線を張ることで、かろうじて自我の崩壊を防いでいるのだ。
(なのに、あいつ(衛生兵)は……。侵食率が58%を超えたあたりから、自然に「私」へとシフトし始めている……? いや、厳密には「ボク」と「私」を行ったり来たりしている状態か……)
「ふぅ……」
パイロットがため息をついた時、背後からふんわりと甘い香りが漂ってきた。
「あれ~? パイロットちゃん、こんな暗いところで一人ぼっち? もしかして、また心のモヤモヤに悩まされてるの~?」
振り返ると、そこにいたのは衛生兵だった。
前開きの戦術ナースアーマーからは相変わらず常軌を逸したボリュームのKカップがこぼれ落ちそうになっており、その顔にはいつものおっとりとした笑顔が浮かんでいる。
「な、なんだよ衛生兵……。ていうか、アンタ……」
パイロットはジト目で衛生兵を見上げた。
「お前、最近……自分のこと、『私』って言う時多くないか?」
「あはは、バレちゃった?」
衛生兵は悪びれる様子もなく、ふふっと笑った。
「なんだろうねぇ。頭の中ではまだ『ボク』のつもりなんだけど、いざ口を開こうとすると、この体が勝手に『私』って言いたがるんだよね~。
まるで、体が言葉を先に選んでるみたいにさ」
「……気持ち悪っ」
反射的に毒を吐くパイロット。
だが、その声にはどこか複雑な焦りが混じっていた。
「気持ち悪いってひどいなぁ、パイロットお姉ちゃん……じゃなくて、パイロットちゃん」
衛生兵はクスクスと笑いながら、パイロットの隣にドスンと腰掛けた。
その瞬間、Kカップの重みがパイロットの肩にぷにっと押し付けられ、パイロットの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「なっ……! 近い! 離れろよお前! その……胸の爆弾をこっちに押し付けるな!」
「あはは、ごめんごめん。でもね、パイロットちゃん」
衛生兵はふと、そのエメラルドグリーンの瞳を優しく細め、遠くの星空が映る窓の外へと視線を向けた。
おっとりとした表情の中に、かつて4年生の時に見せたような、どこか少年らしい純粋さと、それを包み込むような大きな母性が奇妙に入り混じっていた。
03. 「ボク」と「私」の境界線
「ねえ、パイロットちゃんはさ……自分が『女の子』になっちゃったこと、怖いって思ったこと、ある?」
突然の真面目な問いかけに、パイロットの体がピタリと硬直した。
「……なにを急に」
「ボクね……ううん、『私』ね。最初は、本当にわけがわからなかったんだ。
ある日突然、体がこんなに重くなって、服のサイズも合わなくなって、鏡を見るたびに『これ、誰の体?』って怖くなった。
男の子だったはずなのに、いつの間にか男の子じゃなくなっていくみたいでさ」
衛生兵は自分の胸元にそっと手を当てた。
そこにあるのは、人類の科学が到達した究極の人体改造の成果であり、失われた過去の証明だった。
「でもね、最近思うんだ。……『ボク』が『私』に変わっていくのは、別に今までの自分を捨てちゃうわけじゃないんだって」
「……どういうことだよ」
「『ボク』っていう言葉を使っていた頃の思い出も、男子だった頃の失敗も、全部この胸の奥にちゃんと残ってる。
体がどんなに変わっても、中身のヤンちゃだったボクはここにいるんだよ。だからね、『私』って口に出すのは、もう怖くないの」
衛生兵は優しく微笑み、パイロットの頭をぽんぽんと撫でた。
「だから、パイロットちゃんもそんなに無理して『アタシ』って気負わなくてもいいんだよ?
たまには『ボク』って言ってみても、誰も怒らないからさ~」
「っ……! 誰が『ボク』なんて言うかよ!! アタシは班長だぞ……じゃなかった、アタシは班長なの! ふざけんな!」
パイロットは顔を真っ赤にしてパタパタと手を振り払い、その場から飛び退いた。
「あはは、相変わらず照れ屋根ぇ~」
楽しそうに笑う衛生兵。その姿を見て、パイロットは胸の奥がキュッと締め付けられるような、言いようのない切なさを覚えた。
04. それぞれの選択
自室に戻ったパイロットは、ベッドに腰掛け、自分の手のひらをじっと見つめた。
(『私』か……)
衛生兵の言葉は、図らずもパイロットの心に深く突き刺さっていた。
「私」という言葉を選ぶことは、男だった過去を完全に切り捨てることではなく、この理不尽な現実を受け入れ、新しい自分として前を向くためのステップなのだろうか。
「……いやいや、アタシはアタシのやり方でいくんだからね!」
パイロットは頭をブンブンと振って、いつものボーイッシュな笑顔を取り戻そうとした。
その頃、医療区画の静寂の中、衛生兵は一人で鏡に向き合っていた。
ライトブラウンのロングボブを整えながら、ふと、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……『私』はね、みんなを守る衛生兵なんだから」
声に出したその言葉は、もはや何の違和感もなく、美しく、そしてどこか頼もしい響きを持っていた。
『ボク』から『私』へと変わったその境界線は、彼女が過酷な戦場の中で見つけた、確かな「成長の証」だったのだ。